保存蒸機とその現役時代(8)

D52は広島のトップナンバー、梅小路のラストナンバー(468)を含め全部で7両保存されている。1と468以外は神奈川県に3両と静岡県に2両である。この2県に集中しているのは御殿場線で使用されたD52が関係していると思っていた。調べてみると御殿場線関係は3両で他の2両は意外で北海道から来ている。今回取り上げるのは北海道から来たD52136で保存場所は沼津駅北西10分にある高澤公園である。D52136は1944年汽車会社で製造され、稲沢区に配置。1946年から1960年までは姫路に配属、その後廃車される1973年までは五稜郭にいた。前半関西、後半北海道、保存は静岡ということになる。2013.7.28沼津市高澤公園の保存機D52136↓

s-13.7.28沼津D52136

現役時代の姿であるが、仁山越えでD51710[五稜郭]が前補機についた重連の2両目本務機がD52136[五稜郭]で136号機の写真はこれっきりである。1966年9月12日仁山~渡島大野下り貨物↓

s-66.9.12仁山D52710+D52136

まともな写真がないので、総本家青信号特派員さんに応援を求めたところ、即、快諾をいただいたので以下に発表させていただく。撮影は何れも1968年8月30日である。

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C57第4次形 12両勢揃い -4氏共同投稿-

DRFC会員の繋がりと、デジ青の力でC57第4次型12両の現役時代の画像が全部勢揃いすることができました。これまでに別途投稿された画像の再度掲載や、その後寄せられた珍しい画像をも併せてここに揃えます。奥山直秀さん、西村雅幸さん、準特急さんと筆者の4名共同投稿です。また、西村さんには製造所の製造番号などデータの提供をも頂きました。(文中敬称略)

先ずは、C57第4次形について、大御所の解説を引用します。
【C57第4次】ボイラの溶接工法が突き合わせで、缶板の厚さの2倍分だけ太くなり、結果的に缶水容量がわずかに増した。またキャブにはサイドドアが新設され、テンダは船底型を採用した。この台車には再び鋳鋼製側枠の揺れ枕式を用いたが、新設計でローラベヤリング付きである。C55形以来美しさを続けていた一直線の歩ミ板は、補助機器の部分にコニーデ形の迂回線をつくり、多少美観を損ねた。その上新製当初は動力逆転機が装備されていたので、第4次形は後述のC59形にかなりよく似た容貌である。なお全機種を通じ、詳しくみると、1軸従台車枠は時代により工法を変えており、3種類の存在が確認されている。
C57形は島秀雄が設計主任をした最後の作品である。と同時に傑作D51形との連歌でもあった。缶はほっそりと煙突は面長、煙室周囲は撫で肩で、ドームは豊満、女性的美しさを感じ、日本の近代蒸機のうち最も端麗とされている。
              出典:臼井茂信、『機関車の系譜図 4』、1978年11月1日、交友社

▼C57190【和】三菱重工製 No.523 和歌山機関区 1963.10.06 撮影者:奥山
 先輪の形状が不統一である
C5719001▼C57191【早】三菱重工製 No.524  鳥栖機関区   1962.08.29  撮影者:奥山
C57191▼C57192【宮】三菱重工製 No.525  鹿児島機関区     1970.09.20  撮影者:奥山
 これも先輪の形状が不統一である
C57192 続きを読む

オーストリアのたび(その3)

インスブルックの町をめぐった後翌日はÖBB(オーストリア国鉄)で20分ほど離れたイェンバッハに行きました。駅の北側にはコグ鉄道のアッヘンゼー鉄道、反対側には760mm狭軌のチラタール鉄道が走っています。アッヘンゼー鉄道は観光鉄道で、今年の場合5月1日から10月27日まで毎日3往復、ハイシーズンの5月25日から10月6日はさらに4往復が全列車SLで運行されます。これに対してチラタール鉄道は地域の足として年間を通してディーゼル機関車による運行で、6月1日~10月6日は観光用に毎日全線で1往復、さらに途中駅まで1往復のSL列車が運行されます。先にアッヘンゼー鉄道で往復切符を購入し、一番列車の到着を撮影してから、駅の南側に行き、チラタール鉄道の一番列車の発車を待ちました。

