「出羽三山東麓・電車とバス」に寄せて/昭和40年代の三山線

モハ105-3 43-8-31
羽前高松に到着した朝の3両編成(モハ105+モハ106+モハ111)/(43-8-31)

乙訓の長老より2月17日【44556】にて昭和34年9月15日訪問された時の状況を画像と共に報告いただいき感激している。
電車も貴重であるが、当時のバスの記録は非常に珍しく「超貴重」で本当によく撮影されたと思う。
私自身三山線は現役時代の昭和41年9月2日、43年8月31日、社会人になってから46年5月27日と3回訪れている。

1回目は、上野22時45分発奥羽本線経由青森行(411レ)に乗車、ほぼ全駅に停車し、最終列車、一番列車、朝刊配達等を兼ねた列車であった。
糠ノ目で降りて高畠線を往復後、羽前高松から間沢を往復した。間沢の車庫は電車の停車位置が悪く良い写真は撮れなかった。

2回目は、朝のラッシュ時に羽前高松で三山線と左沢線の両方撮影しようと思い、上野駅21時30分発急行「おが」に乗車、山形で左沢線の初発列車に乗換え羽前高松で撮影した。
両線の発着時刻が接近してあり中途半端な撮影になってしまったが、左沢線、三山線双方の通勤通学列車を撮影した。
その後左沢に行き入場券購入後、羽前高松に戻り間沢を往復して次の目的地尾花沢線に向かった。

3回目は、社会人になってからで、仕事を終えて新大阪20時頃の新幹線で東京に向かい、上野駅23時54発急行「あずま2号」に乗車、福島で奥羽本線初発の普通列車に乗換え糠ノ目で降り、高畠線を往復後三山線に向かったのであるが、ダイヤ改正(改悪)で昼間の運行本数が大幅に減少したため羽前高松での接続がなく、寒河江で降りて駅から少し離れたバスターミナルから間沢行のバスに乗車した。

バスは山形始発でほぼ満席であった。 要するに昼間バスを増発する代わりに電車を減便して鉄道廃止の布石を築いていたのであった。

三山線沿線の乗客の流れは、寒河江、山形に向かっており、羽前高松で乗換えを要する電車より寒河江、山形に直行するバスの方が沿線住民にとっては利便性が高いのも事実で、運賃は羽前高松~間沢間はバスの方が高いが、国鉄に乗り換えると新たに国鉄運賃が加算されることになり、バス運賃と変わらなくなるのと、目的地が駅前ならともかく、市街地に入るとバスはこまめに停車するため、この点でもバスの方が有利であった。

以前梯子付きのモハ103を撮影した羽前宮内で降りて再度撮影する予定であったが、この日は間沢で入庫していたため撮影できず、40分待って電車で間沢に行った。
間沢では前回、前々回とは異なり、車両はまずまずの位置に停まっていた。 長老の解説と重複する部分があるが、訪れた時に在籍した車両を紹介する

モハ101/(46-5-27) 間沢
間沢で入替に使用されていた。
昭和34年に長老が撮影されておられるモハ102は廃車済であった。
モハ102については「モハ106、107の入線により休車になり、その後、登場時の茶色のまま間沢駅構内で解体された」と記述されている文献があるが、長老が撮影された写真の通り、車体は塗り分けられ、ヘンテコな形のビューゲル上がっており、少なくとも昭和34年9月時点では「工事電車」として健在であったので注意されたい。
詳細は2011年6月28日【13939】「梯子をくくりつけた電車」をご覧いただきたい。 101 46-5-2

モハ103/(41-9-2) 羽前宮内
廃車されたモハ1 02に替わって「工事電車」になっていた。
現在も旧睦合駅近くの月山酒造資料館に保存されており、見学に行く予定である。 103 41-9-2

モハ106/上(46-5-27) 間沢 下(43-8-31) 羽前高松
長老の解説通りである。廃止後蒲原鉄道に譲渡され、同社のモハ91となり加茂~村松間廃止時まで使用された。
直接制御車のため他の電動車と連結時に総括制御は不可能で、先頭車が後ろの電動車をトレーラー扱いで牽引していたと思われる。 モハ106 46-5-27 モハ106-2 43-8-31

