C57200,198,190-奥山さんの機関区巡りから(1)-

準特急さんの保存蒸機とその現役時代(5)に関連ある蒸機を、『奥山さんの機関区巡り』から選んでみました。同名のHPはC62,C61,C60,C59が済んで、次にD51,C57の順番でしたが、準特急さんの記事に合わせC57を先に編集を開始します。撮影者は1958年度生、奥山直秀さん、画像編集担当は鶴です。
▼C57200【築】 小樽築港機関区、1968.08.17
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保存蒸機とその現役時代(5)

函館本線神居古潭駅。そのロマンチックな名前に憧れて過去2回訪問している。神居古潭駅は1969年9月30日、函館本線滝川~旭川間の複線化、電化に伴う別ルート化により廃止された。石狩川とアイヌの伝説を秘めたこの景勝の地旧神居古潭駅付近に3両の蒸機が保存されている。真ん中の横綱がラストナンバーC57201で、露払いに29638、太刀持ちにD516を従えるように展示されている。C57201は小樽築港区時代に狩勝峠でも撮影しているが今回は保存場所と同じ神居古潭駅で撮影した旭川区時代のC57201の最晩年の姿である。ラストナンバー201号機はC57の4次形で1次~3次までのC57とはスタイルが異なり、C59戦後型を小さくした感じで人気があった。しかし、そのほとんどが九州と北海道に配置され本州では見る機会が少なかった。それでも、関西地方には190号機が和歌山から梅小路に転属され、また、198号機が亀山に配属されていたので我々関西系中高年のファンには比較的近くで目にすることができた。

2013.7.2 神居古潭旧駅付近に保存のC57201 昭和22年三菱製↓

s-13.7.2神居古潭C57201

1969.3.17神居古潭駅に進入する322列車稚内発小樽行きC57201[旭川]↓

s-69.3.17神居古潭322レC57201

名寄区で廃車された29638 大正7年小倉工場製 当機の現役写真なし↓

s-13.7.2神居古潭29638

北見区で廃車されたD516 昭和11年川崎製 当機の現役写真なし↓

s-13.7.2神居古潭D516

現役時代の神居古潭駅のC57201の写っている位置はホームが左へカーブしており、現在のホームは直線相対式で残されているので当時の札幌よりのカーブしたホーム部分はカットされたものと思われる。3両の保存機を撮影したあたりがカットされたホーム先端部分と推察したが如何であろうか。↓

s-13.7.2神居古潭3両保存機

神居古潭へは旭川駅前から沿岸バス、道北バスで25分程で到着できる。バス停から石狩川にかかる吊り橋を渡ったところが現地で徒歩10分。

 

駅を旅する 〈3〉

若松

栄枯盛衰のある北九州の駅のなかでも、若松は劇的ですらあった。石炭とともに栄え、石炭とともに凋落していった。

明治期の鉄道建設期、筑豊興業鉄道の計画では、始発駅は、当時の地域の中心だった芦屋に置く計画だったとか。それが、地元の反対で若松に変更になり、明治24年に若松駅が開業した。

以来、石炭の需要の高まりとともに、若松駅は発展し、石炭の積出港として、日本一の貨物量を誇るまでになる。昭和30年代前半に石炭の最盛期を迎えるが、スクラップ・アンド・ビルド政策の推進で、以降は、斜陽化の一途となる。しかも、港への積み出しも、油須原新線を経由する、苅田港ルートもできて、私が訪れた昭和40年代の初頭、若松駅の石炭扱い量は激減していた。しかし、石炭の最盛期など知る由もない私にとっては、広いヤード、おびただしい石炭車の群れには、石炭がまだこの国の重要なエネルギー源だと強く思ったものだ。

現在でも、若松は、筑豊本線の始発駅に変わりはないが、現実は、黒崎~折尾~直方~桂川~博多が電化され、愛称「福北ゆたか線」に一体化されて直通列車が数多く運転されている。取り残された、若松~折尾と、桂川~原田は、それぞれ非電化のまま、若松線、原田線の愛称となり、完全な別線扱いのローカル線になっている。現在ではDC2連が若松~折尾を折り返している。

