飯田線 乗って 降りて 歩いて  ⑤

最後に水窪へ

天竜峡を15:12発の554Mで折り返し、天竜川に沿って小和田や中井侍など、本家・秘境駅を車窓から愛でながら南下します。最後に降り立ったのは水窪でした。

水窪は、③で紹介した大嵐の隣駅に当たり、昭和30年、佐久間ダム建設に伴う水没区間のため、あらたに別線建設された区間にある駅となる。

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 飯田線 乗って 降りて 歩いて  ④

天竜峡で折り返し

大嵐駅周辺の探索を2時間で終えて、13:14発の519Mで、折り返しとなる天竜峡へと向かいました。

天竜峡は、昭和2年に伊那電鉄の起点として開業した。そのあと、南から延びて来た三信鉄道と接続して乗継駅となった。飯田線になってからも運輸上の中枢駅となったが、機関区などの現業機関はなく、今まで乗り換えることはあっても、下車したのは初めてだった。開業当時の面影を伝える切妻の方形造りに、マンサード屋根を組み合わせ、風見鶏やステンドグラスも見える逸品である。この様式は、伊那電の好みのようで、ほかにも伊那八幡駅でも似た建築が見られると言う。

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 飯田線 乗って 降りて 歩いて  ③

廃線トンネルのある駅へ

中部天竜の20分停車を利用して周囲の散策を終え、同じ列車に再乗車。乗ること30分、長いトンネネルを抜けると、そこが次の目的の駅でした。トンネルとトンネルに挟まれたところに駅はあった。狭隘地のため、両側のトンネルは、内部でポイント分岐していて、ポータルは複線サイズになっている。ほんの数人しか乗っていない列車から途中下車すると、自分ひとりだけと思っていたら、なんとオバちゃんが一人下車、迎えのクルマに乗り込んで行った。

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 飯田線 乗って 降りて 歩いて  ②

中部天竜を歩く

本長篠の周辺探索を終えて、本長篠9:30発の天竜峡行き列車で飯田線を北上します。乗車列車は、待望の213系5000代車で、途中の中部天竜で20分の停車、これを利用して、駅周辺の探索を素早く済ませました。

 中部天竜今昔① 飯田線の運輸上の要衝で、かつて中部天竜支区もあって、電機、旧型電車で賑わっていたが、それも廃止され、跡地に設けられた佐久間レールパークも閉園されて、すっかり寂しい駅になってしまった。

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 飯田線 乗って 降りて 歩いて  ①

ある駅から探索を開始

先般のクローバー会の豊橋ツアー、参加の皆さんとともに楽しんできました。晩は豊橋駅の居酒屋で、名物の味噌煮込みおでんで気勢を上げたあと解散となりましたが、その日、私はは豊橋に泊まって、翌日は一人で飯田線へ行きました。飯田線は、旧型電機・電車が走っていた頃には、よく訪れたましたが、それらが消えてからは全く足を踏み入れたことがなく、今回、約50年ぶりの飯田線入りとなりました。2扉、転換クロスの213系5000代車は、超ガラガラで、窓から見える渓谷美とともに、実に快適な乗り鉄一人旅となりました。思い出に残る駅や、以前から憧れていた駅に下車して、周辺を自分勝手に思いのままの街歩きを楽しみました。雨に洗われて新緑の鮮やかさを増す飯田線、乗車して一時間あまり、ある駅に到着し下車した。島式ホームには、乗車の313系、交換の213系と、飯田線の現有形式が顔を揃えた。

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 いろいろやります〈湖西線50年・江若廃止55年〉(1)

ささやかな写真展、やってます。

今年は1974(昭和49)年7月に湖西線が開業してから、50年を迎えます。その前身とも言うべき江若鉄道も、廃止されてから55年となり、地元の大津市、高島市から、展示や講演の依頼を頂戴しています。湖西線はまだしも、江若に至っては、今までイヤッと言うほど展示・発表をして、いったい江若で何杯メシを食うんや、と言われていますが、私のような老人の存在を覚えていただいて、人繋がりでお声掛けしていただき、すべて有難くお受けすることにしました。未確定の展示もあり、内容が確定した催事から紹介していきます。

