ユースで巡った鉄道旅 -12-

今回のユース巡りは、東北の被災地近くにあったユースに目を転じました。
大震災からの復旧の端緒が見えないJR線の中で、原発事故も重なった常磐線北部は、最大のダメージ区間でしょう。現在、久ノ浜~亘理間は、全く復旧の見込みが立っていません。この常磐線北部、45年前には、日本で唯一、C62の牽く特急が撮れる区間として、賑わっていた場所でした。
私も高校3年の時、一度だけ撮りに行きました。撮影で利用したのが平ユースホステルでした。ここは少しの記憶が残っており、平駅からバスに相当乗って、最寄バス停で下車、海岸へ向かって田んぼの中の一本道を行った先に、目指すユースはありました。訪れたのは、夏休みも残り少ない時期で、宿泊客もほとんどなく、食堂からは海岸風景が望めました。今も健在な公営のユースですが、震災の影響で当分の間、休館とのことでした。津波の影響があったのかもしれません。

「ゆうづる」のC62牽引区間は仙台~平、夜行列車なので、撮影地は限定される。平から二つ目の四ツ倉がもっとも行きやすいところだった。これを撮るためのアクセスは、上野22時24分発の常磐線経由の青森行き、夜行鈍行227レに乗り、四ツ倉4時12分着で行くのが、唯一最上の手段で、227レの編成前部は、カメラを持った人間にほぼ独占されていた。
四ツ倉に着いて撮影地へ向かうが、もう完全に電化が完成している。もう少し早く来ていたらと悔やまれるが、今から思うと、高校3年生の身で、京都からよくぞ行ったものと思う。「ゆうづる」が通過する前に何本かの蒸機列車の通過があり、テストが出来る。カーブの外側から、C6237の牽く普通列車を狙う。当時は、周囲を入れようという意識はなく、とにかく蒸機の迫力を表現するため、画面ギリギリに入れるのが好きだったが、予想より煙が出すぎてしまい、爆煙が切れてしまった。

本命の「ゆうづる」の四ツ倉通過時刻は、5時50分ごろ。まだ光量が十分でないことを考慮して、初めて高感度のトライX一本を購入し、うやうやしく詰めたカメラを構える。四ツ倉から久ノ浜方面に歩き、鞍掛山トンネルまでの間を探すも、編成全体を見通すことは架線柱に阻まれてかえって不利と考え、ここでもC62と20系数両だけを切り取ることにした。下からあおると、半逆光線にC62の動輪やボイラーが輝いた。牽引機は、ゆうづる専用機に近い23号機だった。

当時の常磐線の非電化区間の平以北では、旅客がC62、C61、C60、貨物がD51が使用されていた。ハドソン三兄弟が揃い踏みしていたのは常磐線だけだった。C62が余りにも有名で、C61、C60は影が薄かった。とくにC61は、平区に1両だけの配置だった。近頃のC6120の動態運転の記事を見ても、過去の写真は奥羽本線や日豊本線ばかりで、常磐線は見たことがない。仙台行き223レを牽くC6121、動態運転中のC6120とは1番違いのカマは、この年に廃車されてしまった。

常磐線は、東北本線より距離が少し長いが、線形が良いため、東北へ向かう優等列車が多く運転されていた。伝統の特急「はつかり」も設定当時から常磐線経由で、昭和35年12月から、それまでのC62牽引の客車編成から、キハ81系に替わった。運転当初は、事故や故障が続発したが、その後に誕生したキハ82と同様に改造してからは順調になり、キロ2両、キサシを組み込んだ、東北唯一の昼行特急に相応しい編成となっていた。もちろん初めての撮影であり、よくよく見ると何とも愛嬌のある顔をしている。翌年の東北本線完全電化により、「はつかり」は581系化されることになり、キハ81系は、昭和44年から「ひたち」「いなほ」に転用される。


四ツ倉駅に到着する226レ、一日の撮影を終え、この列車に乗って、平まで行ってユースへ向かった。浜通りと呼ばれる、福島県の常磐線沿線にはかつて多くの専用線が分岐し、古典蒸機が活躍していた。四ツ倉もそのひとつで、住友セメント四倉工場専用線が駅の裏側から八茎鉱山へ向かい、ナスミス・ウイルソンの600形が動いていた。昭和40年代が全盛時代で、蒸機に代わったDLが24時間運転していたようだが、昭和57年の工場閉鎖とともに専用線も廃止されたが、今でも廃線跡は残っているらしい。現在では福島原発の避難地域が久ノ浜以北となり、いわき~草野~四ツ倉~久ノ浜は、特別ダイヤで運転されている。

平駅。8月の終わり、残暑の厳しい時期だった。駅舎、自動車の姿を見ると、今昔の感がする。駅の所在する、いわき市は、訪れた前年に、平、勿来、磐城などの14市町村が合併して、当時日本一大きな面積を持つ、いわき市が誕生した。平駅も、平成6年に「いわき」に改称されてしまい、名実ともに「平」の名は消えてしまったが、ユースの名称だけは今も平を堅持している。その後、この駅を訪れる機会は無いが、ネットで現状を見ると、再開発の大型ビルが林立しているようだ。

2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part14  阜新煤礦鉄路 その4  時刻表、路線図

