駅のある風景  ~37枚目の写真から~ 〈1〉

ホントたくさんの写真を撮ってきました。しかも数が減ったとは言え、今も増殖中です。試しに今までの撮影分を一日一枚ずつデジ青に載せていくと、完了までに480年間かかるという試算が出ました。その意味もあって、大海の一滴に過ぎませんが、一日一投、セッセと続けています。

むかし、故・沖中忠順さんが、OB会が写真提供した単行本の座談会に登場されて「37枚目の写真」の効用について語っておられました。「37枚目」、フィルム世代なら分かります。36枚撮りフィルムは少し余裕があって、もう一枚は余分に撮れました。ただ次の撮影もあって、何でもない光景を撮ってから、フィルム交換したものです。帳尻合わせで撮った適当な写真ゆえ、今まで顧みることもありませんでした。ところが、37枚目も100枚集まると、いくつかのテーマ性が出て来るのです。これも、たくさん撮ってきたからこそです。

その37枚目は、駅で撮ることがありました。撮影を終えて駅に戻り、ひと息ついて、つぎの列車に乗るまでの時間を利用して、フィルム交換したのでしょう。適当に撮った写真ですが、「駅」こそ、その時代を映す現場だったと思います。「駅」×「37枚目」の物語です。

「世保」と読める行き先案内、6番ホーム、側線には「あかつき」電源車のマヤ20、向こうにはED76も見える。そう、ここは深夜の鳥栖駅ホーム。前後の写真から判断して、鹿児島本線夜行鈍行の1122レに乗って鳥栖に4:25着、4:53発の佐世保行き425Dを待っているところと判明した。左の25・55系DCが、その425Dかも知れない。なお6:10と読める行き先案内は急行「西海1号」のもの。網がかけられた手小荷物も一緒に載せられるのだろうか。起き抜けで、まだ朦朧とした自分の姿も想像できるような「37枚目」だった(昭和45年9月)。

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 都電も定点対比してみる 3 ~路面電車あれこれ噺 (24)

上野駅前から須田町へ

上野駅前を出た須田町方面行きの都電は、山手線などのガードをくぐると、左に折れて、中央通りを南下します。西側には上野公園や京成上野駅があり、曲がるとすぐに「上野公園前」の電停がありました。

「上野公園前」を発車して行く都電、背後の建物は、上野名物の「聚楽」、和洋中華なんでもありのファミレスの元祖だったが、2008年に廃業した(以下、昭和44年9月)。

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 都電も定点対比してみる 2 ~路面電車あれこれ噺 (23)

上野駅前

昭和の時代、東北・北海道からの帰途は、必ず夜行に乗って上野に着いたものです。その日は帰るだけ、節約のため、在来線に残っていた急行で帰ったとしても、まだ時間の余裕があります。そんな時、上野駅の周辺で都電を撮るのが、格好の時間調整でした(以下、昭和46・47年撮影)。この時期、「上野駅前」では、浅草通り・中央通りを行く24・30系統と、昭和通りを行く21系統が交差していた。写真の中央2線が24・30系統で、手前方は中央通りを通って須田町方面に向かう。向こう方は右に折れていて浅草方面に向かっている。あと右に2線が見える。これは昭和通りを三ノ輪橋~水天宮を結ぶ21系統が発着していた。両系統を連絡する渡りはなく、交差したあと4線が並行して、3面4線の電停となった。

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 都電も定点対比してみる 1 ~路面電車あれこれ噺 (22)

京都、大阪と来れば、つぎは東京しかないでしょう。はい、先日もネタ仕込みに行って来ました。京都のように縦横がきっちり決まっていて、曲がる時でも90度にしか曲がらない律儀な路線に比して、放射状に、好き勝手に路線を延長したような東京は、なかなか馴染めませんでした。旅の途中、列車待ちの間に撮った程度で、乗車したことは数えるほどしかありません。それでも、段階的に廃止が進んでくると、腰を据えて撮ったことがありました(以下、都電は昭和46年2月撮影)。

