追憶の九州 一人旅 (2)

早岐へ

土日2日間は九州内の新幹線・特急が乗り放題という「ゲキ☆ヤス土日きっぷ」を握り締めて、まず博多から向かったのは、早岐でした。「かもめ」「みどり」「ハウステンボス」の3特急を併結した列車は、13両編成という最近では珍しい長編成です。
「はいき」という響きが、いかにも九州らしい好ましい駅です。長崎へは何度か行ったものの、脇にそれる早岐・佐世保は学生時代以来で、文字どおり思い出の駅を訪ねる旅でした。

駅舎は、40年前と変わっていなかった。中の待合室の様子もそのまま。もちろん細かくは改造もされているだろうが、40年前の思いが蘇ってきた。ただ、蒸機の時代は現業機関が集中し鉄道のまちとして賑った早岐も、単なる分岐駅となり、ずいぶん寂しくなってしまった。

0番ホームと1番ホームを見る。幅の狭いホームと、木組みの上屋が、いい味を出している。支柱の下部が補強してあるのは、九州の駅の共通のスタイル。早岐の駅名標をしみじみ眺めながら、過ぎし日を偲んでいた。

かつての早岐機関区は、とうの昔に姿を消したが、煉瓦造りの給水塔だけが、記念物のように置かれていた。左手に「早岐機関区発祥之地」の碑が見える。下掲の機関区とほぼ同位置からの撮影。

ハウステンボスから一駅だけの「ハウステンボス」が、先頭車改造された切妻のクハ783を先頭に入線する。ここで佐世保からの「みどり」と併結される。併結後は、両端が流線型のクハ783・クロハ782となるため、貫通面を見せたクハ783はこの佐世保~早岐~ハウステンボスでしか見られない。

早岐機関区の上路式ターンテーブルに乗るC57111。門鉄デフは、もっともポピュラーなタイプだが、C57にはいちばん似合っていたし、区名板の「早」が、いかにもC57のイメージに合っていた。1並びの番号もよく、言わば、もっともC57らしい、好きなカマだった。

早岐機関区は、佐世保・長崎本線用のC57、貨物用のD51、それに松浦線用のハチロク・C11が配置され、区には煙が絶えなかった。この年に初めて買ってもらった135ミリの望遠レンズを通して、区の賑わいを表現してみた。

駅の構内で佐世保方から来たD51の貨物をとらえる。中間に石炭車も見えるが、これは松浦線沿線に小さな炭鉱があり、そこから運び出されたものだ。この時期、駅の構内とはいえ、上空を遮る架線もなく、実に広々としている。

高校生の私を早岐へ向かわせた最大の理由は、このC11の牽く特急「さくら」であった(写真は佐世保での撮影)。C11が佐世保~早岐の末端区間で特急「さくら」を牽くことが「鉄道ファン」に大々的に報じられていた。
早岐では、佐世保方に対してはスイッチバックとなるため、DD51の機回しの手間を省くため、この区間のみC11が先頭に立つというもの。最後の蒸機特急と言われ(その後「ゆうづる」で復活することは判明していない)、しかもヘッドマーク付きである。
勇躍、佐世保へ駆けつけたのだ。ところが、早岐から回送されてきた「さくら」を見て落胆した。ヘッドマークがない…。これでは入替中と変わらない。機関士に聞くと、いつも付けていないと言う。
あとで聞くと、ヘッドマークを付けるのは、取材や撮影ツアーで区に依頼があった時だけ付けているのだった。本には、ひと言も触れていなく、のちにある鉄道雑誌の編集長になる、その書き手をずいぶん恨んだものだった。

関西の電車・巡察の旅 その3


【お詫び】前回、最西端「網干駅の姿」を入れ忘れとなった。三河田原へ旅立ちの日となんら変わっていない。網干線沿線は、日鉄の撤退で過去の賑わいは薄れてしまった。

▲最西端・網干は2001年当時と変化なし

3日目:8月28日(土)、最終日である。ひょっとしてとの思いから2日目より早く家を出た。西向日6:13発普通を高槻で9300系快急に乗換え、淡路から大市交堺筋線を動物園前で降りた。先を急ぐなら天下茶屋で高野線に乗り継ぐのが本流だが寄り道するために、御堂筋線で天王寺へ出た。WCに立ち寄り近鉄阿倍野橋・河内長野行準急7:14発に間に合った。3+4の7両編成である。近鉄は名鉄と一緒で多両数固定編成を作らない。ここ南大阪線も2~4両編成の組み合わせで5~8連を組成している。列車によっては凸凹、色違い編成が現れる。そのうちに富田林到着。汐ノ宮は近い。なぜ汐ノ宮かと言うと友人がいる。3年前に電話があり「沖さん、隣に田中鎈市さんがいらっしゃるよ。京都在勤時代、電車の好きな変人が居た、と言ったら”それ、沖中はんやろ”と一発で当てはった」。電話を代わってもらいしばらく話したが、二人の接点が分らず尋ねた。汐ノ宮カメラクラブでご一緒であった。2人の年賀状の住所は番地が近接している。15年ばかり前、高野線・美加の台の住宅改修工事に行った時、河内長野から汐ノ宮を経て帰宅したが、どんなところか忘れてしまい、車窓で確かめたかったのだ。
河内長野の近鉄側の構内は南海側と比べると狭い。高野鉄道は19世紀末の開通、20世紀初頭開通の河南鉄道より早い。蒸気動車が乗り入れていた姿を想像してみた。接続の南海高野線は林間田園都市行急行、6000系8連がやって来た。南海は高野線の自社沿線開発を進め、改良工事に多額の資本投下した結果、資金繰りに困り倒産噂話で賑わったこともあった。さしずめ関西京成電鉄版である。京阪中之島線は自社建設線でないから気楽だろうが、東京メトロ副都心線と異なり、乗り手のないシーソーの片方みたいなもので、今後の大阪市の都市計画の進捗次第が命運を握っている。
林間田園都市下車は初めて、谷底の駅につきエスカレーター利用で改札口を出る。小さなロータリーにバス、タクシー乗り場があるが共に待機車はない。はるか南東方向にみどりに囲まれた住宅街が見える。近鉄が桔梗が丘団地を売り出した時、上本町から70㎞もあり狸の巣になるぞと従兄は冷やかしていた。林間田園都市は難波から39㎞、これならと思ったがバブル崩壊で苦労していると報じられた。10分ぶらつき、次の6000系8連急行で橋本に向かった。
南側の斜面を削り造成された小原田車庫には「天空」編成が留置されている。この車庫新設で急行の大運転(山線直通運転)は数えるほどになった。8連急行は8:39橋本に到着。

