D52の往くところ② ~噴火湾に沿って~
「北海道にもデゴニがいる」。これを知ったのは、小学校6年の時に読んだ「鉄道ファン」の初期号の北海道特集でした。D52は東海道・山陽本線の専用機とばかり思っていたのに、当代一の鉄道写真家のHさんがとらえた「噴火湾に沿って」タイトルの雪にまみれたD52の写真は、小学生には衝撃的でした。
前記の大沼を出た函館本線は二手に分かれ、大沼公園回りの本来の函館本線と、勾配緩和のために戦時中に設けられた、海岸回りの砂原線回りとなり、森で再び合流し、噴火湾に沿って、長万部に向かいます。今回は、大沼~森~長万部のD52の活躍を見てもらいます。
▲勇壮な煙を上げて長万部を発車する D52 414 (昭和46年3月)
▲海岸段丘が続く噴火湾に沿って、D52 202の牽く上り貨物。噴火湾は内浦湾が正式な名称だが、江戸後期にイギリスの船長が、湾の両側に駒ヶ岳、有珠山がともに噴煙を上げるのを見て、“噴火湾”と名付けたと言う。落部~野田生(昭和46年3月)▲当時、函館本線のこの区間は、単線、複線が入り交じっていて、普通列車に乗ると、貨物列車の交換がよくあった。重量貨物だけに、停車することなく、普通列車を待たせて堂々と通過して行った。石谷を通過する3152レ D52 142 同機は長らく吹田一区にいて城東貨物線で何回か撮ったことがある。この年の3月に五稜郭へ転属したが、わずか6ヵ月で廃車になってしまう(昭和44年9月)。▲▲石倉で交換のD52 204(昭和44年9月)。
▲大沼公園付近を行く上り貨物278レ D52 404 大沼公園は、上下線が離れた単線区間となるため、近くの大沼付近とは違った雰囲気となる(昭和46年3月)。▲急勾配区間の大沼~森より、緩い勾配の別線を駒ヶ岳の東麓に建設したのが「砂原回り」で、距離は5割増しだが、勾配は6‰に抑えられ、補機が不要になった。駒ヶ岳をバックに砂原線を行く2454レD52 414 ▲▲2354レ D52 140 いずれも渡島砂原~渡島沼尻(昭和47年3月)。▲噴火湾沿いを行く、珍しいD52重連の8152レ 国道から見下ろすと、湾越しに有珠山が見えた。山崎~黒岩(昭和47年3月)▲長万部に到着のキリ番D52 400の牽く上り貨物。▲▲下り貨物をゆっくり牽き出すD52 136 (昭和43年9月)
客車を牽くD52 貨物専用と思われていた北海道のD52だが、末期には旅客列車も牽いていた。私は昭和和47年3月の4度目の渡道の際に、D52の牽く列車に乗ったり写したりしている。この頃、北海道にもDD51が投入されていた。優先的に室蘭・函館本線の長大貨物に使われていたので、D52が余剰気味になり、旅客列車も牽くようになったのではと思っている。▲41レを牽くD52 414 41レは列番からも分かるが、荷物車主体の列車で、ハ4+ニ4両であることが分かる。国縫~中ノ沢(昭和47年3月)。▲240レを牽くD52 235 森で小憩する。この時は長万部から、この240レに乗って、D52の旅をゆっくり楽しみ、渡島砂原に向かった。(昭和47年3月)▲渡島砂原に到着、乗って来た240レを対面ホームからとらえる。ホームの向こうには海が広がっていた(昭和47年3月)。▲240レが特急待ちをしている間に、走りに走って駒ヶ岳の裾野まで来て、大カーブで乗車列車を撮ることができた。まるで、国府津区のD52が御殿場線の足柄や岩波あたりを行くような雰囲気だった(昭和47年3月)。
せっかくの力作に怖じ気づいたのかコメントがない!
