尾道鉄道跡をたどって(その3)

国道184号線の坂道を登り切った峠の切通しに交換駅でもあった畑駅があったのですが、今は全く面影はありません。ここを過ぎると2つトンネルがあり、終点市駅に向かって下ってゆきます。このあたりの拡大地図を載せます。

諸原駅近辺詳細図

現在、国道184号線はカーブした高架橋で諸原の谷をひとまたぎしていますが、狭い山道が山肌を回り込むように旧道として残っています。この旧道は「出雲街道」あるいは「銀山街道」と呼ばれ、石見銀山から尾道へ向けて銀が運ばれた街道でした。線路跡は2つのトンネルを抜けると左側にカーブして勾配を下り、スイッチバックの駅、諸原駅に着きます。現在はこの線路跡に板金溶接工場が建ち、通り抜けることができなくなりました。次の写真は①地点から、下ってゆく線路跡を見たところです。先の方に工場建屋が見えます。

令和4年1月7日 諸原駅に向かう線路跡

ここから先は工場の敷地なので引き返すことにします。旧道に戻り、諸原の谷に下りてゆきます。尾道学研究会発行の「タイムスリップ・レール・・オノテツ」より写真を数葉引用させて頂きます。線路の状況がよくわかる1枚です。

右手に登ってゆくカーブした線路跡に、今は工場が建っている。この架線柱、電柱はのちほど話題にします。

拡大地図の③地点になります。

諸原駅に進入するデキ15   左手の赤枠の窓に注目!

現在の③地点   茶店跡の縦桟2本、横桟1本の特徴あるガラス窓が今も残っている。

デキ15の後方に写っている藁葺屋根の民家は建て替えられて現在も同じ場所にあります。

茶店跡の窓に注目

上のデキ15の写真を拡大してみると、左手の赤枠で囲った部分の窓が、現在の茶店跡の窓と一致します。その先にプラットホームと駅舎がありました。

諸原駅

③地点から右手に茶店跡と奥の諸原駅跡を見てみます。

諸原駅跡方向を望む

上の写真では線路跡でもある舗装道路が左側に曲がっていますが、元の線路跡は茶店の前をまっすぐ進み、正面にある生垣で囲まれた民家のある場所が駅跡でした。上の諸原駅の写真で、左手に山に登ってゆく道が写っています。また左手の線路わきに伐採された材木らしきものが積まれているように見えます。更に谷の奥、拡大図の②地点へ行ってみましょう。

諸原駅跡の民家と目印のヒマラヤ杉

実は、平成28年8月23日に「尾鉄のお宝発見」と題して投稿していました。それから5年近くが経った令和3年5月4日に、そのデジ青の記事にコメントがありました。そのコメントを頂いたのが、何とこの諸原駅跡に建っている民家の主K氏でした。驚きました。そしてK氏から、2本のヒマラヤ杉が駅舎の奥側にあったものだとのコメントを頂きました。その後、コロナ等で出控えていたため、現地再訪が遅くなってしまいましたが、この度ようやく目印のヒマラヤ杉を現認してきました。

②地点 諸原駅の終端部分とヒマラヤ杉  道は更に奥へ延びている

ここから先に登山道が続いていますが、60年も経った今では、かつての写真のようにその先の道は見通せず、イノシシやサルも出てくる所でもあり、敢えて一人で先に進むのは止めて引き返しました。

この民家がある生垣の右手が元線路です。さてもう一度、駅の写真をご覧ください。上の写真あたりが、伐採された材木が線路際に置かれていた場所になります。尾鉄にはト151~153の3両の無蓋車があり、この諸原から木材を積んで尾道に運んでいました。貨物ホームはありませんが、一段高い道路から積み込んでいたと思われます。

駅の写真のホームに立っている案内看板が御調町の歴史民俗資料館に保存されているのを見つけて、平成28年に「お宝発見」として投稿したのです。それが次の写真です。

諸原駅に建てられていた看板

諸原駅霊蹟とは?

ここに出てくる霊蹟とは何かが気になります。「霊水温泉(内湯)」とは、廃屋として残っている茶店のことで、すぐそばの谷川の水をくみ上げて「温泉」としていたようです。「櫻花隧道」とは駅周辺の線路際に植えられた桜並木のことです。昭和32年の廃線後でも春には茶店の2階座敷が花見客でにぎわったそうです。今ではすっかり老木になった桜が何本か残っています。今年の桜の季節に再訪してみようと思います。

