国鉄時代には考えられなかった冬季運休路線にJR木次線があります。北海道の深名線など あまりの積雪で除雪ができず、何日間か やむを得ず運休するという話はままありましたが、冬は運休するのが常態化しているのは 現在の地方閑散線区の置かれた環境を示しているように思います。スイッチバックで有名な出雲坂根をサミットとする備後落合-出雲横田間は昨年末から冬季運休していましたが、雪融けを待って3月22日から運行再開するそうです。
投稿者「西村雅幸」のアーカイブ
いいかげんな電車の現役時代
ミキ180-101残っていました
平成20年4月1日に廃止された三木鉄道は厄神ー三木間6.6Kmの日本一短い鉄道として有名でした。第三セクターとしての開業時には富士重工製の2軸レールバス(LE-Car)ミキ180型2両がいましたが、その後ミキ300型の増備により、180-102が平成11年に、180-101も平成14年に廃車されました。180-101はなぜか加西市のラーメン店に引き取られたのですが、その後同店は店じまいしてしまい、廃車体だけが敷地内に残っているという情報がありました。このたびクルマで上洛する際に少し寄り道をして同地を訪ねてみました。廃車から10年以上が経過し、つぶれた店の付属物だということで消滅していても仕方ないと思いつつ行ってみたところ、しっかり残っていました。
チキ工臨
今の子供たちにとって貨物列車と言えばコキを連ねたコンテナ貨物のことなのですが、かつての貨物列車は多種多様な貨車が連なり にぎやかな鉄道風景を作ってくれていました。最近ではコンテナ貨物にカメラを向ける気にもならず、たまにレール輸送のチキ工臨に出くわすとラッキーと思ったりしています。チキ工臨のほかホキ800によるバラスト輸送のホキ工臨もあるのですが いずれも臨貨なのでいつ走るのかわからず、しっかり撮影したことがありません。一方 以前から模型の世界でもこのチキ工臨を作ってみたいと思っていたのですが、さすがにロングレール輸送の再現は難しいと諦めていました。ところが25m定尺レール輸送のチキ5200型があることを知り これなら作れると ネットの写真を集めてなんとかそれらしく完成しました。
小さなDD作りました
先月DD40を作ったのですが、パワートラックの味をしめて、今月に入ってからもう1両DDを作りました。中部電力が大井川上流の井川ダム建設用に 昭和29年に私有機関車として日立に作らせたDD104~DD106の35Ton機です。実機は中部電力が大井川鉄道に運転管理を委託し、ダム完成後の昭和39年には104が上武鉄道へ、105,106が東濃鉄道笠原線に移って、それぞれの廃線まで活躍しました。私は昭和45年に上武、東濃でこの3両に出会っていることと、何と言っても地をはうような独特のスタイルに惹かれて模型化してみました。まだ塗装前で、上武機にするか東濃機にするか決めていませんが、恥ずかしながらご披露致します。
山口線、山陰線の復旧は今秋
DD40の目撃者 おられませんか
掲示板には模型の話題が少ないので、あえて模型がらみのネタにしました。以前からマイナーな車両を懲りずに作っているのですが、このたびDD40が完成しました。DD40は昭和29年10月 三菱三原製 製番No.799の液体式DLです。
DD40は昭和31年5月から梅小路機関区に貸し出され、昭和35年5月からは吹田第一機関区に移って吹田ヤードや尼崎港線で試用され、昭和37年3月に三菱三原に返却されました。昭和37年の称号改正でDD921となっています。返却後は工場内の入換えに使われたようですが、いつの間にか消滅したようです。DD40は この時期各社が製作した試作DLのなかで 最も地味で情報の少ない機関車のようです。ちなみにDD901(もとDD411)は東芝製の電気式DLで大宮機関区にいたせいか、結構写真などが紹介されています。写真左の5Ton機は三菱三原が昭和26年2月に初めて製作したDLで 隣接する日本セメント糸崎工場の入換え用で使われたあと 三菱三原に戻り、現在も保存展示されている機関車です。この模型は箕面市の模型店「モデル8」が売り出していたエッチング板から作ったものですが、小さすぎて動力化は私の手に負えずモーターなしです。さてここからが本題のお願いですが、この地味なDD40を梅小路や吹田、尼崎港で見たことがあるとか 写真を撮っているという先輩諸氏がおられませんか? 何しろ私の小学生時代の機関車で全く接点がないのです。これから塗装しようと思うのですが、またしてもどんな色をしていたのか全くわかりません。DD13が登場したときのような茶色に黄色い帯で塗ろうかとは思っていますが、何か情報があれば教えて下さい。
広電1000型増備
26尽くしに寄せて
井原鉄道 開業15周年
