伊予鉄モハニ200

伊予鉄、土佐電、琴電、琴参、四国にもたくさんの私鉄があるのですね!この鉄道は松山市内で坊ちゃん列車を走らせている鉄道ですね。

連接車9

今回はヨーロッパの路面タイプではない連接車とする。連接車については鉄道ピクトリアル789 2007年5月号にその特集が組まれているが、巻頭の説明では「連接車は車両同士の連結部分に台車を配置し、隣接する2つの車両を1つの台車で賄っている車両である」と書かれている。ところが、その特集記事の中で専門家は上記定義に当てはまらないものと断って最近普及しているLRVを広義の連接車として説明している。広島電鉄5000形のようなLRVはヨーロッパ各都市では以前から多く見られるが、このような5車体3台車の車両では台車のない車両は隣の車両が吊っている様である。この連接車特集号では日本のLRVの写真がどんどん紹介されているし、旧東ドイツでは2車体2台車もある。連接車の定義、範囲はよくわからなくなった。ということで連接車最終回は標準型で有名な車両を選んでみた。

最初はイタリアの元TEE「セッテベロ」ETR300で小田急NSE等に影響を与えたといわれる車両。1952年生というから恐れ入るが実に思い切ったデザインの車両である。2車体3台車の間に3車体4台車の中間車を挟む7両編成。2000年5月5日ミラノ~ボローニャ間にあるFidenzaでの撮影。

 

これも有名なフランスのTGV。8車体9台車の中間車に両端はボギー式で10両で1編成。2005年8月7日南仏Antheorの高級別荘地から撮影。パリリヨンとニース方向を結ぶ上下列車。↓        

     

 

1997年8月17日ベルギーのローゼンタール~アントワープ間のKijkuit付近で撮影のタリス。アムステルダム発ブラッセル行きで両端動力車中間8車体9台車はTGVと基本的に同じ考え。↓

          

ユーロスターも連接台車を採用しているが、動力車と客車間、編成中央の客車間は非連接で4分割可は海底トンネル内での異常時対応。1997年8月20日ベルギーのフランス国境に近いMonsで撮影したブラッセル発ロンドンウォータールー行き。↓

 

最後はスペインのタルゴ。2000年5月7日スイスチューリッヒ郊外のMurgenthal~Rothrist間を行くRE/44に牽引されるバルセロナ発チューリッヒ行きEN273列車。客車間の台車が1軸であるのが特徴で標準型の変わり種。↓

         以上で連接車9回の連載を終わる。

 

レイルNo82「武庫川をめぐる鉄道」について

兵庫ふるさと通信員さんより表題について紹介をいただきました。早速コメントを書いたのですがどういう訳か送信ができない状態なので、新たに新規投稿の形でコメントさせていただくことをお許し下さい。

 

兵庫ふるさと通信員様

お名前は始めて拝見させていただきますが、有難うございます。拙文、拙写で恐縮しております。先輩であるtsurukame様には応援出演をしていただき、内容が濃くなりました。また、893-2様には急遽現在の写真を撮るように協力依頼をしたのですが、撮影途中でお役所に多大な寄付もされたと伺い、これまた、恐縮しております。

 

乙訓の老人様

励ましの言葉かお小言かよくわからないところがありますが、いつも早いコメント有難うございます。私は本を書く知識、能力、体力、気力は全くありません。鉄ピク誌に関しては毎号次の特集のテーマが与えられますので、どうせ何時かは撮る写真と思って出かけます。編集部がどういう写真を欲しているかは一応頭に入れおきます。データ以外は専門の方が説明を入れてくれるので気楽と言えば気楽です。私の強みは関西育ちで関東在住者、歳をとっていることです。逆に専門分野がなく、お迎えが近いとも言えますが、歳をとっている分、東西の新旧写真がかなり手元にあるとも言えます。古い写真はどちらかというと掲載率が高い様ですが、、最近の写真、特にJR系は若い人の方がカメラ知識もあり、うまいので殆ど落選します。若い人と競争するのも面白いですが、全部落選するとがっかりです。古い写真、特にカラーは貴重であるとのことですが、老人様やDRFC-OBの人間国宝級の方々のような貴重なものは皆無です。しかし、最近は私自身紛れもなく老人だと思っております。現在、連接車の最終回を準備しておりますのでまた、宜しくお願い致します。

準特急さんの企画、発刊さる!

レイル(THE rail) No.82 株式会社エリエイ/プレスアイゼンバーン発行 

DRFC OB会員、準特急さんの企画による『武庫川をめぐる鉄道風景』が421日発刊されました。準特急さんが、少年時代を過ごした思い出の武庫川には、戦前・戦後を通じてたくさんの鉄道が関係します。 

写真と記事は、阪神電車武庫川に始まり、阪神国道線、東海道線、阪急神戸線、阪急今津線、福知山線等々。t殊に福知山線は旧線・新線の両面から、そして旧線跡探報記事もあります。誌の一部を写真で紹介します。

誌は懐かしい場面の数々を、カラー・モノクロで表現した大判の写真集です。地元兵庫県民には特に懐かしく、思い出の場面にたくさん出会いました。DRFC OB会員のtsurukame 氏も写真提供に協力されています。
デジタル青信号の読者もこぞって購読されますことをお勧めいたします。 

ドイツ風的 中国蒸気機関車の撮影の旅 Part12  瀋陽から天津へ、そして帰国

第11日目(訪中43日目)   4月1日

中街(地鉄)→瀋陽駅8:30(D164次)→14:14天津西 699キロ 5時間34分

 

長かった旅も最終へと入りました。お連れいただいたO氏にお礼を申し上げて、7時前にはホテルを出ました。着いた瀋陽駅も大連~哈尔滨間の新幹線建設工事で、瀋陽北駅と同様の大改造中です。駅横のマクドで朝食後、乗り込みました。

▲ 乗車した車両は、何とオール6人掛けのコンパーメント車でした。しかも、シートピッチが狭くて、後ろにリクライニングもできずで窮屈です。これなら、1+2列にしてくれたら、どんなに快適だったでしょうか。
この日は通路側席でしたので、いくらかはマシでしたが、途中から真ん中席には赤ん坊を連れた2組が乗車してきましたので、ウトウトもならずです。幸いにして電気は使えましたので、乗車中はひたすらHP用の画像処理に専念しました。


▲ 殆どの乗客は1つ手前の天津駅で下車しましたが、私は北京~上海間新幹線が開業して大変身を遂げた天津西駅にはまだ行っていません。
まあ、昔の駅を知っている者にとっては、びっくりです。 11本もの相対式と2面の片式ホームの数は以前とは比べようがないくらいに多く、コンコースは広大です。ホームから地下鉄まで15分もかかりました。

この日の夕食は、馴染みの日本料理屋へ行き、久しぶりのカレーライスを頼みました。

第12日目(訪中44日目)   4月2日

① ホテル 11:30(Taxi)→天津空港14:00(JL840)→17:45 名古屋空港
② 中部国際空港 18:36(ミュースカイ)→19:05名鉄名古屋
③ 名古屋 19:25(のぞみ247号)→20:02 京都 20:08→20:19 長岡京

 

今日は、生涯で最も長い旅の最終日です。2月19日に旅立ち、44日間何とか無事に過ごせました。一人旅を続けたわけではなく、途中からはO氏、そしてドイツ人一行と合流しての変化にとんだ旅でしたので、一人旅の楽しさ、グループでの旅の楽しさの両方を味合えました。撮った写真の枚数も生涯最高です。

どの1日が最高だったか、どの1枚が最高だったと問われても、毎日が思い出に残り、1コマ1コマのシャッターを押す度に生きている幸せを感じていました。学生時代に戻ったような感覚を持つ事が多い旅でした。また、こんな旅をしたいと思っております。

これができるのも元気な身体があってこそです。私は、丈夫な身体ではなく、いつポックリ逝ってもおかしくない持病を持っていますが、じっとしておられない性質ですので、ついつい出かけてしまいます。

