三宮―賢島で直通特急を検討 近鉄・阪神

本日の朝日新聞朝刊に、三宮~賢島で直通特急を検討しているとの記事が掲載されていました。

ニュースソース→ http://www.asahi.com/travel/aviation/OSK201207190004.html

現在、阪神三宮から賢島に行くには、大阪難波での乗換えを必要としていましたから、神戸方面から伊勢方面に向かうには乗換えなしは魅力ですね。ついでに姫路始発もあれば乗ってみたくなります。

デジタル青信号 運転再開のお知らせ

ご迷惑、ご心配をおかけしましたデジタル青信号につきまして、運転再開の目処が立ちましたので、只今より新規投稿の受け付けを始めさせていただきます。再開試運転と、ご認識ください。

何分大幅なソフトのバージョンアップを行いましたばかりですので、運行中に何らかの不具合が生じることも予測できます。その際は、お手数ですが、管理者までご連絡ください。また以前の原稿につきましても、投稿・コメント件数が膨大で完全確認ができていません。不具合が発生している恐れもあろうかと思いますので、発見次第にご連絡ください。すでに投稿記事が消滅してしまっているとの報告も受けております。対応についてはケースバイケースとなりますので、その都度に、ご連絡をさせていただきます。

今回の再開に伴い新規投稿画面に変更があります。ツールバーの配置が変りましたが、基本的な機能は、ほぼ同様です。慣れていただくしかないと思います。
また最新バージョンアップにより、閲覧画面のデザイン変更が可能となりました。要望されていました①投稿記事スペースの横幅拡大②紀行記等の長文連載記事の別途取扱いを基本に近々、素案を作成いたしたいと思っております。デザイン変更には新たなプログラムを作成する必要がありますので、頻繁にできるものではありません。ホームページ開設以来12年間で、初めての車体更新になります。今までに、①②の他に「こういった閲覧画面にして欲しい。」、「こういった事ができたら良いなあ。」等々の要望をお持ちでしたら、この機会に具体的にお聞かせください。要望は、7月27日までに、この投稿のコメント蘭にご記入していただければ幸いです。

尚、今回のトラブルにつきましては、一般の Internet Explorer等では発生しておりませんのでお分かり難いかと思いますが、Web ブラウザー を立ち上げてアクセスしますと下の画像の表示となり、ホームページ閲覧が不可能となりました。Googleのマルウェアフィルタによる誤検知が原因と判明して解決しましたが、今後も新たな予測不能な問題が発生するかと思われます。その都度の対応になりますのでご迷惑をおかけするかと思いますが、ご理解いただけますよう、よろしくお願い申しあげます。

週末の障害発生について

7/12より7/15にかけてGoogleのマルウェアフィルタによる誤検知が発生しました。

それに伴い、GoogleChromeブラウザやウィルスバスターなどをインストールしたPCから本サイトへのアクセスができなくなっておりました。7/15早朝にGoogleからの再承認を受けて、誤検知については障害復帰しました。

その後、セキュリティーレベル向上と、昨今多発しているコメントが投稿できない等の動作不安定の改善のために、掲示板の内部バージョンを2.8.2から3.4.1に上げる等の大幅なバージョンアップを行いました。しかし、作業中にインポートエラーが多発、通常の作業では復帰できない事態になったため、sqldumpからの復帰を行いました。

7/16 2:00現在、過去の投稿記事とコメントの修復と復帰がほぼ終わりました。173万行のsqldump(サーバの生データ)からの手作業での復帰を行ったため、数件の記事とコメントの消失が予想されます。また、かなり掲示板のバージョンが上がったため、投稿画面などのデザインが若干変わっています。

操作の不明な点、怪しい挙動、見過ごせない記事の消失がみられましたら、こちらの記事か、以下のアドレスに一報をください。最後になりましたが、今回は自分の不始末によりdrfc-obの方々に御迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした。

管理人 小西

富山地方鉄道クハ91と一昔前の万葉線

乙訓の長老より【21767】「富山の63スタイル2台で2題」で富山地鉄のクハ145、146の紹介と写真の公開があった。長老の解説の通り、昭和19年新潟鐵工所製でノーシル、ノーヘッダーの軽快な車体は外観からは戦時形には見えないが、昭和21年入線時の車内は、天井内張り無し、無座席、無燈で戦時形そのものである。
もう1題のクハ91と92は稲荷町で撮影した筈と思い、ネガ探しをしたところ、46年3月21日にクハ91を撮影していた。

【クハ91】
昭和37年富士重工で新製、台車は近鉄名古屋線改軌時に発生したD16を履いていた。富山地鉄で3扉両開の完全な通勤型スタイルの車両は、後にも先にもこの2両のみであった。42年から44年にかけて名鉄からモ3800-ク2800→モ14710-クハ10が7編成入線すると余剰になり、46年僅か9年の在籍で廃車になった。

 【万葉線】
INUBUSE氏より【21511】「万葉線紀行 連節車と除雪車」で同線の近況をレポートしていただいたが、昭和40年代の様子をご覧に入れたい。万葉線の歴史は少々複雑で、昭和23年4月富山地方鉄道高伏線として地鉄高岡(現高岡駅前)~米島口~伏木港間を開業。26年4月米島口~新湊(現六渡寺)間を開業して新富山~新湊間の射水線と結ばれ、地鉄高岡~新湊~新富山~富山市内線西町間の直通運転を開始した。