第10日目 5月27日 乗り鉄と夕日撮影

① 太平10:04(111次)→11:06新邱13:09(114次)→14:03平安

ホテルで朝食を食べながらO氏と私は阜新煤礦鉄路の起点、新邱站に露天鉱があるので行ってみたいと意見が一致しました。Taxiにのって、ホテル近くの太平站を目指しました。太平站はこちらです。
▲ 阜新煤礦鉄路の客扱いをしている平安~新邱間の路線図です。中国鉄路の新義線とほぼ平行する路線で、平安~高徳間のみ複線となっております。営業距離につきましては、平行する中国鉄路では、平安~新邱間18キロ(所要時間37分、一日あたり3往復のみ)となっていますのでほぼ同じと思われます。東阜新站は現在、どの列車も停車しませんので、信号所扱いになっていると思われます。
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2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part13  阜新煤礦鉄路 その3

【上遊型のプロフィール】
前回の投稿でプルプルさんより「機関車のスペックも記載して」とのご注文が出ました。専門外ですが分かる範囲でまとめてみました。ベースとなったミカロとD51との比較もしてみました。


▲ 表でもお分かりのように蒸気機関車上遊型は、南満州鉄道のミカロを参考に製造されていています。
上遊型詳細公表がないのでの真偽性は不明ですが、極めて類似しています。製造開始当時は製造の基礎知識は欠落していたと思われますので、おそらく殆どがコピーされたものと推測します。前回の投稿で、朽ち果てた上遊型の写真を掲載していますが、その中に1台、番号不明ながら「JF****」と読み取れる蒸気がいました。外観を見ましても類似していました。

ミカロの写真は、2010年10月27日に瀋陽鉄道博物館訪問時に撮影しました。訪問記の詳細はこちらへ。 続きを読む

2011年春から夏への中国鉄路の旅 Part12  阜新煤礦鉄路 その2

第9日目 5月26日 午後

ようやく見つけた五龍炭鉱前の庶民食堂で遅い昼食後、平安站ヤードへの路線を歩きながらロケハン再開です。


▲ 14:54、早速ZF型ホッパ車5両とC50型石炭車1両の編成を後押しで1210号機が上がってきました。ホッパ車に積載されているのは残土ですが、石炭車には発電所から出る廃土「フライアッシュ」だとO氏は言われます。フライアッシュは石炭燃焼時にガスとともに吹き上げられる微粒子で、そのまま捨てると風にまって、吸い込むと人体に悪影響が出る産業廃棄物です。日本では捨てず、吸水性が良いのでセメントと混ぜて使用されて処理されているとのご説明です。O氏は定年退職されるまで某大手製鉄会社にお勤めでしたので、この道の専門家なのです。日本では輸送する際にはタンク車が使用されていますが、ここでは無蓋車に積んでいます。当然、撒き散らしながらの輸送です。勿論ここに住む人民や働く職工には知らされていないでしょう。撮影される際はマスクが必需です。


▲ 15:22、続いて1818号機が3両のホッパ車を牽引して山を下って行きました。バックの橋はかつての路線です。海州露天鉱への架線を張った路線も残っていました。先のカーブには今まで見たこともない6本のレールを使っての補強がされていました。

▲ 15:34、先に進むと、カーブをホッパ車5両と車掌車を牽引した1319号機が下りてきました。

▲ 15:41、ちょっと変った踏切小屋のありました。ホッパ車5両の牽引機は1195号機です。

▲ 平安站付近でTaxiに乗ってヤード向うの太平站方面に向かいました。16:32、5両のホッパ車を牽引して黒い爆煙を上げて発車する0988号機、平安方面に向かいます。

ぼちぼち陽も傾いてきました。ヤードに沈む夕日が綺麗と言われている場所に再度Taxiを捕まえて移動しました。


▲ 17:41、ヤードに到着しましたが、冬場では中央に沈む夕日もこの時期はマンション右側で斜光を期待するしかありません。 真っ先に来たのは東風5D型0068号機が牽引する客車6両の職工通勤列車でした。

その後、0988、1210、1320号機と発着しますが、夕日はぼやけてきて斜光は期待できず引き上げることにしました。この日までに確認できた上遊型は合計8台でした。


▲ 帰り道は、ヤードから見えていたマンション群を抜けていきましたが、車庫の中には朝見た職工通勤列車の他にYZ22-79004、79005、79008の客車と、朽ち果てた上遊型0036、0076、0127、0391、0576の他ナンバー不明の2台の計7台が放置されていました。かつては相当数の上遊型が運行されていたことが分かりました。

▲ 今夜も夕食は
蒙古族の料理で、「羊肉火鍋」です。ホテルから歩いて約5分にレストランが並ぶ繁華街がありますが、1番多いのが羊肉火鍋のお店です。
  Part13  へ続く

 

2011年 春から春から夏への中国鉄路の旅 Part11  阜新煤礦鉄路 その1

第9日目 5月26日 午前

今日は平庄煤礦鉄路に続いて上遊型が現役で残る阜新煤礦鉄路を訪ねる。阜新市は遼寧省省都である瀋陽市の西北西約200キロに位置する地級市です。阜新駅周辺の地図はこちら

