「特急三百哩」を観る !     (下)

「特急三百哩」、映画の中盤で繰り広げられる男女の憎悪劇の部分は省いて、後半のクライマックスシーンへ移りましょう。粗いストーリーとして、主人公の機関士が、暴風雨のなか、東京行きの列車を牽いて駅を出発。ところが、前方で手を振る白い影を見つけて急停車、下車して調べると土砂崩れが発生していて、危機一髪でセーフと言うストーリー、白い影は、機関士の将来の許嫁だったのです。「鉄道省ご後援」の肝入りどおり、当時の最新の車両、C53が何度も登場する。最大の特徴の「スリーシリンダー」も、あとで字幕に出て来る。C53はこの昭和3年から、短期間に大量に造られて、C51に代わる東海道・山陽の優等列車牽引用として、全部で97両が製造された。写真のC5344は梅小路区の所属、唯一の流線型改造C5343と、梅小路蒸気機関車館の保存機C5345の間に当たる機となる。

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 「特急三百哩」を観る !     (中)

「特急三百哩」、導入部分を見てもらったあと、前半の鉄道シーンを見てもらいます。ある駅に鉄道電話が入って来ます。「何者かの悪戯で無人の機関車が線路を勝手に走り出した !」と言うもの。無人の機関車が走るのは、昔も今もアクション映画の常套ですが、なんと線路上には先行して下関行きの列車が走っています。下り勾配のため、重量のある旅客列車に、やがて暴走機関車が追突 !? さて、その結末は?レールの間にカメラを据えて、機関車が通過して行く撮影手法も、90年前に採り入れられていた。

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 「特急三百哩」を観る !     (上)

日本で最初の鉄道映画といわれる「特急三百哩」。DVDに復刻された原盤を、所蔵・管理されている京都おもちゃ映画ミュージアムからお借りして、さる6月17日、京都キャンパスプラザで、クローバー会のプロジェクションイベントとして上映することができました。タイトルにいきなり、梅小路機関区配置のC51203が出て驚かされた。まだデフもなく、御召を何度も牽いた梅小路の代表的なC51だった。後年、紀勢線六軒駅の事故機となり、廃車される。なお題名の「三百哩(マイル)」だが、当時の鉄道の距離表示はマイルで、メートルになるのは昭和5年から。「三百」の由縁については後述。

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 福岡市内線貫線を巡る “思い出探し”の旅 ❾

福岡市内線貫線の“思い出探し”も最後となりました。今回は「西新」から、西の終点となる「姪の浜」までです。訪問時は、全区間歩く予定でしたが、暑さで降参、この区間の大部分を、電車に乗っての移動となりました。

終点まで行って感じたことは、西鉄市内線の車両は古くて汚く、施設も貧弱で、当時の京都市電とは大きな開きがあり、“田舎電車”の印象でした。改めて調べると、訪れた昭和50年の福岡市の人口は99万人で、まだ百万都市に達していませんでした。比べて京都市は146万人、福岡の1.5倍もある大都市で、民営、公営の違いもあって、路面電車でも格差があるのも納得がいくものでした。しかし、以降の福岡市の発展は、すさまじく、西日本経済の中枢都市から、アジアの玄関口へと発展し、人口も163万人、人口減少数日本一の京都と較べて、住みやすさナンバーワンなど、質量とも先端を行く都市となりました。貫線の終端区間は単線になっていて、離合のできる停留場では、続行標識を付けた2台の電車が続けて交換して行った。竹の山四丁目

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 福岡市内線貫線を巡る “思い出探し”の旅 ❽

福岡の中心「天神」を発車した福岡市内線貫線は、城下町の福岡のなかを走り抜けます。西にある福岡城址は、広大な大濠公園や、平和台のスポーツ施設になっていて、いまや伝説と化した西鉄ライオンズの平和台球場があったことが思い出されます。“あった”と書いたように、訪問した昭和50/1975年には、ライオンズは西武に売却されて、本拠地は埼玉へ移っていた感覚がありました。ところが、改めて調べてみると、西鉄ライオンズの後継となる太平洋クラブライオンズが、まだ平和台球場を本拠地として使っていた時期だったことが分かりました。ライオンズは不祥事も続き、最下位続きでしたが、初のパリーグのDH制となったこの年は、東尾修が最多勝、土井正博が本塁打王になり、前期2位と健闘しています。。セリーグでは広島が球団創設初優勝、読売巨人は初の最下位に沈んだ年でした。その後、さらに「クラウンライター」と名を変えて、昭和53年に西武ライオンズとなり、ホームグラウンドは埼玉へ移ることになりました。昭和50年と言えば、まだ大学闘争の残り火が、くすぶっていた時代だった。ここ福岡の中心「天神」でも、機動隊に囲まれて、おとなしく交差点を進むデモ行進が見られて、市内線と一緒に収めた。背後の西鉄福岡駅のターミナルデパート、岩田屋本館の旧景とともに、まさに昭和50年の風景だった。建物は外観が改装されて、PARCOとして今も営業している。