北陸本線と比較すると大きく迂回するため富山~高岡間を直通する乗客は少なかったが、新湊市と富山、高岡を結ぶ都市間連絡路線としての役割を果たしていた。後述の堀岡~越ノ潟間分断後、射水線が廃止されてしまったのは都市間連絡機能を失ったことが原因と考えられる。

余談であるが、富山~高岡間は昭和60年代までバスが昼間10分間隔で運行されていたが、JRの本数の増加、交通量の増加により定時性の喪失による乗客減で昼間1時間間隔にまで減便されている。

昭和34年4月地鉄高岡~米島口~伏木港、米島口~新湊間を加越能鉄道に譲渡して、地鉄高岡は新高岡に改称された。射水線は大正13年10月、越中電気軌道として富山北口~四方間を開業、部分開業を繰り返し8年12月新富山~新湊間を開業、昭和18年1月富山地方鉄道に合併され、同社の射水線となった。

41年4月、富山新港建設のため、堀岡~越ノ潟間が廃止となり、高岡側の越ノ潟~新湊間が加越能鉄道に譲渡され同社の新湊港線となった。
46年9月米島口~伏木港間が廃止され、現在の路線になった。

 平成13年加越能鉄道が乗客減により廃止を表明したため、高岡市と新湊市が中心となり「第3セクター」で「万葉線株式会社」を設立し、14年4月1日より新会社として営業を開始した。
現在は新車の導入、運賃値下げ、中新湊~越ノ潟間の増発、イベント開催による集客等により、乗客減が止まり増加傾向にあるとのことで喜ばしい限りである。

 デ5021/25年日立製作所製。最終的にデ5021~5026の6両が加越能鉄道の所属であった。(46-3-20 米島口)


デ5022
/25年日立製作所製。
(46-3-20 米島口)
現在も機器扱いで除雪車として残っているが、今年新製車と交代する。詳細はINUBUSE氏の21511】「万葉線紀行 連節車と除雪車」をお読みいただきたい。このまま動態保存できないものだろうか。

  デ5025/25年日立製作所製。(42-3-21 新高岡)

 デ5039/26年愛知富士産業製。(42-3-21 新高岡)
この時期は7021~7030、7037~7040の14両が加越能鉄道所属であった。写真の7039は富山地鉄笹津線に転属した。横のボンネットバスは白川郷西赤尾発のバスである。
デ5000形については、長老のご友人服部重敬様著「RM LIBRARY107/富山地鉄笹津・射水線 デ5000系物語」に詳しく書かれているのでお読みいただきたい。

 デ7051/昭和36年日本車輌製。(42-3-21 新高岡)
富山地鉄デ7000形を前後扉にしたスタイルで、設計図を流用して中扉のみ移設したためこのような奇妙なスタイルになった。7051~7053の3両が新製され、新高岡~伏木港間に投入しところ、明るい蛍光灯の輝く軽快な車体は、従来のデ5010形との格差が大きく、新湊方面の乗客から苦情がきたとのことである。

 デ7053/昭和36年日本車輌製。(46-3-20 米島口)
この時代の全面広告車は比較的珍しい。まだラッピング技術は開発されていなかったため、車体に直接ペイントされていた。

 デ7075/昭和42年日本車輌製。(46-3-20 米島口)
デ7071~7076の6両新製され、現在も健在である。

デ7076/昭和42年日本車輌製。(45-10-10 新高岡)


ボ1/大正13年大阪鐵工所製。(46-3-20 米島口)
富山ライトレール←国鉄富山港線の前身、富岩鉄道ボ1として新製された木製車で、僚車ボ2と2両新製された。正面はタマゴ形5枚窓、客室窓上に半月形の優雅な飾り窓があり、鉄道車両もここまでくると芸術作品である。
富岩鉄道は大正12年3月設立、翌年7月富山口~岩瀬浜間7.3㎞を開業、昭和2年12月富山口~富山間0.7㎞を開業した。12年12月富山地方鉄道の母体となった富山電気鉄道の傘下に入り昭和16年12月に合併されたが、昭和18年6月国家要請により鉄道省に買収された。
昭和23年4月廃車後、25年12月に富山地鉄に譲渡、ボ1は高岡軌道線、ボ2は笹津線で使用された。ボ1は41年射水線分断時に加越能鉄道所属となり、46年4月に廃車になった。

 
【参考】
ボ2(52-9-24 南富山)
富山地鉄に残ったボ2は車体改装により正面は3窓に、更に車体が鋼板張りとなり客窓上の半月形飾り窓もなくなった。50年10月射水線に転属後、55年4月廃車になった。

 セミボ21(43-4-6 岳南江尾)
富岩鉄道には、セミボ20と21の2両の半鋼製車が在籍し、セミボ20は昭和2年大阪鐵工所、21は3年日本車輌で新製された。両車とも買収後の26年8月クハに改造、28年3月廃車になった。廃車後、20は昭和30年静岡鉄道に譲渡されクハ7に、21は28年岳南鉄道に譲渡されクハ21として再起した。いずれも近隣私鉄でなく静岡県下の私鉄に譲渡されたことは興味深く、この時期は大手、中小を問わず車両不足であったことが伺える。

アメリカ鉄道のたび(その6)

