ここらで ボンネットバス  近畿編 〈4〉

京阪バス④  定期観光バスで復活

京都、滋賀、大阪、3府県の京阪バスのボンネットバスの活躍は、昭和51年9月で終了しますが、そのあと京都市内で、定期観光の貸切としてボンネットバスが復活することになります。ちょうど東海バス「伊豆の踊子」号をはじめ、観光資源としてのボンネットバスに着目され始めた頃でした(以下、昭和53年)。大津営業所の「滋2い887」が、路線バスとして用途廃止された昭和51年9月に、事業用の白ナンバーとして、「京22や180」に改番され、京都営業所に転属した。以前同所に所属の「京22や‥6」と同様、乗務員の移送、社内部品の輸送に使われたが、昭和53年3月に京都の定期観光バスが50周年を迎えるのを記念して、営業用に復活することになった。「京22か19-81」の緑ナンバーとなり、車内のシートも改装された。外部塗装も昭和3年に、定期観光が始まった頃の塗装に復刻され、上部が濃いクリーム、下部がグリーン、ボンネット部が紺、窓枠は茶に塗装され、「おいでやす京都号」の愛称がついた。

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 ここらで ボンネットバス  近畿編 〈3〉

京阪バス③ 大阪

大阪府下で最後のボンネットバス路線も、やはり京阪バスでした。発着していたのは、中心部の淀屋橋から20分乗車の京阪大和田駅です。狭くて賑やかな大阪の典型的な駅前から、昭和51年9月まで、ボンネットバスが発着していたのです(以下、昭0年5月)。京阪大和田駅に発着する京阪バスのボンネット「大阪22あ15-00」、駅はまだ地上線の時代、高架工事中の仮駅を通過する3000系特急のすぐ横をボンネットバスが発着していた。

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 ここらで ボンネットバス  近畿編 〈2〉

京阪バス(2) 滋賀

つぎは滋賀県下の京阪バスへ。大津駅の近くにあった大津営業所のボンネットバスは、昭和50年初頭には3台が在籍、ほかにも興味深いバスがいて、浜大津のバスターミナルへ何回か撮影に出かけたものでした(以下。昭和50年撮影)。浜大津をターミナルとして、3台のボンネットが活躍していた。ほとんどの時間帯、ボンネットバスが見られ、狭隘区間のある長等公園~浜大津~朝日ヶ丘住宅の系統で使われ、ほかにも石山駅~曽束でも使われていた。「滋2い・888」昭和40年式いすゞBXD30 帝国ボデー

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 ここらで ボンネットバス  近畿編 〈1〉

古い鉄道ネタばかり続きました。目先を変えて、バスについて記すことにしました。ボンネットバスのあれこれです。昭和50年代前半、ポスト蒸機・京都市電として、鉄道ネタよりも、ボンネットバスに傾注していました。この時代、別に地方へ行かなくても、京都や滋賀でボンネットバスを見ることができました。もう50年近くが経つと、蒸機も市電もボンネットバスも、ひと塊の思い出としてよみがえります。まずは近畿地方を走ったバスを、府県別、バス会社別に見て行くことにします。

京阪バス① 京都

京都、大阪、滋賀でバス輸送を担っている京阪バスには、かつて、それぞれの府県でボンネットバスが走っていました。京都では、山科区にある京都営業所に、昭和50年初頭には、3台のボンネットバスが使われていました。うち2台は営業用の緑ナンバー、1台は事業用の白ナンバーのバスでした(以下、昭和49、50年撮影)。

山科を走っていた京阪バスのボンネットバス、山科区内の渋谷街道の狭隘区間を走るボンネットならではの区間で、京都では最後の路線バスとして、昭和50年ごろまで活躍が見られた。

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 鉄道少年の時代に戻ってみる  〈7〉

新幹線開業前の山科で撮る(1)