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 福岡市内線貫線を巡る “思い出探し”の旅 ➐

西鉄福岡市内線の貫線をめぐる旅、つぎは千代町から、市の中心部、天神へと至る区間です。北九州ツアーの二日目午後、福岡市内線の面影探しで、案内していただいた西鉄友の会のYさんから、福岡市の歴史や成り立ちについて興味深いレクチャーを受けました。よく言われるのは、商人の町・博多、武士の町・福岡と言う、性格の違う大きな町が隣り合っていた史実です。案内のYさんは、“ブラタモリ”に出演実績があるだけに、興味深い話にはつい引き込まれました。今回のルートは、その博多から福岡へと入って行くこととなりました(以下、昭和50/1975年6月撮影)。中洲のランドマーク、赤煉瓦の大同生命ビルの前を西鉄バスと競うようにして、明治通りを行く福岡市内線。中洲を過ぎると、福岡の町に入る。

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 福岡市内線貫線を巡る “思い出探し”の旅 ❻

北九州ツアーの“思い出探しの旅”、最終のお付き合い、お願いいたします。と言っても、ツアーに直結するテーマではなく、前項でも書きましたが、ツアーの二日目午後は西鉄研究会の皆さんのご案内で、西鉄福岡市内線の廃線跡を巡りました。当日訪問した「馬出」「箱崎」は、西鉄福岡市内線の貫通線(略して貫線)のなかの電停で、この貫線は、東は「九大前」から、福岡中心の「中州」「天神」を経由し、「姪の浜」までの11.9kmで、福岡の市街地をほぼ東西に走る中心路線でした。

全区間を走っていた系統が「1」系統で、京都なら四条通、東京なら銀座通、大阪なら堺筋と代表的街路を走るのは、いずれも「1」系統で、福岡でも、文字通り中心部を貫通する代表系統でした。この区間が廃止になったのは、昭和50(1975)年11月のことで、私は廃止前の丸一日を、ほぼ全区間、歩いて記録しました。福岡市内線は、博多駅前を行く系統などが廃止された昭和54年2月が最後でしたが、これに先立って貫線は廃止されました。いつかは、京都以外の他都市の路面電車を紹介したいものと、考えていたところで、ツアーの行事に引っかけて、まずは福岡市内線の貫通線をご紹介する次第です(以下、路面電車時代は昭和50/1975年6月撮影)。

九州大学医学部付属病院のある「大学病院前」には、緑豊かな東公園が広る。

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 北九州から福岡へ “思い出探し”の旅 ❻

“思い出探し”の旅も、北九州から福岡へと移ります。クローバー会の北九州ツアーの2日目、西鉄宮地岳線の廃線跡めぐり、多々良工場の見学のあと、午後からは、1975(昭和50)年に廃止となった西鉄福岡市内線貫通線の箱崎、馬出付近の廃線めぐりとなりました。私も廃止直前に、貫通線のほぼ全区間を歩いて写しただけに、50年前と比べてすっかり変わってしまった沿線を見て、感慨深いものがありました。 「馬出」電停の安全地帯が、いまも残っていることを、本欄でも、地元のおとりんさんからレポートが寄せられて、そのコメントに私も写真を寄せたが、今回、もう一度、掲載を。貫通線が九州大学の校地に沿って東進し、左へカーブしたところに「馬出」の電停があった。この付近は、ほぼ専用軌道で、電車はダイヤ通りに走り、商店の軒先を兼ねた電停は、賑わっていた。現在の同地点は、「馬出バス停」交差点に当たる。線路跡は道路となった。城戸商店は、ご覧のように、外装は新しくなったが、窓割りはそのままで、沖縄そばの「由ら花」などになった。左手にあった民家も合わせて、棟続きになった。