<柵の右側がÖBBの駅>        <反対側にアッヘンゼー鉄道のSLが見える>チラタール1e

<左側のバスに乗って乗客が来た>      <機関車をSLに付け替えて発車>

通常の列車はÖBBの一角にホームがありますが、SLはホームのないところに停まり、駅裏に乗りつけた大型バスでやってきた乗客は線路から直接列車に乗り込みます。2軸車、無蓋車など取り混ぜて14両の立派な編成の列車が発車していきました。SLの発車を見届けてから7分後に発車する通常の列車に乗ってSLを追いかけることにしました。通常の列車は30分ごとにあり、終点のマイヤーホーフェンまで2本の後続の列車がSL列車を追い越すので、途中下車してはSLの走行写真を撮ることができます。2つ目の駅で早速SLを追い越し、5つ目のフュンゲンハルトで降りてSL列車を待ち受けました。降りると反対側に小さなSLが2両の客車を引いて停まっていて、ホームではたくさんの人が写真を撮っています。 続きを読む

紀伊神谷駅-2013年5月の姿です

どですかでん様。今年5月通りすがりに下車して撮影しました。あれから39年、同じ角度の画像ですが、ほとんど変わっていないのが判りますね。ホームには昔通り、右手わずかに見える階段を上がります。人影のない新緑の駅は、すがすがしい空気に満ちていました。
紀伊神谷駅2013

直立不動で各列車を見守る律儀な駅長さん。(向こう側)上りこうや号(手前)下り極楽橋行き
紀伊神谷駅03

駅構内、極楽橋方向を背にして、紀伊細川方向を見ます。丁度橋本行きが下って行きました。
紀伊神谷駅02

お山には、時々墓参りに出かけますので、今後もお便りができると思います。昨年は極楽橋、上古沢、紀伊細川で撮りました。

はしーる電車は緑の電車、なーんなーん南海電車

総本家青信号特派員様のおかげで幼い頃の南海電車を思い出しました。加太線ではありませんが、よく祖母と一緒に学文路にいった時のことです。難波より緑の電車に乗って行ったのです。森林鉄道みたいな紀見峠越えを緑の森の中を緑の電車がくねくねと走っていったのをはっきりと覚えているのです。私の場合は南海電車といえは高野線でした。そして少しばかりの写真を。

まず、最初に緑の電車です。鉄道友の会に入っていた時に千代田車庫見学会に撮ったものです。ポジカラーですが保管が悪く、カビだらけになってやっとデジタル処理で何とか見れるようにしました。色は少し悪いですが緑の電車の雰囲気があると思います。

南海千代田-01

修正南海千代田-02

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保存蒸機とその現役時代(7)

東京には現在3両のC57が保存されている。大森の入新井公園の66号機は[35453]「保存蒸機とその現役時代(3)」で、小金井公園の186号機は藤本哲男さんが[25967]「保存されているEB10」の中の周辺の保存車両で紹介されている。今回はもう1両57号機を取り上げてみた。

57号機は新製後の配置は不明であるが、戦後北海道で長く使用された。引退後はどういう縁があったのかよくわからないが東京で保存されている。保存場所の大蔵運動公園は小田急線祖師ヶ谷大蔵駅から南に徒歩15分くらいの所にある大きな公園である。57号機は雪国育ちのため、旋回窓やスノープローを装備しているが、デフの切り詰めがないので貴婦人を保っている。保存状態も良好に見えるが、前照灯とテンダーのライトには電球がなかった。また、現役時代のドームの後ろにある重油併燃装置は保存機では外されており、保存にはこれの方が望ましいと思う。

2013.5.28 世田谷区大蔵運動公園の保存機C5757↓

s-13.5.28大蔵C5757   C5757説明板↓

s-13.5.28大蔵C5757説明

1966年9月10日早朝5時33分網走からの急行「石北」518列車を岩見沢で降りる。5分停車の間に牽引機C6232を撮る。続いて5時44分に釧路からの急行「まりも」28列車が到着する。この牽引機がC5757[小樽築港]であった。雨の中での撮影で、C5757はこの時に出会ったのみでその後の再会は47年後であった。

s-66.9.10岩見沢C5757

以前、保存蒸機とその現役時代(2)で門鉄デフのD51272を取り上げたが、そのD51272が保存されている世田谷公園にはC5757の庭園列車があったので、併せて取り上げてみた。撮影は2012.11.28↓

s-12.11.28世田谷公園C5757模型

 

