京都市バス201系統 50年~祇園囃子を聞きながら

京都に祇園囃子が戻ってきました。昨年、一昨年は、祇園祭の巡行は中止、3年ぶりに囃子を耳にしました。京都の人間は、やっぱり心が浮き立ちます。私も昨日、写真展見学のついでに、四条通へ行ってきました。

高齢者は、無理やり市電と結び付けようとしますが、満員の通行人のうち、市電を知っている世代は皆無に近いほど、若い人たちが多いのに驚きます。市電四条線が無くなったのは昭和47(1972)年1月ですから、ちょうど50年になるわけです。代わりに走り始めたのが京都市バスで、市電の経路に準じた、系統番号200番台の代替バスです。その代表が、市電1号系統の代替バスとなる201号系統です。

祇園祭巡行でつねに先頭を行く長刀鉾の横を走る、京都市バス201号系統。みぶ~千本今出川~百万遍~祇園~壬生と、京都の中心部、千本、今出川、東大路、四条通を循環する。市電の1号系統の代替バスとして走り始めて、ことしで50周年となる。市電廃止時に多くの代替バスが走り始めたが、この間、一度も経路が変わらず、京都の中心部を走り続ける、市バスの代表的な系統となった。

函谷鉾の前で信号待ちの201号系統、令和3年、交通局が行った乗客流動調査によると、201号の1日旅客数は12,000人で、全系統のうち6位(1位は205号の30,200人)、キロ当たりの乗車効率は20%だった。時刻表の横に張り出している「100円の収入を得るのに掛かる費用」を見ると、令和元年は84だったが、令和2年はコロナ禍の乗客減で121に悪化している。四条通にバス停が張り出した「四条高倉」で客扱いする201号系統、本数は、平日5~23時の運転で85本程度、日中はほぼ10分ヘッド、循環系統のため、長距離の利用はなく、短区間の利用客が多い。ちなみに四条高倉の1日乗降数は8,900人で7位(1位は京都駅前の41,800人)

▲▲201号系統のバスを有名にしたのは、市電代替時に一挙に60両が投入された、都市型低床バスいすゞBU06Dの存在だろう。京都市向けに特注された大型のバスで、市バス最大の定員86人、もっぱら201号などの代替バス専用となった。

市電時代にさかのぼると、201号系統の元となった市電1号系統は、壬生車庫の所属で、東京、大阪でも同様だが、中心部を走る代表的な経路であるところから、栄えある「1」となった。昭和20年3月、市電の系統が「かな」から数字に改められて以来、廃止までの27年間、赤い円板のファーストナンバーが走った。さらに戦前までさかのぼると、1号系統となる前身となる「あ」「い」系統に行き着く。昭和10年3月、「かな」系統となった際、車庫の開設順に、あ行、か行、さ行と割り当てられて、壬生車庫所属の中心部循環系統は、外回りは「あ」、内回りは「い」となった。四条大宮で曲がる「あ」系統(右)、つまり、「あ」「い」、「1」の市電系統、「201」のバス系統は、昭和10年以来、約90年近くに渡って、全く経路が変わらず、連綿と受け継いできた、京都の顔とも言える系統なのである(戦前の一時期、北大路回りに変更の時期はあるが)。このことを知ったのは、JR東海の顧問の須田寛さんの講演で、系統・経路の妙味を聞かせていただいた。また、勘秀峰さんのブログのなかでも「京都市電の系統」で詳しく解説されている(古写真は大西コレクションから転載)。

京都市電(系統): ミュージアムと路面電車の世界 (seesaa.net)

京都市バス201系統 50年~祇園囃子を聞きながら」への9件のフィードバック

  1. テレビの宵山の生中継を見ているとコロナ前より多いと思う人出で大騒ぎに様相でしたね。新しく作曲?された祇園囃子の生演奏もなかなか興味深いものでした。ところで学生時代に先輩のTさんに「宵山を見に行くよりはその前に行く方がじっくり見られるし写真も撮りやすいで」と誘われて行ったときの写真をご覧に入れます。その先輩は地元なのでいろいろ説明していただきました。むしろ山鉾巡行や宵山の超雑踏の中を見るよりは本来の祇園祭りを見たのでした。その時の写真をご覧ください。鉾の上にのって(お金を払って、しかし払った以上に値打ちがありました。)写真はもう一枚あります。   続く