朝6時にホテルを出発して上遊型が客車を牽引する唯一の通勤列車の撮影を目指しました。

▲ 6:22、約20分で中国鉄路の阜新站に隣接した 阜新煤礦鉄路平安站近くの踏切に到着しました。站は近くにあり屋根もある立派な?ホームです。この日に見た最初の上遊型は1319号機。平安站はこちらへ。
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ユースで巡った鉄道旅 -11-

大社線を行く

回からの山陰つながりで、もう一軒、大社のユースについて触れてみます。出雲大社の参道沿いの「ゑびすや」というユースです。例によってユースの記憶が全く残っていませんが、昭和46年9月、山陰本線で撮影したあと、夕方に投宿、翌日、大社線で撮影しています。
名前からすると、大社の門前旅館に併設されたユースと想像されます。もうすっかり消えてなくなっていると思い、念のため検索してみると、まだ盛業中なのが判明しました。立派なホームページもあり、なんでもユースの場所は、阿国歌舞伎の劇場跡に建てられ、明治の時代から旅館としての歴史を有し、戦後すぐにユースを開設したという老舗のユースだったのです。

社線は、当時、典型的な赤字盲腸線だったが、そこは由緒正しき、出雲大社への参宮路線、ひと味違う列車が走っていた。大社へは、大阪から直通の急行「だいせん」がなんと3往復(夜行2、昼行1)、名古屋からも小浜・宮津線経由で「大社」が運転されていた(すべて大社線内は普通列車)。大阪からの直通急行は、昭和10年から運転されていると言い、わずか7.5キロの路線ながら、歴史と格は違っていた。C11261の逆行で大社駅に到着したのが「だいせん崩れ」の125レ。C11の次位に荷貨客共用貨車で、パレット輸送用のワサフ8000を連結しているのが、この時代を反映している。

戻りの上りとなると、大阪行きは1本のみで、残り大阪・名古屋行きは車両基地のある、出雲市からの発車となるため、大社に到着した列車は、客扱いのまま普通列車として出雲市へ戻って行く。出雲高松駅で下車して、すぐの大カーブで、上記列車の返しとなる126レを捉える。営業はしていないものの、ロネ、ハネ、ロザを連結した、12両編成の豪華な普通列車が出現する。

大社線の中間駅は、出雲高松、荒茅の2駅のみ。126レを撮ったあと、少し歩いて、出雲名物の築地松の見える地点で、128レを待って、C11261+無蓋車+客車を撮る。混合列車が、この時代でもまだ運転されていた。米子区のC11は、全機シールドビームで、回転式火の粉止めを付けた姿は、末路を暗示しているようだった。

ユース宿泊に先立つ7年前にも、臨時急行「伯耆」に乗って、大社線に乗っている。以前にも記したが、その牽引機はC51、それも化粧煙突の米子区の80号機だった。カーブに差し掛かると、窓から乗り出してハーフサイズのカメラで編成を撮っている。中学3年生にとっては精一杯の撮影行為だった。大社線では、この出雲高松~荒茅間のこのカーブが唯一で、あとはすべて直線で、上記126レを捉えた位置と同じだった。なお、戻りの列車は、キハ06の単行だった。

昭和46年訪問時は、出雲高松駅で128レに乗って出雲市へ向かい、大社線を離れる。駅は棒線一本のみの駅。格式のある参宮路線も、次第に輸送密度が低下してきた。大社駅へ降りても、出雲大社へは1.5キロほど歩かねばならず、参拝客は徐々に自動車、バスへ転移していく。結局、特定地交線の第三次廃止路線に指定され、平成2年4月に廃止となる。出雲高松駅ホーム跡は今も残っているという。

有名な大社駅の駅舎は、大正13年に全面的に改築された二代目である。著名な社寺の最寄り駅を、社寺を模した駅舎とすることが、流行った時代の産物でもあった。大社線の廃止の前年、平成元年に乗ったキハ40単行の列車は110%の混雑で、大社駅も最後の賑わいを見せていた。

大社駅には、翌年の廃止の予告看板が早くも掲げられ、廃止前のイベントが行われていた。大社造りと称される二層屋根の神殿風の駅舎は、廃止後も線路とともに残され、国の重要文化財にも指定されている。その後の廃線跡は、ほとんどがサイクリング道として整備されている。

2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part10  平庄煤礦鉄路から阜新煤礦鉄路へ

第8日目 5月25日

① 平庄9:32(4210次)→16:14阜新

今日は阜新までの337キロをゆっくりと6時間42分、表定速度50.3km/hで向かいます。叶赤線を終点の叶柏寿まで走り、ここから錦承線を途中の义县から分岐した新义線と3路線を走行していきます。
出発までゆっくりとホテルの朝食を食べておりましたら、お二人が撮影から戻ってこられました。朝5時頃に部屋の窓からお出かけが見えていました。O氏は昨日の列車の半分が切り離されて五峰站に留置されていたので、ひょっとしたら朝に回送機がやってきて1ヶ月に1度走るかどうかと言われた五家鎮に向かって行くのではと期待して向かわれたそうです。

昨日私が帰った後、その路線をロケハンされると撮影ポイントが数多くあったのでどうしても撮りたかったと言われました。残念ながら昨日も今日朝も望みは叶えられなかったと悔しがっておられましたが、気迫には頭が下がります。一方、F先生ももっと早くに装煤站ヤード方面に向かわれていました。 朝焼けの空をバックにしての撮影にのぞまれたそうです。元々風景写真を撮っておられた写真家らしい発想です。お二人にかかっては私はまだまだひよっこだなあと思いました。

