浜大津イベントを振り返って

土曜、日曜だけの4日間開催でしたが、有料入場者数400余人ということで無事終了致しました。丁度1年前の江若3駅のジオラマ展示に続く第2弾として、実質11ケ月間で製作しましたが、この間多くの皆様から物心両面にわたるご支援があったればこそ実現できたと改めて感謝しています。本当にありがとうございました。
 併設された滋賀鉄道模型愛好会レイアウトへの来場者も含めてのアンケートですが、回収した126人分のアンケートを整理してみました。
1.来客の住所
   ・大津市内    61人(49%)
   ・滋賀県内    32人(26%)
   ・滋賀県外    32人(26%) 東京、千葉、埼玉、京阪神、奈良
2.年齢
   ・10歳未満     6人  滋賀模型愛好会への来客?
   ・10歳代      5人
   ・20歳代      4人
   ・30歳代     21人
   ・40歳代     22人
   ・50歳代     34人
   ・60歳代     19人
   ・70歳代     11人
   ・80歳以上     4人
3.イベントの情報源
   ・新聞記事          35人(27、28日に5紙に掲載),効果大
   ・ポスター、チラシ、広報  32人
   ・インターネット        24人
   ・その他 友人など口コミ  23人
   ・通りがかりに立ち寄った   9人
4.昨年のイベントに
   ・来た      20人(17%)
   ・来ていない  98人(83%) リピーターは少ない
5.このジオラマを今後どうすれば良いかと意見を聞いたところ
   22人の方が「永久保存」「常設」希望と書いて頂いていました。

 アンケート集約結果は以上ですが、40年前の記憶がない30代、40代の方が熱心にご覧頂いたこと、介護福祉士の青年が 会場に来たくても来られない老人のために是非写真を撮って帰って 施設で見せてあげたいと申し出られたことが強く印象に残りました。更には 昨今 はるか昔の写真やジオラマを見せることで認知症の改善を図る療法があることを知ったこと、あるいは模型で再現した喫茶店や飲み屋さんが現在も盛業中で、それぞれのお店で杯を傾けられたのも思い出に残る出来事でした。
 以上簡単ではありますが、ご報告と御礼とさせて頂きます。

「都電荒川線の日」2012


10月21日(日曜日)荒川車庫で「都電荒川線の日」のイベントが実施された。今年は、昨年「7510」を改造して作られた「花100」にハロウィンの装飾をして展示された。
車庫内で展示されたのみで営業線での運転はなかった。

ハロウィン号
9月29日~10月31日の間、「9002」の車内にハロウィンの装飾をして「ハロウィン」号として運転された。

荒川車庫前 (24-10-21)  ハロウィンの小さな看板が取り付けられている。
      ハローウィン風に装飾された車内で子供には大人気とか。


車内の電光掲示板(電気式紙芝居とも言う)

荒川線の近況等について
7000形20両(7001~7003、7005、7007、7008、7010、7013、7015、7016、7018、7019、7022~7026、7029~7031)、8500形5両(8501~8505)、9000形2両(9001、9002)、8800形10両(8801~8810)、花100形1両(花101)の38両が在籍している。昼間の運転間隔は5~6分間隔で約20両が稼働している。土休日は特に乗客が多い大塚駅前~町屋駅前間を中心に増発されるので25~30両程度稼働する。ほぼ中間地点の飛鳥山、王子駅前で約1時間立っていると稼働車を全車撮影することが可能である。
ダイヤは7000形に合わせて引いてあり、8500、9000、8800形は性能を持て余している。信号待ちのロスが多いため、電車優先信号にすることにより全線で7~10分程度のスピードアップは可能と思われるので是非実行していただきたい。

荒川区役所前 (24-10-18)

町屋駅前~町屋2丁目 (24-10-8)

町屋駅前~町屋2丁目 (24-10-8)

町屋駅前 (24-10-8)

荒川営業所の横断幕

8800形のラッピング車
今年の4月頃から8800にラッピング車が登場した。現在8802、8803、8804、8806、8808の5両に実施されている。


クハ79


仙石線 陸前富山~陸前大塚 (49-4-29) クハ79230

関 三平さんの「昭和の電車」は、長く続いた「モハ63形シリーズ」が6月25日の京成電鉄モハ109号で終了となり、改造連接車も終わって、今回から戦前の古豪シリーズが始まり、第1回目として近鉄南大阪線のモ6601形が紹介された。一方小生の超鈍足「モハ63形シリーズ」は第4回目の「クハ79」を解説する。

