なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈9〉

キワ90の成れの果て

前項、広島駅前で広電を撮ったあとは、呉線へ向かいました。昭和45年10月改正を目前に控えて、呉線では、電化工事の仕上げの真っ最中でした。C59、C62はまだ走っていたものの、架線は張り巡らされて、電機・電車も通しで運転をしていました。小屋浦で降りると、側線に見慣れない、黄色に塗られた車両が留置されています。「ヤ390」の標記に、どこかで見た切妻のスタイル、後半分には機械類があります。これこそが、写すことも見ることもできなかった、貨物DC、キワ90の成れの果てだったのです。

呉線小屋浦の側線で休む「ヤ390」、電化柱の金具の取付け用に使われている貨車で、「千倉駅常備」の標記もある。これこそ、追い求めていたキワ90の末路の姿だった(昭和45年8月)。

1両でも走ることができて、貨車も牽くことができる、有蓋貨車のディーゼル動車が計画され、キワ90が2両試作されました。キワ90にも7t積みの荷物室があり、ワム2両程度も牽くことができ、閑散線区の貨物用の切り札としての構想がありました。昭和35年に2両製造され、宮崎機関区に配置され妻線で使用されました。全長8.8mの車体に、切妻は、格好の模型化のアイテムとなり、「模型とラジオ」か「模型と工作」に製作記が載ったことも覚えています。ぜひ写真に収めたいと、昭和42年の最初の九州行きの時も、そのつぎに行った時も、妻線の始発の佐土原へ行ったものの、結局、見ることも、撮ることも叶いませんでした。ただ、実際は、非力で使い物にならず、宮崎区で休車状態だったようです。

その後、キワ90 1は廃車、キワ90 2が電化工事用の作業車キヤ901となり、新小岩にあって房総線区の電化工事に使われました。そのあと、昭和45年には運転資格が求められる気動車ではなくなり、貨車扱いのヤ390となったのでした。小屋浦で見たのも、呉線の電化工事で一時的に使われてものでした。

 なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈9〉」への4件のフィードバック

  1. 勾配線区の妻線でなく、日南線で試験的に使われたように聞いていました。
    でもこれは貴重な写真ですね。

    • KH生さま
      貴重な情報、ありがとうございました。たしかに妻線より、海岸沿いを走る日南線のほうが平坦で適していたのかも知れません。実際に稼働していたのは、極めて短期間だったと思います。ところが、BOXにあったDCアルバムには、一年上のTさんが撮られたキワ90が貼ってあって、驚いたことがあります。

  2. 総本家青信号特派員様
    こんなとこにおったんですか?というような存在でした。若い頃はC57やC55追いかけていてとても妻線まで手がまわりませんでした。ありがとうございます。

    • 準特急さま
      コメント、ありがとうございます。はい、私も妻線は乗らず仕舞いでした。ただ、分岐の佐土原は、構内も広くて、C55、C57の発車や、DF50「富士」を撮ったことがあります。その時ももしやと思ったのですが、妻線の貨物はC56でした。

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