この2日間でロケハンで歩いた経験をもとに路線図を作成しましたのでご覧ください。
▲ 黄色が平庄煤礦鉄路の路線図です。距離が分かりませんが、中国鉄路の平庄~平庄南間が9キロです。目安にしてください。
中央司令室がある装煤站に行かれる場合は、近くに燕京ビール工場がありますので、Taxi運転手に伝えれば行けます。正門前が線路と交差する踏切になっています。
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2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part9  平庄煤礦鉄路を走る上遊型 その3

第7日目 5月24日
約束どおり5時半に白タクは迎えに来てくれました。 F先生は五峰站ヤード付近で下車されましたが、O氏と私は平庄南站近くに小高い山がありましたので、ここで朝日を浴びた上遊牽引列車を撮りたいと向かいました。

▲ 5:46、中国鉄路叶赤線を走行する長編成の石炭列車。バックが黄色になっているのは、黄砂と朝日の影響です。平庄南站手前の踏切で撮りましたが、この路線は単線ながら列車が頻繁に通過します。撮影位置はこちらです。標高525m地点。

6:04、標高約585m(鉄路との標高差60m)の小高い山に登りますと、眼下に平庄南站そして昨日撮っていた橋が見えますが、残念ながら霞んでいました。7:50前後に来るかもしれない平庄煤礦鉄路の列車を待つついでに中国鉄路の列車も撮ることにしました。(撮影場所はこちらへ)

▲ 6:16、最初に撮影した和諧号重連の長編成の石炭列車。

▲ 7:57、平庄南站に進入する大連発赤峰行きのK7351次。

▲ 8:51、叶柏寿発通遼行きの6327次が到着。平庄南站は、平庄煤礦鉄路と中国鉄路との接続站で貨物ヤードもあります。平庄站より規模は大きい站ですが、1日当たり発着する客車列車は上下共各3本のみでこれが下りの1番列車です。


▲ 8:52、平庄に来る時に乗車した赤峰発山海関行きのK7384次。これも上りの1番列車で6327次と平庄南站で停車交換します。今日は行李車を連結していない7両編成でした。蒸気時代のこの叶赤線は前進型が走っていたそうです。この場所で遠くから白煙をなびかせながらの走行を見たかった、撮ってみたかったと思いました。

9:00までO氏と二人で約3時間粘ってみましたが、平庄煤礦鉄路には1本の列車も走行しません。そろそろ諦め時だと意見が一致しましたので下山しました。五峰站に向かって道路を歩いているとワゴン車が走ってきたので手を上げると止まってくれました。どうやらここでは交通機関が少ないので、走っている車は手をあげれば止まって乗せてくれるようです。もちろんタダではなく町までなら20元(市内~平庄南間)と決まっています。
インターネット検索では装煤站から立井站間は1往復の運用があるようだとの記事しかないので行ってみたいとO氏との希望と一致しましたので、昨日私のみが行った装煤站へ運転手に頼みました。


9:40、装煤站ヤードに到着。SY0400、1052、1425号機の3台はいますが、1487号機はいません。中央司令室に聞きに行ってみましたが担当者は不在で知る事はできませんでした。

先に立井方向に進んでいたO氏を見ると、ヤード内で人海戦術で路盤工事をしている保線員の責任者に捕まっています。急いで行ってみるとここから先は通行不可と制止をされています。
お任せください。こんな時はゆっくりにっこり笑っての対応が効き目あります。いつもと同様に「私達の趣味はこの立派な蒸気機関車を撮影する事です。日本からそのために来ています。撮影は中央司令室で了解してもらっています。」と説明してタバコを薦めますと喜んで吸ってくれました。後は私たちは朋友ですと握手すれば完了です。

タバコを薦める事は中国での初対面の挨拶ですが、逆に1本が1箱、そして1ケースとなり最後は金銭にまで進んだ樺南鉄路の悪例もあります。出来ればやりたくありませんが、お金も要求してきましたのでこの場合の緊急対応です。日本の鉄ちゃんも訪れる時は後に続く人の事も考えて甘い対応はしないでください。この国の人民は一度甘い汁を吸うとそれが当たり前になってエスカレートしてしまう事もあるのです。

ヤードを過ぎると有人踏切がありましたので通過記録簿を見せてもらいましたが、今日はまだ通過していません。昨日見たダイヤグラムでは装煤8:45→9:35立井11:50→12:30、装煤14:25→14:50三井15:58→16:30装煤がありましたので午前中には1往復は来るだろうと思い待つ事にしました。
O氏はカーブを曲がった畑の中の直線区間で、私は先の林の中を目指しました。

10:44、新緑の林の中で珍しく綺麗な水が流れている所がありましたので汚れた手を洗って線路際の犬走りに戻ると汽笛もなくSY0400号機が単機バック運転で突然にやってきました。シャッターは切りましたが、もう1つです。その後まああ気に入った場所がありましたので折り返しを待つ事にしました。近くで汽笛の音は何回も聞こえるのですが中々来ません。


12:31、待つ事1時間45分。ようやくSY0400号機が戻ってきましたがセキの牽引はなくまたも単機です。今回は単機回送ばかりでまともに石炭列車は撮影出来ていません。(撮影場所はこちらへ)