グランドキャニオン鉄道

3日間滞在したデュランゴから空路フェニックス経由フラッグスタッフに行きました。フラッグスタッフはルート66が通る町、最近では水泳の北島はじめ、高地トレーニングの合宿の町としても知られています。NO2でも少し触れたように、当初はグランドキャニオン鉄道でグランドキャニオンに行くつもりだったのですが、アムトラックとの連絡切符の予約ができず、またアムトラックの連絡駅であるウイリアムズジャンクションは無人駅で、列車が遅れた場合ここで長い間待つのも嫌なので、グランドキャニオンへの往復をフラッグスタッフからのシャトルバスを使うことにしました。

フラッグスタッフのホテルに入ってまず、アムトラックの駅に行きました。この駅に止まる旅客列車はシカゴとロスアンゼルスを結ぶ、サウスウエストチーフ号の1往復だけですが、貨物列車は頻繁に通り、通過の際、踏み切りは長い間遮断機が降りて渋滞します。駅は昔ながらの建物で、半分以上が観光案内所として使われ、アムトラックの方が間借りしているような感じですが、朝5時から23時まで駅員がいて、切符の購入もできます。

フラッグスタッフ駅(前の通りがルート66です)

結果的にこの駅から乗車したのは正解で、その日の晩乗ったサウスウエストチーフ号の到着は2時間半遅れましたが、駅員がおおよその到着時刻を案内してくれたので、その間駅前でビールを飲み、食事して退屈せずに待つことができました。

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写真整理学 -5-

カラーポジ
カラーポジを撮り始めたのは大学1年生の時に、北海道へ行った時が初めてだった。当時は、現像料込みの値段で売られていた。カラーポジは、透過式で印刷に適したフィルムとされるが、当時は、もちろんそんな認識はなく、スライド上映会でみんなにも見てもらうのが目的だった。実際、あの頃は、鉄道同好会でもよくスライド上映会をやったものだった。すべて国産の銘柄で、フジとサクラを交互に使っていた。
ここからは以前にも書いたことだが、当時はフジのシェアが高く、優秀な製品という評価だった。いっぽうサクラは二流という評価だったが、数十年経ってみると、全く逆の結果となった。フジは、スコーンと色が抜けてしまって見るも無残な姿が多いのに対し、サクラは多少の褪色はあるものの、色抜けはない。製品の評価なんて、アテにならないとつくづく思ったものだ。

社会人になってからは、仕事絡みでポジを使うことも多くなり、とくに、モノクロを余り撮らなくなった2002年ごろから、一眼デジカメ導入までの約5年は、ポジが主流となった。実際、優れた風景の中を順光で適正露出で撮った鉄道写真は、我ながら惚れ惚れする、唯一無二の”作品”と呼んでもいいものだ。しかし、逆に言えば、たとえ半絞りでも露出を間違えば、目も当てられない結果となる。フィルムが現像から上がってきた時は、いつもドキドキだが、感動より落胆のほうが多かったポジではある。撮り貯めたポジは、通算246本、コマ数で約9000駒となる。
初めてのカラーポジは北海道へ行く途中に、都内各地で廃止予定の都電を写した(以前の掲示板で発表済み)。上は渋谷・宮益坂、右は高田馬場駅前。褪色・劣化は激しいが、45年前の都電も、何とかここまで修正できた。

保存方法は、大きく分けて二つ、初期は一点ずつマウントしたものを、専用のポジアルバムに収容、マウントには、適宜データの記入している。本数が増えると、この方式では追いつかず、マウントを止めて、スリーブ状態にして、缶・箱に収納している。スリーブには、自作の撮影ラベルを貼り、データを記入している。
ポジは、保存状態が一時悪かったこともあってカビが発生(湿気の多い押入れに長期間保管)、また前記のようなフィルム特有の経年変化により、褪色・劣化が激しい。デジタル保存は、カラーネガ以上に急務だが、現状はほとんど進んでいない。加えて、スキャンはなかなか難しいと感じている。褪色しても、軽度のものなら修正ソフトの褪色修正のボタンででほぼ一発修正できるが、褪色・変色の激しいものは、どうやってもダメだ。やはり色が残っていないことには、救済できないと痛感した。色調が正しく出ているポジは、逆にコントラストが強くなり過ぎて、黒つぶれ、白飛びが激しい。
過日、会社更生法の適用を受けたコダック社は、コダクロームに続き、最後まで残ったエクタクロームの製造中止を公告している。ほんの数年前まで、国内外からカラーポジが続々と新発売されて、色調や粒状など、選び放題だった時代が夢のように思えるほど、昨今のカラーポジの衰退には、その終幕が見えてきた思いがする。

ポジの整理は、一点ずつマウントしてスライドファイルに保存、スリーブで一本ずつ保存する2種の方式

久しぶりの京阪守口車庫 その2

別件でモノクロプリント収納箱をかき混ぜていたら、誰に貰ったものか不明の、しかもカラーネガDPE用機器からプリントされたものと思えるものが2枚出てきた。1枚はそれなりに判別できる8人の姿が、もう1枚は19人の姿がぼんやり見えるものである。19人の中で断定できるのは前列の大西顧問、その左の眼鏡男は清水孝一郎君?。後列に移り右から2人目は老人、鈴木アキちゃん、津川君、2人飛ばして旦那、次の眼鏡はtrukame?そして磯谷のオッサン、2人飛ばして高橋の御大、残る2人?となる。

さて何時見学に行ったものか、さっぱり分らない。老人は1958年秋から頻繁に守口車庫に出入していたから思い出深さがない。多分、当時車両課長であった伊藤さんにOK貰って皆さんを守衛小屋の前で待ち受けたのであろう。大西さんに顧問になって頂いたのは高橋御大卒業後であり、19604月以降となる。服装からして195912月か、19601月であろう。3000系の話など未だ聞けない時期で、1800系特急マークを背景にしている。