今回は、もう展示が始まっているものです。地場の金融機関である、滋賀銀行さんからお声掛けいただき、湖西線近江高島駅近くの高島支店のロビーで行われている写真展で、先週末、現地へ行って設営して来ました。京都~大阪より長い路線長のあった江若鉄道のすべてを紹介するのは、小さな会場ではとても無理で、今回は、会場のある高島町付近に限定しての写真展です。

 写真展「高島・今津を走った 懐かしの江若鉄道」 

 6月3日(火)~28日(金) (開催中、銀行営業時間内のみ) 

 滋賀銀行高島支店ロビー (湖西線近江高島駅下車、徒歩5分)

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 5月の晴れ間に 日常+αを記録する ③

開業40周年の三陸鉄道へ

5月の最終、もう一件だけ「日常+α」載せます。先週になりますが、三陸鉄道に乗って来ました。いままで三陸鉄道では、佐竹保雄さん主宰の「トレランス号」に、佐竹さんの東北復興への願いを思いながら、2回に渡って乗りました。今回は、私にとっての思い出の地である大槌を中心に瞥見してきました。過去、デジ青誌上でも、三陸鉄道の前身である、国鉄山田線の大槌駅のこと、そこで何気に撮った写真が、意外な展開を見せて、「トレランス号」が走る端緒にもなったことも書きました。 「TOLERANCE 10」 大槌を行く! | DRFC-OB デジタル青信号

「トレランス」に乗車してから5年が経過し、この間にも、地域の復興はさらに促進されて、三陸鉄道を取り巻く状況も変化していると聞きます。現地でその空気に触れるべく、家族とともに大槌入りとなりました。釜石から三陸鉄道で3つ目の駅が大槌、震災で街も鉄道も壊滅したが、もとJR山田線は三陸鉄道に移管されて、大槌駅も旧駅とほぼ同じ場所に設けられた。その三陸鉄道は、ことし開業40周年を迎え、そのヘッドマークも掲げられている。車両も開業時の36-100形が、三鉄のオリジナル塗装のままで走っているのが嬉しい。

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 5月の晴れ間に 日常+αを記録する ②

日常シリーズ、つぎは福井へ向かいました。敦賀延伸後の新幹線に初めて乗って、着いた福井は、絶好の五月晴れ。ある切符を握りしめて、福井鉄道の電車に乗って、まずは、左右に田園が広がる三十八社に下車しました。この日は、ずっと青空が広がっていて、至るところで、みごとな水鏡が見られた。えちぜん鉄道番田にて(以下、2024年5月8日)

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 札幌の路面ディーゼル車 ~路面電車あれこれ噺⑯

今回は。昨2023年5月に亡くなられた吉田耕司さんのネガから、札幌市で走っていた路面ディーゼル車を見ていただきます。吉田さんは、DRFC現役時代には、各地を旅行され多くの鉄道写真を残されました。このたび、ご遺族から米手さん経由でネガをお預かりしデータ化しました。なかでも昭和40年に北海道へ行かれた際に、札幌市交通局の鉄北線を走っていたディーゼル車を撮られていて、その一部は現在発売の「鉄道ピクトリアル」6月号「札幌都市圏の鉄道輸送」にも、ご遺族の了解を得て掲載することができました。日本では唯一の路面ディーゼル車を今回は見ていきます。札幌市の北部を走る鉄北線は、順次延長されて、昭和34年に北二十七条、昭和38年に麻生町、そして昭和39年に新琴似駅前まで延長された。北二十七条以北は、人家もまばらで、コスト節減のため非電化で開業した。すでに昭和33年から路面ディーゼル車の製造・増備が進められており、鉄北線延長後は同線に集中して使用された。

