スカイツリーと鉄道


7022 (24-10-8) 荒川区役所前

今年5月22日スカイツリーが開業し、常磐線や「ゆりかもめ」の車窓から眺めながら通勤している。
しからば、スカイツリーを入れて写真撮影が出来ないものかと思うのが人情で、可能な場所を探してみた。
東武の浅草~とうきょうスカイツリー間、尾久駅構内、錦糸町駅構内は比較的有名であるため、それ以外の場所を紹介する。

京成電鉄押上線/四ツ木~立石間
葛飾区内に住んでいる関係上、所用で葛飾区役所に行くことがある。最寄駅は京成電鉄立石で、自宅からは京成バスで金町駅に出て、京成金町線で高砂まで行き、更に押上線に乗り換える。更に駅から区役所まで徒歩10分弱かかり、タイミングが悪ければ小1時間かかることがある。自転車で行けば少々遠いが、途中の待ち時間ゼロで約30分で到着する。
いつもカメラ持参で、帰宅時に立石駅周辺、高砂駅の開かずの踏切、柴又付近で撮影する。立石駅付近は家が建て込んでおりバックは良くない(現役時代に使っていた言葉で「クサイ」)が、柵が低いため編成写真の撮影は可能である。

ある日のこと、たまには別の場所でと思い、四ツ木寄りに行くとバックにスカイツリーを入れて撮影できる場所があった。
四ツ木駅の立石より一つ目の小さな踏切で、車が通らないので落ち着いて撮影できる。通行人のおばさんから「たまに撮影している人がいるよ」と声をかけられたので、隠れた名所かも知れない。
電車は京成、北総、京浜急行、都営地下鉄の各社の車両が入り乱れて昼間でも約5分間隔(上下合わせると2分30秒間隔)でバンバン来るので飽きることがない。立石駅を含む四ツ木~青砥間の高架工事が始まると撮影できなくなる可能性が高い。

都営5300形の北総鉄道直通車
京成電鉄からのリース車7260形もよく運用についている。

踏切の反対側から。千葉ニュータウン鉄道所属の9100形

   【参考1】踏切の高砂側

青い京浜急行

京成電鉄3600系/両端がTcのため京浜急行には乗り入れない。

  【参考2】立石駅の押上寄り踏切

バックの建物は電車で隠れる。葛飾区役所の最寄駅で乗降客は多いが各駅停車しか停まらない。

【参考3】高砂駅構内の踏切


  高砂駅の青砥寄りのホーム端はお手軽撮影地として有名であるが狭いのが難点である。成田寄り2つ目の踏切の遮断機の横からの撮影で、ゴチャゴチャ観が何とも言えない。リバイバル塗装車、スカイライナー、シティライナーの撮影も可能である。

都電荒川線/荒川区役所前
三ノ輪橋終点からスカイツリーまで路線延長の要望が出ている。実現すれば経済効果は大きいと思われるが、三ノ輪橋付近の線路を付け替える必要があるため実現の可能性は少ない。
地平を走っているためスカイツリーの見える区間は少なく、都電と共に撮影できるのは荒川区役所前電停の早稲田寄りだけのため有名撮影地になっている。自宅から近いので気が向いた時に訪れているが同業者は見かけない。「写真館」に893-2さん撮影の夜景がある。

標準レンズではスカイツリーが小さくなってしまう。

反対側はこんな感じで、カーブの先は線路に沿って桜が植えられている。

以上2ヶ所紹介したが、他にも撮影可能な場所をご存知の方は是非ご紹介をお願いしたい。

京成電鉄では都内フリーの「下町日和きっぷ」を500円で発売しており、撮影には便利であるが日和らないよう有効に活用していただきたい。

山の上から見下ろすと

 我が街には瀬戸内海国立公園の一部にも指定されている筆影山(ふでかげ山)があります。標高311mと麓から山頂まで歩くにはちょうど良い山で、野鳥も多くよく歩きに行きます。山頂からは瀬戸内海の多島美が楽しめますが、途中の登山道から見下ろすと M重工の和田沖工場が足元に広がります。広い構内には各種試運転線があって、広電の連接車やゴムタイヤ式新交通の走行試験を見ることができます。平成18年3月に廃車になった広電550型555号が何故か試運転線上に留置されています。広電旧型車の置き換え用に新製されたと思われる3連接車?も見えます。また草むらには関東から来たと思われる電車の車体も置かれていますが、何鉄道の何型なのか私には判りません。どなたかご存知の方はご教授を。

広電555号。廃車から6年を経て かなり色あせている。

 

 広電旧型車の置き換え用新車?

手前は湘南モノレール401号。奥の電車は何者?