▲ ホテルでゆっくりして、正午前に天津空港に向かいました。出張ペースでの駐在でしたが、その頃と比べようがないほどの渋滞です。ちょっとヒヤリとしましたが、中心部を抜けるとスムーズに進み空港に到着しました。
搭乗前のラウンジサービスがありますが、北京等と比べるとしょぼいものです。
機内食も近距離で、初めて天津から日本への国際線が飛んだ時は、おにぎり1個と信じられない機内食に搭乗客のみならずCAさんも唖然としましたが、今日はマシです。昔のように国際線はステーキがどかんと出ることはありませんが、これなら我慢内です。もっとも私としては、アルコールがあれば問題ありませんが・・・。

久しぶりのセントレアに着陸、名鉄、新幹線の流れで無事帰宅しました。自宅では、まだ1歳の孫が誰が来たのかと、不思議そうな顔で迎えてくれました。
2012年冬から春への中国鉄路一人旅 ドイツ風的 中国蒸気機関車の撮影の旅総集編へ続く

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土佐電鉄クハ2000、モハ1000

1961年3月18日撮影。半世紀前の写真です。

1960年同志社大学に入学、鉄道同好会に入部した翌年の3月、岡山の下津井電鉄を経由、その後一週間ほど四国を巡った時の一コマです。鉄道写真にまだ慣れていなくて、計画性もなく、ただ撮影したという一枚です。撮影記録もありません。私は安芸近くと思っていましたが、乙訓の老人の解説で、三平先生の写真と同じく手結近くだそうですね。

架線柱は両持ちですが、海側が鉄製トラス柱、山側は木製です。コンクリート防波堤に柱の基礎部分が埋め込まれています。線路と山の間の道路を利用してここまで来たのでしょう。線路を超え、海岸に突き出たコンクリート製の別の防波堤上で撮影しています。クハ2003を、そして振り返って撮影したのが2枚目のモハ1008です。2両編成です。

2枚目の写真中央には木製の架線柱が写っていました。幸い車両には掛かっていませんでしたので、あまり良いことではありませんが画像から消去削除しました。

出発に際し、若かりし頃の乙訓の老人よりNEOPAN フィルムの提供を受け、琴電、琴参、伊予鉄、土佐電のこれこれを撮影せよとの依頼を受けて出かけたものです。帰宅後は現像までして頂き、お蔭でこのフィルムは何の変形もなく現在に至っています。そして図らずも今回、三平先生の記事から皆さんのお目にかかることになりました。

ドイツ風的 中国蒸気機関車の撮影の旅 Part11  錦州八角台発電所の建設型

とうとう紀行記を完了投稿することなく、また次の旅に出ています。只今、大地に中心地「鄭州」からの書き込みです。2週間の予定は立てていますが、その先はいつものように未定で切符が買えた方向に向おうかと、気ままな乗り鉄旅を楽しむ予定です。

第10日目(訪中42日目) 3月31日

① ホテル 8:10(Taxi)→9:07 錦州八角台(Bus)→錦州市内’Taxi)→ホテル
②   
ホテル(Taxi)→錦州駅(Bus)→錦州南站(D9次)→瀋陽(地鉄)→中街

今日は、帰りがけの駄賃として、O氏と一緒に锦州から約40キロ先の八角台にある発電所に走る建設型の撮影に参ります。錦州市内のホテルに昨夜チェックインしましたが、約40キロの発電所までの所要時間が分りません。八角台まで行くには駅前ターミナルからの路線バスがありそうですが、駅まで行って乗り換えてとなると結構時間がかかりそうです。今日夕刻の列車で瀋陽に戻りますので、早めについておかないと撮影にさしつかえがでます。

昨日の感じではTaxiで行っても50元(約680円)前後だろうと思いましたので、ホテル前からTaxiで向かいました。広い道路を走り出しましたが、郊外に出ると左に回って迂回します。道路が混んでいるので、抜け道を行くのかと思っておりましたら、コの字型に回り道をしたのが、後でGPS通過記録で分りました。昨夜といい、この地のTaxiの運転手は、メーターは倒すが、よそ者と分ればわざと迂回をします。何とも、せこい人民ですね。おまけに、復路に乗ったトロトロ走る路線バスと比べて、所要時間は殆ど変わらずでした。


9:07、迂回を重ねて、国道と交差する踏切に到着しました。ヤードの向こうに白煙が見えました。左手前にも蒸気機関車が止まっています。
さあ踏切からヤードに入って撮影しようとしましたら、門番から大声で静止させられました。見つかったらおしまいです。仕方なく踏切を国鉄八角台方向へと通過する建設型6211号機を見送りました。
そして門番が発電所から出る車のチェックをしている間に、踏切番の部屋に行って、運行状況を聞きました。
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土佐電鉄クハニ2000

お久しぶりの投稿です。

4月8日早朝、今までに経験の無い腹部の激痛に見舞われ近くの病院に駆け込みました。当直医しかいないので、鎮痛剤を点滴されて昼過ぎには恢復しました。経過観察入院を勧められましたが断り退院して家へ帰りましたが、今度は胸が痛くなり出し翌朝再び病院へ向かいました。診察の結果急性の胆嚢炎と診察され、救急車での搬送といわれました。緊急手術を受けて十日間の入院となってしまったのです。甲斐あって昨日退院してきました。その間、9日は休刊日でこの記事はありませんでしたが16日の記事を今日アップすることになり、申し訳なく思っております。

さて、今回は見た瞬間に西村さんの江若と見まごうばかりのそっくりさん、解説を読むと京阪からの車両とは別物とのことですがなにやら曰くのありそうな面構えですね。担当は藤本さんでしょうか、長老様でしょうか、それとも湯口先輩でしょうか、よろしくお願い致します。

ドイツ風的 中国蒸気機関車の撮影の旅 Part10  北台製鉄所 その3

第9日目(訪中41日目) 3月30日

① ホテル→北台製鉄所→食堂→ホテル→15:10瀋陽空港→16:33地鉄奥体中心駅
② 奥体中心(地鉄)→17:13瀋陽北駅18:38(D8次)→19:58錦州南(Taxi)→ホテル

今日は、TANAGOの中国SL撮影ツアーの現地最終日です。午前中撮って昼食後には、瀋陽空港に向かいます。最終日とあって皆さん元気よく出発しました。


▲ 3日間の定番となった朝の通勤列車の発着シーンです。撮り飽きていますので、早くに入場したいのですが、発車した後で開門です。この編成は、鞍山~ 田师府等の区間列車にも使用されています。ドイツ人も撮影はもういいのか、カメラは向けず朝飯屋台を覗いていました。


▲ 朝から活発にスラグ捨て作業が始まっています。
今日は、撮り逃がしたシーンがないかと、工場内をうろつきましたが、ここでの最高は、夕刻以降の暗くなってからです。今年の冬まで、蒸気機関車の運用が続くことを願って、今まで見たことのなかった衝撃シーンを撮らせてくれた北台製鉄所を去りました。再見!

