瀋陽鉄道博物館は、広大な蘇家屯機関区内にあります。敷地内に食堂車を使った食堂がありましたので、みんなでバスを降りて撮りました。

▲ 蒸気機関車は、博物館にも展示してあった工建型1018号機でした。1958年製造、軸配置;0-C-0、動輪直径;1,000mm、最高速度:35km/h。1959年に撫順化学工場に配属、1989年に 蘇家屯機関区に転属され、2009年9月に引退しました。、食堂車はCA23-890666+CA23-890888の2両でした。門の前の保線のモニュメントも立派です。機関車も客車も磨かれてピカピカでしたが、案内表示は日焼けして年月が経っているように見えます。食堂車は、1両定員は48人ですから全部で96人。使用されている様子がなく、単に展示してあるだけか分かりません。
鉄路の北前船と六文銭の里を走る電車 その4 再び直江津から敦賀へ
ドイツ風的 中国蒸気機関車の撮影の旅 Part2 瀋陽鉄道博物館(沈阳鐡路陳列館) その2 展示車両
第1日目(訪中33日目) 3月22日
ドイツのツアーですが、我々日本人2名も入場拒否にあわず入れました。前回の時は、私とTaxiの運転手に館内案内人がピッタリと付きましたが、今回は総勢16人の団体に案内人1名です。監視が行き届かない事は明白です。できるだけ案内人に近づかず撮影に専念しました。前回途中から撮影を拒否された車両からご紹介します。
前回の訪問記はこちらをご覧ください。
▲ GJ(工建型)、鉱線や入換用として、1957~1961年までに122両が製造されました。GJ型は、工建(GuoJian)の略です。
▲ SY(上遊型)、満鉄のミカロ(JF6)のコピーで性能も同じです。1960~1996年まで1,769両が製造され、今も現役で数10両が地方鉄道で活躍中です。軸配置1D1、全長21,168mm、動輪直径1,370mm、1,500PS。韓国や米国にも輸出されました。韓国では901型として今なお休車扱いで店村駅に展示されています。

▲ JS(建設型)、 満鉄のミカイをベースに1957年から総数1,558台が製造され、上遊型と同様に今も現役で数10両が地方鉄道で活躍中です。軸配置1D1、全長23,053mm、動輪直径1,370mm、2,270PS。

▲ 正面にも置いてあった蒸気機関車と同じ、OJ(前進型)。今や数台がイベント用や工場専用線で働いているのみです。

▲ EX9800(維修車)997310とあるが、種車が分かりませんが、間違いなく「大陸」号用の客車でしょう。ドアは、半円形のガラスが入っていて原型を留めていますが、改造されて、台車も換えられて、定員9名、自重42t、全長24.5mとなっています。製造は、1933年(昭和8年)満鉄鉄道工場です。

▲ GW997310(公務車)とあるが、前身は展望1等寝台車「テンイネ2」です。1936年(昭和11年)に満鉄工場で3両(?)が製造され、初めは奉天~北京間の急行列車に使われましたが、後に釜山~北京間の急行「大陸」として使われていました。豪華なダブルベットとバスタブまでついた客車で、黒河で見たあじあ号の展望1等車「テンイ8」と比べると内容的には豪華だったかも・・・。現在、北京に2両(GW97347・GW97349)と合わせて3両が保存されています。この車両とよく似た特別車「トク2」が製造されていますが、詳しい資料がありません。鄭州世紀歓楽園に保存展示されているGW97351がそうではないかと言われています。

▲ YZ5-22436(硬座車)とあるが、前身は鋼製三等車「ハ5」と思われます。2010年に天津地方鉄道を訪問した紀行記に掲載した客車と類似しています。
客車は他にも、YW22硬座寝台車、YZ5硬座車、 CA23(891113)食堂車、RW24(551436)軟座寝台車、YW25G(661613)硬座寝台車、YW25K(000001)硬座寝台車、最新のYW25T-000002硬座寝台車が展示されていました。
【ディーゼル機関車】
▲ 東方紅1型は、中国初の量産型液体式ディーゼル機関車として1966~1972年までに107両が製造されました。軸配置B-B+B-B、全長16,550mm、1,820PS、重連運用を前提とした型運転台です。1998年に退役しています。