O氏と中々上手くいかないなあと嘆きながら近くに食堂を探しました。
庶民食堂で昼食後、Taxiを捕まえて再び平庄南站へと向かいました。


14:44、 平庄南站到着。ホーム2本3線の交換駅です。ローカル駅とあって窓口は1ヶ所だけですが、ホームは広く、ヤードでは東風4型3877号機が入替をしていました。やがて長編成の石炭列車が到着しました。

▲ 撮影していますと、作業を終わって側線に引き上げた運転手が手招きしています。中に入れてもらって運転席内を見学させてくださいました。中には電熱器も備えられていてお湯も沸かせます。

通称「緑亀」と言われる東風4型電気式ディーゼル機関車は、1974年から約3,500台余りが量産されました。1980kwの出力を誇り、貨物用4B型(最高速度100km/h)、客車用4A型(最高速度120km/h)の他、出力アップした4C型、4CK型、4D型もあります。最近は強力な新型DL和諧号も量産されていますが、今なお中国鉄路の非区電化区間の主力DLです。車体色は濃い緑色ですが、帯は水色と黄色があり前者は「スイカ」後者は「カボチャ」と愛称されています。

石炭列車を待っていましたが夕刻になっても来ません。ここの運行には振られっぱなしです。明日は朝に平庄を離れて阜新へと向かいます。これまでかと諦めだした時に今までと違った方向から汽笛が聞こえてきました。

五峰駅から分岐して五家鎮へと向かう鉄路からです。この路線は信号所の担当者もめったに走行しない。走っても1ヶ月に1回もあるかないかですと言われていました。
17:10、全力で音の聞こえる方向に向かうと林を抜けて人民が畑を耕す中を長編成の石炭列車が姿を現しました。(撮影場所はこちらへ)

▲ 17;25、列車は五峰駅ヤードに入り、スイッチバックで機回しをした後に築堤を上がって向かってきました。牽引するのはどこに行ったのかと行方を捜していたSY1425号機でした。大地に残された蒸気機関車が走る平庄煤礦鉄路の1シーンです。(撮影場所はこちらへ)

ひたすら来ない列車を終日辛抱強く待っておられたF先生、私と右往左往して平庄南站手前で降りられ待っておられたO氏もガッツポーズです。変哲もない上遊型が牽引する石炭列車ですが、ようやく撮れたとの感激は3人にはありました。
F先生は満足げに今日はこれでいいと帰られました。O氏と私は帰路の発車を見たいと残りました。しばらくすると本線に空のセキを牽引した DF5型1797号機が平庄南站に入選して来て、SY1425号機と双方の石炭列車の機交換を行いました。

SY1425号機はDF5型から受け取った60両余りのセキを牽引して五峰駅ヤードに向かって行きました。
私はこれで満足でしたが、まだ期待できる何かがあるかもとO氏は残られました。3人で大地で残る蒸気機関車を求めて旅を続けていますが、具体的な行動はあくまで各自のマイペースを尊重する事が重要と認識していました。   Part10  へ続く

2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part8  平庄煤礦鉄路を走る上遊型 その2

第6日目 5月23日 続編
五峰駅の周辺は住宅になっていて、中に食堂が1軒ありました。冷たいビールを頼みましたがありません。仕方ないのでホットビールで一息つけました。

▲ 人影もないヤードになぜに鉄条柵があるのかと不思議に思っていましたら、羊の集団がやって来ました。放牧の進入防止のためだったのですね。

昼ごはんを食べ終わる頃に汽笛が聞こえてきました。O氏の狙いは当たったたなあと思いましたが、蒸気が走るのは確認出来ましたので安心です。
たっぷりと食べれましたので行動開始です。F先生はヤード向うの築堤で午後はゆっくりと撮ってみたいと向かわれました。 一方私は、逆方向がどうなっているのかが気になりましたので、こちらを選択しました。12:50、分かれてすぐにおり返しの上遊1425号機が単機回送で戻ってきました。
Taxiで来る時に踏切手前を回って側道を行きましたが、その踏切に着きました。有人踏切で踏切番がおられましたので小屋に入らせていただいて列車情報を聞きました。ここでも信号所と同様に列車司令室からの指示が無線で入ると言われ、通過記録簿を見せていただきました。踏切の場所はこちらです。

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2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part7  平庄煤礦鉄路を走る上遊型 その1

第6日目 5月23日

① 北京北20:59(2559次)→6:38赤峰
② 赤峰7:33(K7384次)→8:38平庄

2559次は寝台のみの編成でした。丁度乗車日は日曜日、北京に買い物や遊びに行ってきた若者が多く、私の乗った硬座寝台の3段寝台6席のコーナーは私以外は全員若い女性でした。座席が取り難かったわけです。
▲ 5時過ぎにはもう明るくなって、車窓には小高い山々が広がっています。今日は快晴です。終着1時間前には列車乗務員が「換票」(寝台券と切符の交換)に来ました。
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2011年春から夏への中国鉄路の旅 Part6  河南省建材廠を走るC2型 その5

第5日目 5月22日

①  
榮陽(Bus・Taxi)→11:40郑州站
② 郑州12:19(D136次)→17:22北京西(Taxi)→12:56北京北站
③ 北京北20:59(2559次)→6:38赤峰

