あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~33~

2008年1月19日 紀州鉄道へ

取材の依頼で、紀州鉄道へ行ったことがありました。いまも発行されている「50代からの旅と暮らし発見マガジン」がキャッチの月刊誌で、創刊まもない頃、まだ編集体制が手探りの時期で、私のような人間にも声が掛かりました。「春を探して、身近なローカル線散歩」が与えられたテーマ、関西圏からの日帰り先として、選んだのが紀州鉄道と御坊市内の街散歩でした。雑誌のテーマどおり、春を思わせる日差しに誘われるように、カーブの向こうから列車が現れた。この時の車両はキハ603、大分交通から移って来た同番号車で、耶馬渓線で使われていたが、同線の廃止で紀州鉄道に来た。この時は、金土日は収容力の大きいキハ603、そのほかの平日は、北条鉄道から来たレールバスのキテツ1が使われていた。

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 西のC59・C62全記録  (8)

昭和43年3月 再び安登へ 

広島機関区でC59・C62の形式写真を撮影して、広島10:36発の糸崎行きに乗車、呉線の撮影に向かいました。この頃になると、鉄道雑誌の撮影地ガイドにもたびたび呉線が登場するようになります。新規の撮影地へも行きたいところですが、往きに寄った安登付近に再び行くことにして、その際に撮れなかったリベンジ撮影としました。往きに紹介したカットと、ほぼ同じようなシーンばかり続きますが、“全記録”として、ご了承ください。広島から、呉線に乗って安登へ向かった。乗車列車が呉に到着すると、17分の停車アナウンスがあり、ホームの先頭に行ってみる。3番ホームには上り、貨物も待機するなか、下り「安芸」の到着だ。やって来たのは、常磐線から転属したばかりのC6246で、さっそく急行を牽いての登板だった。C62以上に興味深いのは、次位に側面総シャッターの荷物車、三軸ボギーのカニ38が連結されていること。昭和34年に、マロネフ37を種車として、手小荷物をパレットごと搭載できる試作車として誕生した一形式一両、翌年の昭和44年には救援車スエ38に改造されるが、この時期は「安芸」専用のように連結されていた。そして、続く編成にはオロネ10が2両も連結されている。まだ等級制の時代だから、“一等寝台”となる。黒いC62+茶色の3軸荷物車+黄緑帯を巻いた青色の一等寝台2両‥の編成は、当時、数多く走っていた急行列車のなかでも、「安芸」だけに見られた異色の豪華編成だった。▲▲現在の呉駅同一地点、周囲は大きな建物に囲まれてしまった。 続きを読む

 西のC59・C62全記録  (7)

 広島で常磐線のC62と再会  昭和42年3月

では、通常投稿に戻ります。高齢者の脳の活性化には、昔話が一番、今年も性懲りなく昔話を続けます。さて、前回(6)のC59、C62の記録は、昭和43年3月、高校3年生の終わり、北九州へ撮影に行く際に写したものでした。今回は、その北九州からの帰り、初めて広島機関区へ寄った時の記録です。前回、書き漏らしましたが、この昭和43年に、呉線のC62に大きな変化が起こりました。前年の昭和42年10月、常磐線の平~岩沼の電化完成により、平機関区で使われていたC62のうち、状態の良い5両が糸崎機関区へ転属、それに対応する糸崎区の5両が廃車と、半数の顔ぶれが入れ替わりました。

「ゆうづる」牽引で有名だったC6223、平区のC62のなかで特に状態が良く、特急「ゆうづる」の専用機のようにして常磐線仙台~平で使われた。私の唯一の「ゆうづる」撮影も23号機だった。同線の電化後、昭和42年10月に糸崎区に転属した。前の年に“東”で見た同機が、翌年には“西”へ来ていて、人生になぞらえた蒸機の一生を思ったものだった。

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 阪堺電車に詣でる ~路面電車あれこれ噺⑧

「デジ青」読者の皆様、新しい年もお健やかにお迎えのことと思います。正月早々、地震・事故で、気も滅入りますが、今年も、外へ出て大いに写し、昔話もたっぷりして投稿に励みます。今年も、 事始めは 阪堺線としました。正月に必ず阪堺線に行かれていた沖中忠順さんの思いを引き継ぎ、初めて阪堺線に行ったのが2010年で、路面電車を見直す契機ともなりました。以来、ほとんどの正月に、阪堺線を訪れるようになりましたが、少しずつ変化していく初詣風景や車両に、時代の推移を感じました。

明るいうちは、住吉、大和川、浜寺で撮り、暮れて来ると、いちばん手軽なブルーモーメントスポットの「松虫」へ寄ってみた。あべのハルカスをバックに、停留場の佇まいと堺トラムの組み合わせとした。