今日会えた上遊型は、448、1075、1191、1560、1561、1648号機と昨日と同じ蒸気機関車の6両でした。


▲ 13:30、初めてお会いして9日間、人種、国籍は違っても蒸気機関車を愛する気持ちは一緒の仲間たちとの最後の食事です。昨日と同じ食堂での麺でしたが、箸を使えなった人も、ホーク感覚でで使っていました。左上は、待ってる間に食べられる漬物類です。今日は昨日食べた美味しい白菜はなかったですが、結構つまみましや。


▲ 15:10、瀋陽空港に到着しました。彼らは、一旦国内線で上海に向かい、出国手続きをしてから、改めて国際線でドイツに帰国します。スイスから来たという方は、何やらおかしな物を持っているので見せてもらったら、北台のヘルメットです。こんな者を持って帰るとは参りましたね。彼の職業はお医者さんです。サイクリングも趣味の1つで、アルプスを走り回っているそうです。

▲ 16:33、彼らを見送った後、そのままバスに乗って、地下鉄駅まで送ってもらいました。通訳の史超さんも両親と住む長春へ帰るようで、一緒でした。2号線の奥体中心駅から乗車しましたが、面白いことに乗車時にチェックされるレントゲン機がありません。1号線にはありますが、乗り換えられる2号線にないとは、検査はええ加減ですね


▲ 17:13、着いた瀋陽北駅は、大連~ハルピン間の新幹線建設に向けて大改造中でした。改札が始まりましても、左右に曲がったり、階段を上下したりで、ホームに着くまで10分以上かかります。乗車したのは、CRH5-31Aでしたが、1等車は真ん中でなく両端でしたので、たどり着くのは大変でした。


▲ 1時間20分で錦州南駅に着きましたが、周りに建物はありません。結構たくさん降りましたので、ついていくとTaxi乗り場に着きました。ホテル名を書いたメモを渡して、連れて行ってもらいましたが、後でO氏がお持ちにだったGPSで見ると、かなり遠回りをしていました。メーターは倒しましたが、セコイ錦州のTaxiです。
ホテルチェックイン後に近くの食堂で羊肉の しゃぶしゃぶを堪能しました。こんな美味しいものがあるのに毎日同じような夕食でした。どうしてかなと思いましたが、O氏は、欧米人はみんなで鍋をつつくといった食習慣がないので、あえて出なかったのではと言われます。チーズフォンデは別として、確かにそうですね。
この食堂、私達が食べ始めると、日本の音楽を流しました。店長らしき人が来て、横に座って何やらコミュニケーションを取りたいようですが、日本語も中国語もさっぱり分かりません。
でも、肉を追加サービスで出してくれたり、親日的なのは分かりました。
  Part11  へ続く

今でも気になる江若鉄道(Ⅵ)

前回まで(Ⅰ)気動車、(Ⅱ)駅、(Ⅲ)客車、(Ⅳ)貨物列車と貨車、(Ⅴ)国鉄バス若江線と話を進めてきたが、今回は(Ⅰ)の気動車で紹介の漏れた車両について話を進めたい。気動車については多くの趣味誌で紹介されており、今更という気がしないでもないが、おさらいと記憶の呼び戻しの一助となれば幸いである。

【昭和44年4月1日時点での在籍車両】

〔非総括制御車〕キニ5両、キハ11両、ハフ4両
キニ4、キニ5、キニ9、キニ11、キハ12、キニ13、キハ14~キハ17、キハ20~キハ23、キハ51、キハ52
ハフ2、ハフ3、ハフ7、ハフ8

〔総括制御車〕キハ5両、ハ1両
キハ5120(元キハ30)、キハ5121(元キハ18)、キハ5122(元キハ19)、キハ5123(元キニ6)、キハ5124(元キハ24)、ハ5010(元キニ10→ハニフ10)

この内、非総括制御車のキハ17、20~23と総括制御車の解説を(1)で行ったので、今回はそれ以外の車両について解説する。

キニ4、キニ5
昭和6年日本車輌製で全長17.4mの堂々たる大型車で、エンジンはウォーケシャ6RDを搭載した。昭和16年木炭ガス発生装置を取付け代燃車化したが、キニ4は昭和26年1月、キニ5は25年3月に日野DA54を搭載してディーゼル化、昭和30年11月にDMH17に取り替えた。正面は当初4枚窓であったが、昭和31年10月運転台を左側から中央に移設した際3枚窓に改造された。(1)で解説したキニ6→キハ5123は当初から正面3枚窓であった。


キニ4/上(
41-2-19)浜大津 下(44-10-10)三井寺下


 キニ5/上
(43-9-28)浜大津 下(44-10-5)三井寺下

キニ9、キニ11、キニ12→キハ12、キニ13
キニ9は昭和10年、キニ11~キニ13は昭和12年日本車輌製で、流線形の堂々たるスタイルは、戦前、戦後を通じて江若を代表する車両であった。
エンジンは国産となり、キニ9は川崎KW127、キニ11~13はGMF13を搭載した。キニ9に昭和18年3月、梁瀬式隔膜型圧縮ガス装置を取付けたが、戦後間もなく取り外され昭和27年8月DMH17を搭載した。
キニ11と13は、昭和23年7月日野DA54に取替えてディーゼル化、昭和27年8月DMH17に取替えた。
キニ12は昭和17年3月木炭ガス発生装置を取付け代燃化、昭和25年日野DA54に取替えてディーゼル化、昭和27年1月DMH17に取替えた。昭和35年3月大鉄車両で車体の大改造が実施され、写真のようなスタイルになった。
キハ12とキニ13は岡山臨港鉄道で再起し、同社のキハ5001、5002となった。


 キニ9/上
(44-10-4) 下(44-10-24) 三井寺下


キニ11/上
(39-12-15) こだま色の時 中(44-10-4) 下(44-10-5) 三井寺下


キハ12/上
(41-2-19) 浜大津 下(44-10-10) 三井寺下

キニ13/
(43-9-28) 三井寺下

岡山臨港鉄道キハ5002/
(49-11-23)  南岡山

キハ14~キハ17
キハ14~16は昭和25年、キハ17は昭和28年に国鉄からキハ41000形を譲り受けた。国鉄時代の車号は次の通りである。
キハ41014/8年3月日車(24年9月30日付廃車)→キハ14
キハ41023/8年3月川崎(24年9月30日付廃車)→キハ15
キハ41044/8年12月日車(24年9月30日付廃車)→キハ16
ハ41105/10年3月川崎(23年3月5日付廃車)→キハ17

譲受け当初、機関は日野DA55を装備していたが、キハ16は昭和33年3月にDA58に、キハ14、15、17は昭和35年5月DA59Aに換装した。車内は国鉄時代から変化はなかったが運転士席横の通称展望座席は撤去され、全室運転台になっていた。

ハフを引いてDTで走ることもあったが、DT編成の増結に使用されることが多かった。キハ16のみ御坊臨港鉄道(→紀州鉄道)で再起し、同一車号で使用された。また、キハ17が車内をお座敷に改造したことは(Ⅰ)に記述した通りである。

 キハ14/
(44-10-4) 三井寺下

 キハ15/
(44-10-4) 三井寺下

 キハ16/
(44-10-10) 三井寺下

紀州鉄道キハ16/
(52-1-16) 紀伊御坊

キハ51、52
昭和39年3月末で営業を廃止した熊延鉄道のヂハ201、202を譲り受け、順にキハ51、52となった。昭和28年3月帝国車輌製で、湘南形の正面はクハ86、クハ76の木製木枠時代を彷彿させるもので、2枚ずつ纏められた客室窓と相まって、いかにも戦後製らしい好ましいスタイルであった。機関はDMH17で、TC-2形液体変速機を装備していたが総括制御は不可能であった。車齢が若いので、廃止後次の職場での活躍を期待したが、買い手が現れず、惜しくも解体されてしまった。


 キハ51/上
(44-10-10)  下(44-11-1)三井寺下

 キハ52/上
(44-10-12) 近江今津 下(44-11-1)三井寺下

ハフ2(ハユフ15←キハ15)
昭和2年雨宮製作所製の元成田鉄道ガ101が前身。新製時車体長約10mありながら2軸車であった。昭和7年2月汽車会社でホイルベース過大の理由で片ボギーに改造された。戦時中の昭和19年1月11日成田~八日市場間の全線が運転休止(正式廃止は21年10月9日)となり、ガ101を譲り受け、キハ15となった。昭和25年エンジンを降ろし、近江今津寄りに郵便室を設置してハユフ15に改番、昭和28年窓の2段化と両ボギー化が行われ、昭和34年郵便室の客室化を行いハフ2となった。
内燃動車発達史上巻のP93に成田鉄道時代と片ボギー時代のハユフ15の写真が、下巻P82に両ボギー、2段窓化されたハユフ15の写真が掲載されているので、お持ちの方はご覧いただきたい。


