市電が走った街 京都を歩く 四条線⑦

「四条河原町新京極」また市電四条線シリーズに戻ります。「四条京阪前」を出ると、京阪電車と平面交差して四条大橋を渡ります。現在の四条大橋が竣工したのは昭和40年のこと、市電時代は出来たてで、真っ白でシャープなデザインが、三条大橋などとは対照的でした。四条大橋の西南畔の東華菜館は、いまも変わらない姿を保っています。屋上から市電・京阪を見下ろす光景は、乙訓の老人はじめ、多くのベテランファンが、ジョッキ片手に写した撮影名所でした。四条河原町のランドマーク、高島屋百貨店をバックに東行き乗り場で客扱いする7号系統。「スキー用品大処分」の垂れ幕もこの時代らしい。屋上には観覧車が見えるが、奇しくも、勘秀峰さんと、鉄道雑誌編集のMさんは、これに乗って市電を写したと、それぞれが述懐されている。鴨川を渡ると、いよいよ京都の中心部に入ってくる。ヴォーリズの設計による大正15年竣工の東華菜館は、古典的な姿を川面に映して鴨川畔に建つ。館内にあるエレペーターは、現役としては、日本で最古のものと言われる(※)。

木屋町通を過ぎると、まもなく「四条河原町新京極」に到着する。東南角には昭和13年竣工した住友銀行のビルがあった。この地は、住友不動産が発足以来、所有を続けている唯一のビルで、住友ゆかりの祖業の地でもあった(※)。河原町通を渡って、「四条河原町新京極」西行き乗り場に到着する20系統、京都最大の繁華街であり、阪急電車のターミナルでもある停留場で、四条線、河原町線を合わせた乗降客数は、京都駅前に次いで市電第二位だった。

市電の歴史を辿ると、まず四条線が、市営電車の第一期線区間として明治45年に開業しました。交差する河原町線の敷設は、道路の拡幅に合わせて、大正15年のことです。「四条河原町新京極」は、昭和38年6月、近くにあった「新京極」が廃止されて統合され、この名称が生まれました。漢字8文字の電停は、以前北野線にあった西陣職業安定所前と並び、京都市電ではいちばん長い名称でした。市バスの停留所名は四条河原町で、市電独自のネーミングです。

東南角の住友銀行の重厚な建物は、新しい京都住友ビルに建て替えられ、テナントとして阪急百貨店が入居したのが昭和51年のことで、河原町廃止の時は、格好の写材となりました。ところが中心部にあるものの、売り上げが伸びず、結局、平成22年に撤退、翌年、京都マルイが入居したものの、これも長続きはせず、令和2年に終了、現在は、京都河原町ガーデンとなり、キーテナントとして、エディオン四条河原町店となりました。

西南角に建つ高島屋は、昭和25年に創業地の烏丸高辻から移転しました。集客力のあるデパートの進出は、次第に四条河原町の地位を押し上げます。そして、昭和37年に阪急京都線が大宮から河原町まで延伸され、四条河原町は、ターミナルとしての地位を確立しました。

このように、市電時代と比べると、変化は目覚しいものがありますが、最近では、京都駅前などに商業施設が多くでき、交通体系の変化もあって、四条河原町の相対的な地位が低下してきました。現・京都河原町駅の乗降客数も最多時期に比べて減少し、隣駅の烏丸にも及びません。市電時代は、いま以上に雑多で熱気があった四条河原町でした。

写真のなかで(※)を付した2点は、過去のクローバー会写真展に応募のあった、ぶんしゅうさんの写真をお借りしています。

対向の市電から、四条河原町新京極の乗降風景を見る。

東北角には、市電背後のように、古びた3階建てのビルの上に「京阪特急」の巨大なネオンが目を引いた。京阪の乗り場は鴨川を渡った先だが、交差点で京阪への誘導を促すネオンサインだった。その後、この地には、コトクロス阪急河原町となり、京阪から阪急への交替という結末となった。四条線の廃止が俎上に上がってきた昭和46年の年末、夕暮れの四条河原町は、買い物客で賑わっていた。朝の四条通を走る。左手に「藤井大丸」も見える。当時は、一階にマクドナルドの関西第一号店が入り、VAN、JUNなどのアイビールックの聖地だった。