▲大運転用2000系が待機する

留置線の2303+2353がホームに据えられので、その車内で林間田園都市で購入したサンドとヨーグルトを腹に収め、WCへ。これが失敗となった。用を達している間に2304+2354が山から下りてきて増結した。そこへ次の8連急行が到着した。空っぽだった2300系4連はあっと言う間に埋まってしまった。止む無く先頭2354号、転換クロスシート扉横の背もたれに立つことになった。座る筈であったシートには、中年のオッサンが背摺りを後ろ向きにして向かいのオバハンと声高に喋ってけつかる。くそったれ!大油断であった。
走り出して暫くして、扉に持たれていた妙齢の御婦人、「トイレに行きたい」と同行者に言っている。グループで高野山参詣のようで、「困ったわ」と言い合っている。高野下を前にして「次の駅なら確実にトイレがある。40分後の電車で追いかけ、極楽橋で落ち合ったら如何?」と声をかけてみるが、「ええ」と言ったまま。上古沢だったかな、到着前にWCが目に入った。「早く行ってらっしゃい!」と肩を押したら「極楽橋で待っててね」と言い残し降りて行った。
9:47、極楽橋到着。想定第1番目の南端で、3時間34分要した。汐の宮見物なければ確実に3時間以内で到着となったであろう。ケーブルをチラッと見て「こうやさん」。紙(髪)を落とすのではなく清水が洗い流してくれるWCへ。折返し、2番目の南端へ行くために留置中4連の先頭車に急いだ。今度は失敗しないぞ、2303号のかぶりつきだ。小走りで先頭車に行けば車内はガランとしており間に合った。2300系は全転換クロス車で、扉間は1人・2人掛け、扉妻間2人掛2列のロマンスカー、老人が眼の色変える理由がここにある。

▲米手作市氏はケーブルカーで下山する

▲極楽橋では特急は手前、急行なら向こうの電車に乗車する

▲高野線(山線)は本年開通80年を迎えた

高野線(山線)は本年開通80年を迎えたその昔1251系3連の上り急行の電制音はすごかった。それに比べると2300系の電制は静かなものだ。そして電制と空制切り替え時のショックがない。「次の高野下で”天空”と交換します」とアナウンスがある。何、これを知っていたら何処かで途中下車していたのに。席確保のため動かず”天空”の入構を待った。橋本着11:02着、8連急行と乗り換えとなり、11:11発で天下茶屋をめざす事にした。
天下茶屋では早く家を出たせいか腹が「グゥ」となり催促している。WCを出たらカレーショップが目に入った。そこで腹に収めて、3番線4号車乗り場に立ち和歌山港行き「サザン21号」を待つ。やって来た8連、後4連は満員、前4連はガラガラ。こんな事だと思い自由席車と指定席車の分かれ目に立っていた次第。すでに戒を犯しているから”迷わず指定席車”である。ガラガラの車内に6人目の乗客となった。追加料金¥500。そして和歌山市から港への気まぐれ客は唯1人だった。和歌山港13:13到着。想定第2番目の最南端には+206分、なんと西向日から7時間要したことになる。これが10年前だと「迷わず水軒」となるのだが、2002年5月26日廃線となった。昼間にも1往復あったから、行くに苦労はなかったが、高野線に行く楽しみはそがれた事になる。

▲和歌山港に間もなく到着

▲本日2本目にして最終列車到着の水軒

▲距離表の数値は難波が起点

和歌山港から難波へ直行しようと思い、折返しサザンの先頭車のカブリツキに行くと「鉄」らしき親子が先に頑張っている。そこで和歌山市で下車、WCとして14:00当駅始発特急で北に向かうことにした。難波、淀屋橋、出町柳と繋いで最北端、鞍馬到着17:02となった。和歌山港-鞍馬間は市駅で一服しなければ3時間15分位の所要時分で収まるだろう。鞍馬では孫との約束、天狗の面を撮るために折り返しを1本ずらしWCとした。

▲天狗の面がお出迎え、お見送り

鞍馬17:18発、出町柳、祇園四条、河原町、と繋ぎ東向日18:33着。改札口には総本家青信号特派員氏が待ち受けていた。もちろん生中で、関西の電車・巡察の旅を乾杯で終結するためであった。本日の行程12時間20分、運賃6,240円、3日間の運賃合計16,900円(座席指定券代は省く)の旅であった。今回の道中、WCが目立つが、歳を取ると1時間前後で催す前兆があり、失敗のないように早い目に処理していたからである。

佐竹さんからのご案内

①1980年ペルーの旅・鉄道と遺跡・写真展
*マチュピチェ・クスコ・サクサイワマン城塞跡・ナスカ・アマゾン
*クスコ~マチュピチェ間の鉄道
日時:2010年12月3日(金)~12月14日(火)10:00~21:00まで
  (日曜日と最終日は18:00まで)休館日は水曜日
会場:京都市山科青少年活動センターhttp://www.jade.dti.ne.jp/~yamasei/
イベント:12月12日(日)15:30~16:45
   ・講演「鉄道趣味について」 沖中忠順氏
   ・フォルクローレ演奏 セサル ラ トーレ(クスコ出身・ボーカル、ギター)
入場料:無料
在廊:なるべく会場にいるようにしますが、事前に連絡いただければありがたいです。

②打ち上げ懇親会
※打ち上げ懇親会はイベント会場(山科青少年活動センター)から歩いて
いきますので17時までにセンターへお集まり下さい。
日時:2010年12月12日(日)17:30~21:00
会場:手打ち蕎麦「蕎岳(きょうがく)」(075-600-8006)
会費:3000円(そば、酒肴、ワイン・ビール・焼酎飲み放題)
定員:17名
申込:田野城までお願いします。tanosiro@e-corona.co.jp

③第72回 朝粥食べておしゃべり会
日時:2010年12月19日(日)午前9時~10時30分
会場:集・酉・楽サカタニ(京阪七条東、南側コンビに2階)
内容:「走れ トレランス号」  佐竹保雄
会費:350円?
申込:直接サカタニまでお願いします。(075-561-7974 )

「昭和の神戸と市内電車」作品展


以前この掲示板に、神戸元町4丁目のこうべまちづくり会館地下ギャラリーで、神戸市電や和田岬線列車の詳細、かつ何ともいえない温かみのある絵画、三ノ宮付近の立体模型などの作品展の紹介があった。この老人も習慣としての須磨-三ノ宮までのウォーキング中にたまたま拝見し、そのすばらしさを伝えた記憶がある。鈴木 城氏の長年にわたる作品群の由。

今回どうして老人の住所をお知りになったのかは不詳だが、やはり同じ会場で、11月11日(木)~23日(火・祝)「昭和の神戸と市内電車」鈴木 城絵画立体作品展のご案内を頂戴した。これは必見である。鈴木氏とご面識はないが、今回は是非お目に掛かりたいものと念願している。

会場は神戸の元町本通、4丁目と5丁目の堺の4丁目側南角にある「こうべまちづくり会館」で、9時30分~18時。京都からわざわざお越しになったとしても、それだけの価値は充分あると確信する。最寄駅は神戸高速鉄道「高速花隈」、神戸地下鉄海岸線「みなと元町」だが、JR元町、阪神元町からでも徒歩10分とかからない。

蛇足を加えると、冒頭リーフレット上の絵は、元町6丁目の三越前。三越撤退後は結婚式主体のホテルになり、それも震災前から家督争いか何かで閉鎖されたまま、今日に至っている。元町通りの西の入り口である。市電が通っている道路(多門通=現在中央幹線)は神戸高速鉄道建設に際し、左(山)側が拡幅された。

電車のすぐ横に「太井肉店」の看板のある異人館が覗くが、この建物は神戸高速鉄道が補償・全額負担して明治村に移築。最初は大井が牛鍋を営業していたが、現在では別の業者がやっている。なお大井肉店はビルになり、絵とほぼ同じところ(道路拡幅分だけ引っ込んで)で営業中である。

下の絵は、国鉄和田岬線の三菱造船所通勤客満載列車。ヘッドライトの背後に神戸港線名物のエア作動の鐘が見える。背後の誇線鉄橋は神戸市電高松線。この一帯は低地(旧湊川の川口扇状地)で、台風ではすぐ水没し、老人も若かりし日、写真取材で腰まで水に浸かった記憶がある。

