京阪5000系 投稿日時: 2015年5月12日 投稿者: 米手作市 京阪5000系が登場です。 初めて見たときは変な電車と思いましたが、大変なアイデア電車だったのですね。 本題とは関係ないですが、昭和55年の5月に中学生の置き石事故を起こしたのが5000系だったような記憶がありますが・・・ この記事を共有:TwitterFacebook印刷 関連 関連記事: 関連記事がありません。
36年前の昭和55年2月20日の夜8時過ぎ、当時の勤務場所最寄りのバス停、京阪バス大和田・巣本・門真団地線の「岸和田」から大和田駅行のバスに乗り、大和田で程なく来た三条行に乗車した。 香里園で乗り換えた急行は5500形の第4編成で最後尾(5604)に乗車した。 満員の車内は、枚方市で座席が7割方埋まる程度になり、進行方向右側後ろ扉の直ぐ傍に座っていた。 天の川の鉄橋を渡り、速度を上げながら下り勾配を駆け下り、緩いカーブに差し掛かった所で突然大きなショックが2度あり車内照明が消えて急停車した。 上窓を開けて外を見ると電柱がひん曲がっておりトンデモナイ大事故であることが判った。 暫くすると「怪我をされた方はいませんか」と声かけながら係員が回ってきて、電車から降りるように指示があった。 乗務員室扉から線路に下り、道路に出て枚方市駅に戻るとバスターミナルは大混雑であった。高槻か茨木経由で帰ろうと思っていたが、この混雑では何時になったらバスに乗れるか判らない。暫くすると代行バスの案内もあったが、こちらの混雑も同様であった。 樟葉まで行けば京都方面の電車があることは判っていたので歩くことにした。 牧野に着くと丁度代行バスが到着し、降りた人がいたので乗ることができた。 樟葉から三条方面はオール各駅停車で運行されていたが、行先板は何故か「臨」の円板を付けていた。 23時過ぎ自宅に着いたが、家族は事故のことはニュースで知っていたが、まさかその電車に乗っていたとは誰も思っていなかった。 翌日は、いつもより早めに「伏見稲荷」行くと大阪方面は他の交通機関を利用するようにとの案内があり、四条から阪急、地下鉄経由で出勤した。 さすがに帰宅時間には復旧していたが、枚方市の留置線に、脱線転覆した京都寄りの先頭車5554が大阪寄りの先頭車5604の前に方向転換して停められていた。 その後、無傷の大阪寄り4両(5854-5104-5204-5604)は、前に第2編成の前3両(5002-5205-5602)を連結した7両編成で運用に復帰した。 第2編成の大阪寄り4両(5552-5152-5252-5652)は終日5扉使用で本線、宇治線の普通に使用されたが、不覚にもこの時の写真を撮影していない。 以上36年前の5000系に関する思い出を少し書いたが、色は変われど7編成全車健在で変わらぬ活躍を続けていることは誠に喜ばしい限りである。 返信 ↓
藤本さんは事故列車に乗っておられたとは驚きました。5000系は現役の時に守口車庫に見学に行ったと思います。あの時の電車が現役で走っているのを京阪に乗ると、時々見ますが考えてみれば、まだまだ働き盛りの歳なのでしょう。 返信 ↓
どですかでん様、米手作市様 あの時、先頭車に乗っていなくて本当によかったと今でも思っています。 利用していた伏見稲荷駅の改札口は、ご承知の通り大阪方面からの場合、最後尾の位置にあるため、大抵最後尾の車両に乗っていましたが、たまに気が向くと先頭車に乗ることもありました。 枚方市から樟葉に向かって歩いていた時、21時40分を過ぎた頃から代行バスが次々と通過したのですが、各車庫の予備車をかき集めたため、スタイルは前後扉の路線車で、座席は2人掛けロマンスシートのBタイプ(定期観光バスとの兼用車/普段は路線車として使用するが、観光シーズンには定期観光バスに使用。路線車として使用するは詰込みがきかず、定期観光車としてはスタイルが観光バスらしくなく、いずれも中途半端なため各営業所では評判が悪く予備車が多かった)のため、混雑に拍車をかけていたように思いました。 平成になって東京にも18m5扉車が登場します。東京メトロ日比谷線の03系20本と、東武の日比谷線乗入車20050系8本です。 但し全車両ではなく、8両編成中前後2両のみで中間の4両は3扉車です。 日比谷線の駅の改札口が前後にあり、前2両と後ろ2両の混雑が激しいためこのような形になったのですが、5扉車は京阪の様に昼間座席が降りてくる訳でもなく、埼玉県の最北端の南栗橋まで終日5扉全開で営業運転をするため、寒い時期は特に悪評です。 先日東京メトロ、東武鉄道から日比谷線の但し、先日東京メトロ、東武鉄道から日比谷線の20m車化が発表されました。 返信 ↓