(Ⅰ)鋼体化改造グループ
昭和9年から17年にかけて、17mの木製車の車体を新製の半鋼製車体に乗せ換える、いわゆる鋼体化改造が施行され、モハ50形(後のクモハ11形400番代)132両、クハ65形(後のクハ16形400番代)221両、サハ75形(サハ17形300番代)21両が誕生した。翌18年には身延線用の2扉セミクロスのモハ62形(後のクモハ14形100番代)、クハ77形(後のクハ18形0番代)が各3両作られた。
戦時中の輸送力の増強のため、鋼体化改造車を17m3扉車から20m4扉車とすることになり、昭和19年に25両計画(当初の計画では33両)されたが、終戦までに完成したのは2、4、5、9、12、16、24、25の8両に留まり以降の改造は中止となった。また、5と9は戦災で焼失したため戦後まで残った車両は6両であった。
時節柄、造作は大幅に簡略化され、2、4、9以外は天井板がなくタル木がむき出し、ラストナンバーの25は最低で座席は12名分しかなく、内張りは戸袋部以外窓から下は省略されていた。沢柳健一氏が撮影された写真がよく趣味誌に掲載されているのでご覧になられた方も多いのではなかろうか。
台枠は最初の2、4、9は木製車のものを延長して使用したが、それ以降は新製された。台車は木製車時代のTR10、TR11を流用したが、戦後24以外はTR23に履き替えた。
当初は東京地区で使用されたが、昭和39年9月、何を勘違いしたのか4、12、16、24、25の5両がなんと明石区に転属して本線緩行に使用された。当時ピク誌の「車両の動き」欄でこの驚愕の事実を知り「何考えてんねん」と思った。
以下、写真と共に解説する。

79002/ (46-9-16)  放出
大正9年天野工場製のクハ15006を昭和19年5月大宮工場で鋼体化改造。東京地区で使用後、26年11月淀川区に転属、29年3月宮原、32年9月高槻、35年10月淀川区と転属して、36年11月環状線101系化で東京に戻り下十条へ、45年12月再度関西入りして淀川区で片町線に使用。一度だけ乗ったが、とにかくボロボロであった。オレンジ色に塗り替えられることなく47年1月24日付で廃車になった。

79004/ 上(43-4-20)  大阪 下(50-2-2)  広島/呉線使用時
大正9年天野工場製のクハ15009を昭和19年6月大宮工場で鋼体化改造。東京地区で使用後、39年9月明石区に転属、41年10月高槻へ、44年10月東京に戻り中原区から12月に青梅区へ、翌年の45年6月呉線電化時に幡生工場でトイレを設置して広島区へ、47年1月には窓の2段アルミサッシ化が実施された。呉線新性能化後可部線で使用され、59年10月3日付で廃車になった。

79012/ (39-10-24) 京都
大正10年日本車輌製のクハ15039を昭和20年1月大井工場で鋼体化改造。東京地区で使用後、39年9月明石区に転属、41年10月高槻へ、48年9月18日付で廃車になった。

79016/ 画像なし
明治45年新橋工場製のクハ19043を昭和19年11月大井工場で鋼体化改造。東京地区で使用後、39年9月明石区に転属、41年10月高槻へ、その後阪和線に転属して48年1月23日付で廃車になった。

 79024/ 上(42-1-6)  下(41-8-25) 京都
大正14年日本車輌製のサハ17019を昭和20年9月大井工場で鋼体化改造。東京地区で使用後、39年9月明石区に転属、41年10月高槻へ、42年6月15日付で廃車になった。
この車のみ台車がTR11のままで、フワフワした感じの乗り心地であった。吹田工場で運転台窓のHゴム化、球形通風器の取付けが行われたが、グループでは最も早く廃車になった。

79025/ (44-5-30) 京都
大正3年大宮工場製のモユニ2003を昭和20年1月大井工場で鋼体化改造。国電史上接客設備が最悪の車両であったが当初横須賀線で使用された。東京地区で使用後、39年9月明石区に転属、41年10月高槻へ。44年12月に東京に舞い戻り、武蔵中原から房総地区電化により津田沼に移動。50年4月14日付で廃車になった。
房総地区電化時、東京、関西から掻き集めた4扉車が使用され、乗客からヒンシュクを買ったが、113系に置換えられて面目を一新した。ところが近年113系老朽化により元京浜東北線の209系に置換えられ、また4扉車になった。唯、今回は両端がセミクロス車で編成中に必ずトイレ付車が連結されているので、73系の時よりいくらかマシである。

(2)63形グループ
モハ63形には、運転台機器はあるがモーターの無いクモハ63形(クハ代用)、運転台機器、モーターもなくサハ状態のサモハ63形(サハ代用)が存在したが、これらを整備の上、昭和27年から28年にかけて76両を正式にクハ79形として100~250(偶数のみ)を付番した。当然車両の向きはすべて偶数向きである。
両数が多いので代表的な車両のみ紹介する。

79100  (48-4-30)  仙石線下馬
昭和19年8月川崎車輌でサモハ63002として新製。27年11月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、仙石線に転属して51年5月20日付で廃車。

79104  (48-7-1)  鳳
昭和19年11月川崎車輌でサモハ63006として新製。27年11月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、42年9月阪和線に転属して49年10月1日付で廃車。

79132  (47-1-9)  鳳
昭和21年10月汽車会社でサモハ63234として新製。28年2月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、43年3月阪和線に転属して47年4月28日付で廃車。

79136  (49-5-27)  大阪
昭和21年4月近畿車両でサモハ63296として新製。28年3月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、46年1月高槻に転属して大阪緩行で使用後51年1月29日付で廃車。大阪緩行としては比較的遅くまで残った。(最終運行日は51年2月26日)

79152  (48-4-30)  仙石線下馬
昭和21年6月近畿車輌でサモハ63314として新製。28年1月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、仙石線に転属して54年10月22日付で廃車。