飲酒の運転手が、公用車に「偉いさん」を乗せたまま、この誇線鉄橋の標準軌レールの上を、脱線もせず渡り切ったという「武勇伝」?があった。当時宴会中待機している運転手に、酒食が供されるのは至極当たり前というより「当然」であった。

なお和田岬線は旧山陽鉄道時代から存在し、現在では幹線道路の手前で切られ、駅も無人に。利用者は全員定期券のため乗車券自販機もなく、フリの客は無札で乗車し、兵庫駅で精算するシステムである。かつては川崎車両、神戸市中央市場の貨物が相当にあり、鐘紡の工場もあった(その後に競輪場が出来、市電車庫や交通公園にもなり、現在ではサッカー場と公園)のだが、旅客オンリーになり、それも三菱の縮小で昔の超満員など、かけらもない。

神戸市は地下鉄海岸線の開通で、和田岬線の廃止を予想していたが、何と電化までして残存したため、完全にアテが外れた。山陽本線の一部のため単独の収支係数は公表されていないが、平日朝夕のみ17往復、土休日は4/2往復で、黒字のはずもない。三菱が通勤上必要ならタダで譲ってでも、三菱に運行させたらと思うが。世の中にはいろいろ不思議なことがある。

追憶の九州 一人旅 (1)

先週、九州へ旅してきました。
北九州へは最近も何度か行っているものの、南九州となると大学生以来、40数年ぶりの訪問となりました。
同好の士とともに行く旅も楽しいものですが、自分の思いのまま、気の向くままに行動できる一人旅もいいものです。
私も定年退職後一年が経過しましたが、記録・撮影だけではなく、より広い視野をもって旅に出たいと念願しています。
私として心掛けていることは、
①以前に訪れた撮影地・駅を再訪問して、その変貌振りを確認したい。
②今では大きな価値も持たないが、JR全線乗車への努力を継続したい。
③車両だけでなく、鉄道遺産、バス、近代建築など個人的な興味にも時間を割きたい。
④この年齢、この時期だからこそ利用できる特典・割引は最大限に享受する。
といった趣旨のもと、旅を続けたいと思っています。
今回の九州行きも、第一の目的は消えつつある車両の撮影だったのですが、多少なりとも上記の趣旨を受けたものでした。今回は、かつての撮影地・駅の再訪問について、いくつか拾ってみました。
 

 改良工事で消える折尾駅を再訪問
九州上陸後、まず訪れたのは、折尾でした。
ここは、筑豊への入口駅に当たり、高校生の時から、もう何度乗り降りしたことでしょう。しかし、永く親しんだ駅周辺も、大掛かりな連続立体化事業が進展し、駅舎の解体も間近いとの報を受けての訪問でした。

折尾駅は、明治24年2月に鹿児島本線、当時の九州鉄道が開業、同年の8月には筑豊本線、当時の筑豊興業鉄道が開業、それぞれ別地点に駅が設けらた。その後、立体交差の現在地に共同の駅が設けられ、これが日本で最初の立体交差駅となる。寄棟屋根、木造2階建て、コロニアル様式を持つ現在の駅は、大正5年竣工の二代目の駅舎。
連続立体化計画では、筑豊本線の線路を西側に付け替えて、鹿児島本線に寄り添うように高架化し、新しい駅舎を建設しようというもの。折尾駅も周辺の住宅・学校への下車客が増加し、今や北九州市では、小倉に次ぐ第2位の乗降客数となっている。それだけに、明治のままの駅ではさすがに手狭になってきた。

鹿児島本線と筑豊本線が斜めに立体交差する折尾駅は、迷路のように複雑だ。高架下の通路は、煉瓦造りになっている。少し前に、筑豊本線若松駅ホーム側に西口が設けられ、人の流れがさらに複雑になった。また、構外には、鹿児島本線黒崎方と筑豊本線中間方を結ぶ短絡線があり、ここを通る鹿児島本線~筑豊本線の直通列車は折尾が通過扱いになっていたが、ここにも折尾駅が設けられている。構内の各所には、特製の駅案内図が貼ってある。

駅前広場に進入するのは北九州市営バス。西鉄バスが独壇場の北九州にあって、若松、折尾周辺で辛うじて路線を持っている市営バスだ。長らく、クリーム地に紺帯という、いかにも路線バスらしい、塗色で親しんできた同バスだが、黄緑色をベースにした新色に変更中で、見たところ、半数は新色に変わっていた。ちょうど、北九州市の地場企業である、バス車体製造会社の西日本車体工業も廃業してしまった。折尾駅前を特徴付けていたバスの車体・塗色が消える日も近いようだ。

▲鹿児島本線の下をくぐって若松へ向かうキハ47。筑豊本線は、折尾以南は電化され、篠栗線とともに「福北ゆたか線」を名乗っているが、取り残された折尾~若松間は、愛称「若松線」として、DCが行くだけの完全な別線扱いとなり、列車も朝の一部を除き、折尾折り返しになっている。

駅前には、西鉄北九州線の終点として、路面電車が高架の駅舎に乗り入れていたが、平成12年11月に廃止されている。駅舎のあったビル全体も解体中であった。もうひとつ、駅前には、筑豊の歴史を伝える川がある。この川は堀川と言い、江戸時代に遠賀川の氾濫を抑えるために、灌漑・水運用に掘られた運河である。川沿いの道路にびっしり立ち並ぶ、原色看板の飲み屋。これも筑豊が殷賑を極めた時代の遺産でもある。再開発事業が進めば、この光景もどうなるのだろうか。

初めて、折尾に降りたのは、昭和42年の高校2年生のときだった。高架の鹿児島本線ホームから迷路のような通路を通って、地上の筑豊本線ホームに行くと、真正面にC55のスポーク動輪が飛び込んできた。その時の印象が余りにも大きくて、それ以降、何度も筑豊へ行かせる結果となった。雨のホームに到着したのは、逆行C556の牽く若松発飯塚行きの列車。こんな列車が堂々と本線上を走っていた。

対向する若松方面ホームから眺めたC55の牽く列車。ホームがずいぶん低い。この頃、筑豊本線の旅客列車は、DCもかなり入っていたものの、客車列車はすべてC55だった。周りの家並みを見ると、さすがに今昔の感がある。

新しい瀋陽鉄道博物館 発見!

前回瀋陽訪問時に2日間をかけて探しても見つからなかった満鉄車両が多数眠る鉄道博物館をようやく見つけることができました。
だいたいの所は、瀋陽鉄道局の列車乗務員に調べてもらっていましたが、広い町です。地元タクシー運転手も近くでは聞きながら向かいますと、林の中に忽然と立派な建物が見えました。感激です。
正門を入ると、真新しいロビーに多数の鉄路員がおられ、最近開館したと思えました。聞くと、2010年10月18日にオープンしたばかりとの事で、未公表なのにどこで知ったか質問されました。日本人の訪問は、あなたが初めてですよと言われまして、また感激です。
館内には、あじあ号はじめ満鉄で活躍したSL等がきれいに磨かれ展示されていました。
詳細については帰国後にまとめますのでお待ちください。
すぐに行かれる方は、パスポートが必要なのと、入場拒否もありますのでお含みください。

中国鉄路 第5番目の新幹線「滬杭城際鉄道」本日開業

経済発展に合わせて交通インフラを急速に進める中国鉄路では、本日10月26日に上海~杭州間160キロを最高速度350㌔、所要時間45分で結ぶ「滬杭城際鉄道」が開業しました。
現地の朝のニュースでは、上海虹橋駅から中継で大々的に報じられています。7月に開業した上海~南京間300キロの「滬寧城際鉄道」に続いて第5番目の中国版新幹線となります。