 上
(39-12-29) 浜大津 こだま色 下(44-10-14) 北小松

ハフ3(←キニ3)
昭和6年1月、安曇~近江今津間開業に備え日本車輌で作られた。機関はブダ社のBA-6を搭載していた。昭和25年機関を降ろしてハフ3となった。


 上
(41-2-16) 浜大津 下(44-10-14) 三井寺下

ハフ7、8(←キハ7、8)
昭和7年に日本車輌で作られたディーゼル動車でダイムラーベンツ社製のメルセデスベンツOM5Sエンジンを搭載した。当時の技術では十分使いこなせず昭和16年はやくもエンジンを降ろしてトレーラー化されてしまった。


 ハフ7/上
(39-12-29) 浜大津 こだま色 下(44-10-14) 三井寺下


 ハフ8/上
(39-8-2) 浜大津 旧塗装 下(44-10-3) 浜大津

ドイツ風的 中国蒸気機関車の撮影の旅 Part9  北台製鉄所 その2

第8日目(訪中40日目) 3月29日

今日もホテルで朝食後に出発しましたが、北台製鉄所正門前で数人降ろしてホテルへ戻ってしまいました。説明もないのでどうしてかなと思っていましたら、何とドイツ人2名をホテルに置いたまま、乗せずに出発していました。二人はホテル前に出たら、バスが出発して行ったので、大声を出したが行ってしまったと嘆いていました。通訳さん、途中で気がついたので引き返したそうです。10数名なのに、出発前に分からなかったのですかね。
朝から、 こんなエピソードで、笑いがあふれた車内でした。 
▲ 昨日、工場内は歩き回り慣れましたので、入場すると皆さん思い思いの行動に出ました。スラグ捨ての取鍋車は何を動力に鍋を回しているのかとO氏に質問しましたら、我々の見ている反対側に電源コードを入れるコンセント口があって、作業員がその都度に走り回り、接続してモーターを回していると返答をいただきました。


▲ 8:40、推進運転で、高炉のスラグ流し口に取鍋車を移動させての作業が始まっていました。
▲ ヤードでも、石炭積込み、給水、そして作業開始と上遊型が動き回っています

▲ 9:34、スラグ捨て場に着きましたが、今日は昨日撮った場所より手前で作業中です。おまけに水を撒きながらの作業で水蒸気がたち込めていて、蒸気機関車しか見えません。

▲ 12:05、昨日と違って曇天で天候も悪く、中々思ったカットは撮れずじまいでした。皆さんも同じだったようです。また、検査院の偉いさんが来ているようで、昨日撮っていた場所に入るのを拒まれました。これも要因だったかもしれませんが、いつもより早めの昼食です。刀削麺ではありませんが手打ちの平麺です。スープも美味しく、何といっても麺ができる前に食べた漬物が絶品でした。写真を撮ろうと思った時は、O氏と私でお皿一杯に盛られた漬物を全部食べてしまっていました。


▲ 昼食後は、一旦ホテルに全員戻りました。予定どおりの行動だったのか、工場側からの要請だったのかは不明ですが、夕方にバスに集合となりました。
そうなれば、帰途の瀋陽から天津への切符を買える時間ができました。ホテル横の工場正門で客待ちをしていた三輪Taxiに乗って、国鉄北台駅へと向かいました。

13:27北台駅に到着。駅前広場にTaxiがいないので、待つように頼むとOKです。
窓口には、切符発売暫定停止と表示してありましたが、声をかけると、やってくれました。パスポートを出しますと、驚いた表情です。他の駅員5名も呼んで大騒ぎになりました。
それはそうでしょう、こんな片田舎の駅で日本人が切符を買うなど、まずありえない事です。みんなでパスポートを珍しそうに見ています。そして、どうして北台に来ているのか等々の質問の嵐がきました。 おかげで1枚の切符発行まで20分以上もかかってしまいました。右上に発行場所が記載されています。


▲ 夕刻、スラグ捨て場でのショーが始まりました。昨日の昼間も良かったのですが、夕闇が近づくとさらに格別です。もう少し暗くなれば、水蒸気がもっと紅くになって迫力が出るでしょうね。
昨日、皆さんがバスに集まった時間が遅かったので、正門は閉じられて出られず、別の出口になりました。
迷惑をかけてはと、もっと粘ろうと言われるO氏を説き伏せて、バスに向かいましたが、ここに最後まで残って撮られたドイツ人の写真を見せてもらいましたら、ものすごいシーンでした。O氏は盛んに残念がっておられました。申し訳ございません。次回の宿題になりました。


▲ やはり、蒸気機関車を撮るなら夜撮ですね。この工場は7時には職工交代時間で、作業が止まります。見学者も7時以降の滞在は不許可となっています。12月冬至頃に来ることができましたら、もっと早くに暗くなりますので、撮影チャンスは増えます。最高でしょうね。O氏と暗黙の了解をしました。案内人の谷さんに依頼すれば、入場できるとの事でルートもできましたので、参りたいと思っております。


▲ 今晩も夕食は8時からです。明日は昼食後に瀋陽に向かい解散します。私たち二人は、瀋陽から锦州の発電所に走る建設型を見に行きます。
この地での最後の夕食とあって、白酒も頼んで、よく食べ、よく飲みました。

この日に出会った蒸気機関車は、上遊型448、1075、1191、1560、1648、1561号機の6両でした。昨日の946号機は見られませんでしたが、1648号機が新たに出会えました。これで7両が確認されました。  Part10  へ続く

ドイツ風的 中国蒸気機関車の撮影の旅 Part8  北台製鉄所 その1

第7日目(訪中39日目) 3月28日


▲ 昨夜ホテル(北鋼賓館)にチェックインしたのは夕食後でしたので、真っ暗で周囲の状況が全くわかりませんでした。
7:18、朝食後に部屋の窓の外を見ますと、右手に工場への門があって、通勤バスがひっきりなしで入って行きます。左手には、鉱石を満載した大型トラックが、列をなして並んで入場時間待ちでした。


▲ 7:42、バスに乗って中国国鉄北台駅の駅前跨線橋に到着しました。出口前では、朝食屋台がたくさん出ています。
7:50南芬始発の6314
(12両編成)が到着しました。満員の通勤客がいっせいに降りてきます。すべて北台製鉄の従業員です。

▲  発電所が駅正面にある北台駅ヤード、北台製鉄専用線も並行しています。6314次は、北台で折り返して6315次として、8:19に出発します。満員の乗客は。夜の勤務を終えて帰宅する通勤者です。

【 北台製鉄所 】
戦前に南満州鉄道の出資で設立した鞍山製鉄所が有名ですが、 北台製鉄所は戦後1955年に、中国独自で建設されました。4つの高炉を持ち、製銑から製鋼、鋳造、圧延の工程を経て鉄鋼製品まで製造しています。
この道の専門家であるO氏は、どうも鉄線を製造しているように思える。ただ高炉は小さく、蒸気機関車が使用されている現状からも分かるように設備自体も前世紀のものです。近々新しい高炉ができるようなので、その時点で蒸気機関車も終焉を迎えるのだろうと言われました

ここには、中国で唯一の蒸気機関車牽引のスラグ捨て列車が残っていると言われています。単独で行く事は不可能で、許可を取るのも難しく、中々ルートが見つからずでしたが、今回ドイツのTANAGOからの撮影ツアーでは企画できたとの事でしたので参加しました。



▲ 全員、ヘルメットをかぶって工場内へと向かいます。日本では、安全性を最優先しますので、見学コースも決まっていて、自由行動は絶対にできませんが、ここでは全くのお構いなしです。目指すは、スラグ捨て場です。

▲ 8:36、初めは、みんなで一緒に奥の方へ向かって進んで行きました。
O氏の説明によると、鉄鉱石コークス石灰石が混ぜられて高炉で溶解され銑鉄スラグに分けられます。
スラグは軽く上部に、銑鉄は下部に溜まるので、上の穴からスラグを、下の穴から銑鉄を流し取ります。
受けるのは、お椀の形をした取鍋車です。高炉の左右に線路が敷設されていて、右はスラグを、左は銑鉄を取鍋車に受け入れます。1,500~2,000℃の溶解したスラグ銑鉄を入れるので、取鍋には特殊な耐熱加工をしてあります。この 取鍋車を牽引するのが、上遊型蒸気機関車です