EVEにクローバー会も協力

以前の掲示板で奈良の駅名研究家さんから紹介があったとおり、26日(月)から3日間、同志社EVEが今出川キャンパスで行われ、現役の鉄道同好会の皆さんも恒例の鉄道展を開きます。ことしは、初めてクローバー会もEVEに参加、鉄道写真展を行います。写真は、この2月、烏丸御池駅ギャラリーで開かれた「鉄路輝く」の中から、選りすぐりの約30点を展示することになりました。

  同志社EVE 鉄道同好会“鉄道展”

  今出川キャンパス 扶桑館101教室 (ハリス理化学館の北側)

  11月26日(月)~28日(水) 10時~20時(28日は18時まで)

各世代に思い出の残るEVE、その意義・内容も様変わりしていますが、それはそれとして、いっとき学生時代にタイムスリップしてみませんか。

某所から運び出し、会場に並べられた写真。足腰が弱ってきたにも関わらず運び出しに協力してくれた乙訓老人に多謝。

準備が一段落した現役生たち。展示はNゲージ運転会が中心だが、大阪地下鉄御堂筋線に関する研究成果の発表や、前面展望ビデオの上映なども。

扶桑館101教室。キャンパスの整備工事が急ピッチで進む今出川キャンパス、40年前の現役生はウロウロしながら会場に到着した。

錦秋箱根版

総本家さんの錦秋の叡電たより-1-[26504]を拝見。チャレンジ精神旺盛な夜間撮影にはとても及ばないが、私も毎年紅葉の時期には箱根登山電車の大平台付近を徘徊しているので、11月21日に撮影したものを載せてみる。

↑ 宮ノ下を下り上大平台信号所に向かう箱根湯本行き108

 

    ↑ スイッチバックの上大平台信号所を出て大平台に向かう箱根湯本行き 2005

伊賀線廃線跡

初めて投稿します、名張に移り住んで20数年が経ちましたwakutaです。最初にこちらに残っている近鉄伊賀線(伊賀鉄道)の廃線跡で明確にそれと分かる遺物がありますので紹介します。近鉄大阪線美旗駅の南数百メートルの小波田川にかかるプレートガーターがあります。周りは一面の田圃となっていて面影はありませんが鉄橋だけがポツンと残っています。

 

向こうに見えるのは大阪線です。伊賀線も伊賀鉄道と昔の名前に戻り、関東からの車両で牛耳られてきました。

錦秋の叡電だより -1-

今年の紅葉は、いつになく早いようだ。遠隔地へは行けないが、同志社で取材の用件があった時に、出町柳から叡電の沿線へ、“外回り鉄”してきた。市内から30分も乗れば、紅葉真っ盛りの景勝地へ行けるのも、京都ならではの魅力だ。

最初は、八瀬比叡山口へ。4、5年前から、季節ごと、時間帯ごとに定点撮影している(以前の掲示板でも雪の情景を発表)。その定点場所は、終端にある。ステンレス製の柵、その中央にある柵の一段目の足場によじ登って、到着する電車を狙うもの。ここから見ると、駅のドーム屋根が、まるで額絵のように、なって、季節ごとにそれぞれの表情を見せる。電車の側面が夕陽に輝く瞬間を狙ってみた。

鞍馬本線では、市原~二ノ瀬間にある、“紅葉のトンネル”を、日没後にライトアップしている。よくできたもので、電車が近づくと、車内が消灯され、運転室の遮光カーテンも上げられる。乗客からは歓声が上がる。後部の運転台からスローシャッターで、流れて行く紅葉を狙ってみた。満員の「きらら」に乗って貴船口に到着した。紅葉がらみのイベントが行われているので、多くの下車客がある。ホーム横の紅葉も真っ盛りで、ライトアップがよく映えている。全面展望の「きらら」が、そのシルエットを残して、闇の中に消えていった。

2012年冬の中国鉄路の旅 Part1 丹東へ、北朝鮮にSLがまだいた?

10月の国慶節後に四川省の監獄鉄道北台製鉄のスラグ捨てを撮影するため、訪中計画を組んでいましたが、反日運動勃発により止むを得ず延期としました。しかし、その間でも訪中される猛者軍団もおられて、行けるきっかけを待っておりましたら、中国鉄路撮影の第一人者の1人でおられる小竹直人先生より、北朝鮮沿いの断橋や路線跡を回ろうと思っているので一緒に行かないかとのありがたいお誘いを受けました。
11日のカミンディのイベントが終った翌12日、小竹先生の後を追いかけて旅立ちました。合流地は、北朝鮮と中国が最も交流がある町「丹東」です。交流を支えるのは、中朝友誼橋です。 ▲ 16:50、丹東で宿泊した丹東中聯大酒店の屋上から見た国境線の鴨緑江に架かる中朝友誼橋と鴨緑江橋梁のライトアップです。どちらも日本軍が建設しましたが、右側の鴨緑江橋梁の方は、朝鮮戦争時期にアメリカの空爆を受けて断橋となっています。橋の詳しい記事は前回訪問の紀行記をご覧ください。下記をクリックしていただければ、記事にリンクします。

2010年秋の中国一人旅 Part4 丹東国際列車、 Part5 丹東(安東) 瀋丹線(安奉線)

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被災地の鉄道は いま -4-

気仙沼線(2)

震災による津波被害で不通になった気仙沼線柳津~気仙沼間55.3キロは、ミヤコーバスによる振替輸送を行っていたが、JR東日本は、BRT(Bus Rapid Transit バス高速輸送システム)による運行準備を進め、陸前階上~最知間で専用道が完成したため、振替輸送に替わって列車代行バスの営業を開始した。

