2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part16 成都地鉄1号線全線乗車

第14日目 3月7日

①鉄路北駅11:09(地铁)→11:12升仙湖11:23→12:00世紀城
②世紀城12:17(地铁)→12:29鉄路南駅12:54→13:07天府广場
③天府广場(地铁)→13:55鉄路北駅
④成都17:15(D358)→8:50上海虹桥

今日は、CRH1Eに乗車して成都を去り上海へと向かいます。発車は17:15と十分時間がありましたので、ゆっくりと帰り仕度をして、まだ全線乗車をしていない成都地铁に乗ろうと出かけました。地上走行区間があれば撮影するつもりです。

続きを読む

2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part15 芭石鉄道 蜜蜂岩からの帰路

第13日目 3月6日

①蜜蜂岩11:31(芭石鉄道)→12:02石渓
②石渓站13:13(Taxi)→14:40楽山肖埧站
③楽山肖埧站15:10(バス)→17:22成都旅游客运中心
④華西埧17:48(成都地铁)→18:00鉄路北站


今日は、今回の芭石鉄道訪問最終日です。昼前の第2次で蜜蜂岩を去りますので遠くへはいけません。昨夜お会いした日本人の方は朝1番の列車で芭沟に向かわれていましたので、最後の撮影は蜜蜂岩站に近い定番撮影地でオーストラリア人一行と一緒に撮ることにしました。
▲ 10:07、第2次が上がってきましたが、期待の煙は今一でした。
続きを読む

2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part14 芭石鉄道 菜子埧~躍進

第12日目 3月5日

①蜜蜂岩6:47(芭石鉄道)→7:07菜子埧
②菜子埧站(徒歩)→12:30蜜蜂岩站
③蜜蜂岩站(徒歩)→14:50躍進站
④躍進17:56(芭石鉄道)→18:12蜜蜂岩

昨日は芭沟~蜜蜂岩間を行ったりきたり、ふかん撮影のための山登りも含めると約20キロは歩きましたので、足の不安は消えました。今日もしっかりと歩こうと1番列車で芭沟を目指しましたが、車窓から見る天候は昨日以上の霧です。予定変更をせざるをえないと判断して菜子で降りることにしましたが、降りてすぐに石につまずいて転んでひざ下を強打してしまいました。

これはえらいことになったと緊急用の湿布をしてサポーターを巻いてから、しばらく様子を診ることにしました。最近は老いてきたのかこういったアクシデントが多くなってきました。先日も長浜で一緒に撮影に同行させていただいた総本家さんにもご迷惑をおかけしました。そのために一人で動く時には常に緊急用品を持ち歩いていましたので役にたちました。
場合によっては民宿の陳さんに連絡して迎えの要請をしなければと覚悟しましたが、痛みが治まってきたので芭沟方向に歩くのは諦めて、民宿方向の撮影地としました。

▲ 7:49、芭石鉄道では3本指に入る撮影地ですが、今年は棚田に菜の花はありません。これからのためでしょうか棚田は区画整理されて菜の花は植えられていませんでした。それでも運転手はドレインのサービスは続けてくれました。来年は絶景が広がることを期待しました。
続きを読む

2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part13 芭石鉄道 芭沟~蜜蜂岩

第11日目 3月4日

①蜜蜂岩6
:45(芭石鉄道)→7:25芭沟
②芭沟站 7:10(徒歩)→19:00蜜蜂岩站



昨夜は9時過ぎにバタンキューで寝てしまいましたので、朝5時半には起き上がれました。今日は1番列車に乗って芭沟に行き蜜蜂岩まで徒歩での撮影予定です。幸いにして、足の状態も良くなってきました。しかり無理は禁物ですので、様子を見ながらとしました。
続きを読む