▲ 高炉を抜けるとヤードになっていました。SY1191に続いて、1560号機が動き回っていました。

▲ 9:05、みなさんにくっ付いて行きますとスラグ捨て場に着きましたが、もうもうと水蒸気がたちこめています。しばらく見ていると、前へとスラグ列車は進み、取鍋を傾けて、ドロドロのスラグを捨てました。釜の中は全てドロドロではなく、最後は取鍋をガタガタと振って表面が固まってしまったスラグを落とします。




▲ 当分、スラグ捨てがないとの事なので、取鍋車への流し込み場に戻って、落ち着いて撮ってみました。

▲ 10:33、反対側は、 銑鉄の流し込みが行われていました。こちらは、ヤードから先にある製鋼所へと運ばれて、炭素を除去して、ニッケル等の他の金属を混ぜて粘りあるに製造されます。

▲ 11:03、次のショーが始まりましたが、全部がドロドロはありません。最後は揺すられてドスーンです。O氏が以前に見たショーは、塊はなく生々ドロドロだった。築堤から流れ落ちる光景は、噴火した火山の溶岩のようだったと語っていただきました。


▲ 12:01、ぼちぼち昼食に行くのかとバスに乗りましたら、降ろされたのは珍しく鉄橋の袂です。ドイツ人の目当ては東ドイツ製のELです。氷が溶け出した本溪の太子河にかかる鉄橋を長編成の鉱物列車が行きます。多分、満鉄時代に建築されたものでしょうね。昼食は、肉饅頭とビールが配られました。


▲ 13:10、再び 北台製鉄所へ戻りました。まずは、 取鍋車への流し入れの撮影ですが、適正なシャッタースピードと絞りが分かりません。
花火を撮る時は、三脚にカメラをセッティングして、ASA200で、シャッタースピード2~5秒、絞りはF10前後が目安ですが、このシーンは未経験です。

撮りながら、モニターを見て確認する事から始めなければなりませんでした。自分としては、シャッタースピード1/4~1/8、絞りはF7.1程度かなと現場判断をしました。
しかし、三脚はバス中です。手持ちでの撮影です。 シャッタースピード1/8程度で手ぶれしないのには自信がありましたが、1/4となると結構きついものがあります。また昼間ですので、例え三脚があっても露出が絞りきれません。夜間撮影でのセッティング準備のために、試行錯誤を強いられました。



▲ 製鉄所の中では蒸気機関車が主役です。SY946、1075、1191、1561号機たちです。


▲ 15:22、3度目のスラグ捨て作業を見ました。最初に水蒸気がたち込めて見えなかったのは、水が張ったプールに直接に1,500℃のスラグを入れているためです。阜新のフライアッシュの粉塵には及びませんが忽ち水蒸気が上がります。
これを水砕スラグと言い、乾かしてからセメントに混ぜるそうです


▲  水砕スラグ が終ると、列車は前進して、残ったスラグを捨てます。

▲ こちらは、砕石スラグと言い、砕いてから道路舗装前にひく砂利として使用されるそうです。
この作業を努めたのは、1566号機でした。作業時間は、約30分でした。


▲ 16:48、スラグ入れに戻りますと、活発な作業が始まっていました。SY10751561号機です。


▲ 一旦バスに戻って三脚を持ってからの夜撮です。制限時間は、門が閉まる6時50分までと決められています。どんな写真に仕上がるかは、撮ってみないと分かりませんが、私は長年の感でシャッタースピードと絞りを決めてのマニアルでのぞみます。思った以上の写真になることは稀ですが、1年に1回くらいは、「やったね」があります。
しかし、ここのように、明るい場所と暗い場所の明暗差が大きい所は、特に撮り難いですね。


▲ 今日は、夜撮もあって、夕食は8時を過ぎました。皆さん、お腹はペコペコです。ビールを飲んでいたら、食べるものはなくなっていました。こんな時のために、O氏と私はいつも麺を特別に追加注文していますが、これもドイツ人に食われてしまいました。

この日に出会った蒸気機関車は、上遊型448、946、1075、1191、1560、1561号機の6両でした。結構いましたね。  Part9  へ続く

ドイツ風的 中国蒸気機関車の撮影の旅 Part7  阜新炭鉱(阜新煤礦鉄路)その2

第6日目(訪中38日目) 3月27日

 


▲ 6:39、
今日の朝の通勤列車は、高徳駅発車で撮りました。1210号機でした。


▲ 6:58、 直ぐに蒸気機関車が来るとの情報で、待ちました。1378号機牽引です。


▲ 7:15、昨夕の追い出し勧告にもメゲず、平安駅踏切にまたきました。堂々と線路際での撮影です。ドイツ人と来て良かったと思える瞬間です。昨日朝より多くの蒸気機関車が集まってきました。
左から、1319、1818、988、770号機でした。


▲ 7:271319号機と運転手が乗り込む1818号機。

▲ 7:421818号機は一足先に五龙炭鉱へと仕事に向かいました。

▲ 車庫で休む1320号機


▲ 8:00までに平安駅ヤードに集まった蒸気機関車は、SY770、988、1210、1319、1818、1320、1378号機の7両でした。


▲ 8時になると警備責任者の出勤時間だそうです。引き上げて、8:13五龙炭鉱上のズリ捨て山に上がりましたが、今日の朝は、かなり霞んでいます。待ちましたが、列車が来ないと言うことなので、降りました。
8:58、途中でズリ捨て列車が発車しそうだとバスを降りて向かいましたが、残念ながら蒸気機関車の方が先に来てしまいました。
10:12西部駅付近まで移動しましたが、好撮影地に着くまでに、ここでも列車が来てしまいました。
11:06、再び 五龙炭鉱上のズリ捨て山に戻ると既に列車が来ていました。谷案内人、迷走の連続です。


▲ 全員駆け足でズリ捨て路線に上がって撮影開始です。各自、目指す撮影ポイントに散りました。列車の後ろを追いかける者、終点近くまで向かう者、足に自信のない高年齢者の私たちは、近場の高台に登りました。もう撮影は無理かなと思われましたが、この列車は空転ばかりで前に進みません。おかげで終点を目指したO氏他6人は、絶好のポイントまで行けたようです。

ズリ捨てが始まると、見たことのない爆煙が舞い上がりました。採炭が終って、捨てるズリではなく、発電所からの廃土のフライアッシュです。

▲ この瞬間を撮られたO氏の写真を送っていただきました。まあ、凄いとしか言いようがありませんね。O氏は、6人が現場にいたが、列車がどこに止まるかが不明で、絶好のポジションを確保できたのは3人だけだったとの事です。バスに戻ると、撮れなかっったドイツ人は、「どうでもいい所をタイミングも悪く、連れまわしておいて、どうしてもって早くに肝心の場所に連れて来れなかったのか。これを撮るために阜新に来ているのに・・・。」とクレームを言っていたそうです。

阜新での最大最高の撮影ショーです。残念な気持ちは私も一緒でした。 ちなみにこのショーは毎日11時に開催されるそうですが、不定期です。

フライアッシュは、石炭燃焼時に灰が生成されます。燃焼ガスとともに吹き上げられるレベルの球状の微粒子です。産業廃棄物ですので、電気集塵機などで回収されて、厳重にタンクに詰めて保存され、相性の良いセメントに混ぜられて建築材料として使用されています。

ここ阜新には、3つの発電所があって、2つは直ぐにセメントに混ぜられたり、水で溶かしてから廃棄されていますが、もう1つの発電所は設備がないために、そのまま捨てられています。粉塵は空に舞い上がって阜新の町に降り注いでいます。他の国でしたら大きな環境破壊、健康問題として取り上げられるでしょうね。


▲ 13:44阜新での撮影が終りました。山を降りる途中で、信じられな~い。止まってとみんなで撮りました。氷も張っている黒い泥池に入って、スコップで底を掻き混ぜているおじさんがいます。石炭粉を溶かした泥水で、このまま蒸発させて乾かして「タドン」のようなものを作るそうです。そのために時折掻き回す必要があるそうです。何箇所も同じ泥池がありました。