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~32~

大みそか 日常の阪急電車を記録する

前回も書きましたが、過去には、年末年始も、よく撮影に出掛けたものでした。試しに「2006-12-31 阪神 阪急」と記された保存フォルダーを見てみました。2006年は、初めてデジカメ一眼を購入した年で、この日は朝暗いうちから動き出して夕方までフルに撮影しました。その後、17年が経っても内容をほとんど見ることなく、撮影データは眠ったままでした。今回、見直すと、今となっては貴重な記録が残されていることとが分かり、日常の当たり前の記録が、鉄道趣味活動の原点であることを改めて思うのでありました。この歳になって、日常の記録を忘れかけている自分への励ましとして、ことし最後の投稿としました(以下、平成18(2006)年12月31日)。この年の10月、阪急と阪神が経営統合して阪急阪神ホールディングスとなり、その記念の一日乗車券が発売されていて、それを使って、朝暗いうちから夕方まで、阪急電車の撮影を続けた。この年の最後を締めくくるイメージとしては、やはり夕陽バックしかないと思い、淀川鉄橋で、大みそかの仕上げとした。

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~31~

年末の青森で583系三昧

ほぼ同月同日シリーズに戻ります。世間で言えば、年末年始の休暇に入っています。私の会社時代、年末は徹夜も厭わぬ猛烈な忙しさが続きましたが、それでも最終日は会社で終業式があって、全員で一献やって仕事終了、そのあと同僚と深夜まで打ち上げと、いかにも、その時代らしい年末でした。それでも翌日は、朝早くから撮影旅行に出かける年もあって、今では考えられないようなエネルギッシュな活動をしていたなと思います。同月同日シリーズ、年末年始の記録を探しました。

平成9(1997)年は青森まで出掛けた。新幹線は盛岡までで、盛岡~青森・函館の新幹線リレーに583系「はつかり」などが走り、年末は臨時も多い。隠れ581系ファンの私は逃す手はない。朝の青森駅には583系があふれ、在来線特急列車の最後のシーンを見せていた。

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  西のC59・C62 全記録   (6)

初めての小屋浦へ  昭和43(1968)年3月朝、広島へ向かう呉線の列車は、客車12両でも満員で、何本も通り過ぎる。C62本来の目的ではないものの、あらたな働き場所を見つけたようだった。(以下、小屋浦~坂 昭和43年3月)

では呉線のC59・C62に戻ります。前項(5)では、高校3年生の春休みの昭和43年3月に、北九州撮影旅行の途上、呉線に寄って、初めて走行中を撮ったことを記しましたが、その帰りにも、呉線に立ち寄っています。九州から夜行鈍行に乗って、早朝の広島に到着、呉線に乗り換えて、小屋浦へ向かいました。呉線を有名にしたひとつは、朝のラッシュ時に、広~呉~広島で運転されていた通勤列車を牽くC59・C62でした。これに広島行きの夜行列車も加わって、小屋浦で見ると、6~9時台に上下8本の蒸機列車が通りました。

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 阪神軌道線 北大阪線を偲ぶ ~路面電車あれこれ噺⑦

④ 野田

北大阪線の最終は、終点の「野田」を紹介します(書類上は、天六が終点)。4.3kmという短い路線、絵になるような場所もなく、おなじ阪神の軌道線でも、行楽客や女子高生で満員になる甲子園線とはエライ違いでしたが、その分、飾らない日常の大阪を堪能できました。反応はイマイチだと思っていましたが、皆さんから多くの思い出を寄せていただきました。やっぱりコメントがあると嬉しいものです。「野田」を発車、天六へ向けて、4.3kmを走り出す。背後の高架は、阪神本線の野田駅、背後に留置線もあった(Tさん提供)。

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 阪神軌道線 北大阪線を偲ぶ ~路面電車あれこれ噺⑥

③センターポール区間

中津を出ると、淀川とほぼ平行しながら、南西方向に向かいます。付近は、大小の工場・倉庫が建ち並ぶ地域となり、ある意味、大阪らしい光景が車窓に続きます。

十三バイパスの陸橋に沿って天六方面に向かう。

 

 

 

 

 

 

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 阪神軌道線 北大阪線を偲ぶ ~路面電車あれこれ噺⑤

(2) 中津付近

天神橋筋六丁目を出た北大阪線の電車は、中津方面へ向かいます。すぐに「本庄中通」の停留場で、戦災を受けなかった古い街並みが続き、並びには老舗のツバメ屋模型店があったことも思い出です。つぎの「南浜」では、東海道本線をくぐり、名称は、むかし西成郡南浜村だったことに由来、つぎの「北野」も、かつての西成郡北野村に由来、ここに北野中学があり、戦前に十三駅西に移転し、戦後、北野高校となっています(以下、昭和50(1975)年5月)。そして、阪急の複々線をくぐり、北大阪線唯一の専用軌道を行くと、阪急と国道176号に挟 まれて、梅田貨物駅・梅田貨物線を越す、乗り越し橋脇の「中津」に到着する。