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 北九州へ “思い出探し”の旅  ❺

直方駅4番ホーム対比 蒸機時代、ホームの横には直方機関区があり、入出庫する蒸機が黒煙を吐きながら、連なっている光景が日常的に見られた。4番ホームへ到着するのも蒸機。乗客は真っ黒になりながら、列車に乗り込んだ。いまは福北ゆたか線こと筑豊本線は電化されて、留置されるのは電車。DCになった。ホームにいても、乗客が少ないこともあって、妙な静寂に包まれる音や臭い(匂い?)に包まれて、五感をくすぐられた、あの直方が懐かしい。

思い出探し、次は直方です。直方へは、蒸機が無くなってからも、何度か訪れて、その変化を見届けてきました。これまでも再三に渡って投稿して来ましたが、改めて、直方の今昔を対比してみました。

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 北九州へ “思い出探し”の旅  ❹

折尾駅前には2000年まで、西鉄北九州線の折尾駅があった。かつては門司(門司港)~折尾、30キロ近い路線を有していた北九州線だったが、順次、廃止され、最後の営業区間、黒崎駅前~折尾も十数年前に廃止となり、北九州から西鉄の軌道線は消えた。西鉄の折尾駅は高架上にあり、その一部は、9連の煉瓦アーチ橋で支えられていた。現在、再開発地区に3連分の煉瓦アーチが残されている。右は、鹿児島本線黒崎方と筑豊本線中間方を結んでいた、通称“短絡線”の廃線跡。

新しい折尾駅を巡ったあと、改札を出て、駅周辺を回りました。駅の営業は、昨年から始まっていますが、駅周辺は大規模な再開発事業の真っ最中でした。区画整理事業の地域では、新しいマンション数棟以外は、すべてが取り壊され、いまは更地となって、碁盤の目状の区画ができていました。古い風景を思い出しながら、周辺を巡りました。

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 北九州へ “思い出探し”の旅  ❸

日本最初の立体交差駅と言われ、昭和の香りを残した駅周辺も魅力的だった折尾駅、駅舎は大正5年竣工の二代目で、辰野金吾の設計との説もある(上)。2006年から始まった周辺の連続立体交差事業は、付近の地形を変えてしまうほどの大規模なものだったが、2022年3月改正で、全面高架化が完成し、営業を開始した(下)。Y字型の駅の中央にある駅舎は、旧駅舎を曳家して移築したのかと思っていたら、旧駅舎を忠実に再現した新築だった。

思い出探しの旅、行くことが叶わなかった九州の鉄道のなかで、連続立体化された折尾駅は、ぜひこの眼で確かめたいものでした。しつこく言いますが、高校二年生の九州旅行、鹿児島本線から降りて、折尾駅の複雑な通路を通って、筑豊本線ホームで若松行きの列車に乗り換えました。牽引機は初めて見るC55でした。動輪の間近に寄って見ると、なんとスポーク動輪を通じて、向こう側の景色がよく見えるではありませんか。これぞスポーク動輪、これぞC55だと大いに感激しました。試しにデジ青で折尾駅を検索すると、同じような内容ばかり書いていることが分かりました。さらに上塗りする記事となりますが、私の思い出の駅として、ご容赦ください。

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 北九州へ “思い出探し”の旅  ❷

若松駅対比 大正9年にできた旧駅舎(上)と、駅構内が再開発されて昭和58年にできた現在の駅舎(下)。同じ位置に建つように見えるが、旧駅は線路方向に建っていて、国道199号側に面していた。新駅は終端駅スタイルに改められて、国道495号側に面するようになった。キューロクが保存展示された場所にコンビニが建っていた。

若松駅は、石炭とともに栄え、石炭とともに凋落していきました。鉄道建設期、筑豊興業鉄道では、始発駅は、地域の中心だった芦屋に置く計画でしたが、地元の反対で若松に変更になり、明治24年に若松駅が開業しました。石炭の需要の高まりとともに昭和30年代前半には最盛期を迎え、若松駅は、石炭の積出港として日本一の貨物量を誇るまでになりました。しかしスクラップ・アンド・ビルド政策で、石炭は斜陽化の一途となり、私が訪れた昭和40年代の初頭には、石炭扱い量は激減していましたが、最盛期など知る由もない私にとっては、広いヤード、石炭車の群れに、石炭がまだこの国の重要なエネルギー源だと思ったものでした。

