またしても中国新聞ネタで失礼します。今日の朝刊の記事です。
広島市内には現在86件の被爆建物が残っています。原爆ドームはあまりに有名ですが、千田町の広電本社、千田町車庫にあるこの2棟も被爆建物です。新聞の写真は裏側ですが 車庫構内から見たのが次の写真です。
うしろのマンションの色とよく似ていてわかりにくいのですが、留置線の奥に建っています。被爆3日後の8月9日には 廃墟と化した街を電車が走り始め市民を勇気付けたのは有名な話ですが この変電所の被害が小さかったためと言われています。とは言え当時の本社屋や車庫は木造で 多くの社員が死亡しています。入庫線のそばには慰霊碑があり 花が絶えません。
この千田町の隣の電停 日赤前にも広島赤十字病院の一部が保存されています。爆風で曲がった鉄製の窓枠や壁に刺さったガラス片が往時を偲ばせます。なお現在は病院の改築に伴い、保存場所が変わっているようで 今でも電車を入れて撮れるかは確かめていません。
もうひとつの新聞記事は被爆電車の運行イベントの広告です。
なおRCCとは地元テレビ、ラジオ局の中国放送のことです。650型は昭和17年木南車両製で5両在籍していましたが 654,655号はすでに廃車され651,652号が今も現役で活躍しています。 今回旧塗装に塗り替えられ、期間限定で走る653号は普段は千田町車庫の庫内で休んでいます。
広告記事にあるように 特別運行の653号に乗るには事前申し込みが必要です。詳しくはRCCのホームページをご覧下さい。運行日別、1便、2便別の申込み状況も判ります。 http://www.rcc.net/70/
653号がプロジェクト終了後 元の塗色に戻されるのかどうかは不明です。
また江波車庫の奥には 単車の150型156号も被爆電車として眠っています。156号はもう走ることはないのでしょうか。路面電車博物館としての広電さんにがんばってほしいものです。
古い変電施設の建物は煉瓦構造で、他の建築物に比しいかにも大振りのものが多いようで、小生にとってずっと不思議(のひとつ)でした。ある時JR電気屋さんOBから、米国から回転変流器を購入したとき、それについてきた図面通りに建屋を作ったケースが極めて多いと聞き、長年の疑問が一つ解決した気がしました。広島のケースも同様かもしれませんね。
yuguchi様
コメントありがとうございます。言われてみるとなるほど煉瓦構造の変電施設は屋根も高く立派なものが多いですね。機関庫は車両の大きさから自ずと寸法が決まりますが、発電所にしても変電所にしても中に座っている機器に比べてえらく天井が高いですね。煉瓦構造建屋の設計思想が気になり出しました。機器の据え付け工事との関連があるかもしれません。全く余談ながら 私の現役時代に天井高の低い工場建屋に大型工作機械を据え付ける際、高さをかせぐために深いピットを掘って基礎工事を行うとともに、建屋入口からは機械が大きすぎて入らないので、屋根のスレートを一時的に取り去って、大型レッカー車で屋根上から吊り降ろしてピット内に沈めて据え付け工事をしたことを思い出しました。今ならこのように数百トンの機械を容易にハンドリングできますが、煉瓦全盛の頃はさぞ大変だったと思います。ところでその沈めて据え付けた機械ですが、床と機械の操作盤位置を面一にしたことでいちいち上がったり下りたりする必要がなくオペレーターには好評だったのですが、工場が海岸にあったため ある年 満潮時に大型台風に襲われ、見事にピット内に海水が入り 復旧にえらく手間取り、機械は錆だらけになり 泣きたくなった苦い思い出もあります。話が変な方向にそれてしまいましたが、ひと味違った切り口でのコメントありがとうございました。
1946年7月、夏休みとなるや母の田舎、現吉賀町へ父母に連れられ向かった。何度か乗った呉線廻りで、目覚めたのは広島駅であった。周りの様子が違うのに気付いたが、小学2年の子供に自由行動を許す筈はない。西に向け出発してしばらく、築堤を走っている時に下方に転がっている貨車に気づいた。父は新型爆弾の勢いにやられたのだろうと言った。鉄橋を渡って停車した駅は屋根だけで駅前に電車が止まっていた。広電を見るのはこの時2回目で、最初は広電車庫から少し行った鉄橋の傍に母の従妹一家が居を構えており、そこに行ったのは1942年1月であった。よく覚えているなと親類の人達から言われるが、母方の祖母の亡くなったのが1942年5月末で、葬儀前から母について行っていたのであった。
その田舎に着いたとき、原爆投下の朝、叔父は庭の神棚に向かい朝礼をしていた時に東南から鈍い音と共に閃光が走ったと言ってくれ、その後、黒い雨が降ったとも言った。父母は田舎に来た要件を済ますや3晩の逗留で京都に帰宅した。私は8月末まで田舎で過ごした。友達はそこかしこに出来ており、従兄弟姉妹があちこちにおり、遊び相手には困らなかった。
8月地蔵盆のころ、兄が弟を迎えがてらやってきた。2学期に間に合うように兄弟で田舎を出発、岩国まで省営バスで峠越えとなったのだが、満員停車となった。弟は座って待っていたが、兄は勿論バスの押し役に駆り出された。岩国から広島に向かう途中、己斐駅に停車するや「お兄ちゃん降りて広島駅まで市電に乗ろう!」と、さっさと降りた。兄も追いかけてきた。4年半前に広電車庫近くの母の従妹一家は新型爆弾で亡くなったと、田舎で知った。その一家を弔いに行くのではなく焼野原となった街の姿が電車から見たかったのだ。それはこの年の春、大阪天王寺に住む父親の従弟から「バラックが出来た」とハガキがあり、私を連れて陣中見舞いに行って初めて敗戦の街を見たことからくる好奇心であった。
広島発京都行?(東行列車)は夜行で、それまで広島駅中心にウロウロしていた。腹がすいたので石に腰掛け竹の皮を広げ握り飯を出したとたん、背後から黒い手が2本、驚いて後ろを見たら戦災孤児が2人、お握りほうばっていた。怖い広島だと、しばらく震えが止まらなかった。広島駅に出入りの汽車は進駐軍列車が多く、呉線D51の炭水車には漫画(デイズニー)が画れていたのが思い出される。
被ばく後も健在する物は残してほしいが、それが街の発展を阻害するものとなると考えこんでしまう。被爆して亡くなった一家の実家は津和野であることもあり、広島に行く機会があった時には慰霊碑に頭を垂れることにしている。従弟が広島で歯科を開業しており、私が電車を好きなことを知っており、年賀状には今度いつ来るの?との添え書きがある。今年のクローバー会の次もトンネルくぐりとなっても良いように、6月9日に整形外科を予約した。5月は眼科で再生処置をしてもらい、皆さんの後ろをついていけるようにしたいと思っているこの頃であります。
乙訓のご老人様
貴重な体験談をありがとうございます。広島県内の小中学校では他県より平和学習の時間が多かったり、マスコミも戦後70年をより意識した対応をしているように思います。そんな風土ですから黒い雨や戦災孤児の話はよく耳にするのですが、D51炭水車の漫画の話は初耳でした。峠越えバスの満員停車は光景が目に浮かぶようです。多分今この道を走ってみると この坂が登れなかったのと思う程度の峠越えなのでしょうね。各地の鉄道でも後押しの話はよくありますが、現地に行ってみるとゆるやかな勾配に逆に驚くこともあります。これからも貴重な体験談のご披露をよろしくお願いします。