昭和59年に行われた再開発で、、機関区は廃止、駅設備もウンと縮小され、一面二線の頭端式の旅客駅になった。石炭で賑わった時代を偲ぶものは、駅前広場に保存展示されている、蒸機キューロクと石炭車だけである。若松IMG_0001sy▲高搭山をバックに若松駅を発車した香月行き425レ、逆行の58694〔若〕牽引。(昭和42年3月)

若松IMG_0008sy▲石炭の繁栄を語り継いできた、大正8年建築の旧駅舎。(昭和50年6月)

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2013年 春の中国鉄路の旅 Part29 新緑の興隆森林鉄道 その4 レールバスの乗り鉄旅・後半

第27日目 5月27日
① 林鉄兴隆6:30(レールバス)→9:08東興
② 東興9:36→10:38二合10:52→11:54東興
③ 東興12:52→15:28林鉄興隆15:32(Taxi)→15:37国鉄興隆鎮
④ 興隆鎮15:45(K340次)→17:07哈尔滨19:16(T244次)→翌日7:10天津

13_東興813_東興9東興で乗り換えるはずだった小型のレールバスですが、いつに興隆から来ていたのでしょうか。追い抜かされたことはありませんので、昨日深夜か今日の早朝と思われます。
一般に知られていない運用もあるようです。

車両故障の修理部品が届かず運行不能となってどうするのかと案じましたが、急遽デルタ線で機回しの終わっていた大型レールバスを代役にバック運転で向かうことになりました。

9:36、東興を発車して奥地へと向かいます。我々に迷惑をかけないようにとの早い決断でした。
14_東興~新民3▲ 9:49、森林地帯に入りました。過ぎると右側に1971年に建設された香磨山ダム湖が見えだしました。この路線では珍しい光景です。ダム湖周りには耕作地が広がっていました。
14_東興~新民4

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広電の現役中高年たち

先週 INUBUSE氏が広電の七夕電車を紹介されました。七夕には出遅れたのですが、熱中症対策も万全に広島市内を歩いてきました。七夕電車、すなわち1000型の投入によって 旧型車が順次お役ご免になる日も遠くないものと思い 現役バリバリで活躍中の旧型車の姿を中心に追いました。写真はすべて7月17日撮影です。

 まず元神戸市電の582号です。広電では570型として17両の仲間がいたのですが、今ではひとりぼっちになってしまいました。広電では神戸時代の更新年を新造年として扱われていますが、実際の生まれは大正13年で神戸ではJ車と呼ばれたグループの一員です。神戸で戦災をまぬがれ、改番と昭和34年に車体更新を受けたのち神戸市電の廃止に伴い 昭和46年11月に広島に来ました。最近では仲間もいなくなり、車庫で眠っている日が多かったのですが うれしいことに参議院選挙が公示されたため、出番が回ってきました。この啓蒙看板は570型に合わせて作られたようで、この日もはりきって3号系統を何往復もしていました。この選挙が終われば次の出番はいつになるのでしょうか。今年の11月に広島県知事選挙があるので 少なくともそれまでは元気でいてくれると良いのですが・・・。広電では生え抜きの150型、650型が被爆電車として有名ですが、この神戸市電も戦争を生き残った車両です。

582号 福島町にて

582号 3号系統西広島行き   福島町にて  清き一票を呼びかけ

新己斐大橋を渡る 3号系統西広島行き

新己斐橋を渡る582号 3号系統西広島行き

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駅を旅する 〈2〉

門司

“九州の玄関口”、と言えば門司港を指すかも知れないが、在来線での乗車なら、九州に第一歩を印すのは門司となる。

明治24年に九州鉄道の大里駅として設置、のち明治40年に国有化される。昭和17年には関門トンネルが開通、その際、門司が門司港に改称され、大里が「門司」となった。

初めて九州に踏み入れた昭和42年の高校2年生以来、幾度となく、関門トンネルを抜けて門司に到着した。心なしか、見渡す車窓の風景も違う、空の青さも違うようにも思えた。やはり、ここは九州なんだと感じたものだ。門司駅は乗り換えで利用するだけでなく、交直接続のため、牽引機の付け替えも撮影の対象となった。当時は、旅客列車だけでなく、貨物列車も門司で付け替えを行っていた。