BRT専用道の陸前階上~最知間の現状を見ると、国道なら一直線で行けるところを、わざわざ迂回して専用道へ向かっているため、昼間は時間のロスを生じているが、朝の道路混雑時は定時性の維持に役立っているようだ。驚いたのは、バスロケーションシステムも使用した定時運転ぶりで、BRT専用道の途中に離合所が設けられているが、ここでピッタリ上下のバスが離合した。今年中には、専用道区間も延長が予定されているので、文字どおり高速・定時性が広範囲に維持されるのを期待したい。

気仙沼線の復旧については、地元とJR東日本との協議が進められ、最新のJR側からの提案では、これまで、BRTが最終的な復旧と捉えられるようになっていたが、「安全が確保された鉄道の復旧」に修正された。これは、従来の線路を放棄して、高台に新線を敷設することを意味する。しかし、通常の復旧費用をはるかに超える経費が必要で、JR東日本のみによる復旧費用の捻出は難しく,国による財政支援が必要としている。

しかし、BRTによる仮復旧は、鉄道トンネルも専用道路化して、柳津~気仙沼の全区間で計画されている。全く同区間で鉄道を敷き直すなどの二重投資はあり得ず、鉄道復旧は、机上の空論でしかないように思える。

もともと気仙沼線の使命として、気仙沼~仙台間の都市間輸送、短区間の通学輸送、この二つの需要しかないと言われていた。前者は、震災前、両都市間を結ぶ快速列車も設定され、それなりの乗車率も確保していたようだが、震災後は両都市間の高速バスも増強され、公共輸送を列車に頼る必要性はさらに薄らいでいる。後者の通学輸送でも、短区間の集中輸送なら、バスでも十分に賄えるはずだ。

柳津を出て、2時間10分、寸分の狂いもなく、定時に終点・気仙沼駅にバスは到着した。列車と代行バスで巡った被災地の一日、この目でしっかりと現況を確認し、私はさらに大船渡線、東北本線を乗り継ぎ、盛岡へ向かった。

歌津」バス停に停車。バス停標識は、バスと同じ赤色のカラーになっている。地図と対比すると、この付近に確かに歌津駅があったはずだが、見渡しても、それを示すものは何もなかった。背後の橋脚のみは道路橋。陸前小泉駅付近の現状、河口付近で落橋したままの橋梁の下をくぐる。この高さまで津波が乗り越えたことがわかる。

本吉駅で3分の停車、高台にあったため、この区間では唯一被害を免れた駅で、駅舎も健在。2時間以上の乗車となるので、トイレタイムともなる。▲▲本吉駅構内はレールが取り外されていた。将来のBRT化の準備と思われる。陸前階上~最知間2.1キロが線路跡を利用した専用道路となり、本来のBRTシステムを見ることができる。陸前階上駅は、残った駅舎・ホームを再整備してバス停に転用、ロケーションシステムも待合室に設置された。最知駅は被害が大きかったため鉄道駅・ホームは撤去し、新たに対向式のバス停が設けられた。▲▲被災直後の最知駅(ネットから転載)。中央奥の塔屋が同一であることから、ほぼ定点であることが判る。最知駅に停車中のバス車内、途中から乗ってきた高校生もいたが、車内は閑散。現実、沿線に人家は全く残っていないのだから、乗客が少ないのも無理はない。▲▲BRT専用道の途中の離合所で、反対の上り方面バスと交換。気仙沼の市街地に近づいてきた。市街地はほぼ全滅状況だったが、今はほとんどそれが感じられないほどの復興ぶりだ。中央のイオンも浸水したが、今は盛業中。

定時に終点・気仙沼駅にバスは到着。すぐ転向して、バスは柳津へ向けて再び発車する。気仙沼駅は、高台にあるため、全く被害は無かった。気仙沼の市街地は、起伏が多いため、被害の差が顕著だった。気仙沼から北へ向かう大船渡線は不通のままだ。

近鉄モ6601系

                                 ク6692他5連の準急 (46-6-6) 河内松原~恵我ノ荘

「昭和の電車」は再度戦前派古豪に戻り近鉄南大阪線モ6601形が登場した。私にとっては現役時代INUBUSE氏とよく撮影に行った思い出深い車両であるが、スタイルと使用線区がパッとしなかったことで人気がなく、近鉄の名車=モ2200形という図式が出来上がっていたため注目度が低かった。
しかし、我が国初の20m車体の電車、昭和40年代まで大阪阿部野橋~吉野間の急行の主力として活躍したこと等により、もっと注目されてもよかったと思うが、前述の理由により南大阪地方区で終わったのは少々気の毒であった。

モ6601形とその一族について概略を述べると、南大阪線の前身大阪鉄道では昭和4年3月29日、古市~久米寺(現在の橿原神宮前に相当)間を開業して吉野鉄道に乗入れ、阿部野橋~吉野間の直通運転を開始した。これに備え昭和3年にデニ500形35両(501~535)、フイ600形15両(601~615)、4年にデホニ550形7両(551~557)、5年にデホユ560形3両(561~563)の60両を一挙に新製した。制御器はABFM、電動機はウェスチングハウス586-PJ-5形127kw×4、台車は川崎車輌製ボールドウィン形であった。