    • どですかでん様
      函谷鉾からの四条線ですね。いいですね。鉄道写真の大家、高橋弘もこの函谷鉾からの写真を発表されていて、「こんな撮り方があるんや」と感心したことがありました。いまは、柵やコーンやロープでビシビシに規制されていますが、この時は邪魔ものもなく、実におおらかに市電が走っています。

  2. 続きの写真を載せます。印画紙に焼いて見つけたのですが「スナック鉾」の看板が写っていました。さすがやな~と思って見たものです。ところで京都へ行くと200番台のバスを見るのですが、どうも今でも市電の系統図や路線図が頭の中に浮かぶので実際どれに乗ったらいいのかすぐにイメージできるのも市電のおかげなのでしょうか。

    • 代替バスの系統番号は、当初は、市電時代の系統番号に200を足したものでした。市電の経路さえ覚えていれば、理解できたのですが、次第に改廃が進み、いまでは201号ほか少数の系統になりました。

  3. 市電代替バスは、京22か382~441の60両新製されました。低床、広窓、下半分にガラスが入った引戸の後部扉等、当時としては近代感溢れる画期的な車両でした。
    市電代替系統は、均一区間でしたが、後乗りとしたため、サイドの方向幕は後部に設置されました。(ラストの438~441のみ、他の均一区間で使用されたため、前後に設置されていました)
    201系統が直ぐに見つからなかったため、14系統で使用中の「京22か429」です。

    • 藤本様
      写真、ありがとうございます。私も初めて乗った時の感動を覚えています。とにかくデカクて、車内も広く、2段ステップながら「低床バス」と宣伝されて、“これが未来のバスか”と思いました。正面の赤帯、黄帯も似合っていて、市電が無くなり、一夜のうちに、このバスが四条通をバンバン走る姿に、“やっぱり将来はバス”の思いを強くしました。

  4. 最近の人気記事に出てましたので、201系統にこじつけて壬生車庫付近の話題を紹介したいと思います。
    まず、市電時代の架線柱です。5月26日付の新聞に「擬宝珠・UFO・ベレー帽」の見出しで紹介されました。「廃線跡ウオッチャー」と称する方が2012~13年にかけて調査されたところ、市内に約110本が見られたそうです。それが2023~24年にかけて再調査されると、79本に減っていたとのこと。四条大宮から千本三条間の後院通は歩道整備と電柱の地中化が進行中で、廃線跡ウオッチャー氏によると「いつなくなっても不思議ではない」そうです。
    壬生車庫前、いや「みぶ操車場前」バス停近くには市電の架線柱が2本見られ、交通信号機が取り付けられて現役で活躍しています。四条大宮に向かって歩けば、もう2本の市電架線柱もあります。先端には橋の欄干にある擬宝珠に似た物体がついていて、「擬宝珠型」とは言いえて妙と思いました。
    もうひとつはみぶ操車場に出現した市電の線路で、こちらも7月4日付の夕刊に紹介されました。市電の線路の存在は以前から知られておりましたが、一日に300回にも及ぶバスの出入りでアスファルトがはがれ、敷石が姿を見せました。
    添付の画像は昨年12月の撮影で、画面左に錆びた市電架線柱が2本見えます。市電1号系統をしのんで、後継者の市バス201系統と絡めてみました。

    • 紫の1863さま
      2年前の古い投稿に反応していただき、ありがとうございます。最近、壬生車庫跡の周辺の市電遺跡について、新聞を賑わしていますね。この“廃線跡ウォッチャー”は、以前に米手さんが、“ここはどこ”で紹介されていた古い京都の鉄道を撮っておられたNさんの息子さんに当たる方で、著書も出しておられますね。ちょうど、壬生車庫付近から四条大宮方面を向けた写真の市電時代が出てきました。“逆”定点対比です。望遠ですので、やや画角が狭いですが、「大将軍」がひときわ高く見え間す。

      • 続いて同じ撮影位置から、反対の千本三条方面です。ひときわ目立ったのが、右手、唐破風のある木造の銭湯“田原湯”でした。今は玄関が改装されて唐破風は見られませんが、銭湯は盛業中です。ちょうど田原湯の前に、そのいわくありげな架線中が見られます。

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