 

 

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 阪神軌道線 北大阪線を偲ぶ ~路面電車あれこれ噺④

(1) 天神橋筋六丁目

“煙”の話が続きましたので、目先を変えて。路面電車シリーズに入ります。先に“アレ”関連で阪神軌道線(阪国)の甲子園線を紹介しました。阪神軌道線には、ほかに国道線、北大阪線がありましたが、昭和50年に全廃され、廃止から50年近くが経過しました。今回は、天神橋筋六丁目~野田の北大阪線を何回か紹介します。目立つことがなかった阪神軌道線にあって、北大阪線は、阪急中津駅の近くを並行していて、阪急電車の窓からも見ることができました。小さい頃、阪急電車に乗って、梅田に着く直前に、チラッと単行の電車が見え、しかも阪急以上に地味な色の電車で、“なんやろ”の思いで見ていたことを思い出します。天神橋筋六丁目から発車していた北大阪線。阪神本線の野田までの4.3kmの路線で、梅田の外縁を半周するようにして連絡していた。

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  西のC59・C62 全記録   (5)

翌日は、山越え区間へ  昭和43(1968)3月

須波付近の海岸沿いで撮影した日は、尾道へ戻ってY・Hに一泊、翌日は、勾配区間の安登付近へと向かいました。安登を頂点にして16‰勾配があり、安芸川尻寄りでは海を入れて、撮影もできますが、途中にトンネルもあり、高校生としては難度が高そうで、トンネルもなく開けた地形の安浦寄りのカーブで撮ることにしました。東京行き急行「安芸」を牽くC59 161 上り列車に対しては下り勾配となるため、見せ場はなく、淡々として通り過ぎて行った。今日も「安芸」は、上下ともC59だった。

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 西のC59・C62 全記録   (4)

初めて駅間を歩いて撮影 昭和43(1968)年3月

今までの駅・機関区撮りから脱して、呉線を駅間で撮りたいと思うようになりました。呉線の車窓からは海岸沿いを走る光景は見ているし、鉄道雑誌でも呉線は注目されるようになって「撮影地ガイド」も載るようになってきました。高校3年生の終わりの春休み、北九州への撮影旅行の前後に、呉線の撮影となりました。関西からアプローチしやすい三原寄りで有名な撮影地は須波~安芸幸崎で、ほとんど瀬戸内海に沿って走る。ちょうど中間地点あたりにアウトカーブがあり、まるで瀬戸内海へ飛び出しそうな海岸ギリギリの区間がある。何度も広島からの乗ったことのある徳山発糸崎行き624レは、待望のC59 162が牽いていた。C59廃車説も吹き飛ばす、C62に伍しての活躍が見られた。

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 西のC59・C62 全記録   (3)

昭和42(1967)年3月 九州行きの初日に呉線へ

またまた投稿が途切れてしまいました。言い訳無用、とにかく専念することにします。高校2年生の終わりの昭和42(1967)年3月、いままで夜行日帰り撮影から、一挙に2週間に渡る九州一人旅に出掛けることになりました。例によって、最初の立ち寄り先に糸崎を選び、3回目の呉線行きとなりました。14日間通用の九州均一周遊券を握りしめて、新大阪から博多行き「第2つくし」に乗り込んだ。新大阪9:50発、糸崎13:45着、通い慣れた駅西側の踏切を渡って、糸崎機関区へ向かった。

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 西のC59・C62 全記録   (2)