デニの「ニ」は、大阪鉄道では新製順に「イ」「ロ」「ハ」と付けており「ニ」は4番目、「ホ」は5番目の新製車の意味である。

デニ500は扉間に40人分のゆったりしたクロスシートを備え、つり革はバネ付、床は特殊アスファルト塗りと豪華な仕様であったが、14年ロングシート化された。関 三平氏も書いておられるが扉は戦後まで手動であった。
デニ502、520、529の3両は事故復旧時にTc化されフイ616~618となった。
新線の建設費と60両もの新車の建造費が経営を圧迫したが、14年6月阿部野橋駅が竣工、15年3月には紀元2600年記念事業として建設されていた橿原神宮総合駅が完成する等懸命の企業努力により立ち直りをみせたが、18年2月1日付で政府の要請により関西急行鉄道に合併した。関西急行鉄道は19年6月1日南海鉄道と合併して近畿日本鉄道になった。
近鉄合併後の改番でモ6601~6632、ク6671~6688、モニ6651~6657、モユ6671~6673となった。
26年から3扉化、31年にモニ6661形の荷物室、モユ6671形の郵便室が撤去され、モ6601形と同一になった。
45年頃から廃車が始まり50年までには全車姿を消したが、お別れ行事等はなくモ6601形一族らしいひっそりとした引退であった。
40年以上にわたり、吉野、飛鳥、橿原神宮への参拝客、行楽客の足として、沿線住民の大阪への通勤、通学の足として重要な役割を果たした功績は誠に大きなものであった。
形式別に写真と共に解説する。

モ6601形(6601~6613、6615、6618~6632)
デニ501~519は昭和3年田中車輌製、デニ520~535は同年川崎車輌製である。3扉化後、昭和28年から更新修繕が実施され、窓は下に100㎜拡大、ヘッダーの平鋼化、正面窓と戸袋窓のHゴム化が行われたが全車には及ばなかった。
モ6603、6616、6617の3両は電動機を取り外してTc化され、順にク6689、6691、6690となり、モ6614がモ6603に改番された。
モ6601~6608、6610~6613、6618、6631、6632の15両は吉野側の運転室を撤去して客室を拡張した。

 モ6601/ (42-10-14) 古市
昭和3年田中車輌製、元デニ501。車体更新と片運化が実施されている。

モ6606/ (46-6-6) 古市
昭和3年田中車輌製、元デニ507。車体更新と片運化が実施されている。

モ6607/ (42-10-14) 古市
昭和3年川崎車輌製、元デニ533の事故復旧時に車体を新製したためスタイルが大幅に変化した。

モ6609/ (46-6-6) 古市
昭和3年田中車輌製、元デニ510。車体更新は実施されているが、両運のままである。

モ6613/ (43-12-24) 古市
昭和3年田中車輌製、元デニ514。車体更新は未実施であるが、片運化されている。

モ6620/ (46-6-6) 古市
昭和3年川崎車輌製、元デニ522。車体更新は未実施で、両運のままである。

 モ6626/ (46-6-6) 古市
昭和3年川崎車輌製、元デニ528。車体更新は実施されているが、両運のままである。

モ6627/ (46-6-6) 古市
昭和3年川崎車輌製、元デニ529。車体更新は未実施で、両運のままである。

モ6629/ (49-1-4) 橿原神宮前
昭和3年川崎車輌製、元デニ531。車体更新は未実施で、両運のままである。

モ6651形(6651、6653~6657)
元デホ二560形で昭和4年川崎車輌製。デニ500形の大阪寄りに手荷物室(荷重2t)を設置し、運転室直ぐ後ろに両開きの荷物室扉があり、車内はオールロングシートであった。31年荷物室撤去後モ6601形と同じスタイルになった。
モ6652は電動機を取り外してTc化され、ク6692に改番された。

モ6653/(43-8-25) 二上山~二上神社口
元デホ二553で、車体更新と片運化が実施されている。

モ6656/ (43-8-20) 古市
元デホ二556で、車体更新、片運化は未実施である。

モ6661形(6661~6663)
元デホユ550形で昭和5年川崎車輌製。デニ500形の大阪寄りに郵便室(荷重2t)を設置し、運転室直ぐ後に窓1つおいて片開きの郵便室扉があり、車内はオールロングシートであった。31年郵便室撤去後はモ6601形と同じスタイルになった。

モ6663 (43-8-25) 二上山~二上神社口
元デホユ553で、車体更新は未実施である。モ6661形は全車車体更新、片運化は実施されなかった。

ク6671形(6671~6692)
デ二500形のTcとして昭和3年川崎車輛でフイ601~615の15両を新製した。吉野側に運転室のある片運車であった。
前述の通りデニ502、520、529の3両の事故復旧時にTc化してフイ616~618となり、近鉄合併の改番でク6671~6688となった。モ6601と同様に26年に3扉化された。
更にモ6603、6616、6617、6652の4両が電装解除されてク6689~6692となった。

ク6672/ (43-8-20) 古市
元フイ502で、車体更新が実施されている。

ク6675/ (49-1-4) 橿原神宮前
元フイ505で、車体更新は未実施である。

ク6678/ (42-10-14) 道明寺
元フイ508で、事故復旧時に車体を新製したためスタイルが変化した。

ク6682/ (46-6-6) 河内松原~恵我ノ荘
元フイ512で、車体更新は未実施である。

ク6686/ (46-6-6) 古市~道明寺
元デ二502→フイ516で車体更新は実施済である。

ク6692/ (46-6-6) 古市
モ6652の電装解除車で片運化されているが阿倍野橋寄りの乗務員室扉が残されている。

【参考】
関 三平氏は右上の円板表示について触れておられるが、昭和42年頃でも見られた。写真は道明寺線運用のモ5625+5626が車両交換で古市検車区に回送されるところである。/(42-10-14) 道明寺

