廃止当日をしのぶ 〈特別版〉 ①
▲今日が四条・千本。大宮線の廃止から丸50年、廃止反対の世論の絶頂期で、他線の廃止とは様相の異なる最終日となった。「さよなら」のマークは、最終電車のみに取り付け、私は最後の1号乙系統を、四条烏丸西行きの安全地帯によじ上って迎えた。時に昭和46年1月22日23時50分だった。
▲50年前の様子は、見つかった日記からよみがえった。7時30分に起きて、自転車で祇園へ行き、四条通や一力茶屋を入れて撮影、市電は乗客で一杯で、果たして明日から代替バスで輸送できるのか案じられた。
今日も写真展受付のため、朝、四条通を急いでいると、当会の勘秀峰さんとばったり出会い、話しながら写真展会場に向かっていますと「四条線がなくなって、今日で丸50年ですよ」と聞きました。私も漠然とは意識していたのですが、今日がその日とは初めて知りました。しかも、50年前も同じ土曜日だったと聞き、巡り合わせにびっくりしました。二人で会場に着くと、もうお二人が写真を熱心に見学中です。“いよっ”と挨拶されたのは‥‥。
なんと市電大好きの国会議員のKさんでした。何度も写真展に来ていただいています。四条線の展示写真の前で思い出話を聞かせてもらいます。Kさんは、学生時代、四条通にあった氷屋でアルバイトをしたそうで、ある時、自転車で配達途中、市電のレールの溝にはまって自転車ごと転倒、何十貫も積んでいた氷の塊を軌道にぶちまけてしまい、市電を止めてしまったそうです。「氷を落として市電を止めたのは、ワシだけや」と楽しそうに話されるのは、党の国対委員長として国会で舌鋒鋭く追及されている姿からは、想像もできない、和やかで楽しい雰囲気でした。その頃、ちょうど山科の人間国宝ご夫妻もお見えになり、さらに談笑の輪が広がって、写真展ならではのリアルな現場の醍醐味を感じたところでした。
さてさて、その50年前の様子については、勘秀峰さんのブログでも詳細に紹介されていますが、記憶力の衰えた私は、ほとんど記憶のないのが実態でした。ところが、転居の際に、50年前の日記が見つかり、前後の様子がはっきりしました。学生身分の私の状況は、かなり“ヤバイ”状況だったことも分かりました。と言うのも、学校は全学封鎖されていて、授業はもちろん、DRFCの活動も絶たれていたです。学費値上げ反対を中心議題にする学生大会が1月13日にあり、無期限ストを可決、当日ただちに今出川、新町が全学バリケード封鎖されたのです。全学バリ封は2年ぶりですが、その時は、教室のみ封鎖で、キャンパスは自由に行き来ができたのですが、今回は、各門に机を積み上げた完全封鎖で一歩も中へ入れません。ちょうど入学試験、現役も学年末試験が控えていて、急遽、全科目レポートに切り換える混乱のなかで、片や、市電は四条・大宮・千本線の廃止へと舵を切ったのです。▲西門は完全封鎖、中へ入るには通用門に立てかけた梯子を使って出入り。▲▲学館は出入り自由だが、アジビラで埋められる。
今日も会場で「なんで四条線だけが中途半端な廃止日なのですか」と聞く方がおられました。これは、市電廃止の市民世論を、お上も無視することが出来ず、廃止を先送りした結果と説明しました。日記によると、廃止日が新聞報道されたのは、1週間前の1月15日、たぶん年度末廃止と踏んでいただけに、大慌てで、片やレポート制作のかたわら(もっぱら本の丸写し)、一週間の市電撮影にも励んで、廃止当日の22日を迎えたのです。以下、当日の写真を列挙しています。
▲祇園で撮ったあと、自宅に戻って食事のあと、再び祇園から歩いて撮影を続ける。ここで何人かのDRFC会員とも出会っている。京阪との交差を撮り、東華菜館バックに「1」を撮る。続いて、四条河原町新京極の西行き電停から、交差点を渡る700形を撮る。両側の建物、看板がホントなつかしい。写真展にも展示したが、今日の見学者からは、市電の右に写っている、京都交通のカマボコ(NSKボデー)が懐かしいとの声も聞いた。(つづく)
今日の投稿はないと油断しておりました。勘秀峰さんのブログに刺激されて自分自身の足取りを探り、もう一度デジ青をのぞいてみるとビックリ!