もとの「新京極」停留場あたり、中央の尖塔のある建物は、以前、デジ青でも話題になった。▲▲右手は京都信用金庫の本店、その左がイシズミで、当時は洋品店だったが、いまはビル管理の会社となっている。

 市電が走った街 京都を歩く 四条線⑦」への5件のフィードバック

  1. 懐かしい四条河原町の風景を拝見し、感涙にむせんでおります。四条通から市電が無くなって半世紀が過ぎました。しかし、思い出すのはこの時代です。
    先日の写真展会場で話題になった「プーマ」のマークがある古いビルですが、京阪の看板のあるビルと共に昭和の初めには建っていたようです。90年を経た今もなお、建ち続けていることに驚きます。おそらく最も歴史のある建物ではないかと思います。
    1系統は1800形、7系等は1600形をよく見ましたが、20系等はツーマンカーが多かったですね。17系統は少なかったように思います。
    BANにJUNも懐かしいですね。ナウなヤングの御用達、藤井大丸は明治45年4月、市電の開業に先駆けて現在地にハイカラな店舗を立てていて、進取の気風は昔から培われていたようです。
    マクドナルド、覚えています。新しい物好きの級友に誘われ、開店間もない頃に食べました。関西一号店とは知りませんでしたが、アメリカの味に憧れたものです。

    • 感涙にむせんでいただき、ありがとうございます。たしかに、ふと思い出すのは、この時代ですね。今日も四条河原町で「プーマ」のビルを眺めていました。一階だけでは分かりませんが、向かい側の歩道から全体を見ると、ほんとに古いことが分かります。河原町の四条~三条では、いまや最も古い建物ではないでしょうか。
      藤井大丸で、なぜか覚えているのは、上階に書店があって、中学3年の時、そこで参考書を買ったことだけ覚えています。マクドの日本第一号は、よく言われる銀座三越ですが、関西の第一号はここと、藤井大丸のサイトに記されていました。

  2. 総本家様の四条通りの市電、初出の作品が多く、興味深く拝見しています。最初の写真、高島屋の壁面を拡大して見ると「オリンピックまであと12日」と電光掲示板の数字が示しています。札幌五輪は1972年2月3日が開会式でしたから、この写真は廃止当日の1月22日に撮影したことが分かります。
    万国博覧会の際には、同じ位置にずいぶん前から「あと何日」の表示があったことは記憶にありますが、札幌オリンピックまであったとは、知りませんでした。因みに左の垂れ幕のタイトルは大廉売(だいれんばい=大安売り)です。当時はごく一般的に使われていたような気がしますが、いつの間にかこの手の言い回しは使われなくなりましたね。

    • 勘秀峰さま
      さすが、鋭い観察眼を発揮してもらいました。札幌オリンピックが間近に迫っていたのですね。垂れ幕の「大廉売」は、いまや死語ですね。「バーゲン」も聞かなくなりました。観覧車からの撮影については、昨日、もう一人のMさんにお会いして、当時の様子を聞きました。

  3. 高島屋壁面の札幌オリンピックまであと〇日の表示ですが、前年の11月20日に確認しています。画像を添付できればよいのですが、PCが機嫌を損ねてしまい、動態保存中の旧型機を叩き起こして使用しているためできません。ちなみに表示は「01」でした。
    1600形という電車ですが、今になってじっくり見直すと、どことなく控えめな印象で、可愛らしささえ感じます。前照灯下の通風ガラリも他の形式に比べて小さく、小柄な車体と相まってそう思わせるのかもしれません。
    しかし、乗車となれば話は別です。九条車庫の7系統は1600形が多く、四条河原町から乗ると車内は満員、スピードが出ない割に良く揺れる、前後扉で降車時の移動が困難など、あまり良い印象を持っていませんでした。ただ、50年も過ぎると悪いイメージはすっかり忘れてしまい、「あれ、1600形もなかなかええやん」と思う今日この頃です。

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