この頃の最新特急車1810系をバックにしてピンボケ写真の撮影者は不明

新京成モハ100形

乙訓の老人 様、皆様
藤本先輩が多忙につき、本日電話で打ち合わせの上 新京成モハ100形の写真を紹介させていただくこととなりました。よろしくお願いします。
昭和52年2月6日夕方 くぬぎ山車庫の柵の外からの写真です。


ロクサンスタイルのモハ109号車の更新後の姿です。

後期更新車で15両がこのスタイルになっています。
全金車で側面通風器、窓枠は木製で出場し新京成転属後にアルミサッシ化、ドアも交換されています。
その後昭和48年から始まった特別修繕で この後期更新車は先頭車12両、中間車3両となり この109号はパンタなしの中間電動車になっています。
当日の編成は前から109-131-104-107-1112-108です。


2両目のクハ131です。


3両目のモハ104です。
モハ104号車はモハ100形の最初の更新車(昭和28年)でシル、ヘッダ-付き、モハ101,118,123はノーシルノーヘッダーで 共に半鋼製車体の初期更新車4両グループの1両です。
このグループ4両は後の特別修繕からはずれ昭和54年に廃車されています。


4両目のモハ107です。
モハ109と同じ 後期更新車ですが、扉は交換されていません。パンタグラフは撤去され こちら側の運転台は方向板がありませんので使用されていないようです。特修後は片運転台車になっています。


5両目のサハ1112です。


6両目のモハ108です。
モハ109、モハ107と同じ後期更新車25両の仲間です。モハ107同様 扉は交換されていません。
特修後は片運転台車になっています。


モハ108号 からの6連です。右の編成はモハ122先頭の6連、左はモハ102です。
モハ102の左にモハ103、クハ2015、モハ118が続いています。6連です。

モハ122です。
柵の間から何とか写した1枚です。敷地外からの撮影で、後ろの5両は写せていません。
モハ122は昭和31年から始まった中期更新車6両(102,103,112,117,121,122)の1両で、初期更新車とほぼ同じスタイルの全金車です。モハ100形は新京成へ昭和38年から譲渡され、このモハ122はその第一陣の1両です。特修後はモハ112,121が片運車、このモハ122を含めた4両はパンタなしの中間電動車になっています。

モハ116です。
後期更新車の特修後のスタイルですが扉は窓の大きい旧式です。


2両目のクハ2015です。
後にサハ2015となっています。元国電モハ30161とのことです。


モハ103です。
中期更新車 先ほどのモハ122と同じグループの特修後の姿です。扉取り替え、パンタなしの中間電動車となっています。右も同じスタイルのモハ102です。
大正15年製の京成モハ100形25両全車が昭和54年(半鋼製車)、61年、62年(全金属車)まで活躍したのは時代が時代だったといえ長寿であったと思われます。
新京成の電車はあまり写した記憶がなく、今回の写真が唯一かもしれません。通りがかりに車庫の裏に車を止めて写したかと記憶しています。ちょうど特修の始まったころで様々な形態の姿が写っています。ご笑覧ください。犬伏

「久しぶりの京阪3000」によせて(46年6月6日の思い出)


我々の到着直後で「はとマーク」に蓋がされ、パンタが降りている状態。

昭和46年6月6日の京阪3000見学会の記念写真を見て非常に懐かしく思った。OBは、私、
KAWANAKA氏、KOBOYASHI氏の他にもSIKATAISODAKURODAの各氏のお姿も見える。模型をされていた方は前日の運転会で今日のことを知らされたのだろう。私は恐らく特派員氏から連絡をいただいたものと思われるが、噂の京阪特急の新車が営業運転の前に見学できるとあれば、皆さん万難を排して参加されたのであろう。
当日のネガには3000系の他、元京津線の72改造の構内入換車が写っており、こちらも見学、撮影できたことはラッキーであった。

来春、3000系の引退が報じられているが、私も来年3月末で雇用契約期間が満了する。引継ぎの関係で5月頃まではパートタイマーで不定期運行をするかも知れないが、「JR、メトロ、ゆりかもめ」通勤もカウントダウンになってきた。

中間車3102/方向幕は「普通・天満橋」を表示

 元京津線72の構内入換車/ポールがパンタに取替えられ連結器が取り付けられた位で、車体は72時代と変わらない。

2306/工場ならではの写真。

 112

見学会は午前中で終了し、午後はINUBUSE氏と近鉄南大阪線に行き、河内松原、道明寺、古市で撮影した。当時としてはごく普通の車両ばかりであるが、今見ると結構貴重と思われるので参考までに掲載した。

ク6682他5連の御所発あべの行準急/河内松原~恵我ノ荘

 荷電代用のモ5612+モ5613/道明寺

モ5656+モ5655の道明寺線ローカル/道明寺

ク6521他4連の吉野行急行/道明寺


 モ6017他4連の吉野行急行/道明寺~古市

 モ6852他4連の吉野行急行/道明寺~古市

東京スカイツリーから見る鉄道

毎日、通勤で東京スカイツリーの足元を通っていますので、折角ならば、早めに上りたいと思い、東京スカイツリーの事前予約にインターネットでチャレンジしたところ、第八希望の6月30日土曜日午前8時30分に当選したので、東京スカイツリーに上ってきました。