江ノ島電鉄500系

米手作市様投稿の10月30日【25745】関 三平氏「昭和の電車」に「江ノ島電鉄500系」が登場した。
改造車といえ車体は新製で、流用されたのは主電動機、コンプレッサー、台車等ごく一部の部品にすぎない。
昭和31年に201の改造名義により東洋工機で501が、32年に115、117の改造名義により東急車両で502が作られた。スタイルは若干異なり502はヘッドライトの左右にタイフォーンがあり、より精悍な顔付きになった。ノーシル、ノーヘッダーの車体、両開き扉、曲面ガラスを使用した正面窓等、ヨーロッパ調のスタイルは時代の最先端を行くものであった。
車号は京阪びわこ号と同様、2車体で1両とみなし同一車号としたが、程なく鎌倉側の車両を551と552に改番した。
関 三平さんのイラストはポール時代であるが、39年頃Zパンタ化、更に46年頃パンタ化が実施された。

我々の年代ではポール時代の写真は無理であるが、幸いZパンタ、パンタ時代は辛うじて撮影していたので貼り付けた。

その後、59年から60年にかけての車体更新時に曲面ガラス部分を2分割の上、平面ガラス化、両開き扉の片開き化、ヘッドライトの窓下への移設が実施され、スタイルが変わってしまった。更に平成元年から2年にかけて台車交換によりカルダン駆動化、12年にブレーキのSMEから電空併用電気指令式化等、足回りの近代化が実施されたが、冷房化が困難なため14年1月501が、15年1月に502が運転を終了した。
車体更新以降の写真がないので、撮影された方は是非公開をお願いしたい。

Zパンタ時代の502+552/ (45-3-11) 極楽寺



パンタ化後の501+551/ (50-4-27) 江ノ島

パンタ化後の502+552/ (50-4-27) 江ノ島

新502+552/ (24-1-15) 七里ヶ浜
車体は旧500形をイメージして作られた新500形

ホームカミングデイ御礼とご挨拶

デジタル青信号では初めてお目にかかります。
ホームカミングデイにて自己紹介をさせて頂きました,
鉄道と飛行機を愛するクローバ会新入会員でございます。

遅くなりましたが,11月11日のホームカミングデイと懇親会では
大変お世話になりました。
改めて御礼申し上げます。ありがとうございました。

今後も色々とお世話になることも多いかと存じますが,
よろしくお願致します。

まずはご挨拶まで。


高の原駅開業40周年レポ

 11月18日(日)、近鉄京都線高の原駅で開業40周年記念イベントがありました。このイベントの実施は地元民の鉄道ファンしか知らなかったことでしょう。記念イベントといっても何か盛大なセレモニーがあったわけでなく、子どもに制服を着用させての記念撮影、記念入場券・記念ポストカード等の販売でした。
 平城ニュータウン開設に伴いできた(近鉄京都線では)比較的新しい高の原駅。朝の京都方面特急も停車するようになり、ますます便利になりつつある駅であります(高の原駅始発の京都行急行も1本存在する)。今後の高の原駅のさらなる発展を願って止みません。

開業40周年記念入場券。同志社EVEで展示予定です↓

 

「高の原」の駅名の由来は万葉集の歌である。↓

開業40周年イベントの存在を知らせる看板

記念入場券・記念ポストカードを買い求める人の列。定期券を買い求める人の列以外で列ができたことは高の原駅では珍しいのではないか。↓

南海電鉄1556号

そういえば昔、テレビのコマーシャルで「深日港から淡路島へ・・・」という言葉を聞いた気がします。深日港を「ふけこう」と読むこともその時知りました。
この電車、乗ったことはないけど、なんか懐かしい気がします。どなたか内装の写真があれば見せて下さい。

梅田の外回り鐵

KAWANAKAです。

HCDでJRFの志水氏から、梅田の貨物駅は3月にオシマイになりますで、ほいで貨物線も地下にするか検討してるので梅田の貨物駅の福島寄りの踏切がなくなるかも知れまへん、という。梅田の貨物駅跡はものすごい変貌で、4~5億の億ションが完売になったり(うっかり買い忘れた??)で、この光景は今しか撮れないということや。

以前から少しづつ時間を作って外回り鐵をしていたが、あと、4ヶ月程と聞けば、ピッチを上げるしかない。というわけで先日撮った写真と併せてUPしましょう。

先ず、市内を訪問した時にチョイと回り道。先ほど言った福島寄りの踏切から東海道線の下を潜って環状線の外回り線の外に至る貨物線。ここを安治川口から梅田駅に入る貨物を撮るのは注目の写真であるけれど、ここでは余命少ない381くろしおを載せましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

安治川口は貨物はまだ扱うそうなので、しばらく撮れるが、環状線野田駅では安直に捉えることができるので、場所の移動に制約がある外回り族にはありがたい。これです。

 