今までの「鉄道少年」の時代は、昭和39年のことですが、この年には、東海道新幹線の開業がありました。天下の東海道本線の輸送体系が一夜で全く変わってしまう歴史的な日が迫っていて、夏休みを終えた中学3年生も記録に忙しい毎日です。新幹線の開業を10日後に控えた山科の大築堤を行き交った列車を見てもらいます(以下、昭和39年9月20日、一部掲載済み)。新幹線開業で、151系の電車特急7往復すべてがなくなるのが、大きなニュースだった。151系「こだま」が登場したのは昭和33年、旺盛な輸送需要に「つばめ」「はと」「富士」が相次いで登場した。いっぽうで、新設の交流電化の広軌鉄道を建設し、抜本的な改善をするため、昭和34年に東海道新幹線が起工された。東海道本線では、電車特急の増備を続けながら、新幹線の建設を進める二重投資をしていたわけだが、それほど輸送力の改善が急務だった。「つばめ」のヘッドマークは、ほかは白地にスミ文字のシンプルなものだが、「つばめ」だけは上下のバック地がグレーになって由緒正しき「つばめ」の矜持に感じられた。

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 いろいろやります〈湖西線50年・江若廃止55年〉 (4)

高島市「琵琶湖に沿って~思い出の江若鉄道」写真展 終了しました

7月19日より、湖西線近江今津駅近く、高島市の今津東コミュニティセンターで開催していました、湖西線開業50周年、江若鉄道廃止55周年記念「琵琶湖に沿って~思い出の江若鉄道」写真展は、去る8月1日に滞りなく千秋楽を迎えました。ご来場いただいた皆様、ありがとうございました。14日間の開催期間、多くの皆さんに来ていただきました。手許の芳名録では約250名、無人の時間帯もあり、正確なカウントは出来ていませんが、実際は1000名超と思われます。会場の今津東コミセン館長からは“館が始まって以来の人出”と驚きの声。地元の皆さんが親身になって、広報、拡散に当たっていただいたお陰です。私にとっての今津は、何の地縁もないところ、それだけに地元の皆さんの応援なしでは出来得なかった写真展でした。

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 鉄道少年の時代に戻ってみる  〈6〉

山陰線、山口線に乗り、電化前の山陽本線へ

この記事作成用にスキャンした写真は、当時のDPE店で“サービス判”と呼ばれた、ごく小さなサイズですから、内容を読み取ることもなく、放置状態でした。改めて、記事にしてみると、写真からも当時の様子がよく分かりました。投稿することによって、自分の引き出しの数がまた増えました。さらに皆さんからコメントを頂戴し、自分でも気づいていなかったところまで分かり、まさに“デジ青”効果です。

山陰地方を訪れる一ヵ月前、「昭和39年7月山陰北陸豪雨」と命名された豪雨被害があり、とくに島根県東部は被害が甚大だった。一畑電鉄の立久惠線はこれがもとで廃止になった。山陰本線も各所で寸断され、つい数日前に全通したばかりだった。被害区間は普通列車のみの運転で、優等列車はすべて折り返し運転となった。乗車予定の準急「しんじ」(宇野~米子~博多)も、米子~石見大田が運休、山口線湯田まで行こうとして、運休区間を普通列車で移動し、やっと折返し列車の始発となる石見大田にたどり着き、「しんじ」に乗車した。太陽がガンガン照り付けて、列車は、貫通扉、乗務員扉まで、窓という窓はすべて開け放たれて、蒸し風呂の車内に風を入れようとしている。ホームにいる人たちは見送りなのだろうか、地方駅なのに、すごい人出だ(以下、昭和39年8月)。

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 鉄道少年の時代に戻ってみる  〈5〉

山陰線の普通列車を乗り通す

“江若鉄道・湖西線”月間も、何とか乗り切ることができました。日常のデジ青生活に少しずつ戻ることにします。まずは「鉄道少年」を続けます。昭和39年の中学3年生、家族で山陰方面へ旅行した時の“窓から写した”シリーズです。乗った列車は、京都を早朝5:33発の普通列車の石見益田行きで、11時間余り乗り続けて玉造温泉まで行きました。 改めて時刻表を見ると、山陰本線は長距離鈍行の宝庫でした。京都発なら、石見益田行きだけでなく、発車順に門司、浜坂、鳥取、下関(夜行)、大阪発福知山線経由でも、浜田、米子、出雲市、大社(夜行)と、行き先がすべて異なる長距離鈍行が出ていました。