ユースで巡った鉄道旅 -7-

蒸機の牙城、筑豊に泊まる

鉄道旅でユースホステルに泊まることのメリットとして、撮影地近くに立地するユースの多いことが挙げられます。ホテルや旅館は人口の集積地や観光地が中心ですが、ユースは観光地とはおよそ無縁なところに立地している場合があり、それは鉄道撮影地近くと一致する場合がありました。
その代表例として、よく利用したのが飯塚市にある八木山(やきやま)ユースです。蒸機の牙城たる筑豊にあり、ここを基地にして、2日、3日と連泊して筑豊各地で撮影を続けたものです。私は累計8泊して、ユース宿泊回数としては最大を記録しています。
飯塚市に所在と言っても、ここは飯塚と福岡の中間、八木山峠の近くにあります。通常は、新飯塚で下車、遠賀川を渡って川向こうの飯塚バスセンターへ向かい、天神行きの西鉄バスに乗ります。飯塚市街を走り抜けると、九十九折の坂道となり、峠を越えたところにユースは所在しています。筑豊のイメージからはほど遠いような、緑豊かな地でした。
今でこそ、飯塚と福岡は、福北ゆたか線(篠栗線)が直結し、電車に乗れば40分余りですが、当時の篠栗線は吉塚から篠栗までの盲腸線、以降、筑豊本線桂川までは未開通、そのため博多へ行くには、バスに乗るか、さもなくば、鉄道なら原田周りの遠回りを強いられました。そのため、この区間のバスは、本数も多く結構な賑わいを見せていましたが、現在では、バイパスができて、峠越えの必要もなくなりました。現在、同ユースは、飯塚八木山高原ユースホステルと改称して盛業中のようです。

ユース最寄駅の新飯塚は、明治35年に貨物専用の芳雄駅として開業、昭和10年に旅客駅となり、「新飯塚」と改称された。本家の飯塚よりも、市の中心市街地に近く、以前から飯塚よりも乗降客が多い。当時の駅舎は、車寄せを持ったいかついスタイルで、北九州によく見られたドイツスタイルを継承している。一昨年だったか、久しぶりに新飯塚駅に降り立った。駅舎は橋上駅になり新しくなったものの、駅前の閑散さは目を覆うばかりであった。

日曜日の朝、北九州方面へ向かう多くの乗客が待ち受ける新飯塚駅に、C55の牽く上り列車が滑り込む。鉄道にまつわる情景は、当時とは変わってしまったが、地方路線での旅客の多さ、これだけは今では全く見られなくなった光景だ。左に停車しているのは、急行「天草」。博多経由ではなく、筑豊本線を経由して熊本へ向かう。ロネ、ロザを連結した、典型的な夜行急行列車であった。

ユースに泊まると必ず行ったのが、筑豊本線筑前内野-筑前山家間の冷水峠だった。冷水トンネルをサミットに両側に25‰勾配が続く。旅客はC55の単機、貨物はD60重連が標準。D50、D51も走る。鹿児島本線のバイパス的な役割もあり、旅客、貨物ともそこそこの本数があった。優等列車も、前述のように客車急行、DC急行、それにDC特急までもが走っていた区間だった。

2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part12 芭石鉄道 蜜蜂岩站へ

第10日目 3月3日

①鉄路北駅9:35(成都地铁)→錦江賓館(Taxi)→成都旅游客运中心駅
②成都旅游客运中心 10:30(バス)→12:22楽山肖埧站
③楽山肖埧站12:35(Taxi)→13:42芭石鉄道石渓駅
④石渓14:00(芭石鉄道)→15:06蜜蜂岩

7:30、昨夜はお風呂にゆったりつかってからベットに入りましたので、さわやかな朝を迎えられました。
▲ 朝霞の中に太陽が昇って来ました。CRH1の16両編成が白蛇のごとく発車していきます。
▲ 朝の成都駅。成都地铁の車内では新聞を読んでいる乗客がたくさんいます。今まで中国で全地铁には乗車していますが上海地铁ぐらいしかこのような光景を見ることはありませんでした。地铁駅では、自動販売機・ATMも設置されています。

続きを読む

2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part11 芭石鉄道行き決定

第9日目 3月2日

①乌鲁木齐13:34(K454次)→15:04成都
②鉄路北駅18:56(成都地铁)→19:08 錦江賓館

成都旅游客运中心駅(Taxi)→19:52汉都大酒店

49時間30分の乗り鉄旅を終えて15:04成都駅に降り立ちました。これから先はホテル予約はしていません。列車の切符もありません。切符が取れればすぐに昆明こ向かうか、あるいは芭石鉄道へと向かうかの選択肢がありましたが、その前に体調維持が優先されます。今日は成都で宿泊して休養を取ったほうが良いと判断しました。
準特急先輩がおられたらどうするのかと不安がられるでしょうが、成都は3回目の訪問で若干ですが土地勘はあります。以前に使ったことのある旅行社に頼むこともできますし、最悪の場合は前回宿泊したバックパッカー向けの日本人経営の「Sim’s Cozy Guesthouse」に飛び込みもできるかと楽観的に考えていました。