昨夜は部屋に戻ってからも郑州鉄道日記さんと夜遅くまで話し込みましたので爆睡、朝6時にお二人にノックされた音も夢の中でした。ゆっくりと目覚めましたので、7時半ごろに通ったC2型単機回送も部屋の窓から見ました。車庫ヤードでの作業がなかったのでいつもより早い通過でした。
今日は12:19発の列車に乗車しますので、11時半には郑州站には着かなければなりません。遠くには行けないのでレンガ橋付近での撮影としました。
▲ 左は2番列車の復路(撮影場所はこちらへ)、右は1番列車の復路(撮影場所はこちらへ)です。森林鉄道の感じで撮りましたが、曇り空では新緑がもう一つでした。

▲ 2番列車の往路です。今日は水鏡になりましたが暖かかったので煙はでません。鉄道写真はこれだから難しい。(撮影場所はこちらへ)
レンガ橋での撮影は同じ場所だけでしたが、煙が出る冬場でしたら朝の撮影場所は反対側が最適です。朝焼けをバックに理想的な写真が撮れるでしょう。ただ朝焼けになるかどうかは運しだいです。 続きを読む

2011年春から夏への中国鉄路の旅 Part5  河南省建材廠を走るC2型 その4

撮影機材はNIKON300Sを使用しています。オプションのGPSを装着していますので、撮影場所をGoogleマップで見ることが出来ますが、今まで投稿原稿にリンクする方法が分かりませんでした。我が家のパソコン先生が帰宅しましたので頼み込んで教えてもらいました。今回よりリンクさせていただきますので、(場所地図はこちらをクリックしてください。ご覧いただけます。緑の矢印が撮影場所です。

第4日目 5月21日
今日は頼りになるゲストをお迎えします。地元で働いておられる鄭州鉄道日記さんです。彼とは昨年芭石鉄道の帰りの郑州から乗車した广州行きの夜行寝台列車で、同じコンパーメントで一緒になるという中々ない出会いで知り会って以降、中国鉄路についての現地情報を教えてもらっています。前もってご連絡を入れておきましたら、土日曜日なら仕事はお休みなので行きますとのお返事をいただきました。

来られるのは昼頃なので、まず列車が今日は走るのかの確認をするため車庫に向かいました。(場所地図はこちら

しかし、残念ながら車庫はシーンと静まりかえっていて、2台ともおいてありました。
仕方がないので近くの中国鉄路榮陽駅に行ってみる事にしました。車庫前の人民に聞きますと、真っ直ぐ行って線路手前を右に行くと分かるです。真っ直ぐ歩くと鉄路と立体交差していましたので、地上部分を進み撮影できる場所を捜しました。
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2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part4 河南省建材廠を走るC2型 その3

総本家様、朝方まですごい雨でしたがあかってきて青空が見え出しました。絶好の撮影日和となるといいですね。皆様方も雨上がりの路面電車撮影に飛び込みご参加してはいかがですか。6月12日(日)13時、 阪堺線恵美須町駅に集合(地下鉄堺筋線恵美須町下車4番出口すぐ)にてお待ちしております。途中参加も歓迎します!

第3日目 5月20日
ホテルの近くに食堂はあっても朝食時は営業していません。仕方がないので3人とも1F売店でカップラーメンを毎朝用意してもらうことにしました。
昨夜の打ち合わせで撮影場所は各自で決めることにしました。朝食後はそれぞれの望む撮影地へ、F先生とO氏は車庫方面に向かわれました。一方私はレンガ橋で昨日撮りそこねた上り列車を撮ることです。
ところが始発列車が出発する8時以降に汽笛が何回か聞こえたのですが、その後待てどくらせどやってきません。どうなったのだろうと心配しますが、確かめようがなく、じっと待つしか方法はありませんでした。
やきもきしているとお2人が戻ってこられました。昨日の最終列車は私の視界から遠ざかった後にトロッコ1台が脱線したそうです。その日は切り離してそのままに、残った前方の編成を牽引して荷降ろし場に向かって運転終了。今日朝はこの残されたトロッコを線路上に戻す作業をして車庫へ回送していたので、手間取ったと聞かされました。この作業を見てみたかったです。

▲ 8:55、ようやく上り列車が来ましたが、期待していた煙はほんの少し、池もさざなみがたって水鏡になりません。夕方の上りに期待して先に積出場に向かわれたF先生の後を追いました。ロケハンと、昨日新幹線とナローゲージを一緒に撮ろうと約束した張ご夫妻とお会いするためでもありました。 続きを読む

2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part3  河南省建材廠を走るC2型 その2

第2日目 5月19日 続編
中国人老夫妻に呼び止められたおかげで、橋で来ない列車を待つという無駄な時間を過ごす事は回避できました。しかし車庫でC2型蒸気機関車を撮りだしますと、撮った画像を見てアングルが悪い、もっとこういう位置で撮りなさいとご自分のショットを見せながらの指導を受けました。

▲ ご指導を受けて撮りましたC2型の正面写真。207号機は前照灯が良いですね。芭石鉄道は今年からシールドビームに替わってしまいましたし、ここにあるもう1台のC2型機は2灯になっていますので、正面から撮るにはこちらです。
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2011年春から夏への中国鉄路の旅 Part2  河南省建材廠を走るC2型 その1