▲ 北京3型は、1975~1991年までに358両が製造された液体式ディーゼル機関車で、1部永久重連型もありました。軸配置B-B、全長15,045mm、2,670PS、最高速度120km/h。2000年に退役しています。

▲ 東方紅3型は、東方紅1型の後継機として、1976~1988年までに268両が製造された液体式ディーゼル機関車です。1,350PSを2機装備しており、牽引両数に応じて、片方のみを使用できる特徴を持っていました。軸配置B-B、全長11,855mm、2,700PS、後期型は3,000PS、最高速度120km/h。2000年に退役しています。
ディーゼル機関車は、この他に東方紅5型、ND5型、東風4B型(DF4B)、東風5型(DF5)、東風4C型(DF4C)、東風6型(DF6)、東風7型(DF7)、最新の和階3型(HXN3)も展示されいました。
【電気機関車】

▲ 電気機関車は、交流式の国産最初の韶山1型(SS1)が1両だけ展示されていました。ソ連と蜜月時代の1959年にソ連製のVL60型電気機関車をベースに製造しましたが上手くいかず、途中からソ連との対立関係に入りました。仕方なくフランスの技術を仰いで、1967年までに7台の試作車の製造を重ねました。ようやく、製造技術が確立して、1968年から量産体制に入り、1988年までに819両が製造されました。軸配置C+C、全長19,400mm、4,200kw、最高速度90km/hで、1961年に中国で初めて電化(交流25,000V、50ヘルツ)された、四川省と甘粛省を結ぶ山岳路線の宝成線宝鶏~鳳州間で使用されました。
宝成線のこの区間は、敗戦国となった日本の満鉄職員が戦後徴収されて、調査設計をして建設した路線でもありました。
▲ かつて満鉄で活躍した貨車群です。


▲ 信号設備の歴史も展示されていました。

▲ レールや橋梁も今昔が展示されていました。
▲ 最新のCRH3(ICE3)も惜しげもなく展示されています。これを見たドイツ人は一言です。「コピー!」、卑下した表現でした。
▲ 前回、撮るなと言われたパネルもじっくり見てみれば、抗日戦線を表現するものではありません。目くじら立てて撮影を拒むようなものではなく、理解に苦しむところです。
撮影途中に、どこからか現れた前回の案内人が、カメラ前で阻止する姿を表現しましたが、今回はドイツ人が多数一緒です。黙って無視すると、そちらの方へ行ってしまいました。ドイツ人は、多少の阻止にもめげず、撮影を大胆なアングルからでも堂々と撮り続けます。案内人の監視はそちらに向いていきました。
ドイツ人を案内する中国人男性は、日本語の通訳でもありました。ここを案内したことはあるのか。手続きは簡単なのかと聞きますと、以前に2名と3名の2組を案内したことがある。しかし、ここは入場許可を取るのは難しい。30人以上の団体でなければ受け付けていない。
博物館の場合は入場料をとると、政府からの給料はそこでストップする。入場料収入だけでは、給与が出ないし安定しない。そのために。ここの職員は、入場料収入を求めない。だから入場者もさせないし、制限もすると言いますが、中国を知っている私としては、それだけの原因とも思えません。2~3人を案内したと言うのも、団体ならOKと矛盾する返答です。もっと違った真実があると思いますので、この通訳の発言は信憑性を欠くものと、無視してください。

