糸崎以東に山陽鉄道の痕跡を探して

先に79394、79421で「糸崎に山陽鉄道の痕跡を探して」と題して 臨港線跡に残るレンガ積み橋台を中心に120年前の遺構をご紹介しました。引き続き 非常にローカルなレポートで恐縮ですが、糸崎から東に向かって尾道方面の山陽鉄道の遺構と思われるレンガ積み橋台を見て歩いた結果と そこから見えてきたこの区間の歴史に思いをはせてみました。なお大半が海岸近くですので橋台の観察は干潮時を狙わないと見れません。この日は天気の良い干潮時間帯でした。糸崎(いとざき)を出発した上り列車は山裾を左にカーブしながら糸碕(いとさき)神社の裏を抜けて海岸に出ます。この日私は糸碕神社に参拝したあと 神社の裏手にある短い糸崎川橋梁から観察を始めました。

糸崎川橋梁を通過するEF210-305牽く上り貨物列車  平成28年12月19日

糸崎川の上り線側の橋台はイギリス積みのレンガ橋台であることは確認できましたが 残念ながら下り線側は良く見えず未確認です。ただ上り線のレンガ橋台に対して現在の橋桁が海側にずれています。多分曲線緩和のために当初の位置より海側に移設されたのだろうと思われます。  先を急ぎます。しばらく行くと六本松踏切があります。ここは山陽鉄道時代の写真が残っている場所です。

六本松踏切  糸崎以東は岡山支社管内です

 

長船友則著「山陽鉄道物語」より

絵葉書の説明に「備後國糸崎港六本松 糸崎療病院」とあります。松並木を人が歩いていますが、この道が参勤交代も通った旧山陽道であり、現在の国道2号線です。左手に坂道が見えますが この道が「糸崎療病院」への入口です。ところでこの絵葉書の写真はいつ頃撮影されたのでしょうか。この謎を解く鍵は2つあります。ひとつは山陽鉄道が複線ではなく単線時代であること。もうひとつは「療病院」がいつ開設されたかです。この区間が単線で開通したのが明治25年7月20日、複線化が大正11年12月15日です。一方の「療病院」ですが この病院は結核療養所として明治末期に開設されました。当時結核は国民病と言われ、確たる治療法もなく 空気と日差しの良い地での療養が最適とされていました。岡山医専と福岡医大で教鞭をとっていた桂田富士郎博士が山陽本線で何度もここを通過しながら 気候温暖、風光明媚なこの地が結核療養に最適と目をつけ、弟子に療養所を作らせたのが始まりとされています。のちに本格的な結核療養所の建設を計画していた日本赤十字社が大正14年に この病院を増床して日赤の療養所としました。なお前回のレポートで示した鳥瞰図にも日赤病院との記載があります。残念ながらこれだけの情報では撮影時点を絞り込むにはネタ不足です。絵葉書を良く見ると、坂の下に郵便ポストが写っています。不鮮明ですが 大正元年以降全国的に広く普及した「丸形庇付投函箱」ではないかと思われます。機関車の形式や番号がわかれば手がかりになるかもしれないのですが判別できません。そこでやや無理を承知で、撮影年を大正元年から大正11年の間と絞り込んでみましたが ここまでで精一杯です。さて昭和に入り結核治療法も進歩し、患者数も減少したことから昭和30年代に病院は閉院となりました。吉永小百合さんの朗読で有名な「人間をかえせ」という原爆詩集の作者 峠三吉(とうげみつよし)は昭和28年に36歳で亡くなりますが、一時期この療養所で過ごしており、日記には「姉が糸崎に来る」という記述が多く出てきます。現在 建物はすべて取り壊されて 広大な敷地が雑木林となっています。以前この跡地の様子を見に行こうとしたのですが、坂の下にイノシシ除けの鉄柵があって入れず、断念しました。絵葉書と同じアングルで撮るとこうなります。

矢印が病院に登る坂道跡  (平成28年12月8日撮影)

さて病院跡で時間を食ってしまいましたが、先を急ぎましょう。

下木原橋梁 下り線がレンガ積み橋台

次に出てくる下木原橋梁は下り線側がイギリス積みのレンガ橋台、上り線はコンクリート橋台でした。さらに歩を進めると次に笹原川開渠がありますが、ここは上下ともコンクリート橋台だったので省略します。次は赤石川です。ここには現在使われていないイギリス積みレンガ橋台跡が1対残っています。