79154  (48-4-30)  仙石線下馬
昭和21年6月近畿車輌でサモハ63316として新製。27年8月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、仙石線に転属して55年11月15日付で廃車。

79160  (50-3-23)  南武線稲城長沼
昭和21年7月近畿車輌でサモハ63330として新製。28年2月大宮工場で改造して現車号に。東京地区各線で使用され、最後は南武線中原区で53年1月17日付で廃車。

79166  (48-2-2)  青梅
昭和21年7月近畿車輌でサモハ63336として新製。28年2月大宮工場で改造して現車号に。東京地区各線で使用後、最後は青梅区で51年12月21日付で廃車。

79172  (51-2-25)  上越線群馬総社
昭和21年8月近畿車輌でサモハ63344として新製。28年2月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、新前橋区に転属して高崎~水上間、高崎~桐生簡で使用後51年3月15日付で廃車。

79190  (43-9-7)  東神奈川
昭和21年9月川崎車輌でサモハ63378として新製。27年8月大宮工場で改造して現車号に。東京地区各線で使用され、最後は横浜線で52年11月30日付で廃車。

79202  (47-2-17)  鶴見線浅野
昭和21年10月川崎車輌でサモハ63438として新製。27年9月大宮工場で改造して現車号に。東京地区各線で使用され、最後は鶴見線で51年1月29日付で廃車。

79204  (48-4-30) 仙石線下馬
昭和21年11月川崎車輌でサモハ63442として新製。27年9月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、仙石線に転属して55年3月11日付で廃車。

79216  (50-1-6)  京都
昭和19年11月田中車輛でサモハ63009として新製。27年9月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、40年2月明石に転属、44年12月高槻に転属して大阪緩行で使用後50年7月25日付で廃車。

79222  (48-7-14)  大阪
昭和21年8月日本車輛でサモハ63075として新製。28年5月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、41年4月明石に転属、45年1月高槻に転属して大阪緩行で使用後50年6月20日付で廃車。

79224  (47-2-17)  鶴見線浅野~新芝浦
昭和21年8月日本車輛でサモハ63071として新製。28年6月大宮工場で改造して現車号に。東京地区各線で使用され、最後は鶴見線で50年6月20日付で廃車。

79238  (47-2-20)  大阪
昭和21年8月日本車輛でサモハ63083として新製。28年7月大宮工場で改造して現車号に。東京地区各線で使用され、最後は鶴見線で50年3月22日付で廃車。
写真は関西地区から東京地区に転属する車両の受け取りに来た時のものである。撮影時の所属は南浦和区であった。

引続きモハ72形についても時期を見て解説する。

東欧のたび(その2)

ヴォルシチンのSL

ヴァイスヴァッサーで軽便を堪能した後、次に訪れたのはポーランドのボズナンです。ベルリンからインターシティーで3時間足らずで行くことができます。この町から西に80kmはなれたヴォルシチンに機関庫があり、ここを基点に2004年ごろまでは1日に区間運転も入れて10往復ほどのSLが走っていました。2005年からは2方向3往復に減り、昨年は一時的に5往復になったものの、今年の運行はポズナンとヴォルシチンの間で2往復のみになっています。まずポズナンに14:54に到着する列車を駅で待ち受けることにしました。

ポズナン駅に進入

ポズナンの駅は大改造中で一部の線路は新しい駅側で運行を始めていますが、ヴォルシチンへの路線は旧駅側に入り、3aというはずれのホームに入ります。しばらく待っていると遠くから汽笛が聞こえ、OL49型のSLが2両の客車を引いてやってきました。OL49型は2-6-2の車輪配置で1750mmの動輪を持った堂々たる機関車です。まずは実際にSLが走っていることが確認できて一安心、列車からはぱらぱらと乗客が降りてきますが、同業者らしいのは見かけませんでした。

ポズナンを発車するOL49型

翌朝のポズナン発車は9:15、昨日と同じホームをぞろぞろと人が歩いて行くものの、隣の電車の乗客と、駅の勤務者でしょうかそのままホームを通り過ぎる人が多く、ヴォルシチン行きに乗ったのはわずかで、一番前のボックス席を占領しました。久しぶりのSL列車の乗車、煙の匂いと蒸気の音に少し興奮しました。ポズナンは大きな駅で次のPoznan Debiecまではいくつもポイントを越えて、ゆっくりと走ります。3つ目のWiry あたりからポーランドらしい草原が線路の両側に広がります。40分ほど走ったSteszewで結構な乗車があり、私のボックスにも人が乗ってきました。1時間あまりたったGrodzisk wikpでも多くの乗り降りがあり、ほぼ席が埋まるような状態でヴォルシチンへと進みます。沿線はなだらかな起伏のある草原が続き、途中、草原に三脚を立てている同業者を3人見かけました。ヴォルシチンの手前で大きく右にカーブすると機関区が見えてきて程なく終着のヴォルシチンに到着しました。

ヴォルシチンに停車中のOL49

駅から機関区までは歩いて10分くらい、途中道沿いに赤錆の出た廃車群が並んでいます。

機関区の入り口には英語とポーランド語で機関庫の紹介と、5月の初めにパレードがあり多くのレールファンが集まるなどを書いた看板が立っています。これを読んでいると、制服を着た男が中に入れと手招きします。本によると入場料がいるらしいので入り口はどこかと聞くと、「俺について来い、どこで写真をとってもいいぞ」みたいなことを言っているようです。お言葉に甘えて、中に入り転車台の周りで写真を撮っていました。