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 50年前の広島電鉄市内線 ~路面電車あれこれ噺⑮

広島電鉄市内線では、広島駅と直結する駅前大橋線の新設工事が最終盤を迎えています。デジ青でも、西村さんからの現地レポートがあり、ネットニュースでも進捗状況を確認しています。新しくできる広島駅ビルの2階まで高架で乗り入れ、改札口を出たら、すぐ市内電車に乗れる、本当に楽しみです。その開業まであと一年となりました。

さて、私が初めて広島を訪れたのは、昭和30年代の後半でした。被爆直後にできたコンクリートの固まりのような小さい駅舎を出て、市内線に乗って原爆ドームへ行きました。まだ単車が走っていたことは覚えていて、駅前の闇市のような商店街とともに、失礼ながら、発展から取り残された田舎都市の印象を受けました。その後も呉線の蒸機撮影で何度も広島に下車していますが、路面電車は撮影の対象ではなく、やっと写したのが昭和49(1974)年のことでした。ちょうど50年前のことになります。その後、広島へ来ることになる1900形は、まだ京都市内を縦横に走って活躍していた時代で、広島は、戦前、戦後の自社製造車や、大阪・神戸から来た電車で占められていて、“軽快電車”と呼ばれた新型車両のデビューもまだでした。では50年前、広島市内で見られた電車たちを見て行きます(以下すべて昭和49年9月)。

50年前の広島駅前で発車を待つ市内線、右の504号500形は、昭和28年の自社発注車、501~505があった。京都市電800形と酷似の広電800形を継承したスタイルで、こちらも京都市電に通じるところがある。左の766号750形は、もと大阪市電1600形などで、いずれものちに廃車されている。

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 名鉄岐阜市内線 “長良線”  ~路面電車あれこれ噺⑭

準特急さんの「お城と鉄道」特集号に多くの応援コメントが入りました。皆さんの関心の高さを思いましたが、なかでも、西村さんや紫の1863さんから名鉄岐阜市内線のレポートがありました。金華山の岐阜城から市内線を超俯瞰した写真もあって興味深く拝見しました。岐阜市内および近郊へは多くの路面電車が走っていましたが、市内中心部で最初の廃止が、この岐阜市内線の徹明町~長良北町、通称“長良線”でした。廃止は1988(昭和63)年6月で、ことしで36年目になります。私も一度だけ、短時間でしたが撮ったことがありました。 岐阜の繁華街である柳ヶ瀬から、写真の岐阜城のある金華山のふもとを通り、長良川を渡って岐阜市北部を結んでいたのが“長良線”、城下町・岐阜の歴史ある町並が続いていた(昭和50年12月)。公園前

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 5月の晴れ間に 日常+αを記録する ①

阪堺電車、大阪メトロ、南海を記録する

5月に入って連休期間中、いい天気が続いています。連休の人出とは、関わりを持たないようにしている高齢者ですが、新緑と青空を見ると、ついカメラを持って外へ出たくなります。デジ青投稿最高齢を誇る準特急さんも、散歩がてら近くを徘徊するとコメントに寄せられています。準最高齢の私も、これに刺激を受けて、昨3日(金)は大阪へ出掛けました。大仰なタイトルとなりましたが、要は、準特急さんのように、日常の鉄道をこまめに記録しておくこと、さらに自分なりの撮影スタイルもプラスすることが大事と感じた一日でした。皆さんからも、日常の鉄道、ぜひ投稿お願いします。最初はコレ、阪堺では連休期間中、旧型車モ161を連日運転するとリリースされていた。午前中に、我孫子道~浜寺~天王寺駅前を2往復するもので、あべのハルカス狙いで行ったが、間に合わず、途中の併用軌道区間となったが、クルマにも被られず、赤電カラーの162号を、まず一枚。

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 桜とともに散っていった車両たち

桜も散って、いまは新緑真っ盛りですが、15年ほど前の桜ネタで、とにかく掲示板の空きを埋めて行きます。いつもどおりの変わり映えのない写真ですが、車両だけは、もう見られません(過去の投稿済みも含まれています)。

桜のシーズン、叡電とともによく行ったのは、阪急嵐山線の桜だった。以前、阪急沿線に住んでいた時は、乗車時間10分余りで、上桂、松尾と、桜が満開の駅へ行くことができた。なかでも運行標識板の2300系は、マルーンの車体にホントに桜が似合った(2007年4月)。

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 「お城と鉄道」 発売 !