現在の線路より海側に橋台跡が残る。東方向を望む。

狭い川ですが それなりに高さもあり川の中に降りるのも難しくレンガの採寸はやや難しかったのですが、手が届く範囲でいくつか測ってみました。平均して215×107×70でした。この橋桁は橋台に対して直角ではなく斜めに架けられていたことが明らかです。そしてその先の路盤跡には民家が建っています。

橋台跡の西側 路盤跡には民家が建っている

しかしこの民家の先には路盤はないので かなり急な右カーブで西に向かっていたのではないかと推察されます。

さて今回の最も注目すべき地点が 次の鉢ケ峰登山道の拱渠です。線路をくぐる拱渠入口に傾いた石の道標があります。

糸崎駅まで3粁440米

尾道駅まで4粁520米

先の民家の写真の背景に写っている山が標高430mの鉢ケ峰でその中腹にある虚空蔵堂まで1.5Kmです。道標のあるここはほぼ海岸ですから一気に430mを登る急坂が待っている山です。ただ瀬戸内海の眺望はすばらしく、私は毎春の鉢ケ峰大祭には登っています。さてこの登山道の始点にあるこの拱渠は非常に興味深いレンガ構造物です。

拱渠南面はコンクリート造

南側はコンクリート造りですが大半はレンガ積みです。手書きですが略図を示します。

鉢ケ峰登山道拱渠の東面略図

南側コンクリート面から北に向かって順番に見てゆくとa、b、c、dの4つの部分から成っていることがわかります。レンガの寸法から見るとa、bは225×107×60のレンガで積まれており、c、dは一回り大きい220×105×72のレンガです。

拱渠内面 自転車が通れる程度の幅はある

最も注目すべきはa、b、c、d各面のつなぎ目が蝶型の石材で上下2ヶ所でつながれている点です。拡大してみましょう。

左がc面、右がb面 いずれもイギリス積みながらレンガの高さが違っているのがわかる

この石材はめ込みは増築した橋台をより強固に一体化するための特異な例なのか、あるいは土木工学的には珍しいことではなく 良く見かけるものなのか全く知見がありません。もしご存知の方がおられましたらご教授下さい。現在の橋桁は略図に示すように南側に寄って架かっています。d部には乗っていません。後年に曲線緩和のため海側に寄せられたのだろうと思われます。さてこのabcdがどういう順番に築かれたかが問題です。この問題には複線化に伴う拡幅と併せて、単線時代の尾道・糸崎間に大正5年7月に開設された木原信号場がどこにあったのかという問題がからんできます。結論から申せば 先の道標にもあるように糸崎から3.4Km、尾道から4.5Kmとやや糸崎寄りながらここが木原信号場跡だったのではないかと考えます。信号場として待避線を設けるために拡幅したために開通当時の古いレンガと約22年後に増設された新しいレンガが並んでいるのではないかと思うのです。仮にそうだとすると開通時の橋台は最も幅が広いc部と考えるのが妥当と思われます。但しその推論を展開してゆくと、なぜc部とd部が同じレンガなのか、大正初期にはレンガはすたれて石造りが増えてゆくのになぜレンガで拡幅したかなど次々と疑問が湧き上がってきます。ここでは検討不十分ゆえに宿題として先を急ぐことにします。

すぐ先に観音寺下バス停があり その近くに枯草で覆われて見落としそうな拱渠がありました。

観音寺下バス停付近の小さな拱渠

写真ではよく判らないでしょうから これも略図にしてみました。

観音寺下バス停付近の拱渠略図(南面)

全体にはイギリス積みですが上部に石材が組み込まれ、その石材を支えるレンガの積み方も凝っていて 凝り性の職人さんの作品のように思えると同時に すぐ近くの先ほどの拱渠のレンガに嵌め込まれた蝶型の石材と何か相通ずるものを感じました。この拱渠は国道の歩道のそばにあるのですが、近づくことができず、結構低い位置にあるため奥を覗こうと歩道に寝そべると 渋滞してゆるゆる走るクルマからは好奇の目で見られ、気の弱い私はここで不審な動きはやめて 先を急ぐことにしました。次の柳川橋梁は下り線側がレンガ積みでした。