 

 

 

 

 

 

 

環状線の電車をすり抜けて貨物がやってくる。

次に、遠隔地からやってくる人が梅田貨物駅を見渡せる場所があります。有名な空中庭園からでも良いが、ヒルトンホテルが特等です。この写真はエグゼクティブフロア(滅多に泊まれないが)からの写真で、併せて大阪駅を発着する列車も見ることができます。ちょうど特急はるかが通過中。夜は夜で素晴らしい夜景が見れるので懐に余裕がある人や出張旅費で賄える人は泊まってみると良いと思いますが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、梅田貨物には入れ替えのDE10が張り切っていて、運がよければ走り回っている姿を目の当たりに見ることができます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これが夜になると、梅田貨物ならではの風景を堪能できます。貨物駅の脇には道路があってフェンスになっているので、この上にカメラを上げると写真が撮れるという訳です。時々同業者に会うけれど数は多くないので、撮り放題。ちょうど381くろしおが来た。コンテナ貨物に光が当たって綺麗です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何といっても、梅田貨物駅の主人公は貨物機。ここから出発する列車は丁度撮影に好都合な場所にいることが多いので、存分撮ることができます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今週の週は丁度、撮影に適した天候でありました。梅田の光が雲に反射していい雰囲気です。

この列車を反対側から撮ろうとしていたら旨い具合に、283くろしおが来た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

段々、寒くなってくるのでキツイが機会があれば通っていく積もりである。みなさんも如何でしょう。なお、三脚は使えませんので重い目をして持っていかないよう。

ついでですので、このあとは環状線に回って紀勢特急と環状線を纏めて撮ることがあります。小生は鉄橋がある大正が好きで良く帰りに依る。付録で申し訳ないが、ここも貨物はないけれど捨て難い。丁度283が通過したのでその一コマを。丁度お月さんも出てきて何とも言えない雰囲気を醸し出した。撮りようによっては、天王寺からきた列車を止めることができるのでやってみては?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東欧のたび(その3)

タトラ山をめぐる鉄道

ポーランドのポズナンからはスロバキアのタトラ山に向かいました。ポズナンからポプラドタトリまでは500kmくらいですが、もちろん直通の列車などはなく、15時からの移動ではその日のうちに着きません。とりあえず、ブロツアフまで移動して1泊することにしていました。移動で初めての町に行く場合、暗くなるとホテルを探すのにも困るのでこの季節、18時には目的地に着くようにしています。ところが、乗った列車は原因不明で、1時間余り遅れ、おまけにコンパートメントの照明がつかず、真っ暗な中でいつ着くのかわからず、不安な思いをしました。

翌朝ブロツアフからスロバキアへの移動は一旦チェコに入り、4回の乗換えをして、9時間の行程、乗り継ぎ時間は15分というところもあり今回の旅程の中で一番の難関です。ブロツアフから1時間ほど行ったオポーレからはローカル線で、旧型の電車が走っています。各駅停車でスピードはせいぜい60kmくらいかと思われますが、路盤が悪いのも相まって、すさまじい振動です。

ボフミンで乗り換えたチェコの列車

これが終点のボフミンからチェコに入るとなめらかな走りになり、車両もきれい、またポーランドではパスを見せると、不思議そうに眺め回して、本来押すべきスタンプを押してくれなかったのが、ここではすぐにスタンプを押してくれた上、「スロバキアに行くのか?それならトリネッツで乗換えだ」と親切に言ってくれます。途中遅れのため気をもみましたが、何とか3度の乗換えをしてスロバキアに入りました。 続きを読む

被災地の鉄道は いま -3-

石巻線の列車に乗って前谷地に到着した。ここから分岐する気仙沼線は、私にとっては初めての乗車となる。隣のホームに停車中の気仙沼線2975Dに乗る。キハ110の単行列車は11時13分に発車、旧北上川に沿って北上を続け、車窓には肥沃な光景が広がる。5駅分、20分余りの乗車で柳津に到着、列車の運転はここまで、以後は気仙沼まで延々と代行バスの旅となる。

気仙沼線(1)

気仙沼線の前谷地~柳津~志津川~気仙沼間72.8キロのうち、海岸部を走る柳津~気仙沼間55.3キロは、津波で壊滅的な被害を受け今も不通のままである。

同区間は、震災以降、ミヤコーバスによる振替輸送を行っていたが、仮復旧としてBRT(Bus Rapid Transit バス高速輸送システム)による列車代行化の準備を進めていたが、一部区間で専用道が完成したため、沿線学校の2学期開始に合わせ8月20日よりJR東日本による列車代行バスの暫定営業を開始した。列車時代の同区間には、10往復の列車が設定されていたが、代行バスは、ほぼ1時間ヘッド、通しで15往復、気仙沼~本吉間では24往復と増発されている。

振替輸送の際はバス料金が適用されていたが、代行バスの場合はJR運賃となり、手にした乗り放題切符でも通しで乗ることができる。柳津駅前には代行バスが待っていた。整理員に聞くと、気仙沼まで2時間以上掛かるという、いささかうんざりする答えが返ってきた。