しばらくするとまたさっきの男がやってきて、ついて来いと言います。男はそのまま建物の中に入り、更衣室のような部屋のロッカーを開けて、ポーランド国鉄の帽子を取り出して、60ズローチで買わないかと言います。どうみても個人のロッカーにあり、官給品を横流ししているような感じです。また、DVDを取り出して、これも60ズローチで買わないかと言ってきます。あわせて3000円程度、高いと思いましたが、実は行きの車内の検札で、持っていたヨーロッパイーストパスを見せると、車掌がこれは使えないと言ったのを、そんなことはないと突っぱねると、車掌は言葉の通じないのもあってあきらめて行ってしまいました。駅で降りて確認すると、この路線は国鉄から分離された第三セクターのようなもので、やはりパスは使えないらしいということがわかりました。この罪滅ぼしもあって、言値で買いましたが、半額でと言ってもいけそうな感じでした。

機関区の入り口

機関区は小規模ですが8線ある扇形庫と転車台、詰所などが一通りそろっています。石炭はクレーンのバケットでつかんで積み込みます。機関区の中は勝手にどこに入っても良く、何も言われません。1時間ほどの間、ゆっくりと写真を撮りました。最後に、博物館と書いてあるところに入ると5ズローチの入場料をとられましたが、そこには特に博物館らしい展示はなく、これがどうも、機関区への入場料だったようです。尚、扇形庫の中には動かせる状態の機関車が少なくとも3台はあり、外で煙を上げている2台を合わせて、5台の稼動が確認できました。

Ty-1型青色のクレーンで給炭する

見学を終えて、駅に戻ろうとすると、帽子とDVDを売りつけた男が機関車の運転台にいて、「ポズナンまで帰るのか?ポズナンまで200ズローチ(5000円程度)出せば運転席に添乗させてやる」と言うのです。機関区の中で運転席に乗せてくれるというのは本にも書いてありましたが、まさか実際の運行で添乗までできるとは思いませんでした。持ち合わせもなく断りましたが、この男、次のポズナン行きの機関士で、ヴォルシチンの駅で乗る前に機関車の写真を撮っていると、また声をかけてきて100ズローチにするけれどどうかと言ってきました。結局断ったものの、後から考えるとちょっと乗ってみるのも良い経験だったかと後悔しました。

ヴォルシチンのSLは風前の灯かと思っていましたが、当面運行は続けられるようで、ヨーロッパで唯一、定期路線で大型SLが走るこの場所はもう一度訪れる価値がありそうです。

近鉄モ6601系

また近鉄です。元は大鉄・大阪鉄道ですが、つくづく近鉄は色んな鉄道を吸収しているのだと思います。先年亡くなった父親が、よく「大軌に乗って・・・」と言っていたのを思い出します。

2ちゃんねるの記事から

悪評高い、2ちゃんねるですが、時々おもしろい投稿があります。これに対する書き込みにも傑作なのがありますのでご紹介します。

まず、元になった読売の記事
>青森県深浦町で昨年11月、JR五能線の線路上に敷かれたアルミ板に列車が衝突して停止した 事故で、鰺ヶ沢署は2日、アルミ板を敷いた男2人を過失往来危険の疑いで地検弘前支部に 書類送検した。
2人は「車で線路を越えるために板を敷いた」と容疑を認めている。JR側とは示談が成立して いるという。
発表によると、書類送検されたのは同町の農業の男(77)と、知人で中泊町の農業の男(71)。
現場周辺には踏切がなく、男らは「線路裏の山に向かう近道として、以前から板を敷くことが
あった。列車が来るとは思わなかった」と話している。
▽読売新聞

これに対する書き込み
●これって、アルミ板がレール2本に 触れた時点で通電して 保安機が電車が居ると認識するから 後続は止まるんじゃないの?
●豆知識 青森では、電車、列車という単語は使わず、汽車と言う
●そもそもアルミ板敷いた時点で軌道短絡するだろ
●既に電車が当該閉塞の信号機内方に入ってたら意味ないね。 田舎線区だから一閉塞も長いだろうし。 そもそも自動閉塞なのかも分からんが。
●五能線は特殊自動閉塞 停車場以外に軌道回路はない
●アルミは電気を通さないんだが。 そもそもレールは電圧0ボルトで触っても問題なし。
●鉄道会社側も勝手に横断されるくらいなら踏切作りたいわけだが、 国交省が踏切の新設を禁止しているんだよ

などと申しております。

懇親会と運転会

今般、レイル誌への江若の記事執筆者と元模型班の有志が集い、祇園の「デゴイチ」で懇親会と模型の運転会が開催されました。

 

例によって顔面加工を施しています。 

 花の金曜日夜のゴールデンタイムに会場の手配と関係者への連絡をしてくださった、幹事役のTさんに謝意を表するとともに、残念ながら所用で参加されなかった方への報告とします。

 