本日、主要書店でいっせい発売の「レイル」130号に、わが準特急さんが企画・原稿・写真を担当された「お城と鉄道」が30ページにわたって掲載されています。一日千秋の思いで、各方面から発売が待たれていた待望の特集です。

「お城」と来て、ピン!と来る方は「デジ青」読者の証拠、そう2022年7月から、掲示板に「お城と電車」のシリーズで25回に渡って連載されてきました。今回の記事は、「デジ青」をベースに、さらに加筆追加されたもので、タイトルも「お城と鉄道」と広範に、鉄道に近接した城、残存天守閣のある城に分類されて、全部で26の城が紹介されています。

準特急さんは、車窓から城が見えることに着目されて、ライフワークとして、全国各地に何度も取材、撮影に向かわれていました。文章については、準特急さんならではの城に関する知識、雑学が満載。「デジ青」でも強調されているように、鉄道を語ろうと思えば、車両の知識だけではなく、鉄道の背後にある歴史。文化など、あらゆる事象を知らないと鉄道は語れない、その発露に他なりません。また写真については、高校生、DRFC現役時代から、ずっと撮影を続けてこられた準特急さんならではの厚みが感じられます。併用軌道を行く京阪2000形と大阪城、江戸城桜田門付近の都電5000形、田んぼばかりの近鉄竹田付近の背後の伏見城など、昭和40年前後の写真は、準特急さんならではです。ためしに、30ページ分の撮影日を分類すると、なんと延べ40日にわたって撮影に行かれて、その熱意、行動力には脱帽です。始まりは高松城から。堀端を走るのは元京急230形とは、昭和の電車大好きの準特急さんらしい。

もうひとつ準特急さんを喜ばせたのはクローバー会を中心とした皆さんの写真提供だとおっしゃっています。松山城だと、お城の前を走るのは旧色時代の元京都市電2000型と、ズバリの写真が提供されています。同じ四国では、土器川橋梁を渡るDF50と丸亀城と言う、今まで見たことが無い写真も提供されました。今回の特集は、準特急さんの力によることは言うまでもないことですが、これらクローバー会の連帯感で実を結んだことは、たいへん嬉しいことです。ただいま、全国の主要書店で発売中です。ぜひお手に取って見てください。

 歳は取っても やっぱり“桜”

いい季節になりました。京都では桜も散り果て、もう新緑が目に鮮やかです。日頃は日陰でくすぶっている高齢者も、外へ出て陽を浴びたくなります。先ごろ少数精鋭(?)で行われたクローバー会の比叡山ツアーも楽しいものでした。ところが「デジ青」は“冬眠”が続いています。準特急さんからは「もっと発表せぇ~」とハッパを駆けられ、私も日頃のカビだらけの写真は止めにして、この10日間の今年の“桜鉄”活動をご覧いただきます。定点撮影のように、毎年、同じ写真ばかり、一向に進歩のない撮影ばかりですが、高齢者は、これでいいのです。同じ場所へ毎年行けるのが、何より元気な証拠だと実感します。皆さんからも、春の活動レポート待ってます。今年も来ました岩滝口、ぶんしゅうさんと一緒に行って以来、惚れ込んだ京都丹後鉄道の岩滝口駅、丹鉄の前身となる宮津線が開業100年に当たるため、4月14日にはイベントも行われた。イベント参加はそこそこに、午後はやはり岩滝口へ足が向く。列車を降りて10秒、ホーム端から、いま満開のしだれ桜を入れて撮れる。