続きを読む

2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part10 49時間30分乗り鉄旅 K454乗車 

第8・9日目 3月1・2日
①乌鲁木齐13:34(K454)→15:04成都

翌朝起きて車窓を見ると、K454次はまだ赤土の広がるシルクロードの世界を走行中です。やがて列車は甘粛省地級市の「武威」に到着しました。

【客車列車の種類】 中国鉄路を走行する客車列車には、

Z列車=直達特快;最高速度160km/h対応の最新寝台車両を多くしてサービスを充実し、大都市間を途中停車を少なくして最短時間で結びます。軟座寝台のみといった編成も12本あり、全部で48本が運行されています。今回、北京西→兰州で利用しました。

T列車=特快;全土の大都市~地方都市漢をを結びます。寝台の他に硬座車(2等指定席車)も連結しています。272本が運行されています。今回、兰州→哈密間で利用しました。

K列車=快速;T列車よりも途中停車が多く、区間乗客も利用します。1080本が運行されています。今回、哈密→乌鲁木齐で利用しました。そして現在乗車中の列車です。

Y列車=旅游列車;以前は結構ありましたが、現在は、北京北~延庆に8本が運行されるのみです。北京から万里の長城に行く際に利用されています。

 

その他は普通車ですが、少し早い列車は普通快車(直訳すれば普通急行、車次1001~5816)と遅い列車は普通慢車(直訳は普通鈍行=6001~7582) に分けられています。

⑥また春節には、多くの臨時列車が運行されています。時刻表に掲載されていない短い区間列車、通勤列車もあります。
続きを読む

2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part9 乌鲁木齐から成都へ一人旅の始まり K454乗車

第7日目 2月28日

①美麗華酒店12:00(Taxi)→12:18乌鲁木齐駅
②乌鲁木齐13:34(K454)→15:00成都(車中2泊)

準特急先輩と朝食後、先輩は予約しておいたTaxiで空港に向かわれました。北京空港でのCZからCAへの乗継時間は、3時間20分ありますが到着と出発ターミナルが違っていて初めての方には移動時間は十分とはいえません。もし国内線が多発する霧等の天候で遅れないか心配されておられましたが、予測は不可能です。何かあっても準特急先輩は英語が堪能ですので対応は可能かと、祈ってお送りました。

さて、これからはいつもの一人旅ですが、今まで皆様方とのワイワイ楽しい旅でしたので、寂しさと不安が噴き出してきました。 こんな時は慌ててはいけません。部屋の戻ってゆっくりと荷物を整理して、十分な時間をもって乌鲁木齐駅にTaxiで向かいました。

12:18、乌鲁木齐駅。駅前広場には氷のモニュメントが設置されています。

続きを読む

2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part8 初めての新疆ウィグル自治区

第5・6日目 2月26・27日

①哈密23:35(K9781次)→8:20乌鲁木齐(ウルムチ)
②乌鲁木齐駅8:50(チャーター車)→国際バザール→美麗華酒店

K9781次は、始発駅だけあって1時間前の改札でした。この列車は、2階建て硬座車5両(SYZ25B①不明+②346241+③339311+④339350+⑤346245)+食堂車(⑥CA25G893183)+2階建て軟座寝台車(⑦SRW25B552623)+2階建て硬座寝台車8両(SYW25B⑧674463+⑨671294+⑩674469+⑪671308+⑫671314+⑬671310+⑭675696+⑮997939)の合計15両編成です。