▲ 夕食は久しぶりの中国料理のフルコースでしたが、やはり欧州人にとって、箸の持ち方は難しそうです。ちょっと可哀想でしたので、スプーンを取ってきて渡してやりましたが、中国人の案内人は、そんな気を使ったりせずに自分たちで、ワイワイと会食中です。日本なら即、クビですね。
まあ、この国の人民に、気配りを求めること自体無理なのも分かってはいますが・・・。
最後の113系阪和色
4月に入って桜も咲き出したというのに、雑務に追われて、外出もままならない状態が続いています。ただ唯一は、先日行われた113系阪和色ラストランの撮影に、山科・乙訓の両老人から賜った18きっぷを使って行ったぐらい。そんな折、準特急さんからは、ぜひ発表せよとの拝命を受けました。背中を押されないと、なかなか行動へ移せない身だけに、ありがたい好機ととらえ報告することにします。
日根野電車区の113系は、永らく阪和線・紀勢本線に充当されていましたが、223系、近年は225系の増備で活躍の場が狭まり、昨年12月に定期運用からは離脱しています。他区への転属を機に、日本旅行主催のツアー専用貸切列車「ありがとう113系阪和色」が3月31日、4月1日の両日、天王寺~周参見間に運転されました。昭和47年の阪和線の新快速設定時に制定された阪和色と言われる、ブルーとアイボリーの塗色車両が記念のラストランを飾りました。
▲「ありがとう113系阪和色」は、2日間とも朝に天王寺を出て周参見へ行き、晩に天王寺に戻る1往復のスジで運転された。3月31日はドシャ降りの雨、4月1日も寝過ごして朝は行けず、夕方の戻りだけの撮影となった。できるだけ陽の高い時間帯に撮りたいので、117系の紀勢本線列車に乗って南下を続ける。駅間を歩く気力はなく、結局、乗った電車の終点、御坊まで来てしまった。駅員に聞くと、まもなく列車が来ると言う。選択肢もないまま、ホームの先端へ小走りに移動する。幸い、陽が山側から射して”バリ順”だ。わずかに咲いた桜をかすめるように、クハ111-5262を先頭にする阪和色が入線してきた。
▲今回の改正で、阪和線・紀勢本線に多くの225系が進出してきた。御坊でも225系の精悍なマスクが見られるとは時代も進化したものだ。ちょうど、左の先頭クハ225-5023は、今回の増備車のようで車内はピカピカ、車内の仕切りには、グッドデザインのプレートが掲げられていた。いっぽうの113系の停車時間は1分30秒、反対のホーム先端まで走り、発車をとらえた。ちょうど、紀州鉄道のキテツ-1も並び、3列車の顔が揃った。
▲阪和線は、長く電気機関車がいたこともあって、私としては珍しく定期的に訪れている路線だ。前記のように、阪和線に新快速が登場したのは昭和47年3月改正のこと、東海道・山陽本線の新快速は、この改正で153系”ブルーライナー”に代わった。同じブルーライナー塗色となった阪和線113系の新快速も衝撃的だった。なにせ、旧型国電ばかりの阪和線に、唯一の冷房車、セミクロスシート車は、実にまぶしい存在だった。当時、鳳のみ停車、天王寺~和歌山間を最短45分で結び、かつての阪和電鉄の超特急を思わせる俊足だった。
前部には、羽根形のヘッドマークも掲げられ国鉄時代の天鉄局の意気込みを感じたものだったが、京阪神間と違って、和歌山への直通客も少なく、後年停車駅を増やしたもののパッとせず、結局、昭和53年3月改正で、阪和線の新快速は姿を消し、快速に統合されている。
1987年の北条鉄道
西村雅幸氏「北条鉄道に行ってきました」を見て、須磨老人もレールバスにカンカンになっていた時期、まだモノクロフイルムで撮っていたのを思い出した。1987年4月18日だったから、四半世紀経過したことになる。