21日に伊丹空港から、新しくなった羽田国際空港ターミナルで乗り継ぎ北京に降り立ちました。約6ケ月ぶりに大地ですので、あちこち鉄道の旅を楽しみたいと、北京駅で切符窓口に並び第1候補のウルムチ行きの軟座寝台切符を取れましたが、復路切符が現地でないと取れません。国慶節も終わったので、比較的空いている時期なのですが、他の地区も同様で、結局北朝鮮国境の丹東にきています

これからは、10月8日に開業した瀋陽地铁の初乗車、再オープンしたと鉄路員が言う瀋陽鉄道博物館見学と、調兵山のSL撮影に行く予定です。 そして、南下して「滬杭城際鉄道」「滬寧城際鉄道」試乗のために上海を目指します。

今回も毎日が出会いとハップニングの連続です。また旅行記の詳細はご報告申し上げます。

1957年5月/1958年7月北陸鉄道その4


北陸名物 外見上立派なB-B凸型でもモーター2個のため 律儀にEBを名乗るEB301 ポールは1本 

藤本哲男氏から昭和40年代の写真でご支援を受け、老人は至って機嫌を好くし、いそいそと「その4」に向かって邁進することになる。流石に昭和40年ともなると、木製車、2軸車は姿を消しているようだが、昭和30年代―1950年代後半期では、まだまだ幅を利かしていた。今回は金石線を。


右側はEB301+モハ611+サハ552+サハ604 左は1601 プラットホームの伸延はラッシュ時連結両数増加を示す

半鋼2軸車のモハ611 名古屋鉄道に大量にあった車両と同型であろう ポールは1本  

先回浅野川線で紹介したサハ600型の604 台車を篤とご覧あれ 床下トラス棒の両端はセンターピン位置と一致しないと効果が薄い筈だが これはどう見ても内側である
これは「まとも」な電車 モハ1601 半鋼車だがトラス棒があるのが京福電気鉄道ホデハと違う 浅野川線からの転属で、のちサハ1601として小松線に
サハ521←金石鉄道14←省コハ2476←簸上鉄道ホハ10 小生が情熱を注ぎ込んだ旧簸上鉄道の客車最終車で台車は菱枠様軸バネ入り 

昭和40年代の北陸鉄道金石線

EB123  42年3月21日  中橋(左手の線路が国鉄金沢駅との連絡線)

湯口先輩より10月8日【9875】と10月16日【9947】で昭和30年代の北陸鉄道金石線、小松線を元簸上鉄道の客車を中心にご紹介いただいたが、昭和40年代の金石線の状況を紹介する。

湯口先輩撮影の写真を補足させていただくと【9875】のトップ「サハ521+サハ604」のサハ604は、乙訓の長老の解説の通りで、6両在籍し601~603が石川総線、604、605が金石線、606が浅野川線に所属し、昭和36年から37年にかけて廃車された。台車まで鮮明に写っている写真を見たのは初めてで、改めてクローバー会の諸先輩の実力を感じた。3枚目の写真の手前はモハ611で、金石線の前身、金石電気鉄道の11として昭和2年日本車輌で新製、北陸鉄道合併後の改番でモハ611、昭和35年7月電装解除してサハ701、浅野川線、金石線、小松線と転属して昭和40年10月に廃車された。

【沿革】

金石線の歴史は古く、明治31年2月長田町~金石間4.85kmを金石馬車鉄道として762mmで開業、大正3年8月1067mmに改軌と電化を実施して金石電気鉄道に改称、大正9年10月長田町~中橋間0.6km開業、大正12年8月金石~大野港間2.0km開業、昭和18年10月戦時統合で北陸鉄道に合併し、同社の金石線となり、昭和46年9月1日全線の営業を廃止した。中橋~金石間は県道と並行しており、全線軌道法の適用を受けていた。

【訪問時の状況】

金石線を訪れたのは、現役時代の昭和42年3月と昭和44年3月、社会人になってからの昭和45年10月と昭和46年3月の4回で、電車に関しては諸先輩が撮影された個性的な車両は姿を消し、ほぼモハ3000形に統一されていた。始発の中橋駅は金沢駅の裏手にあり、国鉄とは線路は繋がっているものの乗客は徒歩連絡であった。当時電車は30分間隔で運転されていたが、並行する県道には市内中心部香林坊~金石間に同社のバスが頻繁に運行(現在もほぼ10分間隔)、大野港までも30分間隔(現在はほぼ1時間間隔)で運行され、電車の利用者は通勤、通学客以外は極めて少なかった。

【車両】

昭和46年3月時点での車両は、電気機関車3両(EB123、ED211、ED231)ディーゼル機関車1両(DL21)電車6両(モハ3001~3005、クハ1201)であった。

①電気機関車

EB122/昭和55年9月14日廃止になった能美線(新寺井~鶴来)の前身能美電鉄が開業時に新製した木製4輪車デ2として大正14年日本車両製で新製された車両である。昭和34年に電気機関車に改造され、EB122となり、昭和41年にボギー車化された。白菊町駅の入換に使用されていたが、昭和45年3月金石線に転属となり、同線廃止により廃車となった。

 

上/45年10月11日 下/46年3月20日 金石

ED211/元能美電鉄のデ3として作られた車両で、前述のEB122とは同一グループであった。昭和38年に電気機関車に改造されEB123となり、昭和41年に主電動機を4個に増強されED211となった。

 

46年3月20日 中橋

ED231/元能美電鉄のデ8として作られた車両で、昭和5年日本車輌製の半鋼製4輪車であった。一旦電動貨車モヤ621に改造後EB131となり、昭和41年ボギー車化の時の主電動機を4個に増強されED231となった。長く石川線で活躍していたが、昭和45年3月EB122と共に金石線に転属となり、同線廃止により廃車となった。EB122、ED211とは異なり、電車時代の面影が強く残っていた。

 

42年3月21日  新西金沢(石川総線時代)

②ディーゼル機関車/昭和38年協三工業製の小型DLで、北陸本線の交流電化に伴い、金沢駅での自社の電気機関車による貨車の受渡しが不可能になったため作られた。

 

46年3月20日 中橋

③電車

モハ3000形(3001~3005)/昭和24年日本鉄道自動車で新製され、石川総線の主力であった。昭和39年名鉄から転入したモハ3700形(元名鉄モ700形)の投入により5両とも金石線に転属した。モハ3005は石川総線時代の事故復旧時にノーシル・ノーヘッダー、張上げ屋根、正面に貫通扉の設置が行われ、近代的なスタイルとなった。その他の車両についても前面窓のHゴム化(3001、3002)、窓枠のアルミサッシ化(3004)等が実施された。金石線廃止後は全車両小松線に転属し、従来の車両を置換えた。

 

モハ3001  46年3月20日 金石

 

モハ3003  42年3月21日 中橋

 

モハ3004 上/45年10月11日 中橋 下/46年3月20日 金石

 

モハ3005 46年3月20日 大野港

クハ1201/河南線の前身、元温泉電軌のデハ29が前身で、昭和18年木南車両で作られた。北陸鉄道合併後の改番でモハ1816→モハ1832となり、昭和37年に電装解除してクハ1201となって浅野川線に転属した。昭和45年に金石線に転属となったが、廃止後再度浅野川線に戻った。