そして、門司機関区の下車駅としてもよく利用した。門司区は、昭和42年の蒸機の配置両数が53両、青森、岩見沢に次ぐ配置両数で、電機81両、DL6両を加えれば、ダントツ日本一の動力車配置区だった。蒸機・電機の配置は、通常、一区・二区に区分されていたが、門司だけは区分がなかった。

新幹線開通後は、小倉を中心とした列車体系に改められ、門司の凋落は著しい。JR九州のデータによれば、乗車数は一日6千人程度で、九州管内で29位となっている。平成16年に駅は橋上駅化されたが、駅設備はごくささやかなものになった。門司IMG_0012sy▲初めて訪れた門司駅は、まだ蒸機の天下だった。1番ホームに停車する門司港発柳ヶ浦行き1523レ、C57178〔大〕牽引。当時、日豊本線の電化は新田原までで、電化区間が短いため、客車列車は門司港から架線の下を蒸機が牽いていた。右に駅舎の裏側が見える。(昭和42年3月)門司IMG_0007sy▲当時の無骨な駅舎は、昭和27年の建築。これでも、九州初の民衆駅だったと言う。この駅舎を出て、路面電車沿いに西へ向かい、何度も門司機関区へ行ったものだ。(昭和42年3月)

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2013年 春の中国鉄路の旅 Part28 新緑の興隆森林鉄道 その3 レールバスの乗り鉄旅・前半

第27日目 5月27日
① 林鉄兴隆6:30(レールバス)→9:08東興
② 東興→二合→林鉄興隆(Taxi)→国鉄興隆鎮
③ 興隆鎮15:45(K340次)→17:07
哈尔滨19:16(T244次)→翌日7:10天津

今日はレールバスに乗車して95キロ先の奥地「二合」まで行きます。かつて中国最大の総延長500キロ以上を誇った興隆森林鉄道の一端を味あう乗り鉄旅です。淡々とした紀行記になりますのでご辛抱ご了解ください。

二合ではご一緒させていただいた皆さんとはお別れです。皆さんは路線バスで哈尔滨へと向かわれ帰国の途につかれます。一方の私は折り返しのレールバス乗り鉄を続けて兴隆镇に戻って列車で哈尔滨へ、そして夜の夜行列車で天津への一人旅に戻ります。
01_レールバス02_車内1▲ 6:30、定期のレールバスに乗ってのスタートです。大型レールバスですが一昨日、昨日見た車両ではありません。初めて見るレールバスでした。

乗車率は約70%、通路には普通は乗せないと思われるマキ木の束も乗せていました。

02_車内2今日はチャーターではありませんが、途中で気に入ったところで止まっての撮影の了解が取れているそうです。これは最高です。

途中から運転手さん横の席に座れました。皆さんから適当な撮影地があれば停車させるように指示がありました。昨日まで撮っていた大峰までは無視して、以降で撮影ポイントを探します。

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人と鉄道と-通行人と車内-

人と鉄道と-通行人と車内-

急行「やまと」にレンズを向けた記憶のない老人は、鉄・復活後は路面電車のスナップ中心に楽しんでいる。フランスで2度オッサンに怒鳴られた事を紹介したが、貴夫人は如何なりやと写真を探してみた。1996年GWの欧州低床路面電車探訪で、フランス中西部の元炭鉱街であったサンテ・チェンヌでの光景だが、中心街は京都市・都市計画道路1期線の幅員10間より狭い。恐らく15m幅であると思われるもので、標準レンズでは歩道部分も視野に入ってしまう。画1:左右の貴婦人は怖い顔してレンズを睨んでいる。画2:左の貴婦人は旧型電車到着を前にしてプイッと横を向いてしまった。そして反対方向から来た電車にレンズを向けたら画3:左側に貴婦人が2人、撮って会釈をしたら右側青コートの貴婦人は手を振ってくれた。画4:老人が立っていた乗り場は歩道で、ノンステップ電車と歩道天端の高低差15㎝で、右のお嬢さんにっこりでヤレヤレ!

