先に昭和8年の新聞記事をご紹介しましたが、今回は昭和10年即ち80年前のローカル紙の話題です。現在のJR福塩線のうち福山・府中間は762mmの電化された両備軽便鉄道でした。また福山・横尾間は現在のルートとは全く違っていました。昭和10年には国有化、改軌と福山・横尾間のルート変更が行われたのですが、これに伴い 地元にとっては初めての大型電車が登場したのです。両備は電化されていたとは言え、小さな電気機関車が客車を牽くスタイルだったため、自走する「電車」が新鮮だったのでしょう。
この記事では山手線で使用されていたと書かれていますが、実際には中央線の片運車モハ1026~1031(大正14年製木造車)を吹田工場で両運車に改造したもので 何よりも1500V車を600V(750V?)に、モーターを4個から2個にという降圧・非力化改造車です。
その「新鋭車」が初めて 福山に到着したというニュースですが、「直ちにパンダーを取付け 云々」とありますが、これパンタグラフのことなのでしょう。当時の山陽本線はトンネル断面が小さく、パンタグラフ付きの車両を回送できなかったのではと思われます。電動車6両に加えて、制御車3両も投入されましたが、これは赤羽線のクハ15001~15003を降圧改造して持ってきたようです。
11月12日からは試運転が始まったようですが、試運転に試乗する40人の紹介までされているのがおもしろいですね。なお記事中「車體のタンダー取付け 云々」とあるのですか、この「タンダー」とは何なのでしょうか? その上には「モハ」のつもりが「モ八」との誤植がありますから、「パンダー」が「タンダー」に化けたのでしょうか?
そして11月13日の試運転同乗記が詳しく報じられています。新線開通部分は別として横尾以北は762mmゲージの両側にレールを敷いた4線式で開業したようです。沿線の農夫が「電車だ!」と叫んで萬歳をする光景はいかにも田舎の風景ですね。スピードの表現が45マイルというように マイルが出てきたり、カーブはメートルだったり、田舎の読者は混乱しそうです。ドアが自動で開閉するのも新鮮だったことが見てとれます。
首都圏で使われなくなった車両が地方に流れて来るのは 今も昔も変わりませんが、昭和10年頃の帝都では木造車は淘汰され、モハ40などの20m鋼製車がさっそうと走っていたわけです。今と違って 首都圏の鉄道事情など上京して自分の目で見なければ判らない時代でしょうから、地元では新聞記者ともども「新鋭電車」登場で盛り上がったのでしょう。
同じ紙面に「三呉線」や「福鹽南線延伸」の記事も見えます。呉線が三原から呉まで全通したとか、福塩線が府中から塩町、三次へと延伸工事が進んでいる時代でした。「鮮人工夫家族」という見出しまであるのは心が痛みます。このあと12月13日、14日、15日と電化開業の記事が大きく報じられていますが、それは省略します。最近広島地区に227系が投入されて テレビも新聞も大きく取り上げていたこととダブって見えた80年前の記事でした。
思い出深い電車が紹介された。と言っても写真がない。木造国電となると詳細についてはよく分からないが買収国電が戦後、各地の私鉄に払い下げられたとき、木造国電にも同じ運命に追いやられたのが幾らか生じた。福塩線からは2両が琴電にやってきた。クハ6007→琴電610、モハ1029→琴電620となった。前車は1954年12月04日、後者は1953年7月20日入線となっているが走っているのを見たことがない。老人が仏生山車庫を訪ねたときは何時も手入れをしていた。その内610号は鋼体化工事を始めた。追うように620号も木部改修工事を始めたが、完成後の姿をThurukameThukameさんが撮っている。木造国電そのものの姿がよく残されているように思う。Thurukameさん、発表お願いできませんか。