柳川橋梁下り線はレンガ積み

柳川橋梁付近の風景(糸崎方面) 左側が国道2号線

尾道方面を望む。電車の先頭あたりにバイパスインターとなる橋台が見える

線路の海側を並行して走る国道2号線は写真のように片側1車線で かつ山が迫ったこの辺りは東西方向の道路は国道しかなく渋滞が常態化しています。そこで現在右手の山を殆どトンネルで抜けるバイパス工事が進行中です。この辺りにはインターチェンジも出来るので、遠からず景色が変わるだろうから現在の風景を記録しておくことも今回のウオーキングの目的のひとつでした。柳川橋梁の次は幅のせまい拱渠でしたが ここも下り線側がレンガ積みでした。

レンガ積み拱渠

次々とレンガ積み橋台が残っていることに気をよくして歩いているとカンカンという規則正しい金属音が聞こえてきました。国道の向かい側に鍛冶屋さんがあり、おじいさん?が作業中でした。

国道に面した鍛冶屋さん

よほど道を渡って作業を見せてもらおうかとも思いましたが、一心不乱に作業されているので遠慮しました。左手はちょっとしたお店になっていて鎌や鍬といった道具が少し並んでいました。看板も何もなく おなじみさんの注文を断れずに続けておられるのだろうとしばらく道の向かい側から眺めていました。

次の内畠川橋梁は上下線ともコンクリート造りの橋台でしたので省略します。そして三原市の東の端、尾道市との境界近くにやや規模の大きいレンガ積み橋台がありました。

木原2丁目の拱渠

ここも上り線側が見えないのですが、ほぼコンクリート造りに違いないと思われます。ここを過ぎると尾道市に入ります。丁度この市境あたりで明治28年7月25日の深夜1:30頃に列車の脱線転覆事故が発生しています。当時 事故現場の横はすぐ海でした。

脱線転覆事故が起きたこの現場は当時 すぐ横は海だった

7月25日午前1:16 折からの台風による暴風雨の中 糸崎駅を上り軍用列車が出発しました。この軍用列車は日清戦争で傷つき広島陸軍予備病院で治療を受けていた傷病兵を東京、名古屋、仙台の病院へ転送するための列車でした。列車編成は機関車+緩急車+下等車10両+緩急車+下等車10両+緩急車という23両編成だったそうです。23両ということは多分2軸車ばかりだったでしょう。暴風雨に加えて高潮が重なり、海岸そばの路盤が波に洗い流されていることを知らないこの軍用列車は漆黒の闇の中を突き進み、機関車、緩急車、客車5両が海に転落、続く客車5両、緩急車が脱線しました。この列車に乗っていた傷病兵は358名、そのなかで11名が死亡、97名が負傷という大事故となりました。軍人の他 機関士、火夫見習い、前部緩急車の車掌の3名も殉職しています。戦地から帰国したあとこのような災難で殉職した軍人を悼んで「遭難軍人之碑」が建っています。

線路際に建つ遭難軍人之碑

この慰霊碑は事故から40年後の昭和11年に建立されています。碑の両側面には死亡した11名の所属、階級、氏名が彫られています。

糸碕神社から約2時間半をかけてここまで歩いて来ました。糸崎・尾道間は9.1Kmですが 中間点を過ぎた5Kmほどを歩いたことになります。今回はここまでとして、引き返すことにしました。この2時間半で観察した結果をまとめてみると次のような図になります。一部コンクリート製の水路は省略しています。

レンガ積み橋台の残存状況  赤がレンガ、青がコンクリート

基本的に海側の下り線がレンガ積み、山側の上り線がコンクリート製であることがわかりました。鉢ケ峰登山道の拱渠のレンガはここが木原信号場であった可能性を示唆しています。下り線のレンガはすべて明治25年の開通当時のものと思われます。ただ 松濱臨港線に残る角の丸い弧状レンガはひとつも使われておらず、なお一層松濱の弧状レンガの存在が謎となりました。以上のことから開通時と複線化時を推定してみると 次のように考えられます。木原信号場の線形は想像です。赤石川の橋台跡があるいは木原信号場の行き止まりの待避線跡かもしれないという想定も残ります。最初にご紹介した糸崎療病院前の絵葉書写真は現在の下り線側で、のちに山側に上り線が敷設されたとすると 坂道と線路との距離が納得できます。

複線化のイメージ。上から明治25年、大正5年、大正11年、大正12年以降

今回は中間点付近で折り返しましたが、この先尾道までも同様に多数の山陽鉄道時代のレンガ橋台が残っていると思われます。尾道市街地には山陽鉄道の用地を示す山印のある標柱もいくつか残っていると言われています。引き続き尾道方面の調査もしたいと思っています。一方 三原駅から下り方面に本郷、河内への調査も進めているところです。