法華口に到達したフラワー1985-1+2
北条町駅
北条町駅 機回り線以外の側線が撤去されているが右側には土蔵様の長い倉庫が健在だった

のどかな北条町駅を発車

カーテンが風でなびくのは窓が開けられるからだが それすら無くなってしまった

粟生に到着 加古川線のディーゼルカーも今となっては懐かしい
その後北条町駅だけでなく、周辺全部が再開発で何から何まですっかり姿を変えてしまった。かつての駅と周辺は、播丹鉄道時代のままだったのは、三木鉄道三木駅と共通していた。法華口(勿論無人)は何とか面影を残すが。
富士重工業の2軸レールバス3両―フラワー1985-1~3での、1985年4月1日開業だった。三木鉄道はミキ180-1、2の2両だった。この年はユニバーシアード神戸大会開催年であり、総務担当だった小生は到底撮影になんぞ出られない。やっと暇になった11月、一人樽見鉄道、名古屋鉄道、鹿島臨海鉄道、三陸鉄道、下北交通、由利高原鉄道をめぐった。秋田で自宅に電話を入れたら、吉谷先輩が亡くなってその日が葬儀だという。間に合うはずもなく、居酒屋で冥福を祈り、銚子を追加したことであった。
ドイツ風的 中国蒸気機関車の撮影の旅 Part1 瀋陽鉄道博物館(沈阳鐡路陳列館) その1
2012年冬から春への中国鉄路一人旅 Part26ですが、今日からは一人旅ではなくO氏とドイツTANAGOの中国蒸気機関車の撮影ツアーに参加します。TANAGOは、現在世界中に残る蒸気機関車や歴史ある内燃車の撮影ツアーを企画されています。昨年、東アフリカに行きましたのも彼らのツアーでした。
今回は、元宝山・平庄・阜新・北台とまわりますが、北台では製鉄所内に3日間撮影する事ができます。
中国鉄路撮影に慣れている我々が、単独ではなく費用のかかるツアーに参加したのは、単独では行くことが不可能で特別なルートを通さねば許可が得られない、北台製鉄所撮影が含まれているのが、大きな理由です。勿論、日本のツアーにはありません。加えて、ドイツ人から見た中国鉄路撮影は一体どのような視野を持った内容なのか、好奇心がありました。
よってタイトルは、ドイツ風的 中国蒸気機関車 の旅として発表させていただきます。
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北条鉄道へ行ってきました
クルマで京都・大津に出向いた帰りに北条鉄道を訪ねてきました。JR加古川線粟生から北条町まで13.6Km、かつての国鉄北条線です。車庫は終点北条町にあります。車両はたった3両しかありません。北条町駅は予想に反して近代的な駅でした。
車庫の中に1両(フラワ2000-2)が休んでいました。外に留置されているピンクのDCは1999年富士重工製のフラワ2000-1です。運行は1列車が片道22分で行ったり帰ったりしています。途中に交換設備はありません。
粟生へ向けてクルマを走らせました。次の駅は播磨横田駅です。ホームの桜はまだつぼみでしたが 咲けばきれいだろうなと思います。フラワ2000-3の615レが来ました。
このフラワ2000-3は平成20年3月末で廃止された三木鉄道のミキ300-104が平成20年12月に北条鉄道に移ってきたものです。当初は三木鉄道時代のままの塗色でしたが今は塗り替えられています。満開の桜に映える色です。平成13年12月30日に三木駅で写していました。
次の駅は長(おさ)駅です。大正時代に建てられた木造駅舎です。元は交換可能駅でここにも立派な桜がありました。
線路は集落を結ぶように伸びていて、次は播磨下里駅です。ここもに交換設備があったようです。播州鉄道の王子駅として開業したそうです。
北条町から7.5Km、4番目の駅が法華口駅です。法華口とは何だか抹香臭い駅名ですが、この駅から西方に西国二十六番札所天台宗法華山一乗寺があります。列車の来る時間待ちを兼ねてお参りしてきました。国宝の三重の塔などを有する立派な古刹でした。丁度前日に台風まがいの強風が吹き荒れたため 境内の桜の古木があちこちで折れて片づけに追われていました。
法華口駅も交換できる駅だったようで、向かいのホームの桜が咲いていないのが残念でした。