▲ S氏が乌鲁木齐から哈密まで乗車予定だったのは、この列車と同じ編成です。行先板は、久しぶりに見るホーロー製です。乌鲁木齐までの553キロを8時間45分をかけて走行します。その後、喀什(カシュガル)までの1588キロを24時間54分をかけて向かいます。まさに快速「シルクロード号」ですね。この運用ですと哈密を出発して、哈密まで帰ってくるのには5日間かかりますので、少なくとも10本の同一編成が必要となります。駅名板はウイグル語でも記載されていました。

続きを読む

2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part7 蒸気機関車の現状

三道嶺 撮影地ガイド
初めての三道嶺でしたが、案内人のおかげで効率良く撮影ができました。
ただ反省点としては、2月中旬でマイナス20℃と寒く煙も十分と思っていましたが、昼間は温度が上がってきたのか、やや不満足でした。期待した天山山脈が霞んで、今一見えにくかったのも原因です。
後で、三道嶺へ行かれた方にお会いする機会があり、写真を見せてもらいましたが、天山山脈がはっきりと見えて、順光無風の抜群の状態でした。撮影日は1月12日で、前後の10日間を現地で粘っての成果だったそうです。
私のように、最初ですぐに成果を出そうなんて甘かったようです。機会があれば是非に再挑戦したいものです。

続きを読む

2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part6 厳寒の三道嶺 2の2

第5日目 2月26日

①三和酒店(チャーター車・撮影)8:00→ 19:20三和酒店
②三和酒店 19:25(チャーター車)→21:10哈密駅
③哈密23:35(K9781)→8:20乌鲁木齐(ウルムチ)

昨夜は話し込んでしまったので起床時間はまだ夢の中でした。ご迷惑をおかけしました。
朝1番の撮影は、ずらりとズリ捨て列車が並ぶ西駅です。外温はマイナス20℃。撮影場所⑩

▲ 8:40、ズリ捨て列車が出発したくを始める西駅。左からJS8194号機、おいてJS8080・6261・8225号機です
続きを読む

2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part5 厳寒の三道嶺2の1

第4日目 2月25日

①蘭州16:01(T295次)→6:34哈密
②哈密駅前 7:58(チャーター車)→9:13三道嶺三和酒店
③ 三和酒店(チャーター車・撮影)→21:30
三和酒店

T295次哈密到着後は、列車編成を再確認していましたが、合流する一行の到着を待つために哈密駅横にある庶民食堂に入りました。

この日の朝食は、店頭で蒸されていた肉饅頭が美味しそうでしたので、これにしました。食べていると、合流する一行の引率者の陳さんから連絡が入りましたので、我々の場所を告げて待ちました。
疲れた様子で来られた一行のS氏からウルムチ(乌鲁木齐)から乗車するはずだったK9782次は、運休なって別の列車で着きましたとのお言葉です。K9782次は、ウルムチから1585キロも先のカシュガル(喀什) から来る列車が、ウルムチで折り返して哈密に向かう運用になっています。カシュガル~ウルムチ間で大雪による列車遅延が生じて、K9782次が運行できなかったようです。
仕方なくS氏一行は、無座客ととして食堂車に行き30元(約400円)を支払い、椅子に座ってテーブルに頭を置いて仮眠したと言われました。しょっぱなから中国鉄路の寒い洗礼を受けられたようです。
一緒に朝食を食べた後、陳さんがどこからか借りた4WDパジェロに乗車して三道嶺へと向かいました。哈密から三道嶺までは約80キロ、高速道路を走り宿泊する市内のホテルまで1時間15分で着きました。ホテルで宿泊登録を済ませてから、陳さんお奨めの撮影場所「東露天掘」へ行きました。
続きを読む

T295次 2011年冬から春への中国鉄路の旅 Part4 蘭州

第3・4日目 2月24・25日
①蘭州駅(Taxi)→中山橋(徒歩)→中山橋
②中山橋(徒歩)→磨沟沿老字号牛肉面(徒歩・Taxi)→五泉山公園
③五泉山公園(バス)→兰州站(蘭州駅)

快晴の朝を迎えました。夕方のT295次の発車は16:01。十分に時間があります。沿線で走行写真を撮りたいが、黄河も見てみたいとの準特急先輩のご提案がありました。土地勘もなく約6~8キロはあるらしいので駅前からTaxiで向かう事にしましたが、白タクでもないのに目的地の中山橋までは20元(約260円)との提示です。Taxiが少ないので観光客と見て、ぼったくりですが値切ってもしれているので「可以=まあいいわ」と、しぶしぶ言って乗り込みました。