今回、ネガからスキャンしたものの、フィルムの劣化がさらに進行して目も当てられない惨状でした。そこで、プリントを新たにスキャンすることにしました。精度は劣りますが、キズだらけのネガスキャンよりはまだマシです。 長々としたタイフォンを響かせ、海沿いの鎧を通過して行く「白兎」 (以前の投稿から再掲)

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 いろいろやります〈湖西線50年・江若廃止55年〉 (3)

大津市歴史博物館で「わたしの湖西線」

奈良の駅名研究家さんからも予告していただいたように、本日20日(土)から、大津市歴史博物館で湖西線開業50周年企画展「わたしの湖西線」が開催されます。昨日は今津、今日は大津と、「琵琶湖周航の歌」のように2日連続の催事スタートです。

湖西線開業50周年記念 企画展「わたしの湖西線」

2024年7月20日(土)~9月1日(日) 9:00~17:00 (入場は16:30まで)

大津市歴史博物館 企画展示室

・休館日 月曜日(8/12を除く)、8月8日(木)正午以降、8月13日(火)

・アクセス 京阪電鉄 石山坂本線「大津市役所前」駅下車徒歩5分、

     JR湖西線「大津京」駅下車徒歩15分

開業日の昭和49年7月20日、トンネルを抜け築堤を快走する113系700番台車。湖西線は踏切なしの全線高架複線の高規格線であることはよく知られているが、車両においても、走っていた113系、153系は全車冷房化されていた。当時、ほかの国電区間でも完全冷房化の線区はなく、車両設備においても先端の線区だった。

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 いろいろやります〈湖西線50年・江若廃止55年〉 (2)

江若鉄道写真展 近江今津で開催中

つぎつぎやります! と言っておきながら。前回の(1)から一ヵ月半が経過し、「やってへんやんか」と言われそうですが、いえいえ、報告が遅れただけです。一人で黙々と準備を進めていました。気がついたら、本日から、つぎの催事の開催となりました。

江若鉄道廃線55年 湖西線開業50周年

写真展「琵琶湖に沿って~思い出の江若鉄道」

会期 7月19日(金)~8月1日(木) 

   9:00~22:00 (期間中無休)

会場 今津東コミュニティセンター1階展示ホール(JR湖西線 近江今津駅下車)

写真展会場の最寄り駅、近江今津に掲げられた「湖西線開通50周年」のフライヤー、113系2700番台も忠実に再現された。「あと2日」は、今津にとって重要な意味を持っている。

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 鉄道少年の時代に戻ってみる  〈4〉

叡電を撮る

小さい頃の身近な鉄道と言えば、すぐ近くの京都市電に尽きますが、余りにも身近すぎて、撮影の対象ではありませんでした。“やっぱり専用軌道を走る、大きな電車を撮りたい”。となると“叡電”に行き着きます。ひとつの行政区内で完結する珍しい鉄道であり、徒歩圏内で始発駅に行けるとあって、中学生になると、よく出掛けることになります。懸賞でカメラが当たったことがあり、喜び勇んで行ったものの、目も当てられない酷い写りで、さすがに公開は気が引け、何とかマシなものに限定して見ていただきます。

叡電宝ヶ池駅の南にある修学院7号踏切。ポール姿のデナ21が出町柳方面へ向かって行く。比叡山の山麓には青々とした田圃が広がっていた。その後、急激に市街地化が進み、当時は修学院までだった白川通が延長されて、叡電を乗り越す高架橋もできて、同じ地点から見る光景は激変してしまった(以下、昭和39年8月)。