ところでこの駅から北東方向に陸上自衛隊の青野ヶ原演習場があり、ヘリが離着陸していました。実はこの演習場とは別に法華口駅のすぐ北側には姫路海軍航空隊の鶉野飛行場と川西航空機姫路製作所があったのです。敗色濃い昭和20年5月に完成した飛行場は 本土決戦を覚悟して急造され、川西航空機で作られた特攻機「紫電」「紫電改」が配備されていたそうです。その飛行場の滑走路跡や地下防空壕(地下指令所)が今も残っているのです。終戦後 広大な土地は民間に払い下げられて この防空壕も民家の敷地内にありますが、中を見学できます。
今でこそ整備されて見学できますが、戦後66年間は水が溜まったまま放置されていて 中がどうなっているのかわからなかったそうです。2011年8月に地元の人たちが消防ポンプで水を汲み出し、入れるようになり 照明設備を付けたり、各種展示をして戦争遺跡として今日の姿になったようです。写真右手に写っているコンクリートが半地下構造の防空壕の屋根の部分です。ここからほど近いところに広々とした滑走路跡があり 一応自衛隊の演習場となっていますが出入り自由です。その一角に この飛行場から特攻機で飛び立った若き飛行兵を悼む慰霊碑もあり、 自衛隊旗が掲揚され 花も飾られていました。鉄道の引込線はなかったようです。
さて 北条鉄道に戻って次の駅は田原駅ですが、写真は省略します。次の網引(あびき)駅に向かいます。ここは駅舎や交換設備もない小駅ですが、ここにも悲劇の記録がありました。
踏切の向こうが事故現場です。
C12189は事故直後ではなく、昭和35年10月15日に加古川区で廃車されています。客車の形式、番号、両数などはわかりません。
地元ではよく知られた史実かも知れませんが、私は戦跡や列車転覆事故のことを知らなかったので、あえてご紹介しました。北条鉄道に行かれたときには 訪ねてみてください。
終着 粟生駅は神戸電鉄も乗り入れている近代的な駅なので今回はパスして 三原へと帰りました。古い木造駅舎、今頃では珍しくなった木の枕木、のどかな田園風景の中をゆっくりと走る単行DCなど 懐かしさ漂う北条鉄道でした。このミニ鉄道がいつまでも走り続けてくれることを念じつつ。
江若 比叡山を登る
昨年秋に浜大津で江若のジオラマ展示をしたとき、これをご覧頂いた坂本ケーブル(正式には比叡山鉄道)の常務さんから ジオラマを貸してほしいと依頼があり、お役に立つならどうぞとお返事していました。この度 具体的なイベントの日程が決まりました。すでにポスターやチラシが出来ていて 近々京阪全駅にも貼りだされるそうです。4月10日以降に新聞に出るかもしれません。
ポスターにもあるように 会期は4月25日から5月6日の間、場所は坂本ケーブルの延暦寺駅2階のホールです。メインは坂本ケーブルの建設当時の多くの貴重な写真の展示で、江若ジオラマは 同じ京阪グループの兄弟会社としての江若鉄道というつながりで 賑やかし的に三井寺下駅のジオラマと車両たちを展示します。運転はしません。晴れがましくもポスターに私の名前まで刷り込まれていて汗顔の至りです。建設当時の写真は同社が平成15年に開業75周年記念で発行された「坂本ケーブル75年のあゆみ」に掲載されているものですが、あまり広くは知られていないようで、初代の木造車、戦時中に軍用に改造された姿、戦後の鋼製車の搬入記録など見応えのあるものです。常務さんによるとこれらのネガは自社では長期保存の自信がないので 大津の歴史博物館でディジタル化して保存してもらうようにしたそうです。比叡山のふもとではなく 山頂側の駅での展示ですから わざわざケーブルに乗って見に行く人は少なく集客効果は疑問で、たまたま登山した観光客が通りすがりに、時間待ちで見る程度だと思っています。当会メンバーで 時間をもてあましているご仁は 春の一日、八瀬側から登って坂本側に降りるなりその逆コースで叡山越えをして 京阪グループに浄財を投じられてはいかがですか。ちなみに私は準備と撤収のときにお山に登る予定です。
連接車8
電車少年こと乙訓の老人様から私の撮っていない車両やカラー写真を送っていただいたので今回はそれを並べてみる。
仙台市交通局ダブルルーフ木造車改造の300形連接車。これは撮っておきたかった電車。超クラッシックスタイルと改造時の台車のアンバランスが魅力。 長町駅前での走行と中間台車↓
名古屋市交通局3003と中間台車 ↓