続きを読む

2011年 冬から春への中国鉄路の旅  Part3 Z55次乗車で北京西から兰州へ

一昨日はアップロードしようとした途端にゆらゆらです。すぐにTVを見ますと大惨事を見ることになりました。東日本巨大地震に遭遇され被災された多くの皆様、謹んでお見舞い申し上げます。私も阪神大地震の時は神戸支店勤務でしたので、地震の恐怖を体験しております。これから再建への道のりは、遠く険しく辛い日々の連続となりれますが、どうか希望を忘れずに頑張ってください。何もお手伝いすることができませんが、心より祈っております。

第2・3日目 2月23・24日

①京倫飯店12:27(Taxi)→12:49北京西站
②北京西14:35(Z55次)→7:23兰州(蘭州)


北京西站は首都の主要駅ながら未だに地铁が開通していません。途中までは地铁、後はTaxi利用となりますと、重いスーツケース類を持っての階段の上り下りは年寄りには苦痛で体力激減となります。三道嶺に着くまでにダウンしてはなりません。ホテルからTaxi利用で向かいました。普段は渋滞が慢性化している北京市内ですが、今日はスムーズに走行でき、北京西站には余裕の到着です。距離12.7キロ、所要時間22分、料金は32元(約420円)と日本の10分の一でした。 続きを読む

2011年 冬から春への中国鉄路の旅 Part2 中国鉄道博物館正陽門館&ハイブリッド路面電車

第2日目 2月23日

①永安里9:45(地铁)→建国門→10:10前門
②前門 11:15(地铁)→建国門→11:40永安里
③ 京倫飯店12:27(Taxi)→12:49北京西站
④北京西14:35(Z55次)→7:23兰州(蘭州)

今日から三道嶺へ向けての乗り鉄旅の始まりです。北京西站発のZ55次発車まで十分な時間がありますのでホテルの部屋に荷物を置いて前門(天安門広場入口)に先日オープンした「中国鉄道博物館正陽門館」を見学に行く事にしました。
▲ ホテルの朝食は、115元(約1500円) もしますので年金生活者には大金です。そんな我々にはホテル裏にある庶民食堂がピッタリします。今日の朝食は、肉包子(肉饅頭)@4元とお粥@2元にしました。これで一人6元(約80円)です。
続きを読む

2011年 冬から春への中国鉄路の旅 Part1 三道嶺への旅立ち

第1日目 2月22日

①長岡天神6:30(阪急)→6:46南茨木6:52(大阪モノレール)→7:17大阪空港
②伊丹8:25(JL3002)→9:40成田10:45(JL863)→14:00(現時)北京
③北京空港 14:40(空港快速)→15:10三元橋15:15(地铁)→15:30国貿

昨年末に全検のため半月間ドック入りの結果、点検責任者より老朽化のため本線走行は難しい。しばしの休養を命じられました。おとなしく時たまローカル線、入換え作業に終始しておりましたが、どうも我慢なりません。鉄分補給には荒走行が必要と思っておりましたら、準特急先輩より『天山山脈をバックに走る「建設形」を友人2名と撮りに行くが一緒に行かないか』とのありがたいお誘いがありました。

昨年10月に北京駅で、往路切符はあったが復路切符が確保できず断念した「三道嶺」への撮影旅行です。二つ返事で是非ともの同行をお願いしました。
打ち合わせの結果、「三道嶺」訪問日は、2月25・26日と決まりました。日程の融通ができる準特急先輩と私は、前もって22日に日本を出発して北京で合流後鉄路で「三道嶺」へと向かい、ご友人一行は1日遅れの23日出発、北京で国内線に乗り継ぎウルムチへ、ここからは瀋陽から来られる通訳兼案内人の引率で夜行列車寝台に乗車して「三道嶺」の玄関、哈密駅で我々と合流する予定となりました。