まずは日本の道路の起点となる「日本橋」へ。東海道など五街道すべてが日本橋を起点として、全国から人が集まり賑わいを呈した。現在も架かる石造りアーチの日本橋は、1911年にできた。市電(のちの都電)も同時に開業し、軌道の中心に架線柱を兼ねた「道路元標」が設置された(のちに移設)。その後、昭和38年に日本橋の直上に首都高速道路が通って、都電時代の姿になった。日本橋のある中央通を行くと銀座線とつながっていて、栄えある1系統(品川駅前~上野駅前)も走っていたが、銀座線は昭和42年に廃止されていて、撮影時は、次の「通三丁目」で線路はぷっつり切れていて、19系統、20系統、22系統が走っていた。▲▲現在の日本橋、背後のビルが全く変わらないのに驚いた。長年叫ばれて来た首都高速の地下化は、解体工事の様子がテレビ番組でも紹介されるなど進捗してきた。

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 大阪駅前 65年前と今(下) ~路面電車あれこれ噺 (22)

大阪駅前の中央郵便局跡の今昔対比に続いて、本家の大阪駅前の対比に移ります。(市電時代の写真は、特記以外、すべて昭和31年、藤原寛様撮影)市電が走っていた頃の大阪駅(右)は3代目で、戦前の昭和15年の3階建て建築、4、5階にホテルが計画されていたが資材難で中止、戦後もそのままの姿で武骨な姿を見せていた。東京駅は煉瓦造りの歴史的な建築、京都駅はシャープな近代建築なのに、なぜ大阪だけが古臭い姿をさらしているのかと思ったものだ。さらに市電も、京都のようなターミナル方式ではなく、通過式で、安全地帯以外の設備もなく、単なる乗降の多い電停に過ぎなかった。車両は1001形1038号、大正時代に製造の大型木造車、深い屋根、アーチ状の側面窓と、優美なスタイルだった。▲▲現在の4代目大阪駅、当初の昭和58年完成のアクティ大阪の本体建築に、のちに南面に大丸梅田店などが増床されたため、駅全体が前へ張り出している。奥は前回紹介のJPタワー。

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 送り火に京都市電を想う~路面電車あれこれ噺〈21〉

昨日16日は、京都では大文字の送り火の日でした。小さい頃から、慣れ親しんできた行事は、暑い夏も、朝夕は少しは涼しくなる季節の変わり目、また小学生の頃なら、そろそろ宿題も気になる、それがDRFCの現役時代なら、送り火を見届けてから、北海道などへ1ヵ月近い撮影旅行に出かけると言った節目ともなる行事、長じてこの歳になると、亡き人を送る宗教的な行事としての気持ちも持ったものでした。「大文字と市電」、むずかしいテーマだった。点火の20時台、撮影適地の今出川線百万遍~銀閣寺前の市電は8~10分ヘッドだったと思う。点火後、最初の白煙がなくなり、太い炎だけになるのは10分程度。その間に市電が来たとしても、クルマに邪魔されず撮れるかが大問題。そこで選んだのは「北白川」の安全地帯、ただ考えるのは誰も同じで、前方は撮影者が占めている。安全地帯のいちばん後ろに陣取って、銀閣寺方面の電車が停車したのを幸いに、その後部から軌道に一瞬飛び出して撮影する、決死の行動だった。今出川線の廃止が昭和51年3月、これを撮った昭和50年の8月16日が最後だった。

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 大阪駅前 65年前と今 (上) ~路面電車あれこれ噺⑳

中央郵便局とJPタワー

一昨日、大阪へ行く用件があり、まず梅田へ行って、先ごろ同時開業したJPタワーやイノゲート大阪を見学して来ました。大阪駅の西側で進められてきた再開発事業で、JPタワーは、かつての大阪中央郵便局の跡地に当たります。まだ市電が大阪駅前を走っていた時代、周囲に大きなビルがなく、中央郵便局は実に大きく見えた(昭和35年4月、中島忠夫撮影)。市電は861形のラストナンバー867号、一部が2601形に改造された。▲▲左は現在の同地点との対比、もう比べるべくもないが、中央郵便局の跡地に建つ地上40階建てのJPタワーで、6階まで商業施設“KITTE”が入居する。

 

 

 

 