 

46年3月20日 大野港

【参考1】金沢機関区一般公開

昭和45年10月11日訪問時、偶然にも金沢機関区の一般公開日であった。現在も鉄道記念日前後の土曜日、日曜日に全国各地で機関区等鉄道施設の一般公開が行われて多くの見学者で賑わっているが、この時はそれほど見学者は多くなかった。

 

【参考2】快速こしじ

快速「こしじ」は、電車急行を特急に格上げした時に余剰になった471系、475系等を使用して富山~福井間で運転されていた快速電車であるが、一部気動車による運転もあった。当時の時刻表が手許にないので詳細は不明であるが、この列車の運転区間は金沢~富山間であったのだろうか。45年10月11日金沢駅の七尾線ホームでの撮影である。

1957年5月/1958年7月北陸鉄道その3


北陸鉄道加南線モハ1821 大聖寺 近畿車輛で車体新製 台車電気部品は木製車のもの

1957年5月3日北陸路は大聖寺の加南線からだが、夜行で着いて、電車を2本撮っただけである。
中々に整った電車なのは認めるが、小生は木製車を撮りにきたのだから、まあ折角だから撮っておこうか、ぐらいの気持ち。それでもポール付の姿はこれが最後になった。


加南線モハ1812 大聖寺 木南車両1943年製

松任では松任工場に入場する社型国電(旧宇部)モハ1301+クハ5301が止まっていた。これは確かずっと以前にご高覧に供した筈である。

金沢では先ず浅野川線へ。


浅野川線サハ211←浅野川電気鉄道ハフ24 日車1925年製


サハ221←浅野川電気鉄道ハフ23 汽車東京1925年製

サハ606←ハフ21 車体は名古屋市電ボギー車のお古 台車は雑形3軸ボギーからの改造 

モハ572←カ12 浅野川電気鉄道生え抜き 汽車東京1925年製


モハ851←国鉄モハ1900←伊那電気鉄道デ101 汽車東京1923年製

モハ1601←浅野川電気鉄道デハ2 日車1927年製 のち小松線サハ1601 

小生に電車の講釈が出来るわけもないから、サハ600のみを。車体は一見して分るように、かなり細身で、その割には長めのボギー路面電車の成れの果て―名古屋市電を鋼体化改造した際廃棄した木製車体を再生したものと聞くが、詳しくは知らない。乙訓ご老人の出番であろう。

問題は台車で、これが珍物である。国鉄雑形3軸ボギー客車の台車を切断し、2軸に縮めたとしか思えない代物だからである。一般に3軸台車のイコライザーは左右非対称だが、これは対象に見えるから、イコライザーを中間で切断し、継ぎ合わせたか。施行は名古屋市南区にあった三山(さんやま)工業なるところだそうな。車両絶対不足時期ならではの工夫だが、この付随客車は北陸鉄道に6両あった。

2010年秋1番 Part3 水島臨海鉄道

10月4日
① 倉敷SH 2:40:→3:00 川鉄前車庫 3:10→3:30 球場前駅 3:40→4:00 倉敷SH
② 倉敷SH 6:10→6:40 球場前駅付近 7:30→7:50 浦田駅~弥生駅間
③ 浦田駅~弥生駅間 8:40→8:50 川鉄前車庫9:00→9:30倉敷市駅

ガラガラの国道を約10分も走りますと、水島色の2両と、2002年9月1日に赤穂線開業40周年を迎えた折にJRに貸し出され、国鉄色に塗り替えられた2両が車庫にいました。これで一安心です。

この日の運用は、
① 三菱自工前 6:46→7:12 倉敷市 7:18→7:44 三菱自工前
② 三菱自工前 7:49→8:15 倉敷市 8:20→水島8:46
以上の2往復が予定されていましたので、1番列車は球場前駅~西富井駅間の大築堤で撮ろうと、ロケハンにも向かいました。
今日は、ホテル自慢の無料の美味しい朝食は、6:30~8:30までなので、丁度撮影時間で食べられません。仕方なくコンビニでサンドイッチを買い、ホテルの部屋で食べながら、先日乗車時に撮った走行ビデオを見て、撮影候補地を確認して出発準備をしました。

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2010年秋1番 Part2 片上鉄道柵原ふれあい鉱山公園

① 10月2日 長岡京21:30(中国道)→22:50加西SA (約100キロ)
② 10月3日 加西SA 6:00(中国道・播但連絡道)→6:40生野駅 (約31キロ)
③ 「道の駅あさご」 12:20(播但道・中国道)→14:20「片上鉄道柵原ふれあい鉱山公園」 (約120キロ)
④ 「片上鉄道柵原ふれあい鉱山公園」 16:20(山陽道)→18:30倉敷SH (約100キロ

キハ181系「特急はまかぜ号」と彼岸花とのツーショットも撮れたので、今日の目的は達成と納得して、雨の高速を「片上鉄道柵原ふれあい鉱山公園」へと向かいました。

恥ずかしながら片上鉄道は、和気駅で車両を見るのみで、営業中に乗ったこともなければ、撮ってもいません。総本家さんは、何回か来たと話してくれましたので、目的地は熟知していると思っていましたが、やはり約40年前の記憶は沿線風景も変わっていて、確認できず近くに来ても迷走です。仕方ありません。いつものように嗅覚と勘を頼りに辿り付きました。
▲ 入場料は、200円。これで何回もDC乗車できます。保存費用もかかりますので、安すぎます。500円以上は取っても良いのではと思いました。

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江若鉄道三井寺下再現(その5)

当方も毎度お騒がせ致しております。レイアウトの工事が進まない代りに 蒸機が1両増えました。戦時中の昭和18年に入線した100号機で もと宇部鉄道100→省205→江若100という1B1サドルタンク機です。日本では数少ないバルカンアイアン製。昭和23年には神戸製鋼へ転出したため 江若鉄道では5年余しか在籍しておらず、我々には馴染みのないカマです。オークションに中村精密製のB1バルカンアイアンの完成品が出たので これを落札して入手。サドルタンクを煙突部分まで延長し、キャブは作り直してコールバンカーを短くし、先輪を取り付けたりして100号らしくなりました。この100号については臼井茂信著「機関車の系譜図」と牧野俊介著「岡山より汽車を求めて」に宇部時代の写真があり それを参考にしました。これで私の江若鉄道にはC111,1118、6,100の4両の蒸機が揃いました。今後蒸機を増備するなら ダベンポート製の1号機関車、コッペル製3号機、ボールドウイン製5号機といったところになるでしょう。車輌の増備より 早くレイアウト工事を進めろと株主から責められそうですので、あまり浮気はしないことにしましょう。

1957年5月/1958年7月北陸鉄道その2

落語の枕ではないが「えー毎度お古いお噂で」とでも言わねばならない、半世紀以上前のカビの生えたような写真で恐れ入るが、まあ老い先短い老人に「お付き合いの程、願っておきます」。

今回から、1957年5月に加え、翌1958年7月撮影を加えている。この間にポールからZパンタに変わっているからで、Zパンタだと1958年の撮影である。先ずは大分以前に1954年撮影をご覧頂いた小松線から。この線はすべて尾小屋鉄道に行った時の「ついで撮影」である。旧簸上鉄道ホハ4→省コハ2470→金石鉄道ハ12→北陸鉄道ハ12→サハ511は中妻撤去、密閉化されている。