通勤で、毎日見れるはずですが、着席通勤なので、押上あたりは、夢見心地で通過しています。建設途上も、できてからもじっくり見たことありませんでした。

今から、25年前、何の因果か浅草支店に勤務を命じられ、ここらあたりは、セールステリトリーでした。自転車でよく営業に廻ったものです。

当時は、コンクリート工場があり、東武鉄道のED5000形が出入りしていました。よく仕事をサボって眺めたものです。

当時は、まさかここにこんなものができるとは、思いもよりませんでした。

当日、地上350メートルの天望デッキまでは、ほとんど待たずに昇れました。ここまで、2500円です。(通常は、2000円)

さらに、先の地上450メートルの天望回廊を目指します。天望回廊の切符を買うのに約10分。追加で1000円かかります。

合計3500円かけて到達した地上450メートルからの鉄道です。


浅草~東京スカイツリー間 300系と通勤電車(東武の車両に詳しくないので、形式がわかりません。)

 

東京スカイツリー~曳舟間  スペーシア100系と6050系快速

字左が東武鉄道。右が京成電鉄です。京成電鉄の下を東武鉄道 亀戸線が走っています。

京成線は、京成曳舟付近高架工事中です。

 

業平橋(東京スカイツリー)の電留線 200系と300系と6050系快速

一度は、昇る価値はありますが、何度もは・・・

天望回廊へは、天望デッキでチケットを買う必要がありますので、待ち時間を気にされる方は、早めの時間に昇られたほうが良いと思います。

こんなん出てきました

京阪3000の見学会のネガを探していたら、同じネガのなかに模型運転会のスナップがありました。これも日時、場所不明です。昭和47年4月から8月のあいだです。どこかのお寺を借りて運転会を行った記憶はあるのですが、どこだったのでしょう?「明治チョコレート」の工場と言えば茨木、高槻あたりにありますが、そんなところまでレイアウトを運んだのか・・・?だれか覚えておられませんか。

アメリカ鉄道のたび(その5)デュランゴシルバートン鉄道

デュランゴシルバートン鉄道はアニマス川沿いの渓谷を走る景色が人気で標高1984mのデュランゴから標高2836mのシルバートンまでの72.6kmの区間を3時間半かけて走ります。デュランゴはデンバーと同じコロラド州にあり、デンバー、フェニックス、ダラスからの飛行機便があって、比較的行きやすい場所にあります。このため、この鉄道の乗車をコースに入れている日本の一般ツアーもあり、恐らく日本でも一番知られた保存観光鉄道ではないでしょうか。この鉄道はシルバートンで発見された銀鉱のためのもので、1882年にデンバーまでの鉄道が開通しました。その後、鉱山の閉鎖とともに鉄道も一時期廃止されましたが、1940年代に銀に変わってウラン鉱石の精錬のために再開され、1960年代には国の歴史遺産に登録されたこともあって、観光鉄道に姿を変えて運行が続けられました。ある時期にはハリウッドがこの鉄道に目をつけ、いくつかの映画がここを舞台に作られました。「80日間世界一周」の映画も一部のシーンがここで撮られたそうです。

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久しぶりの京阪3000

例の車石を実際に見てみようと大津の86さんに案内をお願いして、今日大津に行ってきました。京橋から浜大津まで京阪電車のルートで行くことにして、京橋から乗る特急を事前に調べるとと、これが3000でした。そして、京橋駅にてパチリ。先頭車で一番前で運転士のすぐ後の席で三条まで乗車しました。京阪特急として乗るのは何年ぶりでしょうか?

そして、40年ほど前の守口車庫での3000見学会の記念写真です。なつかしい顔ぶれがそろっています。その3000も来年の春に定年をむかえます。

写真整理学 -4-

前回、モノクロフィルムについての私の整理術については記しましたが、もうひとつ、カラーがありました。モノクロに長い間馴染んだ私も2002年以降は、カラーオンリーになりました。近年はデジカメも加わり、増殖を続けるカラーの整理は、今日的なテーマでもあるのです。
カラーネガ
カラーネガで鉄道を撮り始めたのは比較的古い。初めて一人で九州へ行った高校2年生の時、モノクロとともにカラーも加え、カメラ2台態勢となった。マミヤ製の怪しげなEEカメラだった。ところが、この昭和40年代前半、カラープリントの料金はL判一枚が100円ぐらいだったと記憶している。今の物価に換算すると300~400円程度になり、とても大量には撮れない。結局、15日間、九州へ行って撮ったのは、当時あった16枚撮りフィルムのうち数枚だけで、帰ってからまた別のところで撮る始末で、フィルム一本を一年近くかけて撮った。

45年前に初めて撮ったカラーネガでも劣化は余り見られず、スキャンデータに若干の修正を加えるだけで、この程度、見られるのは、カラーネガのアドバンテージだと思う。佐々機関区で撮ったレールバスの塗色も、一般気動車とは異なる赤2号だと理解できる。

その後も、カラーネガは撮るものの、その性格上、家庭の写真などが中心となるため、鉄道は合い間に散発的に撮る程度で、枚数はほとんど増えず、カラーの鉄道写真は、後述するポジに移っていく。しかし、2002年にモノクロを止めてしまうと、その代替として、カラーネガを再び使うようになり、それ以降はウンと増えることになる。ただ、それもデジカメの出現で、2005年には全く絶えてしまうことになる。
こんな経緯で、現在カラーネガとして保管しているのは、278本、コマ数で約1万枚ぐらいか、ただ、前記のような非鉄な写真も含まれるので、実際、鉄道関係は、その半分程度しかないと思う。
整理方法は、すべて同時プリントしているので、単純明快に撮影順にポケットアルバムに入れた時系列の整理方法を採っている。ネガは、カラーネガ独自の整理番号を振り、時代順にケースに入れている。問題点は、モノクロのベタ焼きと同じで、別にある撮影台帳との関連が弱いことである。カラーはとくに恣意的に撮ることが多く、撮影には連続性がないことも、台帳との関連性を弱くしている。ただ、現実的には、カラーネガの場合、ほかへ提供することは皆無に近いので、自分だけが理解できればよく、とくに不便を感じるケースはない。