昭和41(1966)年8月 再び呉線へ

初めて呉線へ行ってから、5ヵ月後に、早くも二回目の呉線行きとなりました。初めて見たC59・C62の印象は強烈で、高校2年生の夏休みに再び夜行に乗って広島行きとなりましたが、今回は家族で山陰方面に旅行へ行ったあと、米子から一人で広島行き夜行「第2ちどり」に乗っての広島入りとなりました。「ちどり」は、木次線、芸備線経由で米子~広島を結ぶ陰陽連絡で、昼行、夜行の各1往復、同径路で鳥取~広島の「いなば」もあり、あの木次線に3往復もの急行が走っていたのです。広島には5:05到着、以降は初回と同じ列車で糸崎へ移動、区での撮影となりました。今回もフィルムの劣化だけでなく、フィルム現像の際、真夏なのに20度の適温に冷やさず、30度近い水温そのままでやってしまったため、超荒れ荒れの粒子になり最悪の状態、フィルム現像を初めて覚えた頃のほろ苦い思い出となりました。山陽本線広島~小郡電化が完成したのが、訪問3年前の昭和39年10月、本線(広島では、山陽本線のことを“本線”と言い慣わしていた)の完全電化が成ったものの、電機の新製が追い付かず、C62の牽く列車が広島以西で見られたことは、(1)でも記したが、それを確認できる唯一の写真を撮っていた。広島駅5番ホームに8:12到着の徳山発呉線経由糸崎行きの624レで、C62 28[広転]の牽引、朝の通勤最適時の到着のため、客車12両の長大編成でも満員の到着だった。同機は、翌月の昭和41年9月には二休となり、その後に廃車されている。

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 西のC59・C62 全記録   (1)

しばらく、最近撮影のカラーを紹介してきました。これはこれで意味があると認めつつ、何か隔靴掻痒の気持ちがないわけではありません。やはり高齢者にとっては、モノクロが似合うと改めて思います。デジタル世代に対抗できる、高齢者の優位源泉です。以前、本欄で「北のC62全記録」として北海道のC62を紹介しましたが、しっかり記録に残せた達成感とともに、半世紀以上前の記録を発表する機会は、今しかないとも痛感しました。つぎは「西」、つまり「呉線のC62」としました。昭和40年代初頭、山陽本線では、C62はほぼ活躍を終えて、呉線で活路を見出していました。このなかには3両だけ残ったC59も含まれますので、両形式を紹介することにします。

初回の記録から始めますが、この時代のフィルムは、劣化が激しく、無数の白いシワがあります。見せるような代物ではなく、小さく扱っていきます。初めて呉線へ行ったのは昭和41(1966)年3月で、高校一年生(なんと16歳 !)の初めての長距離一人旅だった。手にした乗車券は「京都から広島ゆき」、学割料金で1120円だった。大阪21:25発、夜行鈍行の門司行き225レに乗って、一睡もできずに、広島に翌朝の5:54に着いた。呉線乗車までの間、ホームで発着列車を撮影する。最初は次つぎ到着する九州行きの寝台特急に目を奪われ、やがて通勤時間帯になると、呉線、芸備線、宇品線に蒸機列車が発着する。

1番ホームに到着した広発宇品行き925レで初めてC62を見た。いままで見慣れた山陰線のC57と較べると、ボイラーが太く、とにかくデカイ。この列車は、工場の多い宇品行きの通勤列車となるため、広島から後部にD51が付いて、向きを変えて宇品へ向かう、呉線・宇品線の直通は朝に3本連続していた。以来、呉線へは計7回、延べ10日以上の訪問となった。

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~30~

2008年10月 四国リバイバルDC急行

国鉄時代から活躍していた、四国のキハ28・58・65が,2008年10月で営業運転を終了することになり、急行(一部快速)として、国鉄急行色に復刻したキハ58+65によるリバイバル運転が行われました。キハ58の前面には、なつかしの「ヒゲ付き」が復刻され、しかも10月、11月の土休5日間、「阿波」「よしの川」「土佐」「あしずり」「うわじま」「いよ」として、四国の各線区で運転される、大盤振る舞いのさよなら運転でした。ヒゲ付きキハ58が、さよなら運転で四国の各線を走った。徳島線下浦~牛島 徳島発阿波池田行き「よしの川」 キハ58293+キハ65293 (2008年10月18日)

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 清水市内線を偲ぶ  ~路面電車あれこれ噺 ③~

先ごろのクローバー会行事「岳南電車・静岡鉄道を訪ねる」は、首都圏だけでなく、東海、関西、四国からの参加者も交えて、にぎやかに楽しく、久しぶりに、みんな揃って撮影する機会となりました。清水港にある魚市場で、大盛り海鮮定食を食べたあと、清水港線の廃線跡を通り、静岡鉄道の新清水駅に向かっている途中でした。静岡生まれのTさんと、静岡鉄道清水市内線の話になって、撮影済みと言うと、“エ~ッ”と驚愕の表情を見せました。そうか、同線が豪雨で不通になったのが昭和49(1974)年7月で、来年が50年になります。復旧されることなく、翌年に廃止となっていて、たしかに30歳代にとっては、生まれる遥か前の話ですから、驚きの表情も無理はないところです。実は清水市内線は、デジ青の2016年9月にも記していますが、今回、定点対比もしましたので、再度、要点のみ記して行きます。

東海道線を越えて、新清水駅前に到着する静岡鉄道清水市内線の電車(昭和49年)

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