第2日目 5月19日
昨夜はK179次の快適な乗り心地で熟睡できました。 北京から689キロ、所要時間8時間28分、表定速度81.4km/hで走り、7;06郑州駅に定時に到着しました。この区間をよく乗られる郑州鉄道日記さんによると、この区間は勾配やカーブが少なく路盤もよく整備されていているので、中国鉄路では最も乗り心地が良いそうです。
▲ 朝の郑州站1番ホームに到着。どっと乗客が降りますが、大きなズタ袋を持った出稼ぎ民工はいなく、落ち着いた光景でした。

郑州站に降り立つのは、2度目です。前回は、芭石鉄道へ行った帰りにでした。予約していたホテルの場所が分からずTaxiで向かう事にしましたが、並んでもTaxiが来ないので仕方なく白タクと交渉した苦い経験があります。今日はたくさんのTaxiが来ていますが、乗る前に白タク運転手に捕まりましたので、料金を聞くと200元の返答、交渉をすると140元まで下がりました。目的地まで30キロはあるとの事でしたので、そんなもんかとこれで手を打ちました。
走ること30分余りでO氏一行との合流場所の伊鴻賓館に着きました。Taxi運転手に伊鴻賓館の電話番号を伝えて向かいましたが迷うこともなく意外と近かったです。
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2011年 春から夏への中国鉄路の旅 Part1 旅立ち

【旅立ちはいつも直前決定】
ご老公様との四国路の旅を終えて帰宅しますと、3月に芭石鉄道でお会いした早稲田大学鉄道研究会OBのO氏からお誘いメールが届いていました。以前から行って見たいと思っていたC2号機が走る樺南と榮陽市の河南省建材廠、そして上遊型が走る炭鉱専用鉄道の平庄と阜新へのSL撮影旅行でした。しかも写真家F先生との同行と聞いては・・・、絶好の写真上達のチャンスです。

O氏一行は既に新潟~哈尔滨の航空券を 購入済みで、出発も5月18日と確定しておられます。しかし、クローバー会の郵送物作成と郵送を完了しないと出発は許されません。どうしたらいいのかと迷っている内に時間が過ぎていきます。14日にOさんから樺南は運行に支障があって走行確認が取れないので諦め他の路線を回ろうと日程表が送られてきました。
取りあえず航空券確保が必要ですが、搭乗日や航路変更が出来ないガチガチ格安航空券は買えません。JALのマイレージの特典航空券を用意しようとしましたが、予約を入れられるのは搭乗の7日前です。15日に22日発の伊丹から成田圣由の北京行きを予約しました。後は作業完了出来次第にどこかで合流できればと全力投入です。最後は事務局のF君を自宅に招いて共同作業で16日に作業を終えました。

作業完了の目処が出来た時点で、搭乗予約済みの22日から18日への変更をJALに申し出ますが、あいにく18日は満席で予約待ちです。こんな時にグローバル会員の特権が生かせます。他の予約待ち客をゴボー抜きして予約1番に立ち、郵便局に出しに行く夕刻には「お席が用意できました。」との連絡を受けました。
すぐにO氏に連絡して参加を伝え、合流場所は18日榮陽市の河南省建材廠で宿泊予定の伊鴻賓館としました。田舎の民宿に毛の生えたようなホテルですので、勿論予約なしでの飛込みです。

翌日は、いつにも増しての旅準備です。前回は荷物が20㎏と重すぎて準特急先輩に多大なご迷惑をおかけしました。今回はビデオカメラ、三脚等の重量物は入れず、衣類も最小対応としました。結果、10㎏と軽量化に成功しました。

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ユースで巡った鉄道旅 -10-

久しぶりの本シリーズ、九州を切り上げ、つぎは中国地方へ行くこととしましょう。
中国地方の中でも、山陰西部は、関西から近いものの、なかなか行きにくいところです。本掲示板でもこの地方の報告は見たことがありません。陰陽連絡線が恐ろしく不便になったことも原因なのでしょうか。
40年前は、山陽本線には夜行が多く走り、山陰へのアクセスも、どの線区からでも容易に入ることができました。いまや不便極まりない木次線にも、広島から夜行急行が走っていたとは、現状と照らすと信じられないことです。
ユースの立地条件から見ると著名な観光地が少なかった故か、ユース自体が少なく、泊まったと言えば、大社と浜田だけでした。今回の浜田ユースは、商人宿のような古びた建物を改装した典型的な民営ユースでした。浜田駅から歩いて数分、市内を流れる川に沿ったところにありました。9月の残暑厳しい時で、部屋に西日がガンガン入り込んだのだけをなぜか覚えています。今は閉鎖されたようで、検索しても、この名は出てきませんでした。

ユースへ向かう前に、浜田機関区に立ち寄る。夕陽を受けたC57の前面と、煉瓦庫が鈍く輝く。浜田機関区には、最後のC54がいたことで有名だった。私は京都駅でC54を目撃したことはあるが、写すことはできなかった。製造わずか17両、福知山から浜田へ流れ、山陰を根城にした目立たないカマだったが、独特のスタイルは好ましかった。C51の後継機にもかかわらず、C51よりも早く昭和38年に全廃されている。それは、遠方へ撮影に行ける環境の整った、わずか3、4年前のことで、今なら瞬きするような時間差だが、その当時は、取り返しのつかない遥か昔の出来事のように感じた。