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 鉄道少年の時代に戻ってみる  〈3〉

開館した交通科学館へ

昭和37(1962)年1月、大阪環状線弁天町駅前に、交通科学館が開館しました。小さい頃から、東京には交通博物館があるのに、なぜ関西には無いのかと、いつも恨めしく思っていた私にとっては待望の開館で、その直後に見に行きました。当初の予定では、昭和36年に開館と新聞で知り、勇んで行ったものの、工事中で見ることができませんでした。あとで分かったことは、この年の第二室戸台風の被害で、工期が遅れていたとのこと、それだけに待望の開館でした。中庭に展示されたC5345、最終のC53廃車機に当たり、解体予定のところが変更されて、教習用として国鉄吹田教習所に展示されていた。交通科学館の構想が上がり、同館の目玉として展示することになり、鷹取工場で、自走可能な状態に復元工事が行われた。しかも本線で客車を牽いて、鷹取~吹田で二日間公開運転された。そのあと、龍華から大阪臨港線の大阪港まで自走し、そこから陸送で、交通科学館に収まったと言う。ただ現役時代のC53を知らない小学校6年生にとっては、三気筒の歴史的な名機と言われても理解できず、デフが無いのは、日頃見るC51やC57と決定的に違い、どうしても馴染めなかった。

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 鉄道少年の時代に戻ってみる  〈2〉

京都駅で「こだま」

京都で育った鉄道少年にとって、京都駅へ行って写真を撮ることは、自然の成り行きでした。新幹線の開業前、東海道本線には、最新の鉄道車両が走り、ホーム端へ行くと、山陰線のC51が見られるなど、最新電車から蒸機まで揃った京都駅に、少年の眼は輝きました。なかでも「こだま」に代表される151系電車は、みんなの憧れの電車でした。東海道線時代の「こだま」型に乗ることは叶いませんでしたが、豪華な車内を羨ましそうに見て、列車を撮影するだけで、胸の高鳴りを感じたものでした。鉄道写真アルバムの第1ページにもこんな写真が貼ってありました。昭和36年8月3日朝7時30分、上り「第一こだま」が京都駅1番ホームに滑り込んで来た。稚拙な写真だが、特徴あるホーム屋根から京都駅と分かる。と言っても「こだま」に乗った訳ではなく、近々家族で箱根への旅行を計画していて、列車の混雑具合を確かめるため、父とともに京都駅へ来た。「こだま」が昭和33年にデビューし、その後も「つばめ」「はと」「富士」と電車特急が増発されるが、電車特急の人気は高く、2週間前発売の指定券はすぐに売り切れていた。勢い、自由席のある急行に目が向くが、これも満員になる。交通公社の時刻表には、優等列車の前年同月の乗車率が載っていたが、8月は、東海道本線の主要な急行は軒並み100を超していた。とくに京都から東上する場合、大阪で乗り込まれると座れる可能性は極めて低い。そんな状況のなか、それを確かめるため京都駅へ来て、乗るアテもない「こだま」を写したということである。

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 鉄道少年の時代に戻ってみる  〈1〉

京都市電北野線に乗る

ついに後期高齢者となりました。市から送られて来た「後期高齢者保険証」を感慨深く見入っていました。“高齢者”の前に“後期”が付く、紛れもない年寄りです。こんな記念すべき時期(?)に、デジ青でやるべきことは何か、やはり鉄道写真を始めた原点に戻ってみようと思います。鉄道写真を撮り始めてから、もう65年の歳月が流れました。親に買ってもらった子供向けのカメラで小学校の時から写し、鉄道を撮った写真は抜き出してスクラップブックに貼り付け、自分だけの鉄道アルバムを作っていました。最初のページには、昭和36年廃止の京都市電北野線の写真が貼られていました。2022年開催の第9回クローバー会写真展のサブテーマ「私の蔵出しお宝写真」に出品した、堀川丸太町に到着する京都市電北野線の写真は、文字通り、自分で最初に撮った鉄道写真第一号だった。(以下、昭和36/1961年6月25日)。

 

 

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 消えゆく老舗書店 熊本と京都~路面電車あれこれ噺⑲

路面電車が走る街で、撮影のため歩いていると書店と出会うことがあります。なかでも、地域に根ざした老舗の書店・古書店は大好きでした。撮影の手を止めて、入ってしまうこともあり、地域ならではの地方出版物のなかから鉄道関係の書籍を見つけて思わず買ったこともありました。ところが、街の書店がどんどん減ってきて、社会問題化しています。もう、路面電車と書店のある光景も過去の思い出になろうとしています。熊本市にある、創業150年を迎える老舗の書店が閉店すると言うニュースを耳にしました。真ん前を熊本市電が走ると言う絶好のロケーションでした。熊本市中央区、熊本市電の上熊本線「新町」電停前の「長崎次郎書店」。真ん前を上熊本線の3・8系統が通っている(以下、2016年2月12日)。