江若鉄道全駅スケッチ

今日の毎日新聞滋賀版にこんな記事が出ていました。11月3日には62枚全部のスケッチが見られますが、それ以外に13日~30日は各駅1枚のスケッチが見られるそうです。11月3日は浜大津のイベント、京阪錦織車庫のイベントがあり、少し遠いですが、この時期に行われるのも何かの縁、いかがなものでしょうか。

東欧のたび(その1)

10月12日より29日まで東欧に出かけきました。7月ごろから計画、手配していたため日程変更ができず、10月14日前後にはいろいろイベントがあったのに参加、お手伝いできず申し訳ありませんでした。

今回の目的は昨年行ったムスカウ森林鉄道で国際狭軌鉄道会議と言うのが開催され、10月14日にパレードがあるというのを知り、これを見に行く事、次にポーランドのポズナン近くに定期路線として走っているSLがだんだん縮小されもう1路線2往復しか走っていないとのことで、廃止までに一度見ておきたかった事。それにポーランド、スロバキアのローカル線に乗ってみたい、加えていろんなところに点在するトラムも訪問したいと今回も盛りだくさんの予定となりました。

国際軽便鉄道会議

国際狭軌鉄道会議の開催を知ったのは、ムスカウ森林鉄道のHPからです。かなり以前から載っていましたが、英語に翻訳されているのは開催されると言う事だけで、詳細のページはドイツ語しかありません。他のHPを検索してもムスカウ森林鉄道のHP参照となっているだけで、その開催母体も良くわかりませんでした。仕方なく30数年前のドイツ語の辞書を引っ張り出し読んだところ、10月14日がメインの日で、車両のパレードと、乗車体験があると言う事がなんとかわかりました。また英語訳では狭軌鉄道となっていたのが実は軽便鉄道の意味だったと言う事もわかりました。参加は登録制になっていましたが、単に撮影だけならかまわないだろうとぶっつけで行ってみることにしました。10月12日朝伊丹から成田経由でパリに行きパリで乗り換えまずはドイツのベルリンに入りました。翌日の午後、近くのコトブスに宿を取り、14日の日程がどうなっているのか開催地のヴァイスヴァッサーに行ってみました。昨年も行った森林鉄道の駅に行くと、駅はひっそりしていますが、周りの駐車場はいっぱい、キャンピングカーも留まっていて去年とは少し雰囲気が違います。少し歩いて博物館の方に行くと確かに22回国際軽便鉄道会議の標識が出ていて、名札をつけた人がいます。明日はどんな予定になっていると聞くとスケジュール表をくれました。これによると10時からパレードがあり、午後は13:20にバドムスカウ行き13:30にクロムラァウ行きのSL列車が運行されるとのこと、それだけ確認できればいいので宿に戻りました。翌日10月14日9時半に再び会場に行くと駅にはいっぱいの人が集まっていて、駅からバドムスカウ方面に列車が発車していきます。メイン会場は駅から少し離れた博物館のあたりで、そこにはさらに多くの人が集まっています。パレードが10時から始まることはわかったものの、どのような形になるのか見当がつきません。とりあえず、見通しのきく直線部分でカメラを構えて待ちました。何かアナウンスがあって、バドムスカウ方面からムスカウ森林鉄道の99 3312-8号が1両の客車と2両の貨車を引いてやってきます。

ムスカウ森林鉄道99 3312-8号

続いてチェコからやってきた99 3311号、ムスカウ森林鉄道の993317-7、ドイツビーレフェ

チェコから来た99 3311号

ルト近くにあるミューレンストロース狭軌鉄道の99 3462号と4台のSL列車がやって来ました。これに続いて様々な車両がやって来ます。

 

合計26種類の車両が2,3分おきにやってくる。これがパレードだったのです。内容は聞き取れませんが、列車が来るたびに車両の紹介がされます。車両はムスカウ森林鉄道のものが10種類、その他ドイツ国内はもとより、チェコ、フランス、イスラエルから来た車両もあるようです。

中にはロータリー式の除雪車のような珍品、バイク、自転車まであったのはご愛嬌でしょうか。もちろんどれもムスカウ森林鉄道と同じ600mmゲージのものです。パレードが終わった車両は、駅に集結、それなりに広い構内も車両で埋め尽くされました。その中でも主役はやはり4両のSLでしょうか。撮影会のために4両のSLが並べられ、一斉に汽笛と蒸気を吹き上げます。

一斉に蒸気を吹き上げる4台のSL

思い思いに撮影をした後、参加者全員で記念撮影があります。私もその中に紛れ込みましたが、参加者には東洋人らしいのは見当たりませんでした。

思い思いに撮影する参加者

参加者は昼食の後2班に別れてバドムスカウ行き、クロムラァウ行きの旅客列車で往復します。もちろん私はこれには参加できないので、この2本の列車を沿線で撮影しました。10時から2時頃までなかなか内容の濃い時間を過ごさせてもらいました。