準特急先輩からは、ご友人一行と合流前後の鉄路・宿泊先・帰路のウルムチ→北京の航空券の手配を一任されましたが、中々思うようになりませんでした。 続きを読む

山陽電車(4)西代-長田間 神戸高速鉄道建設

前回の投稿記事の話から1年後、神戸高速鉄道への乗り入れ工事が本格化しました。西代-長田間の工事は、専用・併用軌道の付替え工事を伴い、複雑でした。長田-兵庫間の内、長田-大開通り間は、山陽併用軌道の北側道路を掘削すればよく、普通の工事だったと思います。また大開通り-兵庫間は工事が無く、高速鉄道開通時に廃線するだけでした。
さて西代-長田間ですが、工事の順序は大きく分けて、下記の地図の①~③のようなものでした。
①大道通り-長田間の民家・商店の立退き、道路の北側への移設、道路下を堀削し地下建設。
②蓮池町-大道通り間の道路の移設、上記①と合わせて専用軌道の付替え線建設、運行開始。
③運行停止の専用・併用軌道を堀削、地下進入線と地下工事開始。完成後は開通まで新線を使った試運転。西代駅では付替え線と新線との並行運転が見られました。

▼①の部分の工事の様子です。カメラは西南向きです。すぐ横の併用軌道を2700系が進む。

▼専用軌道の横での付替え線建設です。既に一部の軌道が完成し、支柱も立っています。②の部分です。東向き、右手に工場群が。

▼こちらは、専用軌道から併用軌道に変わる付近、軌道と付替え線の間にスペースもあります。西南向き。

▼それからさらに5ケ月後。すでに付替え線での運行が始まっていました。西代駅のすぐ東側です。右手の専用線の線路はすっかり撤去されてしまいました。手前の信号機はもう使われてはいないのでしょう。新線予定地に早くも架線支柱が立っていました。北東向き。

▼上と同じ場所、逆に西向きです。付替え線に2700系が進入して行くきました。左手の信号機はやはり使われていませんね。後方に西代車庫の電車が見えます。

▼専用軌道のあった部分はすっかり堀起こされました。地下への傾斜進入部分。少し遠くに地下への入口が見えます。東向き、右手は工場群。


▼付替え線を行く200型です。後方の建物は、神戸市立蓮池小学校、震災では大きな被害を受けました。西向き。

▼地下入り口付近から西側の、西代駅方面を眺めました。

▼併用軌道の始まりの部分です。機材・資材が溢れています。北東向き。

▼併用軌道はすぐには撤去しなかったようです。小屋、機・資材で軌道も少し哀れな姿に見えます。

▼新湊川の手前でカーブして、長田駅で元の軌道に戻ります。カーブ部分の下も地下工事です。付替え線東側の様子です。

▼カーブ付近を行く、共に2700系ですが顔が異なります。住民の南北への移動用に、簡易の踏切が何箇所か造られていました。

▼長田駅と新湊川の手前でカーブして、元の軌道に繋がります。付替え線はすべて専用軌道となりました。

▼それから1年。工事が完成、試運転が開始されました。阪急と山陽。左手は付替え線です。神戸高速開通時の廃止が勿体無いクロスがあります。

▼こちらは山陽の試運転列車。

▼当然のことながら、阪神も試運転。須磨浦で折り返しての帰りです。 

▼神戸高速鉄道線向けの山陽の主力電車が通常運行。地下からは試運転の2700系が上がって来ました。 
▼構想以来、完成まで何年掛かったことでしょうか。神戸の中心部で山陽、阪急、阪神の相互乗り入れ、神戸電鉄ともイージーな乗り換え。山陽電車の夢がかなった開通は1968年4月7日でした。

200型の話題に始まった山陽電車。併用軌道の話のついでに神戸高速鉄道建設なども紹介しました。時と機会を改めて、60年代前半の山陽電車車両も紹介してみたいと思います。それから神戸市電も。

山陽電車(3)西代-兵庫間の道路併用軌道

 

三度び夾雑物・山陽電車です。西代駅東方約200m付近から、終点の電鉄兵庫まで約2kmの区間は、道路併用軌道です。大型車といえども、特急といえども、制限速度は35km/時でした。下記に、専用・併用軌道、神戸高速鉄道建設完成時までの短期的な付替え線、そして神戸高速鉄道の路線などを図示しています。そしてこの道路併用軌道は、1968(昭和43)年4月7日(日曜日、この日は筆者の結婚記念日)の神戸高速鉄道の開通に伴い、創業以来58年で消滅しました。