▲  一旦ホテルに戻ってシャワーで汚れを落としてから、15時前にバスに乗って北台に向かいました。併走する国鉄線を見ていましたら、トラス橋が見えました。多分、戦前の満鉄時代のものでしょうね。中々見られるものではありません。DLでも良いのでここを走るシーンを撮ってみたいものです。


▲ 阜新から快調に走り続けましたが、瀋陽を通過する高速道路がないので、夕方ラッシュに巻き込まれて、北台には19:40着でした。お箸が初めてだった人も使い方が慣れてこられて、10数品の料理も直ぐになくなりました。

明日から今回の最大イベント、北台製鉄所での撮影です。期待が膨らみました。
  Part8  へ続く

 

吉野鉄道モハ201形→近鉄モ5201形について

関 三平さんの「昭和の電車」は、元高野山電気鉄道の南海電鉄モハ561形の次は元吉野鉄道のモハ201形→近鉄モ5201形であった。

近鉄の中では、2200系の影に隠れてあまり目立たない存在であったが、名古屋線から南大阪線に戻った車両が最末期は別として比較的末期まで大阪(阿部野橋)~吉野間の急行で活躍していたことは特筆される。

長老より解説頂いているが、少しだけ補足を試みた。しかし、基本的な部分で不明点があり、ご存知の方はぜひご教示をお願いしたい。

(1)モ5201形の制御器がHLからALに変更された時期。昭和32年に名古屋線から南大阪線(含吉野線)に戻った時と思われるが確証が取れていない。

(2)ク6503を名乗る車両が2両存在した。初代ク6503が廃車後、別の車両がク6503に改番された結果と思われるが、2代目のク6503の旧車号が不明。私個人的には初代ク6503とク6501車号を振替えたのではないかと思うが、車号を振替える理由が見当たらない。あえて考えられる理由は、ク6501形7両を養老線に転属させる際に車体状態の良いク6503を名古屋線に残すため、ク6501と相互に改番して、転属車をク6502~6508に番号を揃えた。

いずれもピク誌のバックナンバーを丹念に調べると答えが簡単に見つかるかも知れないが、あいにく実家の物置に眠ったままである。 

名古屋線に転属後は、サハ301~310(改番後ク6501~6510)は制御器をABFに取換え、片運化、トイレ設置の改造が実施されて急行用となった。
モハ201~206(改番後モ5201~5206)とサハ311~314(改番後ク5511~5514)はHLのまま、普通列車や伊勢線で使用されたが、後にク5511~5514は制御器のABF化と片運改造の上、ク6511~6514に改番された。

長老が記されている通り、昭和32年に南大阪線の大型車モ6801形(6801~6804)とク6701形(6701・6702)とのトレードでモ5201~5206が南大阪線に戻り3連×2本を組んだ。モ5203と5206は電装解除され制御車として使用された。名古屋線改軌によりク6511~6514が南大阪線に戻り、制御車代用であったモ5203と5206はモ6601形の予備電装品で再度電装され、モ5211・5212となった。また、モ5205が5203に改番された。

名古屋線に残ったク6501~6510のその後の経過は、名古屋線改軌時にクハ6501~6509は標準軌に改造されたD-16に履き替え引続き名古屋線で、クハ6510は養老線に転属した。昭和38年にクハ6509、昭和45年にクハ6502~6508が台車を狭軌用のD-18に交換の上養老線に転属し、先に養老線入りしていたクハ6509、6510が廃車になった。

外板を全面的に張り替えたク6503(初代)以外は、全鋼製の頑丈な車体の故、新製時のスタイルを大きく崩すことなく使用されていたが、南大阪線は昭和49年、養老線は昭和52年までに廃車になった。

〔モ5201形〕
モ5201(46-6-6) 古市

 モ5202(42-8-20) 古市
 

モ5203(2代目)(46-6-6) 古市
電装解除して制御車として使用されていた、初代モ5203が電装の上モ5211となったため、モ5205がモ5203に改番された。

モ5204(46-6-6) 古市

〔モ5211形〕
モ5212(49-5-20) 道明寺
元モ5206で制御車として使用されていたが、モ6601形の予備の電装品で電動車化された。
 

〔ク6501形〕
ク6501(40-5-23) 四日市
2代目ク6503に改番されたと推定。

 ク6502(46-7-25) 西大垣

 ク6503(初代)(43-2-13) 白塚
事故復旧時に外板を張り替えノーシル、ノーヘッダーとなった。2代目ク6501に改番されたと推定。

 ク6503(2代目)(46-7-25) 西大垣
元ク6501と推定。

 ク6505(46-7-25) 西大垣

 ク6507(46-7-25) 西大垣

 ク6508(46-7-25) 西大垣

 ク6510(45-10-4) 西大垣
先に養老線入りしたク6509と6510は運転台が大垣向きであったが、ク6502~6508は中川の3角線で方転の上入線したため、運転台は桑名向きであった。

〔ク6511形〕
ク6511(43-12-25) 古市

 ク6512(42-8-20) 古市

 ク6514(42-8-20) 古市
この時点ではパンタが付いていた。

 ク6514(46-6-6) 古市

上記の不明点、推定部分については、ピク誌通巻219号、313号に記載されている可能性があり、お持ちの方は是非ご確認をお願いしたい。

琴電と琴参 あれこれ話

JR予讃線坂出・高松間に国分駅があるが、このあたりを境界に東を東讃(とうさん)、西を讃西(せいさん)と言っている。倒産して清算とは事業者にとっては良くない「語呂」だが、なぜか昔から両地域は対抗心が強い。その東讃の方に19111118日、私設鉄道法による東讃電気軌道が開業した。現在、高松琴平電鉄志度線を名乗っている。次いで1912430日、軌道条例による高松電気軌道が開業した。高松琴平電鉄長尾線である。真打は取りを勤めるもので19261221日、琴平電鉄が地方鉄道法により栗林公園-滝宮間を部分開業した。高松(瓦町)-琴平間が全通したのは1927422日である。この3社は戦時統合で琴平電鉄を核として1943年に合併、晴れて高松琴平電鉄を名乗ることになった。昨年、100周年を迎えJTB Can Books100年史が上梓されたが、クローバー会有志も協力している。読んで頂くと「琴電」は東讃の電車であることがよく分る。

西讃の電車だが、ここは四国の鉄道の“魁”と言える地で、1889年に丸亀-琴平間で讃岐鉄道が前年開業の伊予鉄道の後を追った。1897年に丸亀から高松に延長されたが、客足は伸びず経営不振となり1904年、対岸の宇野へ延長された山陽鉄道に買収され、1906年には官設鉄道の一員となった。西讃の中核都市は丸亀で、この地から琴平へ、電車を国道沿いに走らせる構想は早くからあった。しかし官設鉄道に平行しているとの理由で敷設は認められなかった。軌道条例による丸亀―善通寺間は讃岐電気軌道として1910年、やっと特許を取得することは出来た。ところが建設資金に齟齬をきたし、大阪方面をうろついた結果、1918年にやっと丸亀に本社を置くことが出来た。

開業できたのは1922年で、琴平参宮電鉄として丸亀―善通寺駅前間であった。その後、先ず琴平へ延長が認められ、更に善通寺から多度津へは地方鉄道法により延長された。これが大当たりとなり、以前「琴参電車あれこれ話」で紹介した。西讃は坂出にも港があり、大河の流入なく大型船の出入りが可能であるので拡張されることになった。琴参電鉄は丸亀から坂出へ地方鉄道法により延長、開通は1928年であった。西讃では更に琴平急行電鉄が設立され、琴参電鉄坂出駅前面道路を挟み斜め向かいから、琴参電鉄琴平駅前面道路真東向かいを終着点として1930年に開業した。苦しい経営を余儀なくさせられたのは自明のことで、琴参共々国から補助金の支給を受け営業していたが、1944年には不要不急鉄道として営業休止となった。戦後1948年、琴参電鉄に合併されたが、復旧されることなく1954年に廃線となっている。