私は中学3年生で午前中は授業があるため、午後からの撮影になりました。愛用のハーフカメラを手に、壬生車庫・四条大宮・祇園などを撮り歩き、千本三条で1系統の最終電車1822を見送りました。この時総本家様とニアミスしていたのも、電車の神様の思し召しでしょうか。
掲載の写真が、まさか廃止当日に慌ただしく撮影されていたとは驚きました。写真集などで何度も拝見した場面で、普段からこまめに撮影されたものと勝手に思い込んでおりました。
国会議員のK氏は、よほど市電に愛着がおありのようですね。氷屋のアルバイトで市電を止めたエピソードも、今では懐かしい思い出でしょう。
京都市電四条線が廃止されて50年ですか。天気予報で京都の天気をライブで放送しているときに東華菜館と四条大橋を俯瞰した場面が写るとここに市電が走っているといい絵になるのにと思ってしまいます。ところで1970年にDRFCに入会して本格的に写真を撮り始めて2年あまり短い期間でしたが今でも印象に残っている写真が何枚かあります。その一つが南座のおおきな提灯と市電を一緒に撮った写真です。なんとか撮ってみたいと思っていたのですが、人と車が多く、そして車道側に並んでいるぼんぼりの柱がどうも遮ってしまうので写真を撮るには難しいところです。そして、渾身の一枚がとれました。ペンタックスSPでレンズは標準の50mmです。構図的にも難儀をしました。
四条線と言えば思い出に残るのが5月?の新歓コンパ、円観での宴会の後恒例の祇園石段下の万歳三唱でした。何時頃だったでしょうか人通りも多い中、衆人の目もはばからず繰り返される万歳三唱。恒例の万歳三唱は私の卒業のするころはなかったように記憶しています。円観がなくなったからでしょうか。それとも強烈な個性をお持ちだった諸先輩方が卒業されたからでしょうか?万歳と同時に、その時四条通りを正面から走ってくる市電が思い出されました。
総本家様、22日はありがとうございました。
一緒に会場に入ったらKさんと秘書の方が、四条線の
写真を見られているところでした。
Kさんに私を紹介していただき感謝です。
大津の86様が4回生の時は私が1回生で、
しっかり万歳三唱の伝統は守っていました。
私が音頭を取ることも多かったです。
羽目を外していろいろなことをしました。
勘秀峰さま
コメント、ありがとうございます。昨日は、途中で出って話していたことを、さっそくデジ青ネタに使わせてもらいました。K議員との出会いも劇的でしたね。さっそくツイッターに上げてもらいましたよ。
https://twitter.com/kokutakeiji
しばらく勘秀峰さんのブログと同時並行しますが、お互いに頑張って書きましょう。
総本家様
早速K議員のツイッターを拝見しました。写真で大きく紹介されて、感激です。廃止50年と言うことで、わたし的に盛り上がっています。千本・四条・大宮線で忘れていたことを思い出して、記録に残すチャンス到来です。私の方こそ筆を進めますので、よろしくお願いします。
そうでしたか、失礼しました。勘秀峰さんが音頭を取られていたのですか。祇園石段下の伝統は守られていたのですね。卒業のころは円観はなくなっていて、同じ円山公園にあった別のところでやったような記憶があったのですが、会場は円観だったでしょうか?
86さんが卒業される前後から、円観ほど近くの「いふじ」でもコンパを開催し、青の活動報告を見ると円観といふじ、半々くらいでした。学生コンパ専用?の円観と違って、いふじは多少なりとも趣がありました。(飲んで騒げはどこでも一緒!?)コンパでは函館出身のSさん(故人)が~チンタラタンチラ と春歌を唄うのが十八番になっていました。