線路跡にはぼんぼりも建てられて花見客でにぎわう。撮影時期は昭和32年以降。

「龍王山」は、あの登山道を進んだ先にある標高366mの山です。「ハイキングコース」と「景勝十選」がどこを指すのかわかりません。そして最後に問題なのが「仙人塚浄聞房御廟」です。まず手掛かりとして「浄聞房」を調べることにしました。だんだん鉄道からは離れてゆきますが、ご勘弁を。浄土真宗の宗祖 親鸞の語録が「歎異抄」です。その付記に、仏法を巡る対立があったのか、「法然は土佐に、親鸞は越後へ、浄聞房は備後へ流罪となった」と記録されています。法然、親鸞については詳しい動向が明らかなのに対して、浄聞房が備後のどこに流されたのかが全くわかっておらず、諸説があるようです。尾鉄の終点市駅がある御調町の中心部に照源寺という浄土真宗のお寺があり、この寺のルーツが諸原谷であることがわかりましたので、「餅屋は餅屋」ということで、照源寺を訪ねてご住職に直接聞くことにしました。

御調町市の浄土真宗照源寺

この照源寺は、鎌倉時代前期の寛喜元年(1229)に浄聞房の弟子 明光坊良雲上人が諸原谷に建立され、その後衰退を繰り返し、江戸時代中期の元文2(1737)年に現在地に移ったとのこと。要するに浄聞房と諸原のつながりを示す文書などはないが、開基である良雲上人が浄聞房につながる僧であることもあって、備後のどこに流されたかわからない浄聞房の廟が諸原だと誰かが仕立てたのではなかろうかと。また良雲上人がこの地で修行した仙人ではなかろうか。その仙人が修行した「かがら岩」「ひんだら岩」という2つの岩があり、その二石が仙人塚と呼ばれており、龍王山登山道の途中に岩窟があり、そこに祀られているものを「御廟」と言うのではなかろうかと丁寧に教えて頂きました。

話がかなり横道にそれてしまいましたが、諸原駅に戻ります。最初から2枚目の写真に赤い矢印で「電柱」を敢えて記入しました。この場所に行ってみました。

②地点

上の写真で、デキ15が登ってきているあたりです。工場の方へのぼっている右手の道も線路跡です。そこに門柱のように2本の木の柱が立っています。近づいてよく見ると上は切断されているものの、明らかに架線柱の残骸だと思われます。

架線柱の残骸?

点検のために電柱に登るための足掛かりとなるボルトやボルト穴も残っており、電柱、架線柱に間違いないと思います。位置的には前の写真と符合します。お花見の写真に写っていないのですが、画面の右端すぐにあって、画面から外れたのだと思います。諸原探索はこれで終わりです。今度は誰かと一緒に谷の奥へ踏み込んでみたいと思います。(その1)の慰霊碑がなぜ「南無妙法蓮華経」なのかが未解決ですので、もう少し調査し、新たな発見があれば続編をお届けすることにして、取りあえず中締めとします。

尾道鉄道跡をたどって(その3)」への4件のフィードバック

  1. これは良い記事ですね。感服しました。
    陰陽連絡のいにしえよりの歴史は、いくつもの途中で建設中断の鉄道や、山の中の終点駅をもたらしましたが、尾道鉄道建設時の情熱と、観光客誘致の涙ぐましい努力の跡に感激しました。
    確かに尾道は、石見からの銀山の鉱産資源の積出港と同時に、四国からの銅鉱山の産物を集めていた場所で、鉄道の開通は非常に急務でした。
    今も残る三井住友銀行尾道支店は、住友という企業にとり雌雄を決した「尾道会議」の舞台として残されて、今も駅前商店街を歩く度に、伊庭貞剛らの歴史ドラマを思い出し胸を熱くします。
    歴史の谷間に咲いた尾道鉄道の苦闘も、決して忘れること無く、跡を訪ねて偲んでみたいと思いました。

    • K.H.生様 コメントありがとうございます。尾道方面にお越しの節はご連絡下さい。鉄道以外の見どころも多いのでご案内させて頂きます。

  2. 西村さん、諸原に架線柱が残っていたのですか。一緒に訪れた7年前の写真を見ると同じように2本の柱が写っていました。そのときもあったのですね。ところで前回に訪れた時の投稿で「備後・備中に消えた鉄道を訪ねて 最終回 ~こんどは“おのてつ”のまぼろしと尾道の「ハッサク電車」~」で紹介した中国放送の「ひろしま戦前の風景」の中で尾道鉄道の動画があります。動画の中で「輝く郷土 御調郡市村」と「桜と尾道鉄道」があり、いまでも見ることができます。「輝く郷土 御調郡市村」には諸原のスイッチバックも写っています。なかなかいい動画です。さて、信貴山急行電鉄ですが、書かれてある鉄道友の会の機関誌「RAILFAN(通巻422号)」は国会図書館に所蔵されていることがわかりました。ところが所蔵検索すると通巻422号は欠番でした。しばらくして電話で先輩の井原さんから連絡があり、所蔵しているのでコピーをメールで送ってあげるよとのありがたい連絡がありました。読んでみると意外なことがわかりました。それは現地調査で確認したいと思っています。その現地は少し遠いのでいろいろなことが落ち着いてから行ってみようと思っています。

    • どですかでん様 そうですか。井原氏がお持ちでしたか。よかったですね。現地調査の結果を是非ご紹介下さい。

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