琴電と琴参について述べよとの米手作市の指示応えたつもりである。その後だが東讃の電車は紆余曲折した上で現存しているが、西讃の方は時代の流れについて行けず、1963915日で営業を終えた。琴参電鉄は1965年近鉄の資本参加もあり多角事業に乗り出したが、本業であるバス事業が不振となり、近鉄は2006年に撤退した。2008年、ついに会社整理事業者となり、清算する嵌めになり、ここに琴平参宮電鉄は終わりを遂げた。その7年前、琴電も「そごう倒産」のあおりを食らったが、いまや再建の道を順調に歩んでいるのはご同慶の至りである。

悲しいかな、倒産、清算の語呂合わせが讃岐では存在したのであった。

琴電無蓋貨車は国鉄貨車2両分の台枠流用で自社仏生山工場製

琴電無蓋貨車は国鉄貨車2両分の台枠流用で自社仏生山工場製

 

琴電有蓋車は高松電軌引継ぎ車。終戦直後は客車代用車。
琴電有蓋車は高松電軌引継ぎ車。終戦直後は客車代用車。
琴参の無蓋貨車は日本商会と称するメーカー製
琴参の無蓋貨車は日本商会と称するメーカー製
琴参の��体不明の有蓋貨車の達磨さん
琴参の正体不明の有蓋貨車の達磨さん

ドイツ風的 中国蒸気機関車の撮影の旅 Part6  阜新炭鉱(阜新煤礦鉄路)その1

第5日目(訪中37日目) 3月26日


▲ 6:08
平安駅ヤードに到着しました。日の出前には撮影を始めたかったのですが、既に上がっていました。朝6時にホテルを出発しましたが、元宝山から東へ300キロ近くは来ていますので、日の出は13分早くなります。蒸気機関車は、SY1396号機

▲ 6:22、蒸気機関車が集まり始めました。左は1818号機


▲ 7:05、朝の目玉は、2両ですが唯一の蒸気機関車が牽引する通勤列車です。今日は、1012号機です。皆でそろって、折り返し回送まで撮影しました。踏切から近いこの場所は、最近訪問された方が追い出されたとネットでレポートが載っていました。日本人には躊躇するところですが、ドイツ人には関係ありません。一緒に付いてしっかりと、撮影できました。

▲ 7:50、一仕事終ったので、踏切近くの食堂で朝職です。さっぱりしたスープの麺で、美味しかったです。

▲ 朝食後は、近くの五龙炭鉱に上がりました。8:571378号機の空の石炭列車、9:01には1818号機ズリ捨て列車が発着しました。右側正向きで待機するは、1396号機です

 


▲ さて次は、五龙炭鉱上のズリ捨て山に向かうかと思っていましたら、撮影ガイドの谷満春(Gu Manchunさんは、今ズリ捨ては3ヶ所の分割されています。次の列車は、別の場所に行くかも・・・。山に向かうスイッチバック地点なら両方が狙えますと案内くださりました。

9:56、言葉通り1396号機の牽引する次のズリ捨て列車は、山に向かわずに直進していきました。


▲ 10:33、新しくできたズリ捨てを案内されましたが、元の海州露天鉱へのルートでした。広大な露天鉱の穴を埋めるためのようです。

10:57、次に案内されたのは昨日夕刻に行った機関区。左から1319、1378、988、1210号機の4両が待機中でした。
機関区には約40分も4両の機関車周りを歩いていました。その間、案内人の谷さんは、携帯電話で走行情報を聞いています。専用線には決まった列車ダイヤがないので、案内する方も大変です。


▲ 12:03、昼飯を食べに行くのかと思っていましたら、高徳駅に立ち寄りました。ドイツ人は、高い所からの撮影が大好きです。どこへ行ってもよじ登っていました。
12:19、ズリ捨て列車の予想が外れ、1378号機単機がやって来ました。
13:32、ついでにDL客車列車も撮って去ろうとしたら、踏切番からもう直ぐに石炭列車が来るから待つようにとの声がかかりました。谷さん、さすが地元です。コミュニケーションも十分です。
13:50、先ほどの1378号機がヤードから空の石炭列車を牽引して戻って来ました。そしてスイッチバックをして、画面右へと推進運転で去っていきました。谷さんは、3番目のズリ捨て場があると言われます。
こんな可愛いレールバスが昼間の職員輸送用に走っていました。

▲ 14:44、五龙炭鉱上のズリ捨て山に蒸気機関車が走るとの情報があったようで上がりましたが、ガセネタです。
谷さんも困ったらしく、蒸気機関車がいる機関区に戻って、特別ショーです。


▲ 15:26、3両並んでの機関区ショーですが、こんな事で承知するドイツ人ではありません。4両並んで一緒に向かってくるようにとの要求です。ちょっとな事では納得できない頑固なドイツ人気質が出ました。
左から988、1319、1210、941号機です。
ちなみに、特別ショー代ですが、200元(約2,500円)と聞きました。今夜の白酒代程度ですね。


▲ 16:39、朝に来ました平安駅踏切に戻って今日最後の撮影ですが、踏切番から離れろとの注意を受けました。しかし、少しすると警備局員が来て強制退去を命じられます。仕方ありません、今日の撮影は終了です。


▲ 移動回数が多かっただけに長~い1日だったように思えました。今夜も食欲が進むドイツ人です。中国は初めてだった人もすっかりと慣れた様子でした。
 Part7  へ続く

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ドイツ風的 中国蒸気機関車の撮影の旅 Part5  平庄炭鉱から阜新炭鉱へ

今日は、337キロ先の阜新炭鉱へと向かいます。平庄駅からは9:29発昼行と、19:08発夜行の2本の列車があります。夜行は、阜新に02:02着ですが、一旦ホテルに入ってから早朝撮影に向かえば良いかなと勝手に思っていました。どちらになるのか史超さんに聞いてみましたら、列車は7時間もかかって遅いので乗りません。瀋陽から大型バスを呼んでいます。高速道路を走れば4時間以内で着きますので、昼食後に出発しますと言われました。

第4日目(訪中36日目) 3月25日
①  ホテル6:00(チャーターBus)→元宝山鉱_西駅→風水溝駅
② 風水溝駅7:40→8:58平庄装煤駅→五峰付近10:10→10:45西露天鉱
③ 
装煤駅12:40→市内13:30→13:45ホテル14:20→17:55阜新機務段
④ 阜新機務段18:15→夕食→20:00ホテル


▲ 西駅で数人を降ろしてから、橋まで連れて行かれましたが、風が強く気温も上がって来ていたので、狙ったカットにはならずでした。
7:37、通勤列車が
風水溝駅に到着しました。今日は、ヤードにセキの姿はなく、降りた大勢の職工達は迂回せずに炭鉱に直行して行きました


▲ 8:58、今日は、直ぐに平庄炭鉱装煤駅に参りましたが、機関車は1425と1017号機の2台だけです。毎日運用が違っています・
9:27五峰駅方面に移動しますと、1083号機が空車を回送して装煤駅へと向かってきました。


10:07、いつもの五峰~平庄南間の橋での撮影です。橋手前まで行きたかったのですが、皆さんのカメラ視界に入ってしまいます。多人数での撮影のデメリットです。風が強い日でした。この前後のカットは、全部風が前に吹いていて機関車を隠していました。牽引機は、1425号機です。


▲ 10:45、今日は、直ぐに西露天鉱行きです。またEL撮影かなとウンザリしていましたが、1764号機が作業車を牽引して上がってきました。これなら好し好しです。
▲ 空車のセキを牽引してELが降りていきます。ドイツ人には感激シーンなのでしょうね。

▲ 未舗装路を石炭を満載したトラックが通過するたびに、半端でない粉塵が舞います。通訳の史超さんもこれには参っていました。
踏切には、多くの注意看板が立っています。左から「火车小心=列車に注意」、左下は「紅灯停车・灭 灯停车=赤灯停車・点滅停車」、右上は「铁路道口・一停・二看・三通过=鉄道踏切・1に停車・2に確認・3に通る」、右下はZ型の変形道の様子です。真ん中下3つの看板はお分かりと思いますが、問題は「☓ ∧ 」。この標識が分かりません。どなたか教えてください