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人と鉄道と-働く人びと-

今回は、鉄道員と、鉄道に協力して働く人びとです。

▼1967年1月2日朝、山田線区界駅。盛岡発釜石行き客630Dを見送る駅員。
小止みなく降り続く雪の中をDCが出発して行きます。気がつけば犬までが線路上で見送っていました。
昨夜、つまり1967年元日の夜は、区界駅の待合室でステーションホテルでした。待合室の木造外壁と入り口は二重にできていました。外壁の内側に50cmほどの空間を空け、二つ目の入り口扉を設けていました。起床後驚いたのは、二重の入り口の内側にまで夜来の雪が入り込んで隅に積もっているではありませんか。どこからどうして入って積もるのか、想像できません。首をかしげながら、自炊の朝食前に撮ったのがこの一枚でした。
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 ▼同日、同駅。雪が小止みになり所々に青空も見え始めた頃、616D急行『そとやま』を迎える駅員。急行『そとやま』は盛岡発山田・釜石線・東北本線経由盛岡行き、全283km、6時間の中距離急行列車です。
C3412

 ▼同日、同駅。急行は当駅で客扱いしません。(左)627Dとの交換待ち停車です。急行の車掌はホームに降り立ち、中央と右には除雪作業員の姿が見えます。
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駅を旅する 〈1〉 

サラリーマン時代、世話になった出版社の方から久しぶりに電話があった。北九州市に在住されていた高名な鉄道趣味人が、昨年、亡くなられ、その一周忌に合わせて、故人を偲ぶ平成筑豊鉄道の貸切列車が運転され、それに乗車したと言う。

筑豊地方の現状も聞かせてもらったところ、初耳だったのは、直方駅が新しく建て替えられたことだった。古風な駅舎は、水戸岡ナイズされた瓦屋根を持つシックな駅舎に変わったとのことだ。調べると、一昨年にリニューアルされたようだ。

久しく筑豊地方へも訪れていないが、その間に、駅もどんどん新しくなっていく。車両のようにニュースになりにくいから、駅は“いつの間にか”消え去ることが多い。改めて時代の移り変わりを感じたものだ。

近くの門司港や折尾も駅舎の工事に入っている。重文指定の門司港は、大掛かりな補修工事のため、しばらくその姿を見ることができない。折尾では、鹿児島本線、筑豊本線の共同駅を造る大規模な工事が始まり、さくら色に塗られた、下見板張りの駅舎もついに解体されてしまった。

駅は、鉄道旅行の出発点であり、終着点でもある。そして、格好の写真撮影の場でもあった。私も、数知れないほどの駅に乗り降りして、写真を撮ってきた。

ところが、昨今、“駅を利用しない、鉄道に乗らない、鉄道写真愛好家”が増殖している。鉄道写真の原点たる駅の存在が忘れられている。

直方IMG_0020sy▲かつての直方駅舎。正面ペディメントを支える柱にエンタシス風の膨らみがある。初代の博多駅舎を移築したものとの説が一部であったが、解体の際の現地調査で、木材の転用の痕跡がないことから、その説は否定されてしまった。

前置きが長くなったが、直方駅改築のニュースを聞いて、九州の駅の思い出を写真とともに語ってみたくなった。よく本にあるような、特徴のある名物駅の紹介ではなく、あくまで、駅で写した当時の車両写真である。

ごく最近、北九州育ちのKH生さんからも、当地の懐かしい話を聞かせてもらい、なおのこと、その思いが強くなった。

いま痛切に感じているのは、一日一本のため、何時間も歩いて写した、大自然の中の写真より、駅での待ち時間にチョイと写した写真が、はるかに、時代を雄弁に語り、記録的価値が高いと思っている。

IMG_999_13▲日本最初の立体交差駅として誕生した折尾駅。いま付近の地形までも変えてしまうほどの大規模な工事が始まっている。大正5年建築の洋風駅舎も、保存運動もむなしく、解体されてしまった。

 