レンガはひとつひとつ手で積み上げるものなので、片手で持ちやすい寸法で作られているそうです。120年以上も前の手作り構造物が今も現役で幹線輸送の縁の下の力持ちとしてしっかり役立っていることを このレンガをひとつひとつ手で積み上げてくれた職人さんが知ったならこれほどうれしいことはないだろうと レンガの採寸をしながら感じました。鍛冶屋さんの風景も印象的でした。クルマで走れば10分もかからない距離ですが、いろいろな発見があったウオーキングでした。ただ一つクルマの走行音だけが余計でした。

またしても長ったらしいレポートになりましたが、最後までお付き合い下さりありがとうございました。

糸崎以東に山陽鉄道の痕跡を探して」への3件のフィードバック

  1. 西村雅幸様
    前回の臨港線のレンガ積の痕跡もそうですが、実際に歩いて文献と照らし合わせた凄い研究論文と思います。私など簡単な定点対比撮影を楽しんでいるくらいですのでコメントする資格もないのですが、糸崎六本松寮病院の話や西村さんの撮影時期の推察も凄いですね。1世紀経っても寮病院の坂は面影が残り、松の木は無くなりましたが海の後方の山の形、線路のカーブなど正しく同じ場所での定点対比ですね。期待しております。頑張って下さい。

    • 準特急様
      過分なるお褒めのコメントありがとうございます。1900生様のコメントにもありましたが、現地、現物の観察といろいろな資料探しによって推理してゆくプロセスを楽しんでいるのかもしれません。推理の結果が正しいかどうかは全く自信がありませんし、仮に間違っていたとしても 多分誰にも迷惑を及ぼすことにならない気楽さもあります。現物調査では 例えば巻き尺で数メートルを測るのは1人では大変です。先日は水路の中に飛び降りるのは難なくできたのですが、いざ登ろうとすると足がかりがなく、1人では大変だったこともありました。私は地元の郷土史研究グループにも属していますが、なぜか殆どの方が大昔の古城や寺社仏閣には熱心なのですが、明治、大正、戦前の話にはあまり興味を示されません。身の回りにあって生活に直結している歴史的遺産が次々と消えてゆくのが惜しく せめて記録だけでも残したいと思ってゴソゴソと動き回っております。期待されると困りますが、こうしてコメントを頂けるのを励みにして 調査を続けたいと思っています。

      • 西村 様
        一連のレポートを拝読していて突然想い出したのですが、卒業後すぐの北丹鉄道貸切行事の後、出石鉄道跡探訪へご一緒しませんでしたか?確か西村さんが言い出しっぺであと一人どなたかご一緒だったようなかすかな記憶が甦りました。
        どなただったかの記憶はかすかですが、廃線跡を辿った記憶は今でも鮮明に覚えています。
        先ず加悦から山越えで出石に入り、確かわんこソバを食べて腹ごしらえをしたような。アッここまできて思いだしました。あとのお一方は米手作市さまでした。
        ソバ皿が10枚出てきたのですが、小生の分が9枚しかなく、店のおばちゃんと10枚出したイヤ9枚しかない1枚足らんと大騒ぎして、1枚追加してもらった事件がありましたね。結果は米手作市さまがコソッと小生の1枚をチョロまかしていたためでしたが(当時のご本人の弁によると、小生が食べ終わって横に置いた皿が邪魔なので更に場所を変えた、ということでした。ご本人の名誉のこともあり今でもこれを信じておりますが)、お店が1枚損してこの騒ぎは終わりました。ここであとのお一人が判明したわけです。
        さて本題です。昼食のあとソバ屋さんで古老を紹介してもらい、早速お尋ねして出石鉄道の概要をお聞きしてから探訪に向かいましたね。線路跡やホーム跡が結構残っていてそれらを発見する度に歓声をあげていたことを想い出します。さすがに江原の街に入ってからは痕跡が途絶えましたが、この頃になるとそれらしき物の何を見ても痕跡ではないかと思うようになり、ちょっとノイローゼ気味になりかけたので、後日を楽しみに帰途についたように記憶します。残念ながら後日の再訪は実現しませんでしたが実り多い一日ではありました。
        準特急さま同様、丹念な調査によるレポートを勝手ながらやはり大いに期待するものです。

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