後藤寺は、前稿で、おとりんさんが訪ねた日田彦山線の途中にあった駅で、ここから後藤寺線、糸田線が分岐していました。当時の鉄道路線図を見ても、密集した筑豊の路線網の中央部にあっただけに、石炭一色のような駅で、また近くの香春岳などから産出される石灰岩輸送の中継地でもありました。筑豊の“裏口”のような、ディープさの伝わる駅で、まさに「後」の持つ区名板がぴったりの雰囲気を持っていました。配置されていた蒸機は、言うまでもなくキュウロクで、あとは支線区で旅客列車を牽いていたC11が配属されていました。扇形庫もない、小規模な機関区でしたが、直方からは、蒸機が無くなったあとも存続し、行橋区とともに昭和49年まで蒸機の配置があり、筑豊最後の蒸機として、社会人になってからも何度か行くことが出来ました。
先般、たまたま後藤寺を40数年ぶりに訪ねる機会がありました。いまは「田川後藤寺」と市名を冠した駅名に改称され、JR日田彦山線、後藤寺線と、平成筑豊鉄道糸田線が分岐しています。もちろん機関区は、跡形も無くなって、当時は晴れていてもドス黒い煙に空が覆われていたのが、何とも青空のまぶしい駅前になっていました。
▲後藤寺~起行の中元寺川鉄橋の前後には20‰勾配があり、手近な撮影地となっていた。船尾からで産出されるセメントの輸送もあって、多くの蒸機列車があった。ただ訪れたのは真夏のカンカン照りで、貨物量も少なく、スカスカの煙だった。機号不明(昭和49年8月)
▲後藤寺機関区は、木造3線の矩形庫のコンパクトな構内で、模型を見るような雰囲気だった。給炭はクレーンを使っていた。29692は行橋区の所属。(以下、特記以外は昭和43年3月)





