2013年 春の中国鉄路の旅 Part27 新緑の興隆森林鉄道 その2

第26日目 5月26日
① 林鉄兴隆12:02(レールバス)→大嶺
② →18:44林鉄兴隆

02_林鉄興隆駅1午後から夕刻まではC2型蒸気機関車牽引の運材列車をチャーターしてのフォトランをいたします。

12:01、昼食後に林鉄兴隆站に向かいますと、すでにC2は車庫から公園前の站に着いていました。02_林鉄興隆駅202_林鉄興隆駅5
12:17、留置線に止めてあった運材貨車を取りに行ってから出発準備完了です。

途中で転車台やデルタ線がありませんので、往路は逆向き牽引です。
02_林鉄興隆駅302_林鉄興隆駅6▲ ここで我々はレールバスに乗って先行します。運材列車はその後を追います。

12:20、2つの列車は出発しました。

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人と鉄道と-乗務員編-

その昔ワンマンカーになる前のバスの車掌さんはほとんどが女性でした。路面電車はさて あまり覚えていませんが男性が多かったような気がします。さて鉄道となると運転手も車掌さんも男性社会だったと思います。
最近は JRや私鉄共に女性が大活躍し、特に山手線は運転手さん 車掌さんの多くが女性になってきています。
次の写真は 浜松町での山手線の運転手さんです。(2011年11月)pict-乗務-1
pict-乗務-2
山手線などの231系は乗務員扉の窓の位置がちょうどいいところにありますが 光の加減でなかなか良い写真は撮れません。新型の233系や郊外型の231系は乗務員扉の位置が違うためほぼ不可能です

次の写真は名古屋駅での乗務員交代の場面です。下り特別快速313系を待つ車掌さんです。
pict-乗務-3
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キリリと緊張感みなぎる 姿です。
そこへ 大垣行特別快速が入ってきました。313系朝の8連です。
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女性乗務員の交代場面です。
pict-乗務-6
2012年5月の名古屋でした。

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C5756急行『大和』を曳く(続)

C5756の画像は1枚きりと書きましたが、他にもありました。しかも同じ『大和』牽引です。
▼1964年12月6日(曇り)、急行203レ、機C5756【奈】、加太-中在家信号所間。
先の2月28日より2ヶ月前、こちらの方が夜明けが遅く、しかも曇りでした。車両後部がはっきりしません。
09704

097051964年12月6日、「加太会」発祥の記念日でもありました。

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2013年 春の中国鉄路の旅 Part26 新緑の興隆森林鉄道 その1

第26日目 5月26日
① 林鉄兴隆07:02(レールバス)→
② →10:09林鉄兴隆

01_朝飯今日は1日興隆森林鉄道の撮影です。朝6時に宿を出発して朝飯を仕入れてから林鉄兴隆站(興隆駅)へと向かいました。

6:20、ホテル前から林鉄と交差する広い道に入りますと、6:30に発車する定期レールバスが入線しているのが見えました。
前回はこの大型が前日に脱線したので代わって小型が運用に付いていました。こうして大型レールバスが客扱いしているのを見るのは初めてです。
02_興隆駅レールバス102_興隆駅レールバス202_興隆駅3▲ 踏切を挟んでの反対方向です。興隆森林鉄道の運材列車は雪が降り積もって伐採した原木が集材場へ運搬できる頃から走り出します。そして春になって雪が溶けると休止します。この時期はもう運材列車が走ってはいませんので、前もって原木を積載した貨車を少し残してもらってのチャーターです。見える貨車は我々のために留置されていました。

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C5756 急行「大和」を曳く

待っていました、C57特集。ご希望のC57牽引「大和」です。遠くて機番が見えませんが、記録ではC5756になっています。なお、筆者保存のC5756はこの画像一枚きりです。
1965年2月28日、急行203レ、場所は関西本線加太-中在家信号所間です。
10029h

人と鉄道と -乗客編

KAWANAKAです。

デジ青の先輩の「人と鉄道と」編の言わば番外編として、まったく車両が写っていない)人と鉄道を掲載しようと思いつきました。tsurukame先輩の格調ある写真の狙いとは違って人間だけの表情を捉えて見ました。