それでは、西代駅から兵庫駅までを順に写真で追ってみましょう。
▼西代駅を出た上り・兵庫行き(北東方向に向く)が専用軌道終わりの地点を行きます。正面突き当たりに西代車庫があり、その右をカーブして板宿方面に向かいます。今電車が走っている付近が高速鉄道の地下入り口になります(板宿・東須磨間の地下線延長前まで)。そのために、本線をすぐ北側に退避移動させ、付替えました。

▼上の写真から、方向を180度転じて見た、こちらが併用軌道の大道通りです。下り・姫路行き(南西方向に向く)の各停が、間もなく専用軌道に進入します。左の更地は、神戸高速鉄道建設のために、立ち退きをした民家・商店の跡です。右側の民家や商店・工場前は舗装されていません。車の通行防止の為でしょうか。

▼併用軌道を更に北東に進むと、新湊川の手前まで緩い登りになります。最新の上り・大型特急車が、間も無く、併用軌道区間唯一の駅長田に進入します。

▼長田駅は島式のホームです。下り特急車2005が出発です。短いがこの区間は専用軌道です。看板と簡易の柵で道路と区分です。後ろの白い大きな建屋は神戸市電長田工場です。

▼木造の粗末な駅舎、東須磨からの高校3年間の通学はこの駅でお世話になりました。

▼上り兵庫行き300型が、長田駅を出発。神戸市電との交差点西南側にあった、トヨタの販売店前を通り過ぎ、クロスを渡ります。架線にはデッドセクションがあります。山陽は1,500V、市電は600Vのためです。

▼こちらは上と同じ場所を、逆に見ています。交差点を渡り長田駅に進入する下り姫路行き特急です。車を避けた為にデッドセクション内で山陽電車が急停車し、動けなくなったのを、通学時1、2度見ました。後続列車の後押しで漸く動くことができました。市電が立ち往生した場合は人力に頼ったとか聞いたことがあります。

▼こちらも交差点を過ぎ、長田駅に進入する下り・各停垂水行きです。パンタは1個。車の接近にひやひやしながらも無事にデッドセクションを通過。820型の区間運転列車は垂水行き。区間運転は明石(西新町)行きなど。昔は須磨折り返しもあったように思います。

▼北行き神戸市電が今まさにデッドセクションを通ります。市電の線路と平行に設けられたポール付きのものものしい設備は、あまり長く続かなったようです。上の写真(1963年)にも、一つ下の写真(1967年)にも見られません。右手奥の工事は神戸高速鉄道の建設工事です。北行の市電は突き当たりの看板前を直角に右手方向に曲がり、東向きに五番町・上沢町に向かいます。

▼南行神戸市電が交差点を渡りすぎました。この頃になると車が増え、市電の運行も大変となって来ました。三輪軽トラ等も見られます。南に向かうと、すぐ右手に長田工場がありました。

▼交差点を過ぎ、長田と兵庫のちょうど中間地点、ビオフェルミン本社・工場前をさらに少し進むと、大開通りに向かう三差路地点です。神戸高速鉄道は、このあたりの地下を右方向にカーブしてゆきます。軌道上の工事区間はここまでです。ビオフェルミンの本社と工場のこの建物は、阪神淡路大震災で完全に倒壊してしまいました。西方向に向かう特急。横を走るのはマツダのキャロルか。

▼正面に兵庫駅が見えて来ました。1965(昭和40)年頃はまだ車は少なかったようです。埃っぽくだだっ広い通りでした。兵庫駅(東方向)に向かう850型。架線の支柱は幅広道路の左右にあり、スパン線ビームの長さも相当なものです。

▼4面のホームを持つ兵庫駅。北側には貨物線が1本。ホームの西側先端部分は屋根は無く、枕木を積み上げその上に板張りの粗末な造りでした。神戸の中心部から西に外れた場末の感じがします。右の高架は国鉄兵庫駅、EF58が見えます。