モハ107/(46-5-27)
長老は原形を撮影されておられるが、私が訪れた時は、西武所沢工場で車体更新後であった。
元鶴見臨港鉄道モハ112(昭和6年新潟鐵工所製)が前身で、戦時買収で昭和18年7月1日鉄道省所有になった買収国電であった。
26年1月電装解除28年6月の改番でクハ5540となり29年3月31日付で廃車になった。 30年3月東洋工機で再電装され三山線に入線した。
書類上は新製扱いとなっており、モハ106と同じく直接制御車で総括制御は不可能であった。 モハ107 46-5-27

モハ111・112
長老の解説通りで、主力車として活躍した。
間接非自動制御車で111+112と連結時に総括制御が可能であった。
モハ112の入線は35年6月で、元西武鉄道クハ1224(16年梅鉢鐵工所製)である。
改造時期が相違のためか、モハ111とは正面のスタイルが多少異なっていた。

モハ111/(上 46-5-27  下 43-8-31) モハ111 46-5-27

間沢発6時4分→羽前高松着6時34分で左沢線山形行1624レに接続する電車 111+106+105 43-8-31

モハ112/(上 46-5-27   下  43-8-31) モハ112 46-5-27

間沢発7時5分→羽前高松着7時36分の電車 モハ112+クハ11 モハ112+クハ11 43-8-31

モハ105(2代目)・クハ11
昭和39年に入線した元西武鉄道のクハ1111、1112である。
前歴は下記の通りで極めて複雑である。

モハ105(2代目)/(上  41-9-2  中・下 43-8-31)
京王電気軌道モハ23形31(大正10年枝光鐵工所製)→昭和9年多摩湖鉄道に譲渡モハ20形20 →23年西武鉄道に改称後の改番でモハ101形101→24年鋼体化改造→28年電装解除してクハ1111に改番。
35年車体を延長して3扉化。36年多摩湖線1500Ⅴ昇圧により運用離脱、37年夏山シーズンに間接非自動制御化の上松本電鉄に貸し渡し。
39年8月山形交通に譲渡時に再電装を行った。
入線当初は同形のクハ11と整ったMT編成を組んでいたが、車体、出力とも小さく(元のGE社製41Kw×2と思われる) 使い勝手が悪く42年頃電装解除してTc化されラッシュ時の増結用になった。車号は改番されず「モハ105」のままであった。 モハ105 41-9-2

  電装解除後 モハ105 43-8-31 モハ105-4 43-8-31

クハ11/(上 41-9-2   下 46-5-27)
京王電気軌道モハ23形32(大正10年枝光鐵工所製)→多摩湖鉄道モハ20形22 →23年西武鉄道モハ101形103→24年鋼体化改造→28年電装解除してクハ1113に改番。
33年クハ1112に改番。
35年車体を延長して3扉化。36年多摩湖線1500Ⅴ昇圧により運用離脱。
37年夏山シーズンに間接非自動制御化の上松本電鉄に貸し渡し。
39年8月山形交通に譲渡。 クハ11 41-9-2 クハ11 46-5-27

104
長老の解説通りで、前述のモハ105、クハ11i入線後は使用頻度が減少した。 104 41-9-2

ハフ4
45年9月に廃止された非電化の尾花沢線から転入した。元近江鉄道ハユ24(←クハ24/22年日本鉄道自動車製)で、41年西武所沢工場で車体延長の上、尾花沢線に入線した。 三山線には104の代替として入線したと思われるが、営業運転に使用されることなく2度目の廃線を迎えた。 サハ4 46-5-27

バスについては鉄道廃止後しか撮影していないが、次回紹介する。鉄道撮影時についで撮影していないことが悔やまれる。

 左沢線
撮影日は43年8月31日、場所は羽前高松駅の左沢寄りである。

624D(左沢発6時9分→山形着7時4分)
キハ22を主体とした6両編成 Negative0003

1624レ(左沢発6時29分→山形着7時27分)
客車11両の輸送力列車で、無人駅は通過であった。
Scan0003

623レ
(山形6時8分→左沢7時13分) 客車は4両で無人駅にも停車した。
FH000010

 628レ
(左沢発7時36分→山形着8時42分) 623レの折返し。  402052[1]

羽前長崎駅の駅名表示板
次駅の表示が2行になっているが、下が次駅である。無人駅のためこのような表示をしていると思われるが、通過するのは朝夕の11両編成の客車列車のみである。
羽前長崎駅名板

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