出羽三山東麓・電車とバス

1959年9月14日、一日かけて福島市内をうろついた。4台続行に遭遇した事を須磨の大人に後日話したら「5台やぞ」と言われ、ぎゃふんとなったことがある。彼の5台続行は先日「デジ青」で紹介された。福島電鉄2車庫訪問後、峠越えで山形(出羽国)に足を延ばした。米沢20:24定着とメモがあり、駅で銭湯の在処を聞き汗を流した後でそばを賞味したとなっている。駅員に1晩お世話になりますと断り熟睡している。翌15日、7:32発、糠ノ目7:48着となっている。山形交通高畠線訪問なのだが、午後訪問の山形交通三山線を紹介しよう。

三山線は奥羽本線の支線、左沢(あてらさわ)線終点より2駅山形寄り(東)の羽前高松から寒河江(さがえ)川支流沿いに三山電鉄として建設された。1926(大正15)年12月23日、海味(かいしゅう)迄8.8kmが開業した。その後上流の間沢(まさわ)へ1928(昭和3)年9月17日延長された全長11.4kmの軌間1067粍、架線電圧600Vの電化線であった。1943(昭和18)年10月1日陸運統制により、三山電鉄を中心に山形交通となった。訪問時、車両は貨車を除くと1)木造4輪電動車101~103号、2)木造ボギー式付随客車104号、3)木造ボギー式電動車105号、4)鋼製ボギー式電動客車106、107、111号の陣容であった。

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写真をもとに個々に簡単に紹介する。

1)開業以来の車両で、101、103号は戦後、地元の大工の手により木部を更新の上、戸袋を羽目板に窓を2段上昇式に改造した。102号は原型のままであった。先の2両は多客時にトレーラーで増結車となり、電動車として使用する時は貨物列車の牽引車又は構内入換用となる。102号は以前に紹介した架線修理車に変身しており、側面の一方に梯子をぶら下げ、車内は工事用資材でごった返していた。この3両の特徴は台車のホイールベースが3,962粍と長く、電動機は48.49KW(65hp)×2、車体長(連結面間)8,941粍、自重13.21頓の4輪車としては強力であった。これらは貨車牽引時の事を考えてのことであろう。1926(大正15)年11月日本車両製で、購入代価1両19,850円、定員50(座席24)人であった。

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2)1927(昭和2)年7月29日の雨宮製作所製(購入代価12,060円43銭)、車体長13,564粍、自重18.797頓、定員94(48)人の平凡な客車であった。訪問時、朝夕1往復の運用であった。

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3)南海電鉄電化時1909(明治42)年、川崎造船で新造された電1型を1937(昭和12)年に購入した。当時南海は木造車の鋼体化工事進行中で、廃棄対象になった木造車体を電装し売却したものだったようだ。全長15,990粍の車体にブリル27GE-1台車、電動機WH101-H(37KW×4)、制御器GE K-38、自重27.7頓、定員90(座席60)人となっていた。この座席60人は?である。現車は3扉でロングシートが4か所ある筈が対向状に2か所であった。従って半室分は仕切りなく座席もなかった。ところが外部には【定90】の鋳物製のプレートがビス止めされており、何かの手違いで座席定員60人としたのであろう。座席の無い区画は手小荷物室となり、午後の1便、50番台の列車設定があり、訪問当日の105号はその筋で間沢を出発していった。羽前高松に戻った時に眼にした光景は、105号は104号の入換をしており、夕刻ラッシュに備えていた。

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4)-1原車は名鉄451号で、各務原鉄道が併合される前はKB1型1号車であった。1925(大正14)年日車本店製の正面5窓で、車体長13,106粍の丸屋根木造車であった。戦後、規格型電車の割当を受けた名鉄は、好ましいスタイルのボギー車を、モハ63の見返り車両として昭和22年に三山電鉄へ送り込んだ。代価は475,000円と記録されていた。鋼体化することになり、日本車両に発注され、軽量車体として設計された、1956(昭和31)年8月に竣工、直ちに営業に着いている。車体長12,944粍はほぼ原車並みで、幅は少し広げられ2,744粍となったが自重17.5頓、定員80(座席34人)共に変化なしで、出力は44.76kw×4であった。

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4)-2買収国電(元鶴見臨港鉄道)の車体(汽車会社製)、台車などを国鉄から払い下げを受け、東洋工機で電装と共に整備を受け昭和30年に入線した。全長15,460粍、幅2,720粍、自重28.25頓、定員100(座席40)人、出力48.4kw×4となっていた。

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4)-3訪問時、最新の車両であった。西武鉄道新宿線を走っていた1941(昭和16)年梅鉢工場製225号を購入したもので、昭和33年12月9日運転開始となっていた。入線にあたり西武所沢車両で改修工事と共に片運を両運に、正面窓を2ケとした。国電中古車を集め、自社製新車と言っても再生機器流用の車両を揃え、戦前製の余剰車両を田舎鉄道の要望に応え化粧直しの上、売却する手法をとる西武商法を垣間見た。車内外共に西武鉄道の標準仕様で、その後訪れた栗原電鉄、蒲原鉄道で同仕様のものを見る事が出来た。車内木部は薄いピンク、座席のモケットはエンジで京阪1800系と同じ組み合わせで、外部塗色は当時の西武標準色であった上半薄いピンク下半赤味を帯びたチョコ色で、資本関係は無縁でも西武鉄道の出張所のようなイメージを与えるものであった。

111号に続き112号が暮に入線予定で、これで木造車を全廃すると聞かされた。この2両の主要目は全長17,040粍、幅2,675粍、自重30頓、定員110(座席40)人、電動機は100hp×2となっていた。廃線後、車体は高松琴平電鉄に売却され、1976(昭和51)年春に電動車780形780,790号となり復帰したが、1983(昭和)9月に制御車化され860、870号に改番、1998(平成10)年8月に廃車となった。

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以上が訪問時の電車である。終点間沢は月山登山口へのバスとの中継点であり、電車車庫の隣はバス車庫で、駅正面はバスの転回場となっていた。京都では珍しいキャブオーバー型が2種あったが、山間部でのハンドル捌きのために配置されていたのかも知れない。

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2 thoughts on “出羽三山東麓・電車とバス

  1. 乙訓の老人様
    秋田、山形等古い車両や風景を楽しませていただいております。このようなジャンルは葛飾水元公園在住の藤本哲男さんのコメントが待たれるところです。文中の奥羽本線糠ノ目という地名は最近は聞かなくなったと思っておりましたら高畠と改名されているようですね。高畠なら6~7年前に雪の中の山形新幹線を撮りに行ったことがあります。あまりにも寒くて駅に併設された温泉につかった覚えがあります。地元の人の話では山形交通の線路の残っている場所があるとのことでした。ところでこのあたりの当時の国鉄の主力はC51ではありませんでしたか。

  2. コメント有難うございます。電車の事は覚えていても、蒸気機関車の事は覚えておりませんので悪しからず、といったところです。でもDCは覚えています。糠ノ目から山形迄乗った列車はキハ17でした。左沢線往復も同じで、共に2連でした。本線ではガラガラでしたが、支線のほうはそれなりの乗車率だった事を思い出しました。仙山線の牽引機は以前thurukame氏投稿されました8600でした。本線については全く記憶なしです。次回はバスなしで高畠線、庄内交通とします。

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