投稿者「総本家青信号特派員」のアーカイブ
桜とともに散っていった車両たち
「お城と鉄道」 発売 !
本日、主要書店でいっせい発売の「レイル」130号に、わが準特急さんが企画・原稿・写真を担当された「お城と鉄道」が30ページにわたって掲載されています。一日千秋の思いで、各方面から発売が待たれていた待望の特集です。
「お城」と来て、ピン!と来る方は「デジ青」読者の証拠、そう2022年7月から、掲示板に「お城と電車」のシリーズで25回に渡って連載されてきました。今回の記事は、「デジ青」をベースに、さらに加筆追加されたもので、タイトルも「お城と鉄道」と広範に、鉄道に近接した城、残存天守閣のある城に分類されて、全部で26の城が紹介されています。
準特急さんは、車窓から城が見えることに着目されて、ライフワークとして、全国各地に何度も取材、撮影に向かわれていました。文章については、準特急さんならではの城に関する知識、雑学が満載。「デジ青」でも強調されているように、鉄道を語ろうと思えば、車両の知識だけではなく、鉄道の背後にある歴史。文化など、あらゆる事象を知らないと鉄道は語れない、その発露に他なりません。また写真については、高校生、DRFC現役時代から、ずっと撮影を続けてこられた準特急さんならではの厚みが感じられます。併用軌道を行く京阪2000形と大阪城、江戸城桜田門付近の都電5000形、田んぼばかりの近鉄竹田付近の背後の伏見城など、昭和40年前後の写真は、準特急さんならではです。ためしに、30ページ分の撮影日を分類すると、なんと延べ40日にわたって撮影に行かれて、その熱意、行動力には脱帽です。▲始まりは高松城から。堀端を走るのは元京急230形とは、昭和の電車大好きの準特急さんらしい。
もうひとつ準特急さんを喜ばせたのはクローバー会を中心とした皆さんの写真提供だとおっしゃっています。松山城だと、お城の前を走るのは旧色時代の元京都市電2000型と、ズバリの写真が提供されています。同じ四国では、土器川橋梁を渡るDF50と丸亀城と言う、今まで見たことが無い写真も提供されました。今回の特集は、準特急さんの力によることは言うまでもないことですが、これらクローバー会の連帯感で実を結んだことは、たいへん嬉しいことです。ただいま、全国の主要書店で発売中です。ぜひお手に取って見てください。
歳は取っても やっぱり“桜”
いい季節になりました。京都では桜も散り果て、もう新緑が目に鮮やかです。日頃は日陰でくすぶっている高齢者も、外へ出て陽を浴びたくなります。先ごろ少数精鋭(?)で行われたクローバー会の比叡山ツアーも楽しいものでした。ところが「デジ青」は“冬眠”が続いています。準特急さんからは「もっと発表せぇ~」とハッパを駆けられ、私も日頃のカビだらけの写真は止めにして、この10日間の今年の“桜鉄”活動をご覧いただきます。定点撮影のように、毎年、同じ写真ばかり、一向に進歩のない撮影ばかりですが、高齢者は、これでいいのです。同じ場所へ毎年行けるのが、何より元気な証拠だと実感します。皆さんからも、春の活動レポート待ってます。▲今年も来ました岩滝口、ぶんしゅうさんと一緒に行って以来、惚れ込んだ京都丹後鉄道の岩滝口駅、丹鉄の前身となる宮津線が開業100年に当たるため、4月14日にはイベントも行われた。イベント参加はそこそこに、午後はやはり岩滝口へ足が向く。列車を降りて10秒、ホーム端から、いま満開のしだれ桜を入れて撮れる。
阪神軌道線 国道線を偲ぶ ~路面電車あれこれ噺⑬
阪神国道線 余話
縁あって「阪神国道電車」の本を造ることができました。「神戸鉄道大好き会」というグループがあり、その何人かとは、従来からお付き合いがありました。同会はは過去にも神戸市電の本を出版されていて、そのつぎの出版目標は「阪神国道線」となり、何の所縁もない私も出版計画に入れていただき、もうお一人と、本の企画・編集を行なうことになりました。出版元は、いまは廃業されましたが、大阪にある鉄道書籍では実績のある出版社でした。本の企画・編集については、すべてお任せで、口は出さないが、カネは出すと言う、ある意味では恵まれた出版となりました。▲好き放題にできた一例が表紙のデザインだった。今までの同社からの鉄道本は、どう贔屓目に見ても、デザインは陳腐そのもので、たとえ中身に値打ちがあっても、表紙を見ただけで購買意欲がなくなってしまう。かと言って尖がったデザインも鉄道書にはふさわしくなく、中庸ではあるが、本の意図をきっちり伝えるデザインとすることにして、デザインカンプを何種類も作ってみた。タイトルも「阪国浪漫」「阪神国道線」「阪神国道電車」と出たが、最終は中央の「阪神国道電車」となった。
阪神軌道線 国道線を偲ぶ ~路面電車あれこれ噺⑫
ほかの線区でも走った“金魚鉢”