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 阪神軌道線 国道線を偲ぶ ~路面電車あれこれ噺⑬

阪神国道線 余話

縁あって「阪神国道電車」の本を造ることができました。「神戸鉄道大好き会」というグループがあり、その何人かとは、従来からお付き合いがありました。同会はは過去にも神戸市電の本を出版されていて、そのつぎの出版目標は「阪神国道線」となり、何の所縁もない私も出版計画に入れていただき、もうお一人と、本の企画・編集を行なうことになりました。出版元は、いまは廃業されましたが、大阪にある鉄道書籍では実績のある出版社でした。本の企画・編集については、すべてお任せで、口は出さないが、カネは出すと言う、ある意味では恵まれた出版となりました。好き放題にできた一例が表紙のデザインだった。今までの同社からの鉄道本は、どう贔屓目に見ても、デザインは陳腐そのもので、たとえ中身に値打ちがあっても、表紙を見ただけで購買意欲がなくなってしまう。かと言って尖がったデザインも鉄道書にはふさわしくなく、中庸ではあるが、本の意図をきっちり伝えるデザインとすることにして、デザインカンプを何種類も作ってみた。タイトルも「阪国浪漫」「阪神国道線」「阪神国道電車」と出たが、最終は中央の「阪神国道電車」となった。

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 阪神軌道線 国道線を偲ぶ ~路面電車あれこれ噺⑫

ほかの線区でも走った“金魚鉢”

阪神軌道線の3線〈国道線、北大阪線、甲子園線〉の紹介は以上ですが、実は“金魚鉢”こと71形が走っていたのは、この3線だけではなく、ほかの支線でも走っていた時期がありました。それが尼崎海岸線(出屋敷~高洲、昭和37年廃止)、いまもある武庫川線(武庫川~洲先(当時))なのです。 尼崎海岸線 大正時代、阪神は今津から海岸線に出て、出屋敷まで「コ」の字に結ぶ今津出屋敷線を出願した、第一期工事として、昭和4年に出屋敷~東浜を開業するが、以降は未成線のままとなった(途中の浜甲子園~中津浜のみ甲子園線の延長として開業)。昭和26年に沿線の地盤沈下のため高洲~東浜を休止・廃止。結局、出屋敷~高洲の一駅のみ1.7km、乗車時間2分の支線として残り、“金魚鉢”が細々と走っていた。架線柱、軌道敷は複線分が確保され、当初の構想の大きさを感じさせた(昭和37年9月、篠原丞さん撮影(以下同じ))。

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 阪神軌道線 国道線を偲ぶ ~路面電車あれこれ噺⑪

国道線の西半分を偲ぶ

もともと大阪~神戸を結び、国鉄、阪神、阪急に次ぐ、第4の鉄道とも言える国道線でしたが、国道2号線の渋滞に巻き込まれて、末期は昼間48分ヘッドと、地方ローカル線並みの本数になっていました。特に神戸市内で混雑が著しく、西端の東神戸~西灘が昭和44年12月、続いて乗客減少も著しい西灘~上甲子園が昭和49年3月に廃止されています。私は残る野田~上甲子園の最終間際しか撮っていませんでしたが、本を出版した際に、多くの協力者から、東神戸~西灘~上甲子園の写真を預かっています。ここでは移譲を受けたKさんの写真を載せました。

西灘が終点だった時代、野田へ向けて発車を待つ金魚鉢。交差するのは阪神本線で、左手に西灘駅がある。右手には「ゴンチャロフ」の看板、当時の西灘工場だったが、阪神大震災で全壊し、いまは右手に本社・工場がある。

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 阪神軌道線 国道線を偲ぶ ~路面電車あれこれ噺➉

国道線 尼崎から西宮へ

国道2号の中央を走る国道線、撮影意欲が湧くような沿線風景は全くなく、淀川大橋まで歩いて来たものの、そこからの歩きは断念、国道電車に乗って、尼崎の中心である難波(なにわ)、西大島、浜田までワープしました。難波付近を行く、国道線の装飾電車。この付近は、阪神尼崎駅の北西に位置し、賑やかなアーケード街が続く昔からの商業地。現在なら「阪神、優勝までマジック143」と日本一早いマジック点灯を掲げる尼崎中央商店街も近い。右手の立派な三和銀行尼崎支店も、この付近のランドマークになっていて、直交する商店街には今も三和本通商店街の名を残している。

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