広島電鉄5000形グリーンムーバーとその台車。ヨーロッパスタイル5車体連接の超低床車。台車がどこにあるのかさっぱりわからないが、それを撮影されているので大変参考になる台車の写真。
南国鹿児島の連接車。鹿児島市交通局700形には大阪市交通局3001形を改造したものもあるという。 ↓
筑豊電鉄旧カラーの車両。 ↓
岡崎公園に保存中の名鉄400形とそ中間台車。谷汲線走行中の姿はは連接車2[17097]参照。 ↓
福井鉄道200形の乗車の様子と鉄道線走行の姿。 福井駅前の路面停留所から荷物を三つも抱えてどっこいしょと乗り込むご婦人。これも貴重な写真。まだ、バリアフリーなどの言葉もない時代に路面線、鉄道線の両刀使いの苦肉の策の電車。鉄道線は上鯖江~家久間で福井駅前乗車風景ともに1992年10月18日の撮影。
電車少年さん有難うございました。撮影記録やこんな話、あんな話、補足説明等お願いいたします。
2012年 冬から春への中国鉄路一人旅 Part25 大連市電(大连軌道交通)
第31日目 3月20日
大連駅前(路面電車)~ 华乐广场
今日で1ヶ月を経過しました。北の黒竜江省の黒河や鸡西から雲南省の昆明までの、南北5,000キロを横断往復して戻ってきました。マイナス7℃から30℃と温度差37℃を2度も体験しましたので、還暦を過ぎた身体には応えないわけがありません。これからウィグル自治区へ向かいますので、身体を慣らすための大連入りです。部屋でアップロードに努めて、あまり動かずお散歩程度にしようと思っておりましたが、鉄ちゃん魂はじっとしていられません。


▲ 昨日、大連駅前電停には市電の姿がありませんでした。それもそのはず、電停には何らかの原因で故障が発生したので昨日(19日)と今日(20日)は、兴工街~大連駅前の間は運休してバス代行にします。华乐广场方面へは、100m東に臨時の乗降所がありますのでご利用くださいと掲示してありました。
2012年冬から春への中国鉄路一人旅 Part24 一旦出国、再入国で大連へ
昨夜、ようやく中国鉄路への44日間の長い旅を終えて、無事帰国しました。途中で中国鉄路通で有名な小竹直人さんが、東北奥地で2000年に廃止された阿里河森林鉄道にC2型蒸気機関車を復活チャーターされるので参加しないかとの連絡がO氏より入りました。勤め人の方を対象にされているので5月の連休予定です。中々こんなチャンスはありませんので、即決で参加申込をしました。
問題は往復の航空券代です。結構しますので、このままどこか田舎の安いホテルでゆっくりと休んだ方が安くつきます。家内にもしばらく中国にいるかもと了解を取りましたが、現在ノービザ(15日間)で滞在中です。30日ビザなら公安に延長申請できるそうですが、ノービザでは申請不可と分かりました。また出国しなければなりません。ベトナム、ロシア、韓国か北朝鮮のどちらかにしようかと迷いましたが、持病持ちですので日本で車体検査にも行かなければなりません。不本意ですが選択肢が消えました。
今回、宿泊したホテルでは、香港を除いては全て無料でインターネットが使用できましたが、接続安定性が確保できなかったり、疲れて就寝する方を選んでしまったり、夜行列車も多かったので、即日の投稿ができませんでした。申し訳ございません。随分と遅れていますが、紀行記を続けさせていただきます。
第29日目 3月18日
① 淘金12:00→12:25广州東駅13:52(T809次)→15:57紅磡(九龍)
② 紅磡16:20(MTR)→16:36油麻地