クロムラァゥ行き旅客列車

ところでこの国際軽便鉄道会議の母体がどうなっているのか、もう一歩わからなかったのですが、どうもフランクフルトにある軽便鉄道博物館が中心となっているようです。ここのHP(http://www.feldbahn-ffm.de/feldbahntreffen.html)を見ると過去の開催地が出ています。第一回は1991年にフランクフルト軽便鉄道博物館で開催され、その後主にドイツ中心で行われていますが、オーストリア、フランス、オランダ、デンマークでも開催され、一昨年はルーマニアで行われています。規模としては全ヨーロッパ規模になっているようです。また、来年はドイツのケムニッツで10月11~13日に開催されることが決定しています。昨年ムスカウ森林鉄道を訪問したときは雨にたたられ満足な写真が撮れない事もあって、再訪したいと思っていた折、この開催を知り、ちょうどよい機会だと思い参加しましたが、なかなか面白い経験をさせてもらいました。またチャンスがあればこの開催に合わせて今度は正式登録した上での参加をしてみたいと思います。

 

2012年 秋のみちのく一人旅  Part8 C6120との対面

第8日目 10月16日

ウェスパ椿山 11:12(快速 リゾートしらかみ)→12:16 東能代
東能代 13:59→17:02 酒田 17:22→20:17 新発田 20:27→21:03新潟

 

▲ 東能代駅で予期せぬ出会いがありました。10月20日、21日と秋田~東能代を走行するイベント列車「あきた路」の試運転が行われていました。聞けば、機関士、助手とも初めての路線を走る場合は、5日間の試験走行が義務付けられているそうです。

昨夜は、久しぶりにゆっくりとできましたので熟睡でした。夜明けとともに起き上がり、昨日は入れなかった浜辺の露天風呂で日本海を見ながらの長湯をしました。
今日は、10:55にホテルを出る送迎バスに乗って駅へと向かいますので、十分に時間があります。朝食もゆっくりと食べて、出発時間までまた露天風呂に入りました。
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三山木駅は「みやまき」?「みやまぎ」?

 奈良の駅名研究家と名乗っている以上、適宜研究報告もせねばならない。記念すべき、駅名に関する初投稿内容は「三山木駅」についてである。
 さて、同志社大学京田辺キャンパス付近にはJR三山木駅、(近鉄)三山木駅があるが、同志社大学の鉄道ファンなら正しく読める駅名であることは間違いない。読み方は「みやまき」である。しかし、意外と大学生の中には「みやま」と濁点付で読む人もいる。駅名研究家としては、一般の方にも駅名を正しく読んで頂きたいという願望があるため、この間違え方はあまり気に入らないものである(だからこそ、私は全国の駅名を正しく読めるよう勉強している最中である)。
 そこで、次の写真をご覧いただきたい。これは某バス会社の「同志社大学正門2」停留所の行先案内である。「Miyamaki」と表記すべきものが「Miyamagi」となっている。ちなみに、このバス会社HPの運賃検索で「三山木駅」と入力するとしっかりと「みやまきえき」とふり仮名がふられる。
 「みやまぎ」と読む例もあるのか、ただの誤植なのか、真相は如何に。

↓「Miyamagi」は誤植なのか?

2012年 秋のみちのく一人旅  Part7 五能線 日本海に沈む夕日を求めて

第7日目 10月15日

① 弘前 9:02(快速 リゾートしらかみ)→10:53 深浦
② 深浦 18:18(快速 リゾートしらかみ)→18:32 ウェスパ椿山

【弘前からの帰路のルート選択】
当初の目的だった五能線のり鉄、「鉄道写真展in青森」、津軽鉄道弘南鉄道の乗り鉄と撮影は完了しました。後は自宅に戻るのですが、帰路のルートは決めていませんでした。失業者ですので何日に帰らなければならないという縛りはありません。ただ、「秋の乗り放題パス」 を使わなければ、旅費が莫大となります。また鈍行乗車で、連続3日間の使用といった制限もありますので、いかに効果的に使って楽しめる旅にするかで、迷っていました。選択肢は3ルートに絞りました。
青ルートは、かつて8620を撮った花輪線に乗れます。40数年経過した今、車窓をどうなったのか見てみたいと思いました。久しぶりに盛岡でわんこそばや、仙台でタン料理も食べたいと舌なめずりしました。
 緑ルートも40数年ぶりの奥羽本線に乗車できますので、紅葉には早いが山間の車窓を見られます。山形の美味しい蕎麦も味あえます。
赤のルートは、往路とほぼ同じですが、秋田~新潟は船便でしたので、笹川流れの車窓は見られませんでした。今回は、ゆっくりと車窓からの日本海を楽しめます。

迷いに迷った末に、赤ルートを選びました。決め手は時刻表を調べた結果、五能線での撮影と宿泊が可能だったということです。折角往路でロケハンをしていたのに行かないわけには行きません。青森の写真展で五能線の写真を見ていましたので、これを上回るものを撮ってみたいとの衝動にかられていました。
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大井川鉄道、臨時急行電車運転

去る10月27日(土)より、毎週土曜・日曜及び祝日に、元京阪特急電車を使用(原則)した臨時急行電車が1日1往復運転されています。行楽シーズンに合わせた期間限定、12月初旬までの13日間です。
途中停車駅は往路が家山、川根温泉笹間渡。復路は笹間渡、家山、新金谷です。元京阪特急車両は、今年4月初旬、運用中の車両故障発生後あまり運用されていませんでした。

10月27日(土)運用開始当日の往路。
大井川沿線は快晴、徳山の桜並木も紅葉していました。

復路、笹間渡の第一橋梁に夕闇が迫って来ました。

翌10月28日(日)、朝の各停として運用、曇り空の抜里を発車。

急行運転日は、各停として朝に1往復運転されていました。
金谷6:57――8:10千頭8:25――9:38金谷9:44――9:48新金谷
その後急行電車として運転です。
金谷11:32――家山11:55--笹間渡12:01――12:32千頭
各駅に案内と時刻ポスターが掲示されていました。
大井川鉄道ホームページにも下のような案内がありました。

11月11日(日)ホームカミングデーは現役生も熱い!