これはいかん、と言っても対抗できるような作品は全くない。でもそれでは特派員さんに失礼と考えまして、恥ずかしながら駄作を投稿しますので目障りだ!と怒らずに「枯れ木も山の賑わい」とお許し願いたい。
昭和41年の夏は一年先輩の奇人M川さんと一年後輩のM田さんの三名で渡道した。大沼ユースで泊まって撮影したのがこの写真です。
ホントに私の記事にコメントがありませんねぇ。私はコメントの有無はあまり気にしないタチですが、全く無いと、ちょっと気落ちしてしまいます。さて、掲載の写真、私よりずっと前に北海道まで行かれた先達の写真を楽しませてもらいました。撮影は、例のお立ち台近くですね。それにしても、あのダブルMさんとの三名の北海道旅行、写真は氷山の一角で、公開を憚るようなことが多々あったことでしょう。
ほとんど非公開!!
もう一枚
総本家青信号特派員殿
私も昭和46年3月18日に野田生・落部間でD52202牽く貨物列車を撮っているのですが、同じ列車のようでもあり、違うようでもあります。特派員殿は3月何日の撮影でしょうか?私は落部駅からバスで野田生方面に少し戻り、トンネルの上から撮って、またバスで森まで行ったとメモにあります。一人で行ったように思うのですが、貴君と一緒だったのでしょうか?
西村様
D52の写真、ありがとうございます。この年は、4人で北海道へ行きましたね。途中は、離れたり、集合したりして、旅行を続けました。さっそく手帳で3月18日を見返しますと、稚内の喜登Y・Hに泊まって、その日は宗谷本線で写真を撮っていました。ネガを見ますと、T君らしき人物と記念写真を撮っていましたから、やはり別行動だったのですね。ただ写真は、私が載せた場所と同じです。
特派員殿
ありがとうございました。18日は稚内方面でしたか。同じ場所でD52202を撮っていたことになりますね。ストリートビューで見ると、背景の大きく削り取られた法面も草木が生い茂っていて、別の場所のようでした。3月も後半になると、道南の残雪は少なくなり、春の到来を感じながら帰途についたものでした。もう一度青函連絡船で津軽海峡を渡ってみたいとつくづく思います。
「T君」とはあの「青信号」(ガリ版刷りのもの)不朽の名作「C62回想録」を書かれた「Tさん」ですか?昭和46年3月のニセコ撮影行のことが書かれていました。いつ読んでも、どこから読んでも面白い。「青信号」最大の傑作だと思います。これを読むといつも、行ったつもり、撮ったつもり、C62を見たつもりになります。(私はC62がばく進しているのを見たことがないのです。)
はい、そうですよ。名作「C62回想録」の作者、Tさんです。あの頃のTさんの熱意、情熱が伝わって来る、臨場感あふれる記事でした。昭和46年3月、私や西村さんと一緒に行って、C62に火が点いて、以降は、狂ったように北海道へ通い、たしか最後の三重連まで撮っていましたね。
「C62」も、青信号の名作には違いないのですが、私にとっての名作は、どですかでんさんら連名の「僕たちの上笠田」です。
やはりTさんでしたか。フィルムを巻くのを忘れたとか、C62が走ってくるのをジェット機が飛んできたと表現するなど面白い記事です。ところで上笠田ですがたまたまテレビを見ていたら「空からてつたび」で北勢線を放映していました。上笠田駅があった所がちょこっと写っていました。はやく行けるようになったらいいのにと思います。以前投稿したユーチューブ
を貼り付けます。うまく見れたらいいのですが。
https://www.youtube.com/watch?v=frS9SKXU_64
特派員さんと西村さんがD52202を見せてくれたので前後賞写真家としてD52203をご覧に入れましょう!北海道にはD52204がいたのでこれで202、203、204とスリーカードになりました!
撮影場所は竜華です。
米手さま
前後賞写真家さま
D52203の写真、ありがとうございます。竜華はたしか幼い日のホームグラウンドではなかったでしょうか。このD52は集煙装置を付けていますね。同じ吹田のD52142も付けていました。城東貨物線は別にトンネルはないのに集煙とは、他区からの転属でしょうか。
どですかでん様
YouTubeの画像、ありがとうございます。はい、この雰囲気ですよ。何にもない所に、ポツンとあった交換駅でした。民家は見当たらず、たしか神社だけが駅前にあったような‥。私もこの記事に誘われて行ったことがあり、懐かしい限りでした。数年前に通ると、跡形も分からないぐにらいでした。こんな時代に戻りたいと、巣籠もり生活でいつも思っています。