富士山麓電鉄モハ603→富士急行モハ3604

3606 50-3-23
車体更新でモハ3604に改番後で、正面に貫通扉が設置された。/富士吉田

セミボの次は富士山麓電鉄→富士急行が登場した。それにしても関 三平氏の電車好きは、筋金入りで、私等話題に付いていくのが精一杯で足元にも及ばない。
今回のモハ603は、関 三平氏が記述されておられる通り、経歴が複雑で、車体更新して改番後で解説する。
明治32年日本鉄道大宮工場製で客車として新製され、鉄道院に買収後の改造でナユニ5420となり、昭和16年青梅線の前身、青梅電気鉄道に払い下げられた。
青梅電気鉄道は、同時に払い下げられた2両の木製客車と共に木南車輌で半鋼製車体を新製して電車に生まれ変わった。全長18.8mの大型で広い窓と共に当時としては軽快な車両で、台枠、台車も新製されて、サハ700形サハ703となった。
(他の2両は鉄道省ホヤ6703→サハ701、ホハニ4053→サハ702)

車体、台車、台枠が新製されているので、車両新製が認可されないため、苦肉の策として、改造名義にしたものと思われる。
サハ701と702は社線時代に、サハ703は19年4月1日鉄道省に買収後運転台が設置され、クハ700形クハ701~703となった。
クハ703は20年1月事故により休車になり、戦後24年1月富士山麓電鉄に譲渡された。

富士山麓電鉄では譲受け後直ぐに汽車会社で電動車に改造して26年1月モハ22として再起した。その後の改番でモハ603(関氏のイラスト)、39年に日本車輌で車体更新時に、貫通扉の設置、車内の蛍光灯化、自動扉化が実施され、モハ3604に改番された。

後ろに連結されているロハ901は、書類上は昭和25年小糸車輌製となっているが、実態は昭和3年川崎造船所製の元青梅電気鉄道モハ100形モハ103で、鉄道省買収後モハ100形モハ103となり、車号は同一であった。
青梅電気鉄道の電動車は、機器配置が特殊であったこと等により、早い時期に制御車代用になり、この車両も23年には早くも休車になった。
24年にサハ状態で富士山麓電鉄が譲受け、半室を2等車に改造してロハ300となり、その後の改番でロハ901となった。
44年に流山電鉄に譲渡され、西武所沢工場で運転台を設置してクハ53となり56年まで使用された。
ロハ901、流山電鉄クハ53共に撮影していないため、撮影された方は是非発表していただきたい。
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加太紀行 〈下〉

南海加太線は、明治45年開業、北島~加太間の加太軽便鉄道をルーツとする。北島とは、現・和歌山市駅の裏を流れる紀ノ川の対岸(右岸)にあった始発駅(その後、廃止)で、翌年には紀ノ川を渡って、和歌山市に隣接する地点に始発駅を設けた。開業時は、コッペル製のB型機が3両用意されたと言う。

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「鉄道ピクトリアル」より転載

昭和5年に電化し、加太電気鉄道に社名を変更、昭和17年に南海に合併された。

その後、本線紀ノ川から東松江まで伸びていた、住友金属工業和歌山製鉄所に出入りする貨物線を電化して旅客線に転用することになり、昭和25年に営業を開始した。これが現在見られる線形となるわけだが、東松江~北島~和歌山市のルートも北島支線として存続していた。しかし、台風で紀ノ川橋梁が被害を受けたことなどにより、休止を経て、昭和41年に廃止となった。現在でも廃線跡が感じられる箇所が残っている。

なお、住友金属工業から出荷される鉄鋼製品は、加太線・国鉄経由で各地へ輸送していた。一日2往復の貨物列車は、昭和59年の国鉄貨物合理化まで続き、これが南海最期の貨物扱い駅となった。

2013_07_09_032sy▲二里ヶ浜。カーブ上に設置された対向式ホーム。2013_07_09_034sy▲二里ヶ浜駅は有人駅で、乗降人員は少ないながらも、駅舎はなかなかの規模。

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加太紀行 〈上〉

加太、と言っても関西本線の加太ではない。南海支線の終点にある加太である。

過日、回りまわってきた南海の優待乗車券を使って、南海和歌山市から加太線の乗車を行なった。

加太線は、南海本線和歌山市のひとつ手前の紀ノ川より分岐し、紀淡海峡に突き出た突端に位置する加太へと至る9.6キロの支線だ。電車はすべて、和歌山市の発着で運転されている。日中は30分ヘッドで2両編成がワンマン運転されている。

もとは明治末期に蒸気鉄道として開業した古い鉄道で、昨年、開業百周年を迎えた。単独で紀ノ川を渡った先に駅を設置した時代もあった。のちに南海本線の紀ノ川駅へ接続する形に変更するなど、歴史的に興味深い線である。