前谷地から乗った2975Dの車内、平日の昼間とあって、わずか3名の乗客だった。▲▲前谷地~柳津で気になっていたのは「のの岳」の駅名、昭和43年の開業当時、平仮名を組み合わせた駅名はたいへん珍しかった。調べると、付近に駅名の由来となった箟岳(ののだけ)がある。難解な漢字のため、平仮名にしたようだ。

柳津の手前で、北上川の本流を渡る。川面に青空が反射していた。ここまでは地震の影響など微塵も感じられなかった。乗車20分余りで柳津駅に到着。島式ホームにログハウス風の駅舎、列車はここまでで、駅前に待機する代行バスに乗り換え

柳津駅前に停車する代行バス。バス事業者はJR東日本で、JRバス東北ではない。JR東日本直営のバス事業は初めてのこととなる。営業車両は全部で18両あり、すべて首都圏の中古バスを購入して、塗り替えて使用している。年内の本格運行時に、増発、ハイブリッド車両が予定されているため、中古の導入となったようだ。なお、運行は、ミヤコーバスに委託している。代行バスは柳津を出るとすぐ一般国道45号に入る。原則、鉄道駅に接近した国道上に代行バスの停留所が設けられている。鉄道駅で言えば陸前戸倉から海岸が見えた。建物がいっさい残っていない、荒涼とした風景がずっと車窓に続くことになる。

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信貴電の不思議 改訂版

デジ青掲示板のトラブルにより「信貴電の不思議」が消えてしまいましたが、原稿が残っていましたので復活することにいたしました。ただ、そのままでは芸がないので追加して「信貴電の不思議 改訂版」としました。

 信貴山下駅から先の第2期工事でも複線化工事を行ったことを示すもの以外に、天理参考館で購入した絵葉書に信貴山下駅で撮影された51形53号電車の写真があり、これがどのような電車か調べてみました。そして、平群駅にある信貴電の名残、東ケーブルの写真などを追加しました。

彼岸花の咲く頃
彼岸花の咲く頃 平隆寺前を行く

 それでは消えてしまった部分から。

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11・11 ホームカミンクデー行われる

同志社創立137周年を記念した、ホームカミングデーが11月11日(日)に今出川キャンパスで行われ、クローバー会でも3部に分けて行事を行いました。あいにくの雨にもめげず、多くの会員が参加し、朝から晩まで賑やかに楽しく一日を過ごしました。

▲第一部 京阪旧3000系乗車会  3000系クラシックに乗車、先頭車の運転室かぶりつき席を独占して、大阪から京都まで、名残の乗車を楽しみました。

▲第二部 会合(至誠館34番教室)  前半は、会からのお知らせ、会員の近況報告、スライド映写会など。現役会員も同じ至誠館で模型運転会を実施。OB・現役が、同じ館の中で共に活動するのは、同志社広しと言えども鉄道同好会だけでした。

後半は、当会会員の志水仁さん(JR貨物北海道支社勤務)による講演「迂回輸送で石油を運べ」。震災直後、被災地へ向け磐越西線経由で石油輸送に、自らが指導・調整・添乗に携わった知られざる秘話、質疑応答を行った某老人が思わず涙ぐむほどの感動的な講演でした。これには、志水さんのゼミ生同窓生、もと鉄道同好会顧問の斉藤尚久先生にも聴講していただきました。

▲第三部 懇親会(京都平安ホテル)  OB30名に現役会員5名も参加して行われ、夜の更けるまで、和やかに賑やかに行われました。

ホームカミングデー終了、そして締めくくりは同志社EVE

11月11日(日)、ホームカミングデーでの鉄道同好会の展示は無事に終了いたしました。計146人の方々にお越しいただき、当会の誇る展示を思いゆくままに楽しんで頂けたと感じています。OBの皆様、ご声援ありがとうございました。
寒梅館夏まつり、三条イベント、船場まつり、ホームカミングデーと4つの大イベントが終わり、今年も残すは今月下旬の同志社EVEのみとなりました。私が渉外担当になったことがつい最近のように思えます。楽しいことはすぐに過ぎ去ってしまう・・・。今年、時の流れをより速く感じたのは“楽しい”イベントが多かったためでしょう。後輩たちには本当に感謝しています。
さて、同志社EVEですが、展示内容等詳細は分かり次第ご報告させて頂きます。今回は、展示日程と展示教室の紹介のみに留めておきます。ご了承をお願いいたします。

同志社EVE 11月26日(月)~28日(水) 扶桑館104教室にて(←去年の展示場所とは異なります)
11月26日(月) 10:00~20:00
11月27日(火) 10:00~20:00
11月28日(水) 10:00~18:30
変更等が生じましたら、逐次お伝えいたします


 

保存されているEB10

米手作市様より、9月24日【23961】「60年前のエコカー・バッテリーカー」のタイトルで、関 三平様の「昭和の電車」シリーズ「宮崎交通チハ100形」を紹介されているが、その中で「そういえば昭和の初めに国鉄が非電化区間用に蓄電池機関車AB10型、後に電装されてEB10型になった事もありましたね。」と記されている。そのEB10の1号機が廃車後解体を免れ東京都内で保存されているので紹介したい。

