昭和の電車 改訂版(248)ー大分交通別大線150型・1000型ー

むかし別大マラソンがあった頃、この線路端を走っていました。

昭和の電車 改訂版(248)ー大分交通別大線150型・1000型ー」への6件のフィードバック

  1. 関 三平さんの解説を少し補足させていただきます。
    100形は、昭和3年から6年にかけて川崎車輌で16両(101~116)新製されました。昭和31年から32年にかけて101、103、108、109、111、113、114、116の8両が制御器を取替えて連結運転可能に改造されました。改造後の車号は、旧車号+50が付番されました。(例、旧車号101→151)
    昭和44年3月25日、官公街勧銀前、関さんのイラストの163です。

  2. 連接車1000形は、撮影に失敗しています。
    昭和44年3月25日、官公街勧銀前、2両固定編成の1100形です。
    昭和38年に2編成(1101A+1101B、1102A+1102B)東洋工機で新製されましたが、大き過ぎてラッシュ時以外は車庫で寝ていました。別大線は、9年後の昭和47年4月5日に廃止されましたが、引取手が現れず、解体されてしまいました。

  3. 実は別府ー大分間の鉄道は大変歴史が古く、九州初の電気鉄道として1900(明治33)年に開業した歴史があります。
    この鉄道のために大野川の上流に沈堕発電所を作り、今は廃墟になった建物が、マニアックな遺蹟になっています。
    日豊本線が大分まで伸びたのは大正期ですし、別大電車は理想的な都市間連絡のインターバンだったのですが、昭和47年にバス会社の大分交通が次々鉄道路線を短縮、廃止した時代に見直しもされずに国道拡幅と日豊線の複線化のために消えました。
    一昨年に50年ぶりに大分県に仕事で住んでみて、熊本市の繁栄に較べて大分市と県全体の衰退を感じました。別大電車を廃止にしたツケは現在の大分にとり大きな損失だったと、私は寂しさを覚えました。

    • 『「路面電車」と「私鉄線のある」熊本市に較べて』という一文を書き落としました。私が言いたかったことは、そこです。

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