浜田に泊まった目的は、三江北線のC56の牽く貨物を撮ること。当時、三江線として全通しておらず、三江北線は浜原までだった。貨物は早朝に浜原へ向かい、小憩ののち、浜田へ戻るダイヤ。一番列車で終点の浜原に着いたものの、転車台もなく、期待のC56はワフ1両とともに、尻を向けて、静かに息をしているだけだった。

終点の手前、浜原~粕淵間で、三江北線は江の川を渡る。河原へ降りて、その頃でも数の少ないDC列車を写す。キハ25+キハ25+キハユニ26という、当時のローカル線の典型的な編成だった。訪れた年の翌年、昭和47年に三江北線は集中豪雨に見舞われ、この橋脚も崩壊してしまい、以後2年余り不通のままの状態が続いた。

目を山陰本線の西部(米子以西)に転じると、特急列車は「まつかぜ」「やくも」、急行は東京からの「出雲」など、数多くの優等列車が運転され、今では死語のような”亜幹線”がピッタリする線区だった。キハ82は全国区の特急用車両であり、人によって思い出は様々だろうが、私にとってキハ82と言えば、まず「まつかぜ」だ。デビュー間もない時期に、家族で鳥取へ旅行した時に「まつかぜ」に乗ったことがある。暗く陰鬱な山陰に舞い降りた、それは華々しい特急だと子供心にも感じたものだ。

一方、普通列車は、大まかに言って、米子~浜田はC57、浜田以西はD51だった。C57は集煙装置付きが多く、見栄えの点ではもうひとつだが、時として、このように重連も設定されていた。米子~浜田は、海岸沿いを走る区間はあるものの、なかなか撮影に適したところが少なく、これは地上時代の出雲市駅での撮影。手前の架線は一畑電鉄のもの。米子付近の普通列車には、荷物車代用のワキが連結されていたのが、大きな特色だった。この写真でも、C57の次位にワキが見える。

いっぽう、浜田以西になると、旅客はD51牽引が多くなるものの、海沿いの撮影適地が多くなる。撮影地ガイトも無い時代、五万分の一地図を見ながら車内からロケハンしたものだ。これは、朝の三見~飯井間を行くD51の牽く貨物列車。この区間で朝から撮ろうと思っても、浜田のユース泊では時間が掛かる。そこで利用したのが、米子~博多間の夜行急行「さんべ」、北九州と山陰という、それほど需要がありそうにも無い区間にも夜行が設定されていた。山陰均一周遊券の場合、自由周遊地域への入り込みは、山陰本線幡生経由も認められていたから好都合だった。

じいじ二人が行く、新緑の四国路の旅 Part6  馬路から別子へ 別子鉱山鉄道

Part5を投稿してより1ケ月近く経過してしまいました。Part6の下書きは用意していましたが、クローバー会の皆様へのお知らせ郵送があって、こちらに全力を向けました。
ようやく16日に作業が終わりましたので、3月に芭石鉄道で出会った早稲田大学鉄道研究会OBのO氏よりお誘いがあった中国地方線に現役で残るSL撮影旅行に出かけることにしました。
いつもでしたら中国からでも投稿していましたが、今回は愛用ノートパソコンが直前に物理的に壊されて持っていけません。(たまたま床に置いてあったのを掃除人に踏んづけられて、液晶画面がバリッと割れました。)
そんな訳で、こんなに遅れてしまいました。ご老公様、申しわけありません。続編を投稿させていただきます。

第3日目 5月6日 馬路→高知駅→善通寺
魚梁瀬森林鉄道は現地に来て、生い立ちから廃止への歴史を学びました。馬路からの帰路は、対岸に見た1・2号トンネルを真近に見るために途中から一般道を離れ、廃線跡を奈半利まで向かいました。今では狭いながらも農道に使用されています。


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じいじ二人が行く、新緑の四国路の旅 Part5  魚梁瀬へ 魚梁瀬森林鉄道3の3

【馬路温泉から魚梁瀬へ】
馬路温泉から約16キロの山道を森林鉄道遺産を見学しながら魚梁瀬に向かいました。
▲ 馬路村から魚梁瀬までもトンネル1箇所が林道として、橋も3箇所が拡幅され一般道路として利用されています。中にはトラス橋もありしっかりした橋が築かれていたことが分かります。途中、森林鉄道で使用されたレールと連結器が山積みにされて放置されていました。保守にでも使われるのでしょうね。森林鉄道遺産についての詳細は、魚梁瀬森林鉄道遺産Webミュージアムに紹介されていますので、こちらをご覧ください。

森林鉄道を飲み込み廃止に追いやったダムですが、景観はコンクリート製と比べると、辺りの自然と上手くマッチしているように見えました。

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じいじ二人が行く、新緑の四国路の旅 Part4  馬路村へ 魚梁瀬森林鉄道3の2

第2日目 5月5日

① 「道の駅 田野駅屋」 7:30→9:00馬路温泉
② 馬路温泉→郷土資料館→11:30魚梁瀬
③ 魚梁瀬12:40→13:25馬路温泉

土佐くろしお鉄道「田野駅」の駅の下が、道の駅「田野駅屋」となっています。朝7時になると近辺の農家のおばさん、おじさん達が軽トラックでやってきて、朝に畑で収穫した野菜を並べて販売準備を始めました。 続きを読む