カラープリントの整理は、市販のポケットアルバムに入れるだけ。分野別には編集せず、鉄道以外にも、興味の向くバス、近代建築、街並みも含めて撮影順に入れている。データは撮影日のみ記入、これを頼りに撮影台帳と照合する。

将来的なテーマとしては、ネガの劣化の前のデジタル化であるが、これには全く手が回っていない。カラーネガは、オレンジベースのため、劣化が進んでいるのか一見してよく分からないのも、着手を遅らせる理由のひとつである。ただ、楽観できるのは、ネガをスキャンしてデジタル化した場合の写真修整は、ポジに比べると、技術的には容易に行えること。カラーネガのデジタル化は、とくに急を要するものではなく、優先順位は低い。今しばらくは現状維持と言ったところだ。

いすみ鉄道と「あじさいの花」

本日 ムーミンとキハ52と菜の花で有名な「いすみ鉄道」へ初めて行ってきました。時々小雨の降るどんよりとした梅雨空からわずかな陽の光が見えた時 ちょうど「あじさいの花」の咲く小谷松駅に 最新鋭のキハ302がやってきました。上総中野15:08発大原行き、車庫のある大多喜駅の一つ手前の駅です。近くに民家や神社もありますが 乗り降りする人もなく 15:24に大多喜にむけて発車していきました。


大多喜駅でキハ201,キハ202、キハ205、キハ206,キハ301、キハ52を写し、記念乗車券やキハ52のストラップを購入し(売上貢献) 窓口で 「あじさい」の咲いている場所を教えていただき 小谷松に移動して写したのが 上の写真です。
あじさい電車として 箱根登山鉄道が有名ですが こちら いすみ鉄道も 「あじさい」のきれいな所が他にもあるようですのですのでまた行ってみようと思っています。犬伏

展覧会のご案内 鉄道絵葉書の世界

奈良県立図書情報館に行ったとき、「鉄道絵葉書の世界」のパンフレットが目にとまりました。天理大学付属天理参考館の第66回企画展で7月4日から8月12日までおこなっているそうです。パンフレットによると今回展示される資料は明治から昭和にかけてのものだそうです。詳しくは天理参考館のホームページをご覧ください。これによりますと展示資料はすべて天理参考館の収蔵品だそうです。鉄道模型走行実演もあるようです。ただし、運転日不定期ですので注意してください。写真に写っている案内チラシもPDFで見ることが出来ます。チラシだけではさびしいですのであやしい電気機関車の模型もついでに・・・ OBの方でこれについてご存知の方もおられると思います。なにせ、現役の時、だれかさんから作りかけの車体をいただいて、ありあわせのもので作ったものです。

富山で63スタイル2台で2題

大津の86さんのアメリカ土産話に圧倒されています。63スタイル話も意外な展開を見せ本来、戦時中の「ないない」づくしの中、如何に節約してものを作りだすかに英知を集約した話、これが標準型となっ事など現代人には信じられない話であろう。かく言う老人も気付いたのは終戦の翌年であり、これが国鉄→JRの標準スタイルになるとは夢にも思わなかった。

老人は196143日から1963914日まで生活の基盤を富山県西砺波郡福岡町(現高岡市)に置いた。最初の半年、隔週毎に富山に出るのが楽しみであった。もちろん富山地方鉄道訪問で当時、立山線と言っていた現上滝線で145146号と名付けられた2台の63スタイルの制御車が走っていた。さっそく南富山車庫にお邪魔して来歴をお尋ねしたところ、北陸本線直江津駅から浜辺に至る専用線で戦時中使用されていたもので、終戦と共に当線に「配給」を受けたものだとの返事が返って来た。恐らく信越化学の工場引き込み線だったのであろう。19579月、熊本電鉄で63スタイルの木造車を見ており、国電より一早く木造で食パンスタイルが「ないないづくし時代」に作られたことに衝撃を受けた。また京阪電車守口車庫のお邪魔虫であった1959年秋、戦時下の車両統制会から、京津線206両の車両鋼体化を木造車体とするなら許可する、との簡単な図面を見付け出していた。

こうした下地があったので、昭和19年新潟鉄工所製造だと言うので、木造車体で製作されたものを鋼体化したのかと尋ねたら、以外や鋼製車体で当社に廻送されて来たとの返事だった。ただし台車が貨車用TR26でした、との話には当車が製作された当時、人を人間扱いしなかった一部の階層がいた事に憤りを覚えた。転入当時、附随客車ハフ11,12として立山線に配置され、その後に電気配線と天井整備の上、蓄電池による電灯を設け、更に座席を新たに整備して走らせたとの話であった。これがクハ140145146号になったのは1951年のことで、乗務員扉を付け内装も当社の標準並みとしたとの事。その後台車は国鉄中古品の払い下げを受けたが、2両同型ではない。19615月撮影の姿を紹介しよう。