サハ571は枝光鉄工所製、何とも不細工な車両である。短くてずんぐりむっくり、窓が小さく、低く、屋根が深く、扉幅が狭く、床高は結構あるなど、よくこれだけ泥臭くデザインをしたものと感心するほかはない。温泉電軌ホデハ15→北陸鉄道モハ841→サハ571という経歴で、加南線からの転入だそうな。

モハ501~503は当線生え抜きで、新潟鉄工所製白山電気鉄道デ1~3である。ベンチレーターがやや古めかしい「お椀」型だが、昭和の生まれ。以前ご覧に供した1954年3月撮影時は1本ポールだったが、一人前にZパンタを装着している。モハ503は加南線を経て浅野川線に転出し、EB221と電気機関車に、しかもボギー車に化けている由。

ちょっと気になっていた電車

 能勢電に「日生エクスプレス」と言う阪急梅田直通の特急がある。趣味誌の阪急特集では必ずその姿が紹介され、一度は記録したいと思いながら今日に至っていた。今回、小学校の同窓会参加を理由にその撮影機会ができたので、古い写真と併せて報告する。

 能勢電は妙見山参詣を目的に設立され、先ごろ100周年を迎えた変貌著しい鉄道である。北摂を走る参宮電車(参宮は特に伊勢参りに使われる言葉であるが)のような存在で、始発駅川西能勢口を出た所と鶯の森~鼓ケ滝の猪名川橋梁には京阪電車顔負けの大カーブが存在した。 また、1960年代後半には多田グリーンハイツの開発に進出した西武グループの株買占めがあり、阪急が防衛したとの話も聞く。

2010.9.30 平野~一の鳥居 特急「日生エクスプレス」梅田行き8106

生憎の雨であった。十三のホテルを出てとりあえず山下まで行ってみる。通勤客が傘をさして並んでいる所に割り込んで撮るのも気が引けるので平野に戻り、一の鳥居寄りの山間ムードの残る踏み切りで撮影。それにしても昔の田舎電車風景は完全に消え失せていた。日本の鉄道で最も激変したのがこの能勢電であると思う。

 

2010.10.1 豊中 梅田行き特急「日生エクスプレス」 8041

 翌日は阪急宝塚線豊中駅で撮影。人間永いことやっていると雨の日も晴れの日も交替と言おうか平等にやってくる。雨でもくさらないこと。雨上がりの好天に恵まれ、連続してやってくる阪急ご自慢の電車の中で赤いマークの特急「日生エクスプレス」は一際際立って見えた。尚、余談であるが、以前阪急宝塚線には特急が走っていた。今は、急行が宝塚側終点部分が各駅停車となる以前の運行形態であり、、スピード制限が多いことも相俟って関東の相模鉄道に似た感じがしないでもない。

 

1965.10.29 平野 29

 新京阪P-4、P-5がポールを振りかざして走行し、鋼体化された単行の車両も居た頃で、妙見山を始め沿線の行楽地も賑わったであろう時代である。小生も小学校時代にこの電車に乗り、猪名川渓谷一庫(ひとくら)温泉でキャンプをしたり、秋の遠足で多田神社に行ったことがる。端正なスタイルの木造車であったP-4、P-5一族も翌年訪問した時はパンタ化されていたが、その後、阪急の小型車投入により間もなく消滅していった。なお、当時のメモに詳細な記録がなく、フィルムネガの前後から撮影した場所は平野駅と推察した。因みにこの頃の交換駅は絹延橋(車庫があった)、鶯の森、多田、畦野、山下で他に平野~一の鳥居に塩川信号所、笹部~妙見に隊道東口信号所があった。平野は妙見に向かって右側にホームがある行き違い不能の駅で写真からそう推察した。

 

1983.11 山下 日生線323+320

 320型は阪急小型車のうち最後まで原型に近い姿を保っていた。日生線と言うニュータウン開発に伴ってできた新線内専用に活躍する320型最後の頃の姿である。よく見ると後の320のパンタグラフは撤去されている。能勢電入線当初は500型と同じくステップをはずしていたが、阪急2100系改め能勢1500系入線とともに再びステップをつけたものと思われる。宝塚線急行の先頭に立っていた頃がこの電車の絶頂期である。

 

1983.11 笹部~光風台 妙見口行き610

 500型のモーター、台車等を利用して車体新製した車両で小型車ながら整ったスタイルで人気が高かった。最初の車両は800型と同じ様に非貫通スタイルでこれは人により好き嫌いがあった。

 

1983.11 笹部~光風台 川西能勢口行き1501

 元阪急2100系。能勢電の昇圧は1995年3月であり、この時期はまだ600Vで、この車両は600V車両として新製後昇圧→降圧→昇圧を経験して今日に至っている。この頃の能勢電はまだ単線ではあるが大型車両が入り始め、田舎電車から準大手並みに脱皮する過度期にあった。写真ではわかり難いが、山の上には戸建て住宅が見える。

 激変した能勢電車であるが、まだまだ探せば自然をバックに撮れるかもしれないと淡い期待を持ちつつ又、来年の紅葉の頃に再訪したいと考えている。

2010年秋1番 Part1 播但線を訪ねて

102 長岡京2130(中国道)→2250加西SA (約100キロ)
103 加西SA 600(中国道・播但道)→640生野駅 (約31キロ)
「道の駅あさご」 1220(播但道・中国道)→1420「片上鉄道柵原ふれあい鉱山公園」 (約120キロ)
「片上鉄道柵原ふれあい鉱山公園」 1620(山陽道)→1830倉敷SH (約100キロ)

今年の夏は本当に暑かった。そして長かった。家庭事情が突発し、長旅が出来ず「青春18きっぷ」を使って、秋の撮影ロケハンのために紀勢、福知山、播但、姫新、伯備、吉備線のローカル線や御坊、井原、水島臨港鉄道への日帰り乗車を続けていましたが、この程度では、ストレスは溜まるばかりで身体の健康上良くありません。

そろそろ短期間なら行けそうな状況となりましたので、北海道へ一緒に行った「総本家」さんと、毎月1回第1日曜日に保存会の手によって動態保存運行されている「片上鉄道」の様子を見に行こう。途中で播但線も撮りたいと計画していましたら、翌月曜日に「水島臨港鉄道」のキハ20形が沿線の修学旅行のために4両が定時列車として運行されるとの美味しい話が聞こえてきましたので、これも行かねばと話がまとまりました。

土曜日自宅で夕食を済ませてから「ぶんしゅう7号」にて、中国道を走り「加西SA」で、車中泊。翌朝夜明けに播但道を走り生野駅へと向かいました。生野駅からは、線路に沿った側道を走り定番の撮影地に着きましたが、天気予報どおり曇り空です。山間とあって、増感をしないと的確なシャッタースピードを得られません。

▲ 7:42 寺前発和田山行き1225D、キハ41-2003。
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最近の十和田観光電鉄

9852で藤本先輩の昭和40年代の紹介がありましたので、昨年 平成21年9月26日に訪問したときの写真を紹介させて頂きます。車両数は機関車2両(ED301、ED402) 電車10両(モハ7701-クハ7901、モハ7702-クハ7902、モハ7703-クハ7903、モハ7204、モハ7305、モハ3603、モハ3401) 貨車2両(トラ301、トラ302) 当時と車両数はあまり変わっていませんが、運用中の車両はすべて東急からのステンレスカーとなっています。

平成20年3月1日 (旧)十和田観光電鉄から「とうてつ」に事業譲渡し、(新)十和田観光電鉄に社名変更させた上で新会社による運営開始をしているそうです。

下は モハ7703-クハ7903  (元東急デハ7711-クハ7911) です。

 