沿線の社寺などへの観光・信仰客輸送や、夏季は海水浴客輸送もあった。終点付近に、砲兵連隊の兵営もあり物資輸送もあった。のちに述べる、製鉄所からの貨物輸送で賑わった時期もあったが、すべてが無くなってしまった今、加太線には、静かな時間だけが流れている。

以下、電車の先頭から見た、加太線の車窓だ。

2013_07_09_007sy▲南海和歌山市駅に停車する、加太線の列車。当日は7195+7969の編成。3番線が加太線の専用ホームで、加太線百周年などの説明版がホーム支柱に貼ってある。

2013_07_09_009sy▲和歌山市を出る。右一線はJR和歌山方面に向かう紀勢本線、左二線は南海本線。右下にチラッと見える渡りは、JR線と南海線を接続している。かつて、南海から南紀方面への直通するDC・客車は、ここを通って国鉄に乗り入れた。現在でも、車両工場からの南海新造車の搬入は、このポイントが使われる。

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C57144写していました

準特急様

「保存蒸機とその現役時代」シリーズを毎回楽しみに拝見しています。今回のC57144の現役時代を撮影していました。昭和44年3月5日 室蘭本線沼ノ端ー植苗間です。

室蘭本線上り客レを牽くC57144

室蘭本線上り客レを牽くC57144

C57144は昭和15年10月 三菱重工神戸製で製番314、昭和51年3月1日 岩見沢一区で廃車となっています。沼ノ端は室蘭本線と千歳線の両方が狙える場所で、石炭満載で室蘭港に向かうセキ列車やヤマに戻る空セキ列車がD51牽引で頻繁に通過し、その合間にC57牽く客レが活躍していました。ただ 列車は頻繁に通るものの だだっ広い原野には高台というものがなく、撮影ポイントを探すのに苦労したことを思い出します。本シリーズの続編を楽しみにしております。

信貴電の不思議 じぇじぇじぇ、じぇ~ 大和川の橋脚が

  じぇじぇじぇ、じぇ~ 大和川橋梁の橋脚が~~~なんと・・・・。

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最初の「信貴電の不思議」で書いたように大和川橋梁の橋脚が開業当初のものかどうかわからなかったのです。社史に書かれていた橋桁数が現在の橋梁と異なっていたのでわかりませんでした。ところで、例の信貴電に関する奈良県公文書の中に大和川橋梁の図面がありました。これで開業当初の大和川橋梁がどんなものかわかりました。それを簡単に図にすると下のようになります。

 開業時の大和川橋梁の図

      開業時の大和川橋梁をデハ100が王寺に向かって走っていくの図

ご覧のように王寺側の橋脚数が現在と違っています。また橋桁の高さと長さが王寺側の6連と信貴山下側の5連では違っていることがわかりました。現在の橋脚は王寺側が3本抜けているのもわかりました。そして、その橋脚が抜けたところに痕跡があるか調べに行きましたが、その痕跡はありませんでした。ところが、偶然にも他の重要なことが発見できたのです。

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保存蒸機とその現役時代(6)

神居古潭に続き、同じ日に訪問した岩見沢市のみなみ公園に保存されているD51である。デフレクターを短く詰めた晩年の北海道の機関車の姿である。どうして短くしたのか理由はよくわからないが、原形を損なっており個人的には好きになれない。

岩見沢みなみ公園は駅から東側およそ15分くらいの公園で当日は私と同年齢の老人がゲートボールを楽しんでいた。保存機はなめくじドームのD5147で屋根付きのためか保存状態は比較的良好とみた。2013.7.2 岩見沢みなみ公園のD5147↓

s-13.7.2岩見沢南公園D5147

 

同機の説明板によると前配属機関区は東鉄局高崎機関区とある。↓

s-13.7.2D5147説明板

 

鷲別区に憩うD5147[岩見沢]の現役時代。煙突にクルクルパーといわれた回転式火粉止をつけているが、デフレクターも短くされる前でこの方が好みのスタイルである。↓

s-66.9.4鷲別D5147

 

 

岩見沢みなみ公園にはもう1両のC57144が保存されている。同機もデフレクターが短くなっている。この機関車は現役時代撮影していない。↓

s-13.7.2岩見沢南公園C57144

 

C57144の説明板  同機は新製後高崎、富山を経て昭和37年頃に北海道に渡り室蘭本線等で活躍した。↓

s-C57144説明

 