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 ここらで ボンネットバス  近畿編 〈5〉

京阪バス⑤ 「おいでやす」再び定観に

定期観光50周年を記念して、当時のカラーに復元された「おいでやす京都号」は、京阪バスでただ1台生き残ったボンネットバスで、定観の役目を終えたあとも、事業用の白ナンバーとなって、昭和50年代の後半まで生き延びます。これで終わりと思っていたら、また救いの手が差し伸ばされます。なんと、元の京阪バスカラーに戻されて、再び定期観光バスとして京都を走り始めました(以下、昭和62年11月)。 二条城の周囲を回る、京阪バスカラーのボンネットバス。昭和60年代になって、突然、京都市内で見られるようになった。昭和62年、京都で第一回世界歴史都市会議が開かれて、そのイベントとして、伏見区のパルスプラザで同年の11月8~29日に「世界歴史都市博覧会」が開かれ、その送客を兼ねて、三条京阪、京都駅前から二条城、金閣寺を回り、パルスプラザへ向かうものだった。

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 ここらで ボンネットバス  近畿編 〈4〉

京阪バス④  定期観光バスで復活

京都、滋賀、大阪、3府県の京阪バスのボンネットバスの活躍は、昭和51年9月で終了しますが、そのあと京都市内で、定期観光の貸切としてボンネットバスが復活することになります。ちょうど東海バス「伊豆の踊子」号をはじめ、観光資源としてのボンネットバスに着目され始めた頃でした(以下、昭和53年)。大津営業所の「滋2い887」が、路線バスとして用途廃止された昭和51年9月に、事業用の白ナンバーとして、「京22や180」に改番され、京都営業所に転属した。以前同所に所属の「京22や‥6」と同様、乗務員の移送、社内部品の輸送に使われたが、昭和53年3月に京都の定期観光バスが50周年を迎えるのを記念して、営業用に復活することになった。「京22か19-81」の緑ナンバーとなり、車内のシートも改装された。外部塗装も昭和3年に、定期観光が始まった頃の塗装に復刻され、上部が濃いクリーム、下部がグリーン、ボンネット部が紺、窓枠は茶に塗装され、「おいでやす京都号」の愛称がついた。

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 ここらで ボンネットバス  近畿編 〈3〉

京阪バス③ 大阪

大阪府下で最後のボンネットバス路線も、やはり京阪バスでした。発着していたのは、中心部の淀屋橋から20分乗車の京阪大和田駅です。狭くて賑やかな大阪の典型的な駅前から、昭和51年9月まで、ボンネットバスが発着していたのです(以下、昭0年5月)。京阪大和田駅に発着する京阪バスのボンネット「大阪22あ15-00」、駅はまだ地上線の時代、高架工事中の仮駅を通過する3000系特急のすぐ横をボンネットバスが発着していた。

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 ここらで ボンネットバス  近畿編 〈2〉

京阪バス(2) 滋賀

つぎは滋賀県下の京阪バスへ。大津駅の近くにあった大津営業所のボンネットバスは、昭和50年初頭には3台が在籍、ほかにも興味深いバスがいて、浜大津のバスターミナルへ何回か撮影に出かけたものでした(以下。昭和50年撮影)。浜大津をターミナルとして、3台のボンネットが活躍していた。ほとんどの時間帯、ボンネットバスが見られ、狭隘区間のある長等公園~浜大津~朝日ヶ丘住宅の系統で使われ、ほかにも石山駅~曽束でも使われていた。「滋2い・888」昭和40年式いすゞBXD30 帝国ボデー

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 ここらで ボンネットバス  近畿編 〈1〉

古い鉄道ネタばかり続きました。目先を変えて、バスについて記すことにしました。ボンネットバスのあれこれです。昭和50年代前半、ポスト蒸機・京都市電として、鉄道ネタよりも、ボンネットバスに傾注していました。この時代、別に地方へ行かなくても、京都や滋賀でボンネットバスを見ることができました。もう50年近くが経つと、蒸機も市電もボンネットバスも、ひと塊の思い出としてよみがえります。まずは近畿地方を走ったバスを、府県別、バス会社別に見て行くことにします。

京阪バス① 京都

京都、大阪、滋賀でバス輸送を担っている京阪バスには、かつて、それぞれの府県でボンネットバスが走っていました。京都では、山科区にある京都営業所に、昭和50年初頭には、3台のボンネットバスが使われていました。うち2台は営業用の緑ナンバー、1台は事業用の白ナンバーのバスでした(以下、昭和49、50年撮影)。