▲ 鄭州鉄道日記さんとは一緒に广州の5つ星ホテルに宿泊しました。60㎡以上はある広い部屋で、バスルームだけでも6畳以上はあります。久しぶりにゆったりとしました。
彼は、若いですが、鄭州にある大学の日本語先生です。 明日は授業があるので帰られます。私も30日ビザの失効日まであと1日です。ノービザで行けるベトナムへ列車に乗って、出国と入国という選択肢もあったのですが、どうも風邪が完治していなくて、くしゃみが止まりません。微熱もありますので、慣れている香港にしました。
連接車(ミラノにて)
準特急様の連接車の連載、さすが見事な写真を毎回楽しませていただきました。「個人的には車両と車両の間に台車が丸見えの古いタイプが好きです」とのコメントで思い出したのがイタリアのミラノの路面電車でした。2009年6月の撮影です。ツアーの間のわずかな時間で写した写真ですがご覧ください。
2車体連接車です。こちらは扉の無い側面になります。
先ほどの写真のほぼ同じ車両の扉のある側面です。ドゥオモの屋上展望台からの写真です。
色違いの2車体連接車です。
これはみごとな3車体連接車です。進行方向は右です。
左の奥に新型車が見えます。
ミラノ市内には連接車や新型車のほかに「ベントット」とよばれる1928年から製造された古典的な電車が多く走っています。
ミラノの街並みを行く「ベントット」
右側通行ですのでこちら側に扉がありません。ミラノのスカラ座の前にて。
扉のある側面です。こちらの色はリバイバルカラーだそうです。ミラノ中央駅近くにて
標準色です。一番上の写真と同じ場所です。緑がきれいでした。
以上 イタリアのミラノの連接車と古風な路面電車の紹介でした。
長老様、出番です!高松琴平62号
2012年 冬から春への中国鉄路一人旅 Part23 簡単便利に購入できる中国国内線航空券と鉄道切符
第27日目 3月16日
① 蜜蜂岩7:57(芭石鉄道)→8:11躍進(三井)8:27 (Bus)→9:06犍為
② 犍為バスターミナル 9:30(高速バス)→11:40石羊バスターミナル
③ 石羊 12:15(Bus28路)→12:55成都市内(徒歩)→13:40ホテル
▲ 朝1番の列車で成都に向かいました。まずは終点1つ手前の躍進駅で下車して、始発の犍為行きバスに乗ります。石渓駅の長い階段を降りる重労働は、還暦を過ぎた者には辛いものがあります。 犍為まで坐っていけるのも魅力でした。小学生も降りました。ここからは来た時と逆コースです。
犍為から成都石羊間の高速バス運賃ですが、75元と往路より8元高くなっていました。バスの大きさも一緒なのにどうしてバラつきがあるのでしょうか?
石羊バスターミナルからのバス(28路)も同様に辛かったです。乗車前に教えてもらったバス停で降りましたが、乗り継ぐ空車Taxiが全く通りません。ホテルまで約10分と聞き歩きましたが、実際は徒歩20分以上を要しました。
高速道路が出来て飛躍的に早く到達できるようになった芭石鉄道ですが、それでも成都市内からは約5時間と、辺境には変わりありません。
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全鋼車・近鉄5201系
2012年 冬から春への中国鉄路一人旅 Part22 芭石鉄道 その3
第26日目 3月15日
① 蜜蜂岩6:35(芭石鉄道)→6:55菜子坥
② 菜子坥站 (徒歩)→18:00蜜蜂岩站
▲ 今回は、撮影地を蒸気機関車が正向きで走行する区間に絞ろうと決めていました。今日は一番列車で菜子坥下車して、朝の貨物を狙いました。
▲ 7:19、朝の下り貨物です。今日はドレインを目一杯吹き出してくれました。
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2012年 冬から春への中国鉄路一人旅 Part21 芭石鉄道 その2