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 仙台駅前で定点対比する ~路面電車あれこれ噺⑱

少し前、三陸・大槌を訪れる途中に、仙台駅前へ寄って、昭和51(1976)年まで走っていた仙台市電を、同一地点からの対比を試みました。今まで、何度か仙台へは行ったものの、駅前の巨大なペデストリアンデッキに阻まれて、定点撮影は不可能と思っていましたが、改めて地上から対比すると、たしかにデッキは邪魔にはなるものの、意外と市電時代の街並みが残っていました。

仙台市電は、路線延長16キロとごく小規模ではあったが、茨城交通、琴参電鉄、呉市からの転属車や仙台のオリジナル車など多彩だった。車両は200形211号、昭和29年から製造された前中扉の軽量車で、201~211の11両があった。前面は2枚窓だが、後期車は写真のように非対称となった。仙台を特徴づけるセンターポールも見える。

青葉通が交わる駅前の地上へ行って定点対比すると、デッキの合い間から、何とか定点対比ができた。すっかり変わってしまったように見える駅前だが、よく観察すると、左の「宮城ビル」は外装は新しいが、躯体はそのままのようだ。正面には、市電時代には地場の百貨店、丸光デパートがあった。そのあと、2002年に、さくら野百貨店となったが、倒産し、建物はそのまま残っている。

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 豊橋市内線の支線を偲ぶ ~路面電車あれこれ噺⑰

豊橋鉄道 柳生橋支線

路面電車に関わる小ネタをしばらく綴っていきます。先般行われた豊橋ツアー、もう一ヵ月が過ぎての後出し投稿で失礼します。丹羽さんからは、本欄でも貴重な豊橋市内線を紹介していただき、旭川電軌や三重交通神都線から来た貴重な車両を紹介していただきましたが、私も、過去に一度だけ、豊橋市内線の車両を撮っていました。かつての柳生橋支線を走っていた3700形です。

現在、豊橋の市内線は、先日みんなで乗った駅前~赤岩口・運動公園前の東田本線だけですが、以前は駅前~市民病院前、新川~柳生橋の2支線がありました。駅前~市民病院前は昭和44年に休止・廃止、もう一方の新川~柳生橋0.9kmの柳生橋支線は、昭和51年廃止で、私も直前に短時間撮りに行きました。そこで走っていたのが、日本最初の半鋼製電車と言われる3700形でした。柳生橋支線の廃止後も3702が生き残り、鉄道友の会「エバーグリーン賞」を受賞、平成19年まで「レトロ電車」として活躍し、廃車後は豊橋市こども未来館に保存展示されていることが、丹羽さんの原稿にも書かれています。

豊橋の駅前大通りをまっすぐ進んだ東田本線は、新川で左へ曲がり北へ向かう(写真の上方向)。その新川から分岐していたのが、手前の柳生橋線で、専用に走っていたのが細面のモ3700形(昭和50年6月撮影)。

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 京都市バスに 6月から “観光特急”

京都市交通局では、6月1日にバス系統の再編成、ダイヤ改正を行い、社会問題化したオーバーツーリズムによるバス混雑の緩和のため、観光特急バス、EX100号、EX101号の運転を開始しました。ほかにも、朝ラッシュ時に、主要停留所のみ停車の「快速」や、観光客の多い東山、金閣寺方面の路線などを増便しています。観光特急は2系統あり、EX100号は「観光特急“楽洛”清水寺・祇園・銀閣寺ライン」が副称で、京都駅~五条坂~祇園~銀閣寺の往復、EX101号は「観光特急“楽洛”清水寺ライン」が副称で、京都駅~清水寺・五条坂の往復、いずれも主要停留所のみ停車で、運転時分の短縮も狙った。EX101は、京都駅を出ると、次は終点の清水寺・五条坂となる。

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