しばらく、最近撮影のカラーを紹介してきました。これはこれで意味があると認めつつ、何か隔靴掻痒の気持ちがないわけではありません。やはり高齢者にとっては、モノクロが似合うと改めて思います。デジタル世代に対抗できる、高齢者の優位源泉です。以前、本欄で「北のC62全記録」として北海道のC62を紹介しましたが、しっかり記録に残せた達成感とともに、半世紀以上前の記録を発表する機会は、今しかないとも痛感しました。つぎは「西」、つまり「呉線のC62」としました。昭和40年代初頭、山陽本線では、C62はほぼ活躍を終えて、呉線で活路を見出していました。このなかには3両だけ残ったC59も含まれますので、両形式を紹介することにします。
初回の記録から始めますが、この時代のフィルムは、劣化が激しく、無数の白いシワがあります。見せるような代物ではなく、小さく扱っていきます。▲初めて呉線へ行ったのは昭和41(1966)年3月で、高校一年生(なんと16歳 !)の初めての長距離一人旅だった。手にした乗車券は「京都から広島ゆき」、学割料金で1120円だった。大阪21:25発、夜行鈍行の門司行き225レに乗って、一睡もできずに、広島に翌朝の5:54に着いた。呉線乗車までの間、ホームで発着列車を撮影する。最初は次つぎ到着する九州行きの寝台特急に目を奪われ、やがて通勤時間帯になると、呉線、芸備線、宇品線に蒸機列車が発着する。
1番ホームに到着した広発宇品行き925レで初めてC62を見た。いままで見慣れた山陰線のC57と較べると、ボイラーが太く、とにかくデカイ。この列車は、工場の多い宇品行きの通勤列車となるため、広島から後部にD51が付いて、向きを変えて宇品へ向かう、呉線・宇品線の直通は朝に3本連続していた。以来、呉線へは計7回、延べ10日以上の訪問となった。
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