“平成”の思い出 鉄道の記憶 〈2〉

旧線時代の馬堀駅付近

山陰本線京都口は、昭和46年に蒸機が消えて無煙化されました。その後、車両は、客車は50系、12系化、DCは40系の新系列に置き替えられたものの、国鉄末期の窮乏状況では、単線非電化から抜け出せないまま、昭和から平成を迎えました。京都~園部では、客車列車なら1時間20分程度を要し、蒸機時代とほとんど変わりませんでした。ネックになっていたのは、やはり蛇行する保津川の渓谷を行く狭隘区間で、改良計画では、この区間を6つのトンネル、5つの鉄橋で一気に突き抜けるものでした。これにより、距離は1.6キロ短縮され、保津峡、馬堀の駅は新駅に移転するものでした。

朝の馬堀駅で交換する列車、どちらも28・58系だが、左は131D園部行き、右は136D福知山発の普通列車で、いずれも急行列車の間合い利用のようだ(以下撮影、すべて平成元年3月4日)。

改良工事は、非電化のまま複線化することになり、平成元年3月5日に嵯峨~保津峡~馬堀が複線・短絡化された新線に切り替えられた。また同時に並河、吉富に交換設備ができたため、ほかの区間は単線のままだったが、列車増発、運転時分の短縮が可能になった。全国的なダイヤ改正は同年3月11日からで、この時から山陰本線京都口でも列車増発が実現、また同日に新駅として太秦が誕生している。その後、一挙に電化工事が進められ、翌年の平成2年3月10日に京都~園部の電化が完成、電車が走るようになった。また平成3年4月27日から、旧線が嵯峨野観光鉄道として開業、嵯峨~保津峡~馬堀(トロッコ亀岡)にトロッコ列車が走り出した。

旧線最終日の馬堀駅ホームの全景、全体がカーブしていた。馬堀駅は昭和10年の開設。

馬堀駅駅舎、蒸機時代はよく訪れたが、その後は降りることもなく、久しぶりの下車だった。蒸機時代はもっと小さな貧相な駅舎だった記憶がある。

改札口付近、自動改札、電光表示もない。時刻表を見ると、片道約30本で、昼間は、ほぼ40分ヘッドだ。

ホームは一面二線の島式、駅舎とは跨線橋で結ばれていた。

鳥居型で、書体も正調な駅名標。▲▲駅頭に掲げられた告知、新旧の駅が描かれている。

跨線橋から眺めた保津峡方の光景、左手に新線のトンネルポータル、道床が見える。 同じく亀岡方、右手から来た新線と合流する。

 

 

保津峡方の旧線と新線の交差部付近、右が旧線で、左からの新線と交差している。

こちらは亀岡方、左が旧線、右から来た新線と合流する。西川橋梁の橋台はいまも残っている。

左の133D園部行きが右側通行してホームで待避、上り「あさしお4号」が、これも右側通行して通過して行く。

新駅は保津川方に設けられた。午後あたりから竣工式が行われるようで、準備が進められていた。これを撮って京都へ戻るとき、保津川沿いを通ると「保津峡の眺めも今日限りで、明日から新線に移ります」と車掌のアナウンスが流れ、私も雨に煙る保津川の景観を目に焼き付けた。

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