下は  モハ7701-クハ7901  (元東急デハ7704-クハ7904) です。

 

以上の2本が運用中でした。

クハ7902は庫の中でした。 (元東急クハ7909)

相棒のモハ7702 (元東急デハ7709)は外で待っていました。

下は モハ7204  (元東急デハ7211の両運転改造車) です。

下は モハ7305  (元東急デハ7259の両運転改造車) です。

 

モハ7204とモハ7305の連結部です。2両で仲良く車庫で昼寝中でした。

モハ3401 動態保存 イベント用です。きれいな色ですね。

モハ3401 動態保蝌・?イベント用

モハ3603 動態保存 イベント用です。 元東急デハ3655できれいな東急グリーンになっています。

ED301も元気でした。
ED402はモハ3401、モハ3603、トラ301、トラ302と手をつないでお休み中でした。
以上 青空と稲穂のきれいな秋の十和田でした。  T.INUBUSE

1957年5月北陸鉄道その1


サハ521+サハ604
金石線サハ521←北陸鉄道ハ14←金石鉄道ハ14←省コハ2475←簸上鉄道ホハ10 台車は菱枠型

しつこく九州が続いたので、今回は気分を換え、古いのは同じだが、53年前の北陸鉄道を何回かに分け、ご覧に供することにする。以前1954年3月撮影分は、確か小松線と金石線をご覧頂いたと記憶するが、今回は加南線、浅野川線、金石線で、要は旧簸上(ひのかみ)鉄道買収客車の最終活躍の姿を撮るのが最大目的。他の電車―木製車ならまだしも、半鋼製電車なんぞは、まあつけたりというか、おまけというか、目の前にいるんだから撮っておこうか、ぐらいの気分であった。今回の撮影は全て1957年5月3日で、旧簸上鉄道の客車に絞る。

以前の小松線、金石線の際も少し記したが、その後この一連10両の旧簸上鉄道の小型ボギー客車には、ぞっこん惚れ込んだ。早い話一時期カンカンになっていたのである。バッファーを含めて全長32フィート9インチ(9,373mm)と短く、最大幅は8フィート2インチ(2,480mm)だが、車体実幅は7フィート(2,134mm)と、ニブロク軽便並みである。屋根は浅いダブル、両端は貫通式窓付オープンデッキ。サイドの出入り口上部には飾り金具があった。

木次線は1932年12月18日木次-出雲三成間が開業。宍道-木次間1916年10月11日開業済の簸上鉄道を1934年8月1日買収して木次線につなげ、かつ線路規格を改修。こんな小さい客車も、一旦鉄道省としての形式番号が与えられはしたが、勿論すぐ処分された。

ホロハ1~3はコロハ1620~1622に付番されたが、出石鉄道に行き、そこも戦時中の企業整備で東武鉄道に転じたが、浅草に留置中2両が戦災に遭い、1両のみ日光線コハ120に。あとの7両コハ2470~2476は、ことごとく金石鉄道、温泉電気軌道、金名鉄道と、北陸線沿線の小鉄道に再起し、北陸鉄道に統合されたのであった。

北陸鉄道に集結したこの7両は、製造年次や台車に若干差異はあるものの、まあ同型とみなして差支えない。しかるに北陸鉄道車両課は僅かな寸法的差異等をことさら強調?し、配属先線区毎にサハ501、511、521、551、561と実に5型式に区分した。合体後の三重交通車両課とよく似ている。

前回ご覧頂いた1954年3月撮影のサハ511(小松線)、サハ521、551(金石線)はまだオープンデッキだったが、3年後ではことごとく中妻、貫通路も撤去され、箱型車体に改造・締め直されていた。引戸が設けられ、当然次位の窓は戸袋に、扉下には踏み込みが付された。


サハ552←北陸鉄道コハ2←金名鉄道コハ2←省コハ2475←簸上鉄道ホハ9 妻面の手ブレーキはベベルギヤを使った 日車この時期の小型客車に独特の野上式 台車が菱枠型なのは野上八重治辞職後の製品だからである
サハ562←北陸鉄道ハフ8←温泉電気軌道ハフ8←省コハ2472←簸上鉄道ホハ6 台車は3号野上式弾機台車

なおこの小型ボギー客車は、日車の技師長に鉄道院から野上八重治を招聘した時期に重なる。彼は日車入りするやすぐ欧米視察に出してもらい、帰国するや矢継ぎ早に発明を特許化。軽便用を含め台車の弾機で4種、手ブレーキ2種等々で、当時需要が高かった小型ボギー客車に片端から装着して送り出した。彼なりに外遊のの恩返しでもあったのであろうが、構造が奇抜すぎた。

今回の写真では、最後のサハ560型の台車弾機をよくとご覧じろ。何やらオイルダンパーと間違いそうで、正直小生も最初に見た時はてっきりそう思った。これは野上八重治が3番目に発明した「野上式3号弾機台車」で、一種の原始的な空気バネのようなもの。頚城鉄道のボギー客車全部がこれを装着しており、現在も1両だけ残る旧畳敷客車改造のホジ3に健在である。

彼の発明した弾機台車中、1号型は井笠や宮崎など、温暖地では別段のことはなかったが、皮肉にも北陸、信越の雪国発注の客車に集約して装着され、ことごとく冬季雪を抱き込んで危険状態に陥っている。頚城鉄道では無認可で3号型に有料交換、石川、丸岡、栃尾鉄道では通常のダイヤモンド台車に交換=恐らく日車の無料アフターサービスと思われる。野上は山陽鉄道出身で、豪雪地帯の実情に疎かったのであろう。

こんな台車を売りつけられた方こそ、いい迷惑であった。なお野上式弾機台車4号型は冬季に限らず丸っきりの欠陥台車で、簸上でも1両に装着していたはずが、簸上時代に振り替えられていたと思われる。残りはまとめて兵庫電気軌道に赤字で叩き売り、バラック応急電車といわれた22~28が装着した由だが、長生きはしていない。折角招聘した技術者だったが、その後すぐ辞めた(辞めざるを得なかった?)ので、日車は心底ホッとしたはず(社史『驀進100年』には勿論そんなことは書いてない)である。彼は野上式自動織機を発明し、それを製作販売する会社を興し、独立したのであった。

少し前の十和田観光電鉄

【9754】「川重製のみぶ型」のコメントで、K..生さんが十和田観光電鉄のクハ4406について触れられたので、昭和40年代の状況について少しだけ書いてみたい。同社については、乙訓の長老が昨年9月1日【4255】賛書紹介「あの電車を救え!」で昭和32年頃に撮影された貴重な映像を紹介されておられるので併せてご覧いただくと共に重複部分があることをお許し願いたい。同社を訪れたのは、京阪沿線の高校時代の昭和40年3月、現役時代の昭和42年9月、社会人になってからの昭和46年5月、昭和50年9月の4回である。その後訪れた方がおられたら是非報告をお願いしたい。

【沿 革】

現在の東北本線の前身の日本鉄道は、明治23年11月盛岡まで開通し、十三本木峠を越え、三戸から更に陸羽街道(現在の国道4号線)沿いに北上し、野辺地から陸奥湾沿いに青森に向かう予定であったが、街道沿いの旧宿場町の反対に会い、尻内(現八戸)、古間木(現三沢)、沼崎(現上北町)を経て野辺地に至るルートに変更された。陸羽街道沿いの五戸、伝法寺、藤島(三本木)、七戸の各宿場町は幹線鉄道から取り残され繁栄を失ってしまった。三本木から鉄道に最も近い古間木駅まで16キロ離れており、徒歩か馬車しかなく、この区間に鉄道を望む声が上がるのは自然の成り行きであった。