36年前の昭和55年2月20日の夜8時過ぎ、当時の勤務場所最寄りのバス停、京阪バス大和田・巣本・門真団地線の「岸和田」から大和田駅行のバスに乗り、大和田で程なく来た三条行に乗車した。
香里園で乗り換えた急行は5500形の第4編成で最後尾(5604)に乗車した。
満員の車内は、枚方市で座席が7割方埋まる程度になり、進行方向右側後ろ扉の直ぐ傍に座っていた。
天の川の鉄橋を渡り、速度を上げながら下り勾配を駆け下り、緩いカーブに差し掛かった所で突然大きなショックが2度あり車内照明が消えて急停車した。
上窓を開けて外を見ると電柱がひん曲がっておりトンデモナイ大事故であることが判った。
暫くすると「怪我をされた方はいませんか」と声かけながら係員が回ってきて、電車から降りるように指示があった。
乗務員室扉から線路に下り、道路に出て枚方市駅に戻るとバスターミナルは大混雑であった。高槻か茨木経由で帰ろうと思っていたが、この混雑では何時になったらバスに乗れるか判らない。暫くすると代行バスの案内もあったが、こちらの混雑も同様であった。
樟葉まで行けば京都方面の電車があることは判っていたので歩くことにした。
牧野に着くと丁度代行バスが到着し、降りた人がいたので乗ることができた。
樟葉から三条方面はオール各駅停車で運行されていたが、行先板は何故か「臨」の円板を付けていた。
23時過ぎ自宅に着いたが、家族は事故のことはニュースで知っていたが、まさかその電車に乗っていたとは誰も思っていなかった。
翌日は、いつもより早めに「伏見稲荷」行くと大阪方面は他の交通機関を利用するようにとの案内があり、四条から阪急、地下鉄経由で出勤した。
さすがに帰宅時間には復旧していたが、枚方市の留置線に、脱線転覆した京都寄りの先頭車5554が大阪寄りの先頭車5604の前に方向転換して停められていた。
その後、無傷の大阪寄り4両(5854-5104-5204-5604)は、前に第2編成の前3両(5002-5205-5602)を連結した7両編成で運用に復帰した。
第2編成の大阪寄り4両(5552-5152-5252-5652)は終日5扉使用で本線、宇治線の普通に使用されたが、不覚にもこの時の写真を撮影していない。
以上36年前の5000系に関する思い出を少し書いたが、色は変われど7編成全車健在で変わらぬ活躍を続けていることは誠に喜ばしい限りである。
藤本さんは事故列車に乗っておられたとは驚きました。5000系は現役の時に守口車庫に見学に行ったと思います。あの時の電車が現役で走っているのを京阪に乗ると、時々見ますが考えてみれば、まだまだ働き盛りの歳なのでしょう。
藤本さん
ありがとう。
まさか、この電車に乗っていたとは・・。無事で何よりでした。
しかし、事故が5月ではなくて2月だったとは、何時もながらいい加減な記憶でご迷惑をおかけしました。
どですかでん様、米手作市様
あの時、先頭車に乗っていなくて本当によかったと今でも思っています。
利用していた伏見稲荷駅の改札口は、ご承知の通り大阪方面からの場合、最後尾の位置にあるため、大抵最後尾の車両に乗っていましたが、たまに気が向くと先頭車に乗ることもありました。
枚方市から樟葉に向かって歩いていた時、21時40分を過ぎた頃から代行バスが次々と通過したのですが、各車庫の予備車をかき集めたため、スタイルは前後扉の路線車で、座席は2人掛けロマンスシートのBタイプ(定期観光バスとの兼用車/普段は路線車として使用するが、観光シーズンには定期観光バスに使用。路線車として使用するは詰込みがきかず、定期観光車としてはスタイルが観光バスらしくなく、いずれも中途半端なため各営業所では評判が悪く予備車が多かった)のため、混雑に拍車をかけていたように思いました。
平成になって東京にも18m5扉車が登場します。東京メトロ日比谷線の03系20本と、東武の日比谷線乗入車20050系8本です。
但し全車両ではなく、8両編成中前後2両のみで中間の4両は3扉車です。
日比谷線の駅の改札口が前後にあり、前2両と後ろ2両の混雑が激しいためこのような形になったのですが、5扉車は京阪の様に昼間座席が降りてくる訳でもなく、埼玉県の最北端の南栗橋まで終日5扉全開で営業運転をするため、寒い時期は特に悪評です。
先日東京メトロ、東武鉄道から日比谷線の但し、先日東京メトロ、東武鉄道から日比谷線の20m車化が発表されました。