第25日目 3月14日
① 蜜蜂岩6:35(芭石鉄道)→7:10芭沟
② 芭沟站 8:30(徒歩)→16:00蜜蜂岩站
6:35 今日は朝1番の列車で芭沟に行ってみることにしました。着いた芭沟駅は駅舎の工事中です。観光路線として着々と新しい施設が建設されています。
芭沟駅では、昨日菜子坥でお会いした中国人鉄ちゃんがいました。芭沟の市場で朝食を共にしました。お名前は彭さん、仕事はコンピュータプログラマーで、休みを7日間取って北京からやってきたと、若くて熱心な鉄ちゃんです。
英語が堪能でしたので、汽車を待っている間、中国の蒸気機関車についての話をしました。最近撮った写真を見せてくれましたが、その中にフラルジの発電所専用線の写真がありました。私が今回の旅で最初に訪れたチチハル近郊の町です。しっかりと爆炎を上げて走っています。私が行った時はDL化されていたので、いつ撮ったのかと聞いてみましたら、昨年12月中旬と言います。わずか2ケ月の差で撮り逃したようです。今後、情報交換をしようと約束しました。
彼は今日のお昼の列車で帰るというので、分れて 菜子坥を目指して歩き始めました。まずは定番の沼が見える撮影地です。
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2012年 冬から春への中国鉄路一人旅 Part20 芭石鉄道 その1
第24日目 3月13日
① 犍為5:20(Taxi)→5:38芭石鉄道石渓駅
② 石渓6:00(芭石鉄道)→6:32蜜蜂岩
夜明け前の5時20分に予約しておいたTaxiに乗車して、芭石鉄道の石渓駅に向かいました。電話連絡しておいた蜜蜂岩の民宿に今日から3連泊して、撮影に励みます。
6:32、明るくなり始めたホームでは、民宿のご主人陳さんが待ってくれていました。荷物を運んでくれますので助かります。 荷物を部屋に入れて、朝食を食べたら早速行動開始です。
蜜蜂岩駅構内には、昨年まで機関区に置いてあった古いDLが移動されて展示されていました。
▲ 7:35、1番列車が山に上り、降りてきた折り返し列車は、蜜蜂岩駅から下に住む小学生の通学列車でもあります。 元気に乗って行きました。駅には昨年にはなかった駅名板が建っていました。毎年、生き残りをかけて観光鉄道へのグレードアップも進められています。
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2012年 冬から春への中国鉄路一人旅 Part19 重慶から芭石鉄道へ
第23日目 3月12日
① 重慶北 8:00(D5101次)→9:55成都東
② 成都東駅10:22(Bus91路)→11:25石羊バスターミナル
③ 石羊バスターミナル12:00(高速Bus)→14:15犍為南門バスターミナル
今日は、毎年恒例となった菜の花咲く芭石鉄道へと向かいます。朝1番の高速列車で新しくできた成都東駅まで参りますが、いつもの成都駅と違って、初めての下車駅です。ここからどうやって犍為行きのバスが出る成都市内の石羊バスターミナルまで行くか課題でした。
▲ 重慶駅に隣接した食堂で朝食、平打ち麺の朝食。毎日のように食しましたが、薄味で辛くなく安くて一人旅にはもってこいです。
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鉄路の北前船と六文銭の里を走る電車 その3 長野電鉄ぶらぶら(午後の部)
湯田中駅前の「楓の湯」でひと休みしてから活動開始です。まず旧湯田中駅の見ることにしました。これは有形登録文化財になっています。訪れたときは雛祭りの季節なので段飾りの雛人形が飾っていました。

























