 11月11日(日)に行われるホームカミングデー(HCDと略されることもある)にて我々現役鉄道同好会が出展いたします。尚、当会はファミリー・子ども向けイベントを担当します。ぜひご覧にお越しくださいませ。

 11月11日(日) 10:00~16:15 至誠館23教室(S23)にて

展示内容
・鉄道模型走行展示(体験運転あり)
・Bトレ展示
・PV(プロモーションビデオ)放映(未定)
・青信号69号、バックナンバーの販売
・アルバムフォト写真展示(未定)
・ぬりえコーナー
・鉄道クイズ

諸事情により、当会は教室半分のスペースを使用することとなりました。展示スペースが狭いこと、ご了承願います。

企画責任者:奈良の駅名研究家

被災地の鉄道は いま -2-

仙石線で石巻へ行き、乗り換えて石巻線渡波まで向かう間、1時間30分の待ち時間があります。この間を利用して、石巻の被災状況を確認するため街なかへと出ました。駅前のメインストリートたる立町通は、もうすっかり復旧して営業店舗が続きますが、仔細に見ると、1階部分が壊滅した建物が見え隠れして、石巻の中心街も背丈程度まで水没したことが分かります。

石巻線

石巻の市街地を北上川の手前で右に折れて河口寄りへ行くと、途端にその状況は、厳しくなってきた。一面に荒廃した土地が続き、辛うじて残った家屋も、骨組みだけの伽藍堂、北上川を俎上した津波がすべてを奪い去って行ったことが分かる。

その先端に日和山がある。頂上の石巻城址が公園になっていて、市街地が望める。被災前の市街地写真が公園の柵に掲げられており、現況と対比できるようになっている。散歩中の地元の古老から、震災の状況をたっぷり聞くことができた。

真南に当たる門脇地区は一面の荒地、震災時は津波で壊滅し、火災も発生した。かつてはここに家がびっしり建っていた。奇跡的に1軒だけそのままの姿で残っている。海岸近くに積み上げられたのは被災自動車で、瓦礫は撤去されたものの、自動車だけはなかなか処分できないらしい。右手に伸びていた仙台臨海鉄道も大きな被害を受けた。

眼を北上川の市街地側に転じると、北上川に沿って被災地が続く。中央の中洲もすっかり建物が消えてしまったが、よく見ると、円形ドームの石ノ森章太郎記念館の横に、テントで覆われた建物が見える。これが、国内最古の木造教会といわれる石巻ハリストス正教会で、奇跡的に残って修復が始まるようだ。

石巻線は、小牛田-前谷地-石巻-渡波-女川の44.9キロで、小牛田~石巻間は、地震後すぐに運転を開始し、石巻~渡波間は、津波の被害を受けたが、今年3月に復旧している。石巻10:16発の1631Dで、列車で行ける渡波まで行くことにした。その先の海岸沿いを走る渡波-女川は今も運休中で、同区間には、列車に接続する代行バスが運転されているが、時間的に代行バスに乗って往復する無理で、2駅先の渡波まで行って折り返し列車で戻ることにした。

渡波~女川間は復旧工事に入ったが、女川駅付近は、駅を内陸部へ移転させる構想もあって抜本的な工事が必要で、まだ着手には至っていない。女川のひとつ手前の浦宿までが2013年度の開通とアナウンスされている。

被害を受けた石巻線だが、今年は、前身の仙北軽便鉄道によって小牛田―石巻間を開業してから100周年に当たる。12月には小牛田~石巻間でC11が引く「SL石巻線100周年号」が1日1往復運行される。

渡波の女川方、枕木の車両止めがあって、ここから先へは進めない。ワンマンカーの自動音声テープも「つぎは終着、渡波」と伝え、かなりの長期戦になると見ているようだ。

▲▲渡波駅前に停車する石巻線渡波~女川間の代行バス。JR東北バスによる運行。列車ダイヤに接続して一日8往復運転されている。続行便はなく1台のみの運行。

渡波駅舎。津波で浸水したものの、現在はその痕跡も感じられないほど駅前も復旧していた。端正なたたずまいの駅舎も、健在だった。

渡波に20分だけ滞在し、渡波10:37発の小牛田行き1632Dで折り返す。キハ48の2連、女川からの代行バスの乗客も乗り込んでまずまずの乗車となった。

前谷地に11:11に到着。駅は二面三線の標準的な構内だが、ここから、気仙沼線が分岐する。ホーム隣に待っていたのが、気仙沼線柳津行きのキハ110単行(右)

 