(1)EB101
AB10形→EB10形は、蓄電池機関車として昭和2年2両新製され、車体と機械部分は汽車製造、電気部分は芝浦製作所が製作して非電化の須賀貨物線(王子~須賀、王子~下十条)で使用された。6年に電化されたため、芝浦製作所で電気機関車に改造され、46年3月廃止になるまで使用され47年2月廃車になったが、EB101のみ解体を免れ、東京都府中市の「郷土の森交通遊園」で保存されている。
車体は比較的良好な状態を保っているが、運転室の機器類は無残にも破壊されている。

【参考】現役時代のEB101/ (40-3-17) 田端


「汽車製造」の銘板

「芝浦製作所」の銘板

(2)その他の保存車両
EB101の他に、D51296、都電6191、京王バスが保存されているので紹介する。
①D51296
EB101と同じレールの上に保存されている。昭和14年川崎重工兵庫工場製で、秋田、坂町、直江津、長岡と日本海側で使用され、その後新鶴見に転属、最後は青森で47年3月27日付で廃車になった。EB101共々屋根の下で保存されているため、保存状態は比較的良好である。

②都電6191
昭和25年日本車輌製で、説明板によると当初南千住車庫に配置され、45年8月荒川車庫に転属、53年4月に廃車になり、54年7月から当地で保存されている。現在補修工事中であるが、こちらも比較的良好な状態である。



③京王バス
比較的新しい車両で、11年式KC‐JP250NTN、元の登録番号「練馬200か26」で、中野営業所に配置されていた。方向幕は当地で保存時に取り替えられている。
JP型バスは、平成4年10月西鉄北九州線砂津~黒崎駅前間廃止時の代替バスを新製する際に日産ディーゼル、西鉄、西日本車体工業の3社が共同開発した車両で、JM系中型車の車体を延伸して大型車並にしたものである。

「郷土の森交通遊園」の行き方は、京王電鉄府中駅または分倍河原駅から「郷土の森体育館行」の京王バスに乗り、終点で降りれば目の前である。(バスは昼間30分間隔)行った日は分倍河原駅をバスが発車した直後で、バス待ちをしていたおばさんから「歩いても25分位で次のバスを待つより早いよ」と言われて歩いたが30分以上かかった。
裏ワザは分倍河原駅からサントリービール工場の見学者送迎バス(無料)に乗り工場見学、プレミアムモルツの試飲後、歩いて行けば10分位で到着する。工場見学は予約者優先であるが、飛び込みでも空きがあれば可能である。事前に電話予約する方が確実で当日予約も可能である。工場休業日は見学が中止となり、バスも運行されないので注意が必要である。また、府中本町駅からは徒歩25分位で到着する。

(3)周辺の保存車両
小金井公園に保存されているC57と隣接する江戸東京たてもの園の都電7514も同じ日に見学したので報告する。

①C57186+スハフ322146
柵の中にあり屋根は無いが状態は良い。柵の中に入って間近で見学できるのは3月から10月の日祝日の10時~16時までで、それ以外は柵外からの見学となる。
C57186の経歴は昭和21年9月三菱重工業三原工場で新製され新潟区に配置、日本海側で戦後の復興輸送に活躍して40年代に九州に転属、人吉、宮崎から49年6月旭川に転属して50年2月28日付で廃車になった。現役時代に九州、北海道で撮影された方もおられるのではなかろうか。

スハフ32146は昭和10年3月梅鉢鐵工所で新製。最終配置は飯田町客車区で49年10月12日で廃車になった。貫通路は雨水侵入防止のため閉鎖されている。車内には立ち入れないが損傷はなく状態は良い。



  「梅鉢鉄工場」の銘板が健在

②都電7514
昭和37年新潟鉄工所製。7500形は都電最盛期の最後の新車として20両新製された。7514は当初他の7500形と共に青山車庫に配置され、6(渋谷駅~六本木~新橋~汐留)、9(渋谷駅~赤坂見附~銀座4丁目~浜町中ノ橋)、10(渋谷駅~九段下~須田町)で使用。43年9月系統及び青山車庫廃止により江東区の柳島車庫に転属。57年11月、23(柳島~江東区役所前~月島通8丁目)、24(柳島~浅草~上野駅~須田町)及び柳島車庫廃止により荒川車庫に転属した。荒川線ワンマン化の際、7509と共に改造対象から外され53年4月27日付けで廃車となった。7514のみ解体されずに荒川車庫内に保存されていたが、平成11年に当地に移された。7500形の原形車として貴重な存在で車内立入りも可能である。



③ボンネットバス
昭和44年式いすゞTSD43、車体は北村製作所製のバスで全輪駆動車である。航空自衛隊境港気象観測班で使用され、廃車後福山自動車時計博物館で整備された。映画撮影のため昭和26年~34年までの都バスの塗装になっており、イベント時に園内で運転されている。

小金井公園と江戸東京たてもの園の行き方は、武蔵小金井駅または東小金井駅から小金井市のコミュニティバス(COCOバス)に乗り、「たてもの園入口」下車、徒歩10分である。
「江戸東京たてもの園」は現地保存が不可能な歴史的建造物を当地に移設し、復元、保存、展示を目的としており、その方面に興味のある方にとっては1日では見学しきれないと思われる。
写真右は丸二商店(荒物屋)、左は花市生花店で、いずれも昭和初期の建造物である。入園料400円(満65歳以上は200円)が必要である。