対象はお金を払った人、すなわち乗客に絞っています。なかなかチャンスが来ないのと、肖像権の問題があって、撮っていいものかどうか悩ましいですが、カメラを出して意識して特にNoがなければOKと勝手に解釈し、失礼のないようにすれば良いかなあということで何枚か載せました。デジ青は公開すればその気になれば法的に問うことができると思いますが、そこまで悪意もないので許されると思います。

まず、最近の写真といっても房総にC61が走ったときの写真。発車までの間になにやら話をしていますが、(これは乗客と違いますね。失礼しましたが、きれいな女性はすぐに撮っておく癖があるものですから)でもこれは肖像権に当たらないと思います。

おいでよ房総

きれいと言えば、TVで活躍している知花くららさん。正真正銘の美人でありますが、ミュンヘン駅頭で偶然見かけました。旅サラダのロケをしていて、オクトーバーフェスタのロケだったそうです。スタッフに撮影OKを貰ってから撮りましたが、何と関係のないオッサンが現れ、彼女の腰に手を回し2ショット。

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(うまく写真が配置できなくて恐縮)ですが、おっさんの満足そうな顔が印象的です。

ミュンヘンといえばその時期、ぶんしゅう氏の投稿にもありましたが、どーんと人が集まります。そんな幸せそうなカップルを捉えました。腰の位置にカメラを持って撮った1コマですがうまくフレーミングできました。

ミュンヘン

 

 

 

 

 

 

 

 

まだまだありそうですが、国内に戻りましょう。女の子はこれがおしまいです。梅雨が明けましたが、ちょうどウインドウガラスが曇りそうな中に、佇む貴女を見つけました(ごめんなさい)。場所は嵐電嵐山です。

嵐電の女の子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

申し訳ないが次も女の子(若いですが)。窓が反射して車内が見えませんが、中にはおじいさんがいます。また来てねというとことでしょうか。背伸びしないと車内までまだ見通せません。来年はもう少し大きくなるからね。

またね

 

 

次は、女の子ではなく女の親と子です。場所は九州大村線。子供がこっちを見たりしていたが、きょろきょろして中々決まらない。お母さんは、なにか一生懸命字を教えているのかな。

obenkyou

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こんなに勉強しても、やがては大人になって賑やかな仲間になります。カメラを意識しているのか、どうでしょうか。既に出来上がっているのでしょうか、まったく気にしません。電車で帰る楽しい宴の終わりです。東海道線島田付近にて撮影。老年切符を使ったときの収穫です。

ennkai

賑やかも良いですが熟年の旅も捨てがたい。北陸線内でちょうど老夫婦が旅に出る。特急を使わずに、近場へ行くのでしょうか。画像処理が今ひとつですが、フレーミングが良くないですがまあこんなものでしょうか。

2人連れ

 

鉄道写真はなにも線路に噛り付いて撮るものではないと思いますが、とくに最近、魅力ある列車が減っているなかで、こんなものも被写体として面白いのではないか、と思い、いくつか載せてみました。今度はもう少し車両を入れたものも考えておきましょう。

保存蒸機とその現役時代(4)

関西本線加茂駅は愛称大和路線の終点でこれから先亀山側は非電化区間でキハ120が1~2両で走るローカル線である。うっかりしていたが、ここは京都府であり、関西本線が京都府を走るイメージは頭になかった。不勉強であったと反省している。その京都府木津川市立加茂小学校にC5756が保存されていることを知り、会ってきたので報告する。場所は駅から木津、奈良方面に向かって7~8分歩いたところに屋根付きで保存されている。小学校の校庭ではなく関西本線の線路際である。しかし、学校の横であることは間違いなく、小学生の歌声が校舎のどこからか聞こえてきて随分昔の幼き頃を思い出した。たまにはこういう旅もいいものである。C5756は新製後糸崎、高崎等の配置を経て戦後は奈良を始め当時の天王寺鉄道管理局管内で活躍した。従って加茂小学校に保存されていることはこの機関車にとっても幸せなことであろう。