以上がクハ1401451462台で1題目。次は話だけの2題目。1962年初夏、電鉄富山駅で客用扉が両開き3か所の片運制御車が目に入った。両端切妻で窓配置から言えば京阪20003期車(2025~)同系である。さっそく何物ぞと、南富山車庫に聞きに行った。越中鉄道の戦前増備車は5001系に取り替えられた後、立山線配置となった。その11.5m級のクハ101,102号を当時、本線クハ120形の車体延長工事を発注していた富士重工に送り込み、部材一部流用で18.5m級の制御車に仕立て上げたものだと教えられた。理由は高度経済成長時代を迎え、朝ラッシュ時の上市→稲荷町間救済のために145,146号の3扉に眼を付け、両開き扉にしたのが新車91,92号なのだ、とのお話であった。稲荷町から一駅南、立山線不二越間の朝ラッシュ時は、不二越工業を始め工場地帯で、稲荷町-不二越間には本線接続の出勤日のみ運転の臨時列車が、モニ6570形単行で運転されていた。座席は取り外されていた。クハ90形の写真は38豪雪で焼失、従って2題目は尻切れトンボで御免。

クハ140形145号はTR-23系を装備していた

クハ140形145号はTR-23系を装備していた

クハ140形146号はTR-10系の台車で走る
クハ140形146号はTR-10系の台車で走る

アメリカ鉄道のたび(その4)デンバー2

コロラド鉄道博物館

この博物館はデンバー郊外のゴールデンという町にあります。前回の投稿で紹介したRTDのトリッププランナーに出ており、デンバーのダウンタウンからは直通はないものの、1度乗り換えるだけで、約1時間でいけるバス路線があります。これはいいと時刻を見るとなんと土日は運休になっています。距離が結構あってタクシーでいくらかかるか心配だったのですが、デンバー近郊タクシー料金検索と言うサイトを発見、検索すると$32とのこと、これならまあいいかとダウンタウンからタクシーで出かけることにしました。

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全国安全週間のポスタ-


平成24年度 全国安全週間のポスターです。7月1日から7日とのことですが、どこかで見たことのある電車ですね。
本日 関東鉄道常総線の守谷駅で見かけました。犬伏

サハ78

5月21日【20523】「モハ63形→クモハ73形」に引き続き、同一グループの「サハ78形」について解説する。

サハ78形はモハ63形の付随車として作られた車両である。戦争末期の昭和19年に14両のモハ63形(63001~014)と共に8両(78001~008)新製された。モハ63形は電装品不足のため全車両「サモハ63形」で落成し、その後も電装されず、最終的にサハ78形3両(78304、306、310)とクハ79形11両(79100、102、104、106、108、110、112、216、242、244、246)になった。
折角新製したサハ78形であるが、翌年4月に001、003、004の3両が戦災で焼失してしまい復旧されることなく廃車になった。

昭和19年から20年にかけて、横須賀線のサロハ66形とサロ45形を、4扉に改造してサハ78形に編入する工事が実施され、サロハ66形は15両全車改造され、78009~023となったが、サロ45形は11両全車改造されて024~034となる予定が、5両が2等車として残されることになったため、025、026、028、029、033が欠番となった。改造車グループも戦災で013、014、019、022、031、032、034の7両が焼失した。

戦後の混乱期を乗り切るため、モハ63形と共にサハ78形も新製されることになり、昭和20年から23年にかけて133両作られ、100番台に番号区分され78100~239(203~209欠番)となった。200~202の3両はジュラルミン製(通称ジュラ電)であった。

桜木町事件後、緊急に車体整備が実施されたが、モハ63形のような改番はされず、戦災廃車による欠番もそのままであった。その際、未電装のサモハ63形96両を正式にサハ78形に編入し、300番台に番号区分して78300~395とする予定であったが、大部分の車両が運転台を取り付けてクハ79100番台に編入された。サハ78となったのは20両に留り、欠番が多数発生した。サハ78形編入車の車号は304、306、310、324、330、335、337、338、339、352、358、363、368、372、375、378、380、385、389、395の20両である。

モハ63形→クモハ73形の時と同様、代表的な車両についてのみ写真で紹介する。後年トイレ取り付けにより車号が変更された車両、モハ72の電装解除によりサハ78形に編入された車両については後日報告する。

サハ78008/昭和19年10月田中車輌製、新製時東神奈川に配置、24年8月宮原、26,年11月下十条、その後仙石線に行き47年2月盛岡工場でアコモ改善工事で窓の2段アルミサッシ化、ベンチレータをグロベンから押込形への取り換えが行われた。49年10月廃車。(48-4-30 仙石線下馬)

サハ78010/昭和6年2月川崎車輌でサロハ66002として新製。20年1月大井工場で4扉化の上、現車号になり東神奈川へ、24年8月宮原、同年9月津田沼、40年4月淀川、同年9月明石、43年10月鳳、49年3月房総電化で津田沼、50年2月廃車。 (上:42-12-7尼崎 下:48-11-3 杉本町)

サハ78012/昭和6年3月川崎車輌でサロハ66004として新製。20年4月大井工場で4扉化の上、現車号になり津田沼へ、40年4月淀川、49年8月廃車。(48-6-17 住道)

サハ78015/昭和6年3月川崎車輌でサロハ66007として新製。19年12月大井工場で4扉化の上、現車号になり蒲田へ、25年1月宮原、26年11月蒲田、東京地区内を転属後、42年12月御殿場線電化で松戸から沼津へ、52年4月廃車。(47-5-1 沼津)
 