人と鉄道と-乗り易い電車-

前回のサンテ・チェンヌ、中心街の停留所背後はバスターミナルで、電車とバスの結節点となっている。ふと気付いたのが連接トロリーバス。11乳母車の母親が車内の人に何か話している。やがて12白髪の紳士が身を乗り出し乳母車を受け取り、ヤレヤレとなった。子供を乗せたままの最近の乳母車、どこの国でもバスに乗せるには苦労している。ドイツに入国して季節運行のナウムブルグ市電を訪ねた。市電は駅前ではなく徒歩10分の公園前からの運行であった。路上から車内への乳母車搬入は電車でも大変である。この時は13運転手君が父親に協力していた。

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画11,12、13

画11,12、13

 

今回の探訪テーマはノンステップカーの品定めである、快適性トップはカールスルーエの3車体連接車、14形式はデユワグGT-70/Nである。快適としたのは、最後尾部が展望室構造になっていたからである。それとは関係ないが客室の床高が超低床車の中では少し高く、出入り口部に勾配が15生じる。電車の乗り場(安全地帯)とステップ先端と歩道面の段差が15㎝と大きく、乳母車に乗っている子供も16少し気にしているようだ。歩道がない道路面からだと3840㎝となる。同じメーカーであるボンの6xGe13ZR NTは、中間車の構造が異なり乗降部と道路での段差が30㎝、17,18これならご婦人でも気軽に乗り降りできる。

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信貴電の不思議 村田式台車を考察する。 その2

いよいよ問題のボギー台車の考察をしようと思う。このボギー台車は単台車と違って写真が残っている。しかし、この写真は信貴電のデハ100形のものでなく池上電気鉄道(以下池上電鉄と略称)のデハ3,4のものである。池上電鉄は現在の東急池上線で大正11年10月6日に鎌田・池上間が開通した。信貴電の開業が同じく大正11年であるが5月16日より営業開始をしているので、池上電鉄の方が信貴電より5ヶ月ほど後で開業している。池上電鉄も開業にあたり日本電機車輌に4両発注していたが開業までに完成しなかったようだ。ところが信貴電では池上電鉄が開業に間に合わなかった村田式台車をはいた同じタイプの電車が走っていたことになる。この池上電鉄の電車はしばらくして完成して納車された。この4両のうち2両は問題の村田式台車で、残りの2両はブリル27GE1であった。村田式台車はこのブリル27GE1を改造したものと言われている。この村田式台車をはいた池上電鉄の電車と台車の写真は村田式台車を考察するのにたいへん重要な資料となった。

ボギーになった村田式台車は

はじめて見た村田式台車の写真の印象は“なんとキャシャな台車やな~!”というものであった。走っているうちにバラバラになるのではないかと思ったぐらいである。その村田式台車の姿を図1に示す。

村田式ボギー台車

図1.村田式台車

図1は奈良県公文書の図面から主要部を中心に作成したものである。当時(大正時代)としては珍しい全てコイルバネを使用している。外観からの印象では戦後の高性能台車のようであるが実際はどのような台車であったのか。そして特許車台動揺防止装置は?公文書の図面と池上電鉄の台車の写真から村田式台車を考察してみようと思う。

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オーストリアのたび(その2)

インスブルックはご存知の通り2回の冬季オリンピックが開催された町で、アルプスの谷間にあって、人口は10万余りと小規模ですが、ウインタースポーツだけでなく年間を通して観光客が絶えない町です。町の交通機関はIVB(インスブルック交通局)が一手に引き受けていて、トラム、登山電車、ケーブルカー、バスと多彩な顔ぶれで市内から山まで交通網を広げています。到着した日は好天に恵まれ、まず町の北側にあり、一風変ったケーブルカーと2つのロープーウェイを乗り継いでいける、ハーフェレーカー山を目指しました。最初のケーブルカーは町の中心部に近いコングレス駅から出ていて、変った形の入り口の地下が乗り場です。途中には2つの駅があって地下のトンネルを出るとイン川を渡り、登りにかかったところで最初の駅に停まります。車両は枠に5つの客室がぶら下がるような形になっていてどんな傾斜でも客室は水平に保たれ、標高560mのコングレス駅からまずはこのケーブルカーで860mまで登ります。IMG_4259e