2013.5.9  C5756 赤ナンバーで保存状態も良好であった。煙突が本来の姿より短く感じたが、集煙装置を装備していたのかもしれない。↓

s-13.5.9加茂C5756

同機のナンバープレート 保存機では盗難予防のためか本物でないものが多く製造番号まで表示されている例は少ない。↓

s-13.5.9C5756NOプレート

小学生を意識した説明板であるが、昭和12年生まれとありプレートには昭和13年とある。交友社発行のSLNo3では昭和13年4月30日三菱製造製番1920とある。どれが正解なのかよくわからない。プレートが正解と思うが。↓

s-13.5.9C5756説明板

 

さて現役時代であるが、これは1964年8月15日和歌山方面に出かけた時に天王寺駅で撮影した203列車東京発湊町行き急行「大和」を牽引して到着した奈良区所属の同機である。加太峠の存在を知らない時代で気楽に駅撮りした記録である。真夏で暑いので窓を開けざるを得なかった時代の汽車旅であるが、煤が入ってきても最高の旅を味わえた。見えている客車はスハフ42でウイングバネのズシンズシンという重量感あふれる台車音と上下振動が心地よく、スハ43系のファンは多かった。加太会を始め急行「大和」の蒸機時代の写真をお持ちの方の発表を期待したい。私の加太走行の「大和」はDF50になってからの姿しかない。

s-64.8.15天王寺C5756大和

番号がわかるようにもう少し機関車に近づいたのがこの写真。関西地区のC57はドームの後ろに重油タンクを付けているタイプが多かったが、全体にきれいであった。↓

s-64.8.15天王寺C5756

広電 七夕電車に寄せて

INUBUSE氏から七夕電車のリポートがありました。実は私はまだ新車の1000型にお目にかかっていないのですが、そろそろ重い腰を上げて 熱中症に注意しながら広島にでかけようかと思っているところです。広電のホームページには各電停、各系統の通過時刻が出ていますので これをもとに1000型の運用表を作ってみました。回送時刻は不明です。

1000型運用表

1000型運用表

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人と鉄道と 近鉄 オーストリアに寄せて

 ぶんしゅうさんが1フレームに複数の写真を表示する方法を投稿されましたので、同じようにやってみました。お会いした時にPhoto shopで出来ると聞いたので、早速にマニュアル本を頼りにテスト的にやってみました。その後、投稿記事があったので、これも参考にして本格的にやってみました。まったくいっしょの方法でありませんが、ちょっと見てください。文字も入れてみました。また、新しい技を習得できたのでうまく組み合わせていきたいと思っています。せっかくだから手持ちの写真で最近の投稿に因んだものにしてみました。

 「人と鉄道と」をベースに写真を拾って見ました。古い写真から順番に。まずは近鉄からです。

橘寺駅 2題-1

 近鉄橘寺駅で撮った写真です。中学生の時に飛鳥へハイキングに行った時に撮った写真です。カメラはオリンパスペンSです。ハーフサイズカメラです。

人と鉄道と 4題

上の4枚の写真は4番の写真以外は高校生の時のものです。4番はDRFC現役時代です。さて、これらはどこで撮ったのでしょうか?全て有名な?所です。当ててみましょう。

 大津の86さんがオーストリアに行かれたそうで、それに因んで少しばかり。オーストリアの写真は仕事をしていた頃、会社からヨーロッパの工場視察のツアーに行った時に自由行動の日にウィーンから日帰りで行って撮って来ました。現在のチラタール鉄道がどうなのか投稿を楽しみにしています。

オーストリアの蒸気機関車

 ところで鉄道写真といえばDRFCに入った1970年7月に発行された青信号24号に写真班が「鉄道写真とは何か」というアンケートの結果がまとめてあります。読み返すと面白いもので、「6×6判は正しくない!」とか「乱写は間違っている」とか「一発至上主義は間違っている」と喧々諤々と好き勝手なことを当時は吼えまくっていたのです。私も新人であるのにアンケートを書いてくれと言われて、これが私の最初の青信号投稿記事になりました。ところでこの中でなぜか「カメラは蛇腹が最も正しい!!」というのが印象に残っていて、富山にいる頃に商店街に写真屋さんショーウィンドにあの「パールⅢ」が置いてあるのでム、ム、ムッムでありました。いつもその店の前を通るとしげしげと眺めていました。今でもあるのでしょうか。富山に行くことがあればのぞいてみたいと思います。