新年あけましておめでとうございます。今年も掲示板に中国地方のニュースを中心にお届け致しますので、よろしくお願い致します。またも新聞切り抜きで恐縮ですが、元旦の中国新聞に井原鉄道の記事が載りましたのでご紹介します。井原鉄道は平成11年1月11日に開業しました。あえて1並びの日を選んで開業したのが良かったのか、第三セクター鉄道のなかでは比較的好調に推移しているようです。なお大きい紙面を分割しましたので 見苦しくなっていますが悪しからず。
岡山電軌の話題
駅前に市内電車の乗り場がある風景は旅情を誘うものです。西日本では鹿児島、熊本、長崎、広島、松山、高知、そして岡山でこの風景が楽しめます。今朝の中国新聞に 岡山電軌岡山駅前電停の利便性向上へ向けての動きが載っていましたので ご紹介します。
駅を旅する<12>に寄せて
特派員氏の名紀行シリーズを楽しく拝見しています。佐世保には40年以上行かれていないそうですので、2011年の秋、五島列島の帰りに初めて訪れた佐世保駅のスナップをご紹介します。
駅は高架になり、全国どこにでもある 特徴も趣も感じられない駅の風景でした。1番線、2番線は松浦鉄道のホームです。
40年前の内灘駅
ぶんしゅう殿の北陸一人旅シリーズを楽しく拝見しております。北鉄浅野川線内灘駅のカットを見て、40年前を思い出しました。昭和48年7月23日にDRFCのメンバーと尾小屋鉄道、東洋活性白土を訪ねた際に立ち寄っています。誰と一緒だったかが判然としませんが・・・。
ぶんしゅう殿の写真では右手奥にホームがあるようですが、この時は手前にホーム、奥に留置線でした。左手にもう1線分岐していますが、この線路が昭和49年8月に廃止された 粟ケ崎海岸まで行っていた線路です。正式な廃止は昭和49年ですが、訪れたこの時点でも線路上に木が生い茂る廃線状態でした。
広島 クリスマス電車
「続・木次のC56108」によせて
米手作市様の秘蔵写真をじっくり拝見しました。この5コマの写真からいろいろなことがわかります。最初のコマ、キハ02の2連の右手は木炭倉庫で木炭の俵が積まれています。当時 各家庭の暖房には火鉢が活躍していました。線路の先の石積みの跨線橋。今も石積みかどうかはわかりませんが、跨線橋は現存しています。その後方に煙突が見えます。ヤマタノオロチ伝説で 日本で最初にお酒が造られたとされる木次。その木次で今も盛業中の木次酒造さんの煙突です。2コマ目、機関庫の前のキハ0728とC56107ですが、この機関庫は今も健在です。
細かい格子窓は波板になり、煙抜きの煙突はありませんが、4線の車庫は今も現役です。
木次のC56108 改修終わる
若桜鉄道寸描
国鉄若桜線時代の昭和48年に一度訪問して以来 40年ぶりに若桜を訪ねてみました。昭和48年当時はすでにDE10でしたが 混合列車は残っていて途中駅での入換え待ちをしながらの旅でした。今回は短時間の訪問でしたが、当時を思い出すには充分のドライブでした。在籍4両のDCが、全長19.2Kmを片道30分、1日10往復の若桜鉄道。こんな小さな鉄道が生き残っているのが不思議な気がします。
京阪500型の思い出
関先生の500型を見て なつかしく当時を思い出しました。とは言え250型はすでになく、晩年の500型しか知りません。当時ぷるぷるさんと同じく墨染駅の各停利用者でしたので宇治行きの500型にはよく乗ったものです。1500型を間にはさんだMTMの時代と、両側貫通に改造された550型、580型の登場で4連になった時代にお世話になりました。ぷるぷるさんと一緒に家から歩いて国鉄奈良線の蒸機と京阪宇治線をよく写しに行ったものです。
C56やまぐち号(続報)
大槌町のうれしいニュースに続いて、C56やまぐち号の運転日が新聞に載りましたのでお知らせします。平成25年10月17日中国新聞朝刊です。
11/2,11/3、12/21、1/1~3の計6回です。ただ残念なのは新山口→地福の往路のみという点です。とは言えバック運転での回送はあるはずですから 運転時刻が判れば回送列車のダイヤは想定できそうです。「ダイヤ情報」にも載るのでしょう。「客車3~5両など」というのも気になります。プッシュプルを考えているのでしょうか。山口線、山陰線が不通になって 観光でもっている津和野町は大打撃のようです。峠の向こうまで来た山口県内のお客を島根県が費用を負担して無料バスで呼び込もうと企画したり、この状態が続けば正月は閑古鳥が鳴くとわざわざ正月3ケ日に運行日を設定したり、涙ぐましい姿勢が伺えます。津和野-益田間や益田-須佐間の運転再開も近いようですが、地福-津和野間、須佐-奈古間はいまだに目途立たずのようです。三江線も音沙汰なしです。三陸同様一日も早い復旧が望まれます。
小海線合宿のご案内
どですかでんさんが1970年夏の小海線合宿で撮影されたC56149を紹介して頂きました。この合宿記は青信号25号に詳しく述べられていますが、この合宿の案内パンフが手元にありましたので、当時を思いだす意味でご紹介します。なお私はこの合宿には不参加でした。






