大阪通信員だより 井笠鉄道バスの巻

突然の発表であったが、井笠鉄道バスが10月末をもって会社破綻により廃業する。通信員宅のそば千日前通を日に三往復してきた神辺・笠岡~大阪(上本町)間の井笠鉄道バス「カブトガニ号」も見られなくなる。鉄道の名前がついたバスで、いつも懐かしく眺めていた。いっとき近鉄グループに入っていたので、井笠の高速バスや観光バスも色遣いに近鉄観光バスの面影を残している。旧新山駅跡にある井笠鉄道記念館(カブトガニ号新山下車すぐ)を訪ねたいと思っていたが、引き継ぐ中国バス(両備グループ)で行かねばならない。記念館はどうなるのだろう。
話のついでに45年ほど前と数年前の千日前通の同じ場所での画像をご覧いただく。地下鉄千日前線と近鉄難波乗り入れで道路が拡幅される前の活気ある風景と、天皇皇后両陛下がすぐ近くの国立文楽劇場に行幸されたときの通行規制状況です。11月25日には大阪マラソンも走ります。クローバー会員で参加される方はありますか。投炭や給水の応援いたします。


 

2012年 秋のみちのく一人旅   Part6   リンゴ一杯の弘南鉄道 大鰐線

第6日目 10月14日

① 弘前中央 8:00→8:18 義塾高校前 12:46→12:51 石川プール前
② 石川プール前 6:36→16:42 義塾高校前(徒歩)→16:52 石 川17:09→17:15弘前
③ 弘前バスセンター 17:50(Bus)→18:05 土手町十文字

【津軽フリーパス】

昨日、今日と切符は「津軽フリーパス」を青森駅で買い求め利用しました。弘南鉄道の1日切符だけでも1,000円しますので、青森→弘前の切符650円が安くになります。沿線のバスや、今回は行きませんでしたがフリー切符のない津軽鉄道(金木往復1,060円)にも使えて安くて便利です。乗り鉄には便利ですが、撮り鉄をする方には2日間はすこし足らないようです。 続きを読む

2012年 秋のみちのく一人旅   Part5   リンゴ一杯の弘南鉄道 大鰐線

第5日目 10月13日

① 青森9:08→10:11大鰐温泉
② 大鰐10:30→10:58弘前中央11:30→11:44津軽大沢13:44→13:57石川プール前
③ 石川プール前16:38→16:58弘前中央

▲ 弘南鉄道大鰐駅では、可愛い園児たちが遠足へと電車に乗って出かけようとしていました。乗客激減で廃止の噂が絶えないローカル私鉄ですが、園児にとってはお友達とみんなで一緒の大事な”でんしゃ”です。

 


朝、総本家さんと津軽新城へ行こうと約束したのにまた不覚にも寝過ごしました。急げば間に合ったのですが、窓の外を見ると、激しくアラレが降っています。今は出られないと、行く気をそがれてしまいました。

悪天候が収まってからバスに乗って青森駅へと向かいましたが、着く頃には、天候は一転してまばゆいばかりの青空が拡がってきました。 続きを読む

大阪通信員だより 浜大津の巻

日本晴れの10月27日、浜大津スカイプラザへと向かう。一年ぶりの再訪である。京阪電鉄京津線開業百周年の写真展と模型運転会が行われているのだ。訪れた目的は、クローバー会西村雅幸氏の新作による江若鉄道・京阪電鉄京津線の浜大津駅の精巧なジオラマを見学するためと会場警備である。

昨年は、江若鉄道三井寺下駅構内の忠実な再現と今津駅にいたるジオラマであったが、多数の要望に応えて今年は浜大津駅が主役となった。昭和中期の複雑な浜大津の駅と線路はもとより周辺の街並みを細かく再現したものである。江若線・京津線の車輌も在籍車をほぼ全て揃えてある。江若の車輌は狭い窓が多くならび、それも二段窓だ。カッター片手に奮闘される老眼を寄せ付けない西村氏の姿とあきれを通り越した奥様の様子が浮かぶ。
十人近い江若OBの古老やご家族も見えられ、回転する転車台や開閉とともに警手が飛び出してくるカラクリ踏切を見て、警手は?ちゃんやったなあ!このあたりで大ケガをした仲間がいたんや!など話の花が咲いていた。この後でOB昼食会があるとのこと、これも昨年の催しが種をまいたのだらう。もちろん通信社の取材もあり、京都新聞社をはじめとして数社の小姐記者が西村氏をアタックしていた。当クローバー会会員もヒマのある方が随時来場され、感心している様子だった。

通信員も、警備をお手伝いすることで、西村氏の楽屋裏をのぞくことができ、ジオラマ製作途上の走り書きから経費明細まで雑多な資料を几帳面に保存されたファイルを拝見した。エンジニア気性がほとばしるものであった。
なお、昨年の江若展をご覧になった「レイル」誌の前里孝編集長が、是非とも江若特集をと企画されクローバー会福田静二氏の暗躍を得て、「レイル84号」として今月発刊されている。江若鉄道の記録の集大成として、クローバー会会員の記事や写真の実力をめでるものとして、是非一家に一冊購入いただき書架のこやしとしていただきたい。

催しは11月3日4日にもおこなわれるので、詳細は掲示板25486号を精読ください。
「そうだ浜大津いこう!」