山科を走っていた京阪バスのボンネットバス、山科区内の渋谷街道の狭隘区間を走るボンネットならではの区間で、京都では最後の路線バスとして、昭和50年ごろまで活躍が見られた。

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 鉄道少年の時代に戻ってみる  〈7〉

新幹線開業前の山科で撮る(1)

今までの「鉄道少年」の時代は、昭和39年のことですが、この年には、東海道新幹線の開業がありました。天下の東海道本線の輸送体系が一夜で全く変わってしまう歴史的な日が迫っていて、夏休みを終えた中学3年生も記録に忙しい毎日です。新幹線の開業を10日後に控えた山科の大築堤を行き交った列車を見てもらいます(以下、昭和39年9月20日、一部掲載済み)。新幹線開業で、151系の電車特急7往復すべてがなくなるのが、大きなニュースだった。151系「こだま」が登場したのは昭和33年、旺盛な輸送需要に「つばめ」「はと」「富士」が相次いで登場した。いっぽうで、新設の交流電化の広軌鉄道を建設し、抜本的な改善をするため、昭和34年に東海道新幹線が起工された。東海道本線では、電車特急の増備を続けながら、新幹線の建設を進める二重投資をしていたわけだが、それほど輸送力の改善が急務だった。「つばめ」のヘッドマークは、ほかは白地にスミ文字のシンプルなものだが、「つばめ」だけは上下のバック地がグレーになって由緒正しき「つばめ」の矜持に感じられた。

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 いろいろやります〈湖西線50年・江若廃止55年〉 (4)

高島市「琵琶湖に沿って~思い出の江若鉄道」写真展 終了しました

7月19日より、湖西線近江今津駅近く、高島市の今津東コミュニティセンターで開催していました、湖西線開業50周年、江若鉄道廃止55周年記念「琵琶湖に沿って~思い出の江若鉄道」写真展は、去る8月1日に滞りなく千秋楽を迎えました。ご来場いただいた皆様、ありがとうございました。14日間の開催期間、多くの皆さんに来ていただきました。手許の芳名録では約250名、無人の時間帯もあり、正確なカウントは出来ていませんが、実際は1000名超と思われます。会場の今津東コミセン館長からは“館が始まって以来の人出”と驚きの声。地元の皆さんが親身になって、広報、拡散に当たっていただいたお陰です。私にとっての今津は、何の地縁もないところ、それだけに地元の皆さんの応援なしでは出来得なかった写真展でした。

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 鉄道少年の時代に戻ってみる  〈6〉

山陰線、山口線に乗り、電化前の山陽本線へ

この記事作成用にスキャンした写真は、当時のDPE店で“サービス判”と呼ばれた、ごく小さなサイズですから、内容を読み取ることもなく、放置状態でした。改めて、記事にしてみると、写真からも当時の様子がよく分かりました。投稿することによって、自分の引き出しの数がまた増えました。さらに皆さんからコメントを頂戴し、自分でも気づいていなかったところまで分かり、まさに“デジ青”効果です。

山陰地方を訪れる一ヵ月前、「昭和39年7月山陰北陸豪雨」と命名された豪雨被害があり、とくに島根県東部は被害が甚大だった。一畑電鉄の立久惠線はこれがもとで廃止になった。山陰本線も各所で寸断され、つい数日前に全通したばかりだった。被害区間は普通列車のみの運転で、優等列車はすべて折り返し運転となった。乗車予定の準急「しんじ」(宇野~米子~博多)も、米子~石見大田が運休、山口線湯田まで行こうとして、運休区間を普通列車で移動し、やっと折返し列車の始発となる石見大田にたどり着き、「しんじ」に乗車した。太陽がガンガン照り付けて、列車は、貫通扉、乗務員扉まで、窓という窓はすべて開け放たれて、蒸し風呂の車内に風を入れようとしている。ホームにいる人たちは見送りなのだろうか、地方駅なのに、すごい人出だ(以下、昭和39年8月)。