このような状況下で大正3年6月十和田軌道が設立、大正9年10月十和田鉄道に社名変更、大正11年9月14日古間木(現三沢)~三本木(現十和田市)間を軌間762mmで開業した。戦中、戦後の混乱期を乗り越え、昭和26年6月20日1500Ⅴ電化と1067mmへの改軌を同時に完成させ、一夜にして近代的鉄道に変身した。電化工事一式を日立製作所が請け負い、同社製の電車4両と電気機関車1両が新車で用意された。青森県下では弘南鉄道が昭和23年7月に電化、弘前電鉄が中央弘前~大鰐間を昭和27年1月に新規開業しているが車両はいずれも中古車であった。同年12月30日社名を現在の十和田観光電鉄に変更、昭和30年9月には十和田湖で遊覧船事業を開始した。

昭和43年5月16日に東北北部を襲った十勝沖地震は当社にも大きな被害をもたらし、その復旧費に多額の資金を要したため経営危機に陥り、昭和44年10月経営権を国際興業に譲渡した。被害の状況は、当時の新聞等によると「三本木駅は大破して倒壊寸前、線路は架線の支柱が傾き、レールは軌道床が崩れて梯子のようにぶら下がり、途中駅もメチャメチャに壊れている」と報じられている。余談であるが、尻内(現八戸)~五戸間を営業していた「南部鉄道」は復旧を諦めバス専業となった。

社名のイメージからは十和田湖へのメインルートのように思えるが、十和田市駅から十和田湖(休屋)行のバスは1日1往復しかない。途中の焼山まで7往復あり、青森駅または八戸駅発のJRバスに乗換えることは可能である。十和田湖へは青森駅、八戸駅からのJRバスがメインルートとなり、花輪線十和田南駅からのルートはすっかり寂れてしまい、弘南黒石駅からのルートはバス路線が廃止されてしまった。

【車 両】

昭和50年9月時点での車両は、電気機関車2両(ED301、ED402)、電車7両(モハ2403、2405、クハ2404、モハ3401、クハ4406、モハ1207、クハ1208)であった。電車の車号の下1桁はモハが奇数、クハが偶数になっている。

(1)   電気機関車

ED301/昭和26年7月の電化、改軌時に投入された日立製作所製の30t機関車で、入線時は貨物列車の他、混合列車にも使用されたが、昭和37年ED402の入線後は、構内入換と除雪が主な任務となった。現在も廃車にはなっておらず健在であるが、使用頻度は極めて少ないものと思われる。(4292 三本木)

 

ED402/昭和37年4月に新製した川崎車輛製の35t機関車である。貨物列車の主力として活躍したが、昭和61年11月貨物取扱が廃止され、以降は工事列車の牽引、除雪等に使用されている。(46529 十和田市)

 

(2)   電車

モハ2403、2405・クハ2402、2404

昭和26年の電化、改軌時に日立製作所で新製された半鋼製車でモハとクハは同形である。共に両運転台付であったが、昭和42年9月2日撮影時にはクハ2402の三沢寄りの運転台が撤去されて片運化されていた。新製時の車号は、モハ2401、2402・クハ2401、2402であったが、重複車号を避けるため昭和33年8月7日付で現車号に改番された。

昭和43年12月事故によりクハ2402が廃車(日付は45年3月25日)、残りの3両も元東急のモハ3809、3811・クハ3810と代替で昭和56年12月18日付で廃車された。

 

上から モハ2405+クハ2404 (46529 十和田市) / モハ2405+クハ4406(5091 三沢) / クハ2402(4292  三本木) / クハ2404 (4292  三本木)

*「三本木」は昭和44年5月15日に「十和田市」に改称している。また「古間木」から「三沢」への改称は昭和36年3月1日である。

モハ3401

昭和30年5月に帝国車両で新製された全金車で、広窓の18mを越える車体は当時の地方私鉄の車両の中では最優秀作品であった。平成14年に元東急のステンレスカーと代替で廃車になる予定であったが、動態保存されることになり、現在でもイベント時等に元気な姿を見ることができる。

 

上 旧塗装(4292  三本木) 下 新塗装(46529 十和田市) 

クハ4406

昭和36年6月に川崎車輌で新製された全金車で、車体はモハ3401とよく似ているが、貫通扉に方向幕を埋め込む等、更に洗練されたスタイルになった。基本的にはモハ3401と編成を組んだが、モハ2400、元東急のモハ3800と組むこともあった。平成14年に元東急のステンレスカーと代替で廃車となった。

 

上 旧塗装(4292  三本木) 下 新塗装(5091 十和田市) 

モハ1207、クハ1208

昭和44年11月1日に廃止された定山渓鉄道のモハ1201、クハ1211が前身で、昭和45年に入線した。幅の狭い窓がズラリと並び、座席は一見クロスシートに見えるがロングシートである。モハ、クハ共に正面2枚窓、両運で運転台は右側である。他車とは制御器が異なり連結が不可能なため、モハ1207の単行かモハ1207+クハ1208の2連で使用されていた。平成2年3月、東急からの転入車と代替で廃車となった。

 

上 モハ1207 下 クハ1208 (46529 十和田市) 

(3)   たまにはバス (またバス?)

昭和50年に訪れた時は何故かバスを撮影している。今となれば結構珍しい車両もあるので紹介する。(撮影日は5091 十和田市) 

青2く6228/青森行急行バス 42年式 いすゞBU10P(川崎航空機)

 

青2く6234/ 42年式 ふそうMR620(クレハ)

「ふそう」中型車の元祖的なバスで、関西では京阪バス、江若バス、有田鉄道等に存在した。京阪バスはボンネットバスと共通運用で大津市内線、江若バスもボンネットバスと共通運用で和邇~途中線等で使用された。後にB6(B620等)シリーズ→MK(MK115→MK116)シリーズへと進化していった。

 

青2く6257/ 42年式 いすゞBU20KP(川崎航空機)

「オバQバス」と言われた車両で、関西では丹海バスの京都~間人間の快速バスに長く使用されていた。

 

青2く6267/ 42年式 ふそうMAR470(クレハ)

 

青2く6349/ 43年式 ふそうMAR470(川崎航空機)

比較的珍しい「ふそう」「川崎」の組み合わせであるが、登録ナンバーに注目していただきたい。登録ナンバーの下2桁「42」「49」は永久欠番の筈であるにも関わらず、「49」が付番されている。登録作業がコンビ―タ化される前、青2く6000番台が十和田観光電鉄の割当ナンバーで、自社で自由に付番できたことが原因と考えられる。ちなみに現在は希望により付番は可能である。

鉄道映画特集

京都駅ビル内「駅ビルシネマ」では10月14日の鉄道の日を記念して、

既に始まっておりますが、10月5日から19日まで、「鉄道のある風景」と銘打って、鉄道の登場する内外の作品を上映します。

詳しくはこちら

 

http://www.kyoto-station-building.co.jp/cinema/access.html

 ビデオテープ時代からDVDの現在に至るまで、映像ソフト化されていないものが多く、

名画座も消えた昨今では、またとない鑑賞の機会でしょう。

何とか都合をつけて行ってみようと思います。