サハ78016/昭和6年3月川崎車輌でサロハ66008として新製。20年2月大井工場で4扉化の上、現車号になり下十条へ、40年10月鳳、49年4月房総電化で津田沼へ、50年2月廃車。(49-1-5 杉本町)
 

サハ78017/昭和6年3月川崎車輌でサロハ66009として新製。20年2月大井工場で4扉化の上、現車号になり下十条へ、24年8月明石、25年9月淀川、29年3月宮原、32年9月高槻、35年8月淀川、35年9月岡山、38年11月明石、39年9月岡山、41年8月明石、44年9月松戸、48年2月廃車。(上:40-8-18宇野 下:41-10-11京都)

岡山区在籍時は、17mのサハ17も混じった2.3.4扉、クロス、ロングシートの凄まじい混合編成で、山陽本線の三石~三原間と宇野線のローカルに使用されていた。

サハ78021/昭和7年3月川崎車輌でサロハ66013として新製。20年1月大井工場で4扉化の上、現車号になり下十条へ、40年12月鳳、49年3月房総電化で津田沼へ、50年4月廃車。(48-11-3 杉本町)

サハ78023/昭和6年3月田中車輌でサロ45002として新製。12年3月大井工場でサロハ66015に改造、19年10月大井工場で4扉化の上、現車号になり三鷹へ、東京地区内を転属後、42年12月御殿場線電化で松戸から沼津へ、54年10月廃車。(49-4-27 沼津)

サハ78030/昭和6年5月田中車輌でサロ45009として新製。19年7月大井工場で4扉化の上、現車号になり三鷹へ、24年8月明石、25年9月淀川、26年11月蒲田、東京地区内を転属後、42年12月御殿場線電化で松戸から沼津へ、54年9月廃車。(上:43-4-6 沼津 下:49-4-27 沼津)

 サハ78106/昭和21年6月近畿車輌で新製。東京地区に配置後、42年12月御殿場線電化で松戸から沼津へ、54年10月廃車。(49-4-27 沼津)


サハ78109/昭和21年8月近畿車輌で新製。南浦和に配置、46年1月淀川へ、51年10月廃車。
(48-7-1 住道)

 サハ78113/昭和22年8月近畿車輌で新製。東京地区に配置後、45年7月呉線電化で松戸から広島へ、転属時に幡生工場でトイレ設置、46年9月広島工場でアコモ改善工事で窓の2段アルミサッシ化、51年4月御殿場線用として沼津へ転属、55年1月廃車。沼津配置の63系サハ78のトイレ設置車は450番台に改番されていたが、広島では改番はされず統一性はなかった。(上:48-1-28 広島 下:52-2-11 沼津)

 

サハ78119/昭和22年4月近畿車輌で新製。東京地区に配置後、45年7月呉線電化で松戸から広島へ、47年1月広島工場でアコモ改善工事で窓の2段サッシ化とトイレ設置、51年4月御殿場線用として沼津へ転属、55年3月廃車。
(48-1-28 広島)


サハ78126/昭和21年12月近畿車輌で新製。南浦和に配置、45年12月淀川へ、51年11月廃車。
(48-3-21 住道)


サハ78156/昭和22年7月近畿車輌で新製。東京地区に配置後、45年4月仙石線へ、46年5月盛岡工場でアコモ改善工事で窓の2段アルミサッシ化とベンチレーターの取り換え。55年5月廃車。
(48-4-30 仙石線下馬)


サハ78163/昭和22年8月近畿車輌で新製。蒲田に配置、41年8月高槻へ、50年1月廃車。
(49-2-1 大阪)


サハ78167/昭和22年9月近畿車輌で新製。東京地区配置、54年10月東神奈川で廃車。
(47-5-1 東神奈川)


サハ78180/昭和22年11月近畿車輌で新製。蒲田に配置、41年9月高槻へ、50年6月廃車。
(47-1-20 大阪)


サハ78216/昭和24年2月近畿車輌で新製。東京地区配置、46年12月大井工場でも改善工事で窓の2段アルミサッシ化、青梅線、五日市線で使用後、52年11月豊田で廃車。
(50-3-23 拝島)


サハ78237/昭和24年5月川崎車輌で新製。南浦和配置、46年1月淀川へ、51年4月廃車。
(47-11-19 住道)

 サハ78310/昭和19年12月田中車輌でサモハ63011として新製。昭和26年12月大井工場で乗務員室を撤去して現車号に、東京地区配置後、45年12月松戸から淀川へ、51年4月廃車。サモハからの改造車は扉の開き方が異なる。オリジナル車は← ← → →と開くのに対し、4枚とも同一方向に開く。(49-3-23 住道)

 サハ78368/昭和21年12月近畿車輌でサモハ63346として新製。昭和26年12月大井工場で現車号に、東京地区配置後、仙石線へ、46年12月盛岡工場でアコモ改善工事で窓の2段アルミサッシ化ベンチレーターの取り換え、54年8月廃車。(48-4-30 仙石線下馬)


サハ78375/昭和21年9月川崎車輌でサモハ63370として新製。昭和26年12月大井工場で現車号に、東京地区配置後、46年2月南浦和から淀川へ、52年2月廃車。(49-3-23 住道)

サハ78380/昭和21年10月川崎車輌でサモハ63380として新製。昭和26年12月大井工場で現車号に、東京地区配置、青梅線、五日市線で使用後、51年12月豊田で廃車。(50-3-23拝島)