▼兵庫駅前には、神戸市電兵庫線の終点がありました。山陽兵庫駅改札口はちょうど左手の付近に。右手には国鉄の高架線が。

▼国鉄兵庫駅の高架ホームから眺めました。山陽電車との連絡通路は無く、東側の改札を出ると、雨天でも傘をさして市電脇を渡り、高架下の連絡通路を通り国鉄に乗り換えました。西側の広い駅前広場を渡り、兵庫駅へ向かう連絡用として、山陽の改札口が西側に増設されたのは後年だったと記憶しています。この場所からは隠れて見えませんが、右隅にその屋根部分が辛うじて写っています。遠くには湊川公園のタワーが見えます。このタワーも確か震災で倒壊したのかな。

長々と続きましたが、夾雑物の話はまだまだ終わりではありません。神戸高速鉄道建設の為、、短期間だが西代-長田間で本線を退避すべく付替え線が設置されました。埋もれているそれらの写真を、千載一遇のこの時とばかりに公開準備中です。毛嫌いせずお楽しみに。

山陽電車 200型の再生300型

 

 

 前回、山陽電車の社報掲載文で200型を紹介しました通り、愛嬌のある車でしたが、如何せん輸送力増強には不適合な車でした。しかしながら作りが良く、廃車するには惜しいので、車体を広幅に更新し、台車や制御機器も再利用するということで、1962年夏から秋にかけて、300型に生まれ変わりました。第1次車300~305の6両は、川崎車両で更新した車体を運び込み、自社西新町工場で完成させました。これには大分時間が掛かったと聞いたことがあります。製造銘板も山陽電鉄でした。附番は200→300、201→301とはならず、200、201、208、209、210、211の6両で300~305の6両を製造したようでした。

▼下は、生まれて間もない303+304です。 行き先表示板には神戸・明石(西新町)とあります。神戸市内の終点駅名を『兵庫』と書かず、『神戸』と標記していました。『明石』も( )つきです。『明石』にはもうひとつ(東二見)行もありました。
▼やはり真新しい301他の網干行が、高架の姫路駅を発車したところです。オールMの3連です。

▼上の写真から2年後、第2次車306から315まで10両が揃いました。電鉄須磨駅です。

▼須磨から明石まで海岸べりに沿って、国鉄と並走します。奥に見えるコンクリート造りは、写真の2ケ月後に開通した、国鉄鷹取-西明石間複々線化の新しい列車線です。既存線は山陽電車線に接して向こう側の平地上です。道路の左はすぐ海岸です。

▼のどかで穏やかな海に漁船を見つつ、海岸沿いを走る300型です。複々線化工事中の場所に立ち、上から見下ろしました。パンタが3個、勇ましく見えます。

▼こちらは、道路併用軌道の長田-兵庫間、大開通りです。左側で神戸高速鉄道への地下工事が始まっています。砂ぼこりの多い、だだっ広い道路でした。車の通行が少なく、遠くに兵庫駅を出発した200型が見えます。

▼上の写真と同じ号車の折り返し。今度は姫路行になっています。場所は先ほどよりだいぶん兵庫駅寄りです。

▼第2次以降、製造組立の全てを川崎車両で実施。第4次まで合計28両が生まれました。その内、6両は中間電動車330型です。筆者の当時の記録では曖昧な所が沢山でした。

 大手術を受けたその割にはピンピンと元気な乙訓の老人が、自宅に戻るやいなや鉄道ピクトリアル誌327号と528号を送り届けて下さいました。その中に、やはり亀井一男さんが記述の200、300のデータがあり、移り変わりの様子がはっきりしました。整理したのが次の図です。鉄道ピクトリアル誌 No.327 1976.11 を主として参考にしました。

▼200型の台車、BW-1。

▼200型のおしまいは、流線型車両が海風を切りカーブを駆け抜けて行く姿です。下は第1次の203+202です。残念ながら第1次車両のカラー写真はありませんでした。

▼風光明媚な場所は関西一でしょう。高台を走る場所は一等地。南海にも紀勢線にも負けないくらいです。 

次回は、京都の方々には遠くて、神戸の西片隅の様子など疎い方のために、西代から神戸・兵庫までの道路併用軌道区間、神戸市電との交差無電区間、兵庫駅などをカラーで紹介しましょう。