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 鉄道少年の時代に戻ってみる  〈5〉

山陰線の普通列車を乗り通す

“江若鉄道・湖西線”月間も、何とか乗り切ることができました。日常のデジ青生活に少しずつ戻ることにします。まずは「鉄道少年」を続けます。昭和39年の中学3年生、家族で山陰方面へ旅行した時の“窓から写した”シリーズです。乗った列車は、京都を早朝5:33発の普通列車の石見益田行きで、11時間余り乗り続けて玉造温泉まで行きました。 改めて時刻表を見ると、山陰本線は長距離鈍行の宝庫でした。京都発なら、石見益田行きだけでなく、発車順に門司、浜坂、鳥取、下関(夜行)、大阪発福知山線経由でも、浜田、米子、出雲市、大社(夜行)と、行き先がすべて異なる長距離鈍行が出ていました。

今回、ネガからスキャンしたものの、フィルムの劣化がさらに進行して目も当てられない惨状でした。そこで、プリントを新たにスキャンすることにしました。精度は劣りますが、キズだらけのネガスキャンよりはまだマシです。 長々としたタイフォンを響かせ、海沿いの鎧を通過して行く「白兎」 (以前の投稿から再掲)

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 いろいろやります〈湖西線50年・江若廃止55年〉 (3)

大津市歴史博物館で「わたしの湖西線」

奈良の駅名研究家さんからも予告していただいたように、本日20日(土)から、大津市歴史博物館で湖西線開業50周年企画展「わたしの湖西線」が開催されます。昨日は今津、今日は大津と、「琵琶湖周航の歌」のように2日連続の催事スタートです。

湖西線開業50周年記念 企画展「わたしの湖西線」

2024年7月20日(土)~9月1日(日) 9:00~17:00 (入場は16:30まで)

大津市歴史博物館 企画展示室

・休館日 月曜日(8/12を除く)、8月8日(木)正午以降、8月13日(火)

・アクセス 京阪電鉄 石山坂本線「大津市役所前」駅下車徒歩5分、

     JR湖西線「大津京」駅下車徒歩15分

開業日の昭和49年7月20日、トンネルを抜け築堤を快走する113系700番台車。湖西線は踏切なしの全線高架複線の高規格線であることはよく知られているが、車両においても、走っていた113系、153系は全車冷房化されていた。当時、ほかの国電区間でも完全冷房化の線区はなく、車両設備においても先端の線区だった。

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 いろいろやります〈湖西線50年・江若廃止55年〉 (2)

江若鉄道写真展 近江今津で開催中

つぎつぎやります! と言っておきながら。前回の(1)から一ヵ月半が経過し、「やってへんやんか」と言われそうですが、いえいえ、報告が遅れただけです。一人で黙々と準備を進めていました。気がついたら、本日から、つぎの催事の開催となりました。

江若鉄道廃線55年 湖西線開業50周年

写真展「琵琶湖に沿って~思い出の江若鉄道」

会期 7月19日(金)~8月1日(木) 

   9:00~22:00 (期間中無休)

会場 今津東コミュニティセンター1階展示ホール(JR湖西線 近江今津駅下車)

写真展会場の最寄り駅、近江今津に掲げられた「湖西線開通50周年」のフライヤー、113系2700番台も忠実に再現された。「あと2日」は、今津にとって重要な意味を持っている。

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 鉄道少年の時代に戻ってみる  〈4〉

叡電を撮る

小さい頃の身近な鉄道と言えば、すぐ近くの京都市電に尽きますが、余りにも身近すぎて、撮影の対象ではありませんでした。“やっぱり専用軌道を走る、大きな電車を撮りたい”。となると“叡電”に行き着きます。ひとつの行政区内で完結する珍しい鉄道であり、徒歩圏内で始発駅に行けるとあって、中学生になると、よく出掛けることになります。懸賞でカメラが当たったことがあり、喜び勇んで行ったものの、目も当てられない酷い写りで、さすがに公開は気が引け、何とかマシなものに限定して見ていただきます。

叡電宝ヶ池駅の南にある修学院7号踏切。ポール姿のデナ21が出町柳方面へ向かって行く。比叡山の山麓には青々とした田圃が広がっていた。その後、急激に市街地化が進み、当時は修学院までだった白川通が延長されて、叡電を乗り越す高架橋もできて、同じ地点から見る光景は激変してしまった(以下、昭和39年8月)。

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