阪神軌道線の3線〈国道線、北大阪線、甲子園線〉の紹介は以上ですが、実は“金魚鉢”こと71形が走っていたのは、この3線だけではなく、ほかの支線でも走っていた時期がありました。それが尼崎海岸線(出屋敷~高洲、昭和37年廃止)、いまもある武庫川線(武庫川~洲先(当時))なのです。▲ 尼崎海岸線 大正時代、阪神は今津から海岸線に出て、出屋敷まで「コ」の字に結ぶ今津出屋敷線を出願した、第一期工事として、昭和4年に出屋敷~東浜を開業するが、以降は未成線のままとなった(途中の浜甲子園~中津浜のみ甲子園線の延長として開業)。昭和26年に沿線の地盤沈下のため高洲~東浜を休止・廃止。結局、出屋敷~高洲の一駅のみ1.7km、乗車時間2分の支線として残り、“金魚鉢”が細々と走っていた。架線柱、軌道敷は複線分が確保され、当初の構想の大きさを感じさせた(昭和37年9月、篠原丞さん撮影(以下同じ))。
阪神軌道線 国道線を偲ぶ ~路面電車あれこれ噺⑪
国道線の西半分を偲ぶ
もともと大阪~神戸を結び、国鉄、阪神、阪急に次ぐ、第4の鉄道とも言える国道線でしたが、国道2号線の渋滞に巻き込まれて、末期は昼間48分ヘッドと、地方ローカル線並みの本数になっていました。特に神戸市内で混雑が著しく、西端の東神戸~西灘が昭和44年12月、続いて乗客減少も著しい西灘~上甲子園が昭和49年3月に廃止されています。私は残る野田~上甲子園の最終間際しか撮っていませんでしたが、本を出版した際に、多くの協力者から、東神戸~西灘~上甲子園の写真を預かっています。ここでは移譲を受けたKさんの写真を載せました。
▲西灘が終点だった時代、野田へ向けて発車を待つ金魚鉢。交差するのは阪神本線で、左手に西灘駅がある。右手には「ゴンチャロフ」の看板、当時の西灘工場だったが、阪神大震災で全壊し、いまは右手に本社・工場がある。
阪神軌道線 国道線を偲ぶ ~路面電車あれこれ噺➉
北海道でまた廃止 根室線 富良野~新得の駅を訪ねる
3月31日限りで、JR根室線富良野~新得81.7kmの鉄道営業が終了しました。鉄道としての終了は富良野~東鹿越で、東鹿越~新得は台風被害で不通のまま代行バス輸送になっていましたが、バス代行も終了となりました。先ほどのNHKニュースでも報道がありましたが、北海道の鉄道廃止も、ここ数年、年中行事化していて、それほどの感慨はありません。新しい時刻表にも、数行「営業終了」とサラリと触れているだけ、災害による他の路線不通も小さく載っているだけで、これだけの不通区間があったのかと改めて驚きました。
富良野~新得は、最初に北海道を訪れた昭和40年代、狩勝峠の旧線は新線に移っていて、蒸機の力闘も、車窓からの大眺望も知りませんが、まだ石勝線が開業する前で、道央と釧路・根室を結ぶ幹線として機能していて、何度も列車で通ったものでした。ただ乗ったのは夜行列車ばかりで、深夜の1時、2時、列車で爆睡していて記憶も記録もありません。ここ10年ぐらい、何度か北海道へ行くようになって、やっと明るいうちに同区間に乗ることができました。東鹿越~新得のバス代行輸送については、以前のデジ青でも発表していますので、富良野~新得の廃止駅を中心に見てもらいます。もちろん芦別岳バックの原色キハ40走行など行く術もなく終わってしまい、単なる車内からの撮影です。
▲今回の廃止区間の始発となる富良野駅で発車を待つ、東鹿越行きの列車、キハ40の単行だが、車内は中国人旅行客も含めて、そこそこの乗客数だった(2018年2月)
阪神軌道線 国道線を偲ぶ ~路面電車あれこれ噺⑨
クローバー会第10回鉄道写真展「鉄路輝く」も幕を下ろしました。ご来場者のなかには「デジ青読者です」と言って来場される初対面の方、なかには首都圏からの方もおられ、デジ青が広報媒体になっていることを改めて感じました。ネット総数から見ればわずかかも知れませんが、全国のデジ青読者に向けて、微力ながら投稿を続けたいと改めて思ったものです。積み残しのテーマも数多くあって、まずは、来年2025年に廃止50年を迎える阪神国道電車。3線のうち甲子園線、北大阪線は紹介しましたが、「国道電車」の母体ともなった国道線が紹介できていませんでした。まずはそこから紹介しましょう。▲高架の阪神野田駅の下にあった国道線のりば。左の階段を上がった高床ホームから発着した。右は北大阪線の乗り場で、電車も北大阪線の天六行き。
▲▲低床の北大阪線、高床の国道線(右)が並ぶ。
西のC59・C62全記録 (14・最終回)
昭和45(1970)年9月 電化工事の完了した呉線へ最後の撮影 ③
ダラダラ続けて来た本テーマもやっと最終回、今回も同じような写真が続きますが“全記録”と銘打った以上、ご容赦いただき、先を急ぐことにします。前回(13)は、午前は小屋浦、昼は広島機関区で写し、そのあと、また列車に乗って呉線へ、晩は再び広島へ戻って夜間撮影。そして駅の待合室で寝て、翌日は一番列車に乗って、再び呉線・広島機関区と、昭和45年10月改正の呉線電化を前にして、最後の乗車・撮影を行いました。今から50年以上前、気力・体力も充実した時代ならではの行動力あふれる別れとなりました。
▲この日は広島駅の待合室に泊まり込むことにして、夜間、広島駅を発車して行く呉線の列車を写すことにした。C62 15の牽く「音戸2号」。
写真展「鉄路輝く」 トークショー行われる !
