江若鉄道、思い返せば、鉄道趣味活動の原点でもあったと思います。
廃止されたのは昭和44年11月1日、私は現役の2年生でした。眼にするもの、すべてを吸収したい世代、しかも大学は紛争で6月からずっと封鎖中、これ幸いにと毎日のように江若へ通ったものでした。中でも、営業最終の10月31日から、さよなら運転の行われた11月1日にかけて、沿線の同志社北小松学舎で、DRFCメンバーとともに合宿を行い、メンバーとともに最後を見届けたことが、ひときわ心に残ります。何回かに分けて、江若の最後の2日間を写真とともに振り返ってみました。
▲営業最終日10月31日の朝一番列車は21+51+52+8の4両編成。最終日を待たずに、譲渡車輌は転属してしまい、廃車予定の車輌だけでのやり繰りだった
家で明日からことを何気に思案していた時だった。ふと思いついたのが「江若にDRFCのヘッドマークを着けてみたい」だった。と言っても、時間も金もないから、有り物で作るしかない。
ベースは写真の木製パネルを流用、これに画用紙を貼り、マジックインクでレタリング、周囲をクリスマスツリーのモールで飾ると、何とか見られるヘッドマークが出来上がった。締めて費用はゼロ、もちろん江若の許可も何も無いが、ぶっつけ本番、何とかなるだろう。徹夜の作業になってしまい、出来上がったときは夜が明けきっていた。
▲霧の堅田駅で。時計を気にする駅長がタブレットを持って、交換列車に備える
▲近江今津に着くと、大勢の高校生が下車し、集札口を埋め尽くす
さて、10月31日、京津線の一番電車に乗って、浜大津を目指した。
10月27日から、昼間の列車はすべて運休して代行バスになっていた。列車は朝夕にしか運転されていないから、最後の日に、朝の列車で近江今津まで往復したい。数回は近江今津まで行ったことはあるが、クルマに同乗して行ったもので、北小松以北、終点まではまだ乗車した経験がない。何としても朝の列車で近江今津まで往復し、最初で最後の終点往復を果たしたかった。
浜大津から6時15発の第一列車に乗った。車輌にはすでにモールで飾りつけがされていた。車窓から見る光景は、淡い霧に包まれていたが、陽が昇るに従って、霧も晴れてきて青空が広がってきた。キラキラ輝く湖面の反射が、徹夜した眼にはまぶしい。各駅には、廃止を伝える看板が置かれ、モールで飾られたメッセージボードもある。いよいよその現実を実感する。
交換する列車は、いつもどおり通学生を中心に満員。各駅に停車するたびに、駅名標を中心にして写真を撮り続ける。列車は、7時50分近江今津に着いた。浜大津から所要1時間35分、現在なら同区間を湖西線新快速で半分以下の40分で走ってしまう。折り返しの8列車までの30分、終点の光景を撮り続ける。朝の最終がこの列車で、それを逃すと15時30分までない。
▲40年後の今もまだ残る近江今津の駅舎、廃止の看板が立てかけられている
▲各駅に掲げられた廃止のメッセージボード。当時、流行り出した”タイポス”という書体を使ったボードで、少し江若のセンスを感じた
▲広い近江今津駅、長いホームの先端に乗ってきた1列車の編成が見える
▲名残を惜しんでいた女子高校生が、駅員とともに記念写真に収まっていた
▲折り返しの8列車にも近江今津から乗客が乗り込んだ
ホームでは、いかにも最終日らしい光景が展開されている。すがすがしい、というか、ちょっと胸が締め付けられるようなシーンだ。その後、最終日を好んで撮りに出かけるようになったのも、この近江今津駅の体験が原点になっているようにも思う。
折り返しの8時20分発8列車で去るが、編成は行きと同じ4両編成、最初は空いていたが、各駅で乗車が続いた。途中で徹夜の疲れでいつしか寝入ってしまい、終点の浜大津で我に返ると、車内は超満員になっていた。
▲近江今津を発車した8列車の先頭車両、超ロングシートに客はまばら
▲安曇川に到着する。上下列車の交換があり、多くの乗客が待ち受ける。構内には明日からの代行バスが待機している
▲北小松で5列車キハ11と交換する。この時間帯になると、カメラを提げた乗客も増えてきた