▲ 皆さんは、EL撮影に励んでおられましたが、O氏と私は一足先に露天掘を離れました。12:00、午前中の運行が終って休む1025と1764号機。この2両がズリ捨て専用でした。


▲ 平庄での最後の昼食は刀削麺でした。スープが美味しく結構いけました。ただ調理のスピードが追いつきません。
外国人が珍しいと近所からも人民が集まってきて記念撮影の連続でした。


▲ ホテルに戻って、シャワーで汚れを落としてから、大型バスに乗換えて、阜新へと向かいました。国鉄の新線建設が始まっています。沿線は、赤土のハゲ山、丘陵がおおく植林が進められていますが、数10年以上は必要ですね。


▲ 17:55、平庄から高速道路を約3時間半で夕日の阜新炭鉱機関区に到着しました。列車の半分の所要時間です。前回見つけられなかった機関区です。SY上遊型0941、0988、1210、1319号機の4両が休んでいました。12両が在籍のはずですが、みんなに会えるでしょうか・


▲ 夕食時には、明日から阜新と北台を引率していただく案内人の紹介がありました。阜新の住民だそうです。どんな撮影地を案内いただけるか楽しみです。
今日も皆さんの食欲は衰えることなく旺盛でした。  Part6  へ続く

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ドイツ風的 中国蒸気機関車の撮影の旅 Part4  平庄炭鉱(元宝山の建設型と、平庄の上遊型) その2

第3日目(訪中35日目) 3月24日

① ホテル 6:00(チャーターBus)→6:50 元宝山鉱_西駅→風水溝
②  風水溝 →9:40 平庄

夜明け前に、ロビー集合に遅れることなく全員集合。元宝山鉱の通勤列車が出発する西駅に向かいました。夜が明けだすと雲一つない青空が広がっていきます。 ただ風は、昨日同様に強そうです。
▲ 7:00、建設型8249号機が牽引する通勤混合列車が、青空の下、西駅を発車しました

▲ 7:14、直ぐにバスに乗って追っかけです。途中の駅に止まっている間に追い抜かして、昨日、回送を撮った橋に着きました。
直ぐに木材を積んだ貨車は、炭鉱内に持っていかれました.坑内で支柱等に使用されるんでしょうね。どの炭鉱でも山積みにされた木材がありました。
朝のショーが終ったので、昨日同様に平庄へと向かうのかと思っていましたら、バスは途中で止まり線路沿いを歩いて行くように指示されました。どうやらヤードに止まっていた石炭列車を国鉄駅に牽引して向かうそうです。


▲ 8:15風水溝を発車して、国鉄との連絡駅、京通線の安慶溝に向かう長編成の石炭列車。元宝山で貨物を蒸気機関車が牽引するシーンは、通常見ることはありません。ラッキーでした。


▲ 9:45平庄に戻りました。1083号機は、ドック入りです。 ヤードでは、1425号機が満載された石炭列車を連結して発車待ちでした。

▲ 11:02、五峰~平庄南の橋梁に移動して待ち受けましたが、強風が吹き荒れ寒くて待つのはみなさん大変でした。


▲ 12:04、今日は朝から正向きで客車あり、石炭列車ありで、午前中だけで4連発でした。みなさんご満悦での昼食です。バス内でなく、落ち着いての食堂です。10数種類の餃子に皿まで平らげる勢いで食べておられました。

 


▲ 13:04、昼食後は、古山二井(左上と下)と 古山三井(右上)に行きました。前回は、遠くて行けませんでしたので、どうなっているのか分かりませんでしたが、二井はズリ捨て列車が待機していましたので、それなりに活発なのかなと分かりました。一井は既に閉鎖されていました


▲ 14:25二井から三井には動きがないことが分かりましたので、装煤ヤードに戻ると、再び1425号機が石炭列車を牽引して、平庄南へと向かいました。てっきり追っかけをすると思っていましたが、彼らの関心はELです。

▲ もう、どうしようもありません。ELの運転席に乗ったり、好き放題です。午前中は満足しましたが、午後はドイツ風が強く、受け入れられません。


17:00、ズリ捨て路線が撮りたいのに、再び装煤駅ヤードで今日最後の撮影です。左は、今回のツアーの英語通訳の史超ShiChaiさん、26歳。吉林省吉林市の舒蘭で育ち、今はご両親と新京でお住いの生粋の東北っ子。留学して英語を勉強したとか、明るくハキハキしたお嬢さんでした。


▲ 早めにホテルに戻って、シャワーを浴びて汚れた身体を洗ってからの夕食タイムです。このパターンは、守って欲しいと全員の望みでした。1日過ぎるよ、マスクはいつも真っ黒になります。シャワーをすると、タオルが黒くなります。頭から黒い水が流れてきます。この地に住む人民は毎日こんなに最悪の空気を吸っています。よく我慢できると思わずにおられませんでした。   Part5  へ続く

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リバイバル急行「志賀」と長野電鉄屋代線 撮影記

早いもので、長野電鉄屋代線が廃止されてから10日がたちました。

3月24日にしなの鉄道で、169系のリバイバル急行「志賀」が運転されるのと長野電鉄屋代線に2000系が入線するということで、「一石二鳥」ということで青春18きっぷを使って出かけてきました。

3月のダイヤ改正で、碓氷峠を越えるJRバスの時刻が変更となり、自宅から一番早く乗れるバスが10時横川発となってしまいました。このバスですと、軽井沢着が10時34分で、既に屋代発のリバイバル急行「志賀2号」は、軽井沢に到着済みです。折り返しのリバイバル急行「志賀1号」の発車は、10時56分ですので、ほとんど時間がありません。軽井沢駅脇の駐車場より出発を撮影しました。軽井沢での169系三両編成は、少々物足りませんが贅沢は言えません。

いっそうの事、このまま、屋代線に入線してくれれば、本当に様になったと思います。

その後、軽井沢駅の旧駅舎を利用した資料館で、草軽電鉄のL型電気機関車やEF632を見学したのち、しなの鉄道で、屋代へ。

屋代では、停車中のリバイバル急行「志賀」を撮影。

そのあと、徒歩で、長野電鉄東屋代駅へ移動。この駅周辺で、定期列車を撮影の後、いよいよ、2000系の団体臨時列車「ありがとう!長野電鉄屋代線SBCろくちゃん号」がやってきました。

屋代駅での折り返し時間があったので、帰りのアルコールの調達も兼ねて、周辺を散策。長野県立屋代高校には、「ありがとう屋代線」と電車から見えるように貼ってありました。

折り返しの2000系を撮影の後、徒歩で、しなの鉄道屋代高校前駅へ。

ここからしなの鉄道で、テクノ坂城というハイカラかどうかわからないような駅名の駅まで行き、駅付近で、黄昏時の時間を走るリバイバル急行「志賀3号」を撮影しました。

軽井沢発18時10分の最終のJRバスに乗り、峠を下りて、帰途に着きました。

また、ひとつ撮りたい鉄道・車両がなくなってしまいました。

KAWANAKAです。

報告が1日遅れましたが、4月7日、ぶんしゅう氏の地元である長岡京駅前のアジトで長期取材の報告、裏報告がありました。参加は地元のメンバーというのも止むを得ませんが、乙訓の老人、福田、ぶんしゅう氏と小生でありました。

詳細は紀行に詳細に記されているので書きませんが、一堂ぶんしゅう氏のエネルギーに改めて感嘆するとともに、氏から「あんたらもいきまへんか?」の誘いがありました。みなケツの穴が小さいのでモゾモゾしておりますが、会員の皆様は如何でしょうか。

老人から高尚な薀蓄がありましたが、皆さんDLになって、詳細は記憶していません。

燃料補給の状況をUPしておきます。なお、時々、この穴倉に集まろうということが決まったのだけ覚えています。