西のC59・C62全記録 (13)
西のC59・C62全記録 (12)
昭和45(1970)年8月 電化工事の完了した呉線へ最後の撮影①
わがクローバー会の写真展も連日、賑わいを見せています。一段落したところで、通常の投稿に戻って、まずは「西のC59・C62」に掛かります。
前回、DRFCの合宿で呉線を訪れたのが昭和44(1969)年3月のこと、すでに昭和45年10月を目指して進められていた呉線の電化工事はポールの建植工事が進んでいました。それから一年余り、三原~海田市87kmの電化工事は順調に進み、昭和45年8月3日からは架線試験車が走り始め、初めて電気機関車が呉線に入線しました。各種試験が行われたあと、乗務員の練習運転も8月23日から行われました。ちょうど、夏休みのこの時期、例によって九州へ行く前後、最後の呉線訪問としました。▲呉線は、昭和45年10月改正を前に電化が完成していて、線内では電気機関車の乗務員訓練が、営業列車を使い、この時期恒例の“電蒸運転”が行われていた。626レ、EF58 18+C59 164 (昭和45年8月30日、安芸幸崎~忠海)
お待たせしました。明日からクローバー会写真展
▲持ち場持ち場で頑張る会員たち、ご協力、ありがとうございました。
“デジ青”読者の皆さま、お待たせいたしました。クローバー会第10回鉄道写真展「鉄路輝く」、明3月20日(水)から26日(火)まで開催です。
本日は設営の日に当たり、選りすぐりの準備担当係が参集して午後1時から作業を開始しました。あらかじめ下準備はしていたものの、やはり一点ずつ、手作りで仕上げていくのは大変なこと、当日は平日のため、担当係だけでは、人手が心配でしたが、そこは協調心あふれる心優しいクローバー会会員のこと、米手さん、Tさん、Iさんと、みんな75歳超の高齢世代ですが、会場に駆けつけていただき、最後まで手伝っていただきました。お蔭で午後5時30分には、すべての準備を終えることができ、明るいうちに退出することができました。
あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~40~
あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~39~
西のC59・C62全記録 (11)
昭和44(1969)年3月29~31日 DRFCメンバーとともに撮影
広島のユースで一泊した翌日3月29日は、DRFC春の狂化合宿が、呉市の国民宿舎「音戸ロッジ」で華々しく行われる日、九州で泥池にはまって風邪気味で体調は万全でないものの、メンバーとの再会を楽しみにして、ユース前からバスに乗り込み、広島駅へと向かいました。▲合宿の最終日の「安芸」狙いは、煙が期待できる安登~安浦の勾配区間へメンバーとともに向かった。と言うものの今まで、この区間で煙に恵まれたことは無かったが、今度は違った。北海道ヤマ線のC62重連も顔負けの凄い爆煙だ。見始めは違和感を覚えた「あき」のヘッドマークも、見慣れて来ると必須のアイテムとなった。体調は最悪だったが、それを吹き飛ばすシーンとなった。
西のC59・C62全記録 (10)
昭和44(1969)年3月28日 DRFC合宿を前に一人で足慣らし
前記のように、ポールが建ち始めた呉線で丸一日撮った後は、九州各地へ転戦しました。DRFCメンバーとも要所で顔合わせしながら、17日間に渡って各地で蒸機を撮影。最終日は筑豊でたっぷり写したあと、夜行で広島へ向かいました。DRFCの春の合宿が開かれる前日であり、まずは一人で呉線撮影となりました。▲折尾から夜行の座席急行「桜島」に乗って、広島に4時30分に到着、呉線の一番列車622レが発車する7番ホームへ行く。外はまだ暗いが、ホームは明るく照らし出され、C62が堂々と待機していた。ほんの数年前、まだ山陽本線の蒸機が華やかな時代、次つぎに夜行列車が発着していた広島駅の昔日を思い起こさせるような雰囲気だった。C62 41[糸]