<コングレス駅のケーブルカー>

IMG_4206e

<終点駅は傾斜しているのでLEITNERの文字の横のピンを中心に客室が水平になっているのが分かる>

次に1つ目のロープーウェイで標高1905mまで一気に上ります。ロープーウェイの真下には九十九折の細い道があってマウンテンバイクでダウンヒルを楽しんでいる若者がいます。ケーブルカーも、ロープーウェイも自転車が持ち込みできるのがヨーロッパらしいところです。 続きを読む

駅を旅する 〈4〉

折尾

若松から筑豊本線で洞海湾沿いに走って20分ほどで折尾に到着する。筑豊本線は地上、鹿児島本線は築堤上にあり、十字に交差する。

明治24年、筑豊本線の前身である筑豊興業鉄道が開業、半年遅れで、鹿児島本線の前身である九州鉄道が開業した。当時は、現在地と違うところに、それぞれの折尾駅が設置されたが、明治28年に現在地に共同駅が設けられた。日本で最初の立体交差駅だと言われている。さきごろ解体された洋風駅舎は、大正5年建築の二代目だが、随所に煉瓦造りの連絡通路が残され、開業当時の面影が残されていた。

初めて九州に上陸した昭和42年、鹿児島本線の折尾駅に降りて、地上の筑豊本線ホームへ向かった。そこで眼に飛び込んだのが、先端の低いホームに待機するC55が朝陽に浮かぶ姿だった。C55は初めて見る形式だ。朝の柔らかな日差しのなか、ドレーンに包まれたスポーク動輪を通して向かいのホームが透けて見えるではないか-。その後、何度も筑豊へ向かわせた、原動力となった。

先述のように、いま折尾駅は、大規模な連続立体化の工事に入っている。現在駅の北側の高架上に、一体化した鹿児島本線、筑豊本線の同一ホームができる。乗り換えの利便性はウンと向上するが、私の九州への原体験でもある折尾駅は、まもなく姿を消そうとしている。

折尾IMG_0003sy

◀駅前道路から折尾駅を見通す。「荷物預所」「大衆食堂」と駅前の必須アイテムが連なる。人々の服装や道路から、なにやら終戦直後のように見えなくもないが、レッキとした昭和40年代後半の撮影。(昭和47年11月)折尾IMG_0002sy▲筑豊本線の下りホームに到着する、C5519〔若〕の牽く733レ。なお、鹿児島本線黒崎方から筑豊本線中間方へ向かう短絡線には駅がなく、同線を通る直通列車は、折尾は通過扱いだったが、昭和63年に、短絡線上にホームが設けられ、鷹見口と呼ばれている。(昭和45年9月)

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2013年 春の中国鉄路の旅 Part30 最終・総集編

第25日目 5月25日
① 興隆鎮15:45(K340次)→17:07哈尔滨19:16(T244次)→翌日7:10天津

② 天津站 翌日7:44(地鉄2号線)→8:08空港経済区(2→3→1号線)→9:30小白楼

01_切符長かった旅も終盤を迎えました。興隆鎮から乗車しましたのは、ジャムス(佳木斯)始発北京行きのK340次ですが目的地の天津を経由しませんので哈尔滨で降りて、天津を経由する哈尔滨始発の合肥行きに乗り換えます。

乗り換えまでの間は、美味しいスープ入りの哈尔滨水餃子を堪能して、北満に別れを告げました。

興隆鎮から哈尔滨までは97キロ、K340次の所要時間1時間22分、表定速度70.98km/h。
哈尔滨から天津まで1,235キロを走るT244次の所要時間は12時間54分、表定速度は95.74km/hです。
表定速度の大きな違いはK列車T列車の格付けの違いでもあります。日本でいえば準急と急行の違いですね。
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人と鉄道と-沿線の人々-

5回にわたる『人と鉄道と』は今回でお終い、沿線の人々が写っている風景です。

▼八十八夜の茶摘み、ここ静岡県榛原郡川根町・崎平地区の茶摘みは手摘みで始まり、その後機械摘みに移るそうです。気候温暖な川根茶の本場も、最近は天候の変動が大きく、殊に八十八夜前後に霜や、酷い時には氷も張る異変が多いそうです。一昨年は静岡県全体で大変な被害額に上りました。傍を走るかわね路号から、茶摘みの様子を見ることができます。
大井川鉄道、かわね路14号、崎平-青部間、2013.05.04305045

▼栃木県芳賀地区の八十八夜は田植えの季節です。機械植えではなく、一本一本手で植え付けて行きます。折から近所の益子では陶器祭りが開かれ、普段は一両編成のDCも2両編成の運行です。
真岡鉄道、2123レ、益子-北山間、2008.05.03
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