蒸機が無くなってからも、二度ほど若松駅を訪れて、その変化は確認したつもりですが、今回、さらに周辺の様相が変わっていて、小雨のなか速足で回って来ました。

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 北九州へ “思い出探し”の旅  ❶

北九州市若松区に、“若松市電”とも呼ばれた北九州市営軌道が走っていた。国鉄若松駅から、若松の繁華街を通り、北部に集中していた工場への貨物輸送を担っていた路面軌道だった(昭和50年6月)。

デジ青投稿、再開します。さる土・日に行われたクローバー会の北九州ツアー、楽しかったなぁ、充実の二日間でした。会員や外部の皆さんに、持ち場ごとに協力をいただき、クローバー会ならではの見学・探索となりました。

私にとっても北九州は思い出の地です。デジ青にも載せましたが、高校2年生の時、初めて2週間の一人旅をしたのが九州でした。関門トンネルをくぐって門司に着いた途端、空気感が違ったことを今でも覚えています。あたりかまわず上がる蒸機の煙、顔を真っ黒にして無我夢中で写し続けました。これが北九州なんだと思いました。以来、何度も訪れた九州ですが、コロナ禍もあって数年ぶりの訪問となりました。

その昔に訪れた地と、現在の姿を対比するため、ツアーを終えた翌日の一日、すっかり姿を変えた折尾駅や、直方、若松を一人で駆け回って来ました。今回は若松の街を走っていた貨物軌道です。

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~16~

日常の記録 大阪駅の24時間④

最終回の大阪駅24時間は、夕方から最終電車までをお伝えします。ドーム屋根の向こうに陽が傾き始めると、駅は二回目のラッシュ時を迎え、多くの乗客がホームを行き交います。そして、陽が落ちて、あたりが暗く包まれると、大阪駅はいっそう輝きを増して来ます。

 

 

 

 

 

 

 

新快速を補完する快速も頻繁運転される。この列車は、JR東海まで足を伸ばす223系快速の大垣行き、夕方以降、大垣行きは3本運転されていたが、いまではJR東海へ乗り入れる快速はなくなった。

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~15~

日常の記録 大阪駅の24時間③

昼に「トワイライトエクスプレス」の上下が相次いで大阪駅に発着したあと、午後からは、話題となるように列車の発着もなく、ちょっと気だるい時間が過ぎて行きます。新しくなった大阪駅の視点や、旧来の光景、はたまた“旧線跡”の探索を続けました。

大阪環状線はオレンジ色の電車で占められている。完全なループ運転を開始してから50年を迎え、201系には記念のヘッドマークが掲げられていた。▲▲いっぽうの103系は、高運転台の体質改善車が活躍していた。

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~14~

日常の記録 大阪駅の24時間②

朝のラッシュも一段落した大阪駅には、特急列車も発着し、かつて長距離輸送も担っていた、大阪駅の華やかな一面を垣間見ました。

食堂車クルーがお辞儀をするなか、札幌行き「トワイライトエクスプレス」が、10番ホームに11時11分、EF81に牽かれて入線して来た。翌2015年3月での運転終了がアナウンスされていて、大阪駅の目玉となっていた。この“お辞儀”が、揃わなかったり、準備で忙しく無かったりして、満足な撮影ができず、何度も通うハメになった(以下、2014年4・5月)。

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~13~

日常の記録 大阪駅の24時間①

つぎの日常の記録、大阪駅の24時間です。西日本最大の駅、大阪駅は、2014年、大屋根が載った5代目の駅に生まれ変わりました。その後も、大阪駅周辺の再開発事業は進化を続け、ことし3月、大阪駅うめきたエリアが開業し、特急「くろしお」「はるか」、おおさか東線の列車が地下ホームに乗り入れ、大阪駅の拠点性と、関西全体のネットワークがより強化されました。

ある出版社の依頼で、大阪駅の24時間を記録したことがありました。早朝の4時52分、回送で到着する大阪環状線外回りの電車から、深夜0時34分発の「サンライズ出雲・瀬戸」まで、一人で取材・撮影をこなしました。と言っても一回だけの取材では満足な撮影はできず、時間を区切って、何度も大阪駅へ通い詰めたものでした。大阪駅の魅力のひとつは、国鉄型の活躍が見られたこと。大阪環状線を走る奈良区の103系電車ウグイス色編成と、福知山線の「こうのとり」381系電車が顔を揃えた。どちらも、今となっては見られない車両で、まだ10年にも満たない時代の記録だが、改めて鉄道の進化を感じる(以下、2014年4月、5月撮影)。

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