あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~29~

2006年11月 初めて鹿島鉄道へ  (1)

「あの日あの頃」も続けます。2006年に鹿島鉄道へ行っています。茨城県下には非電化の私鉄が多くありましたが、常総線や筑波線は、連れられて行ったことはあるものの、距離も短く、車両数も少ない鹿島鉄道は、訪問順位が低いものでした。鹿島鉄道がアテにしていた貨物輸送が無くなり、急に先が見え出した、この年の11月にやっと訪れることがてきました。これぞ“ニッポンの田舎”と言った、穏やかな風景、きれいに整備された車両と、すっかり魅入られました。

霞ケ浦の湖畔を走る。対岸も望めて、筑波山も霞んで見えている。玉造町~浜 キハ432   鹿島鉄道は石岡~鉾田27.2kmの非電化私鉄。1924年に鹿島参宮鉄道として石岡~常陸小川が開通し、1929年に石岡~鉾田が全線開通した。その後、1965年に取手~下館、土浦~岩瀬の常総筑波鉄道と合併し関東鉄道となり、石岡-鉾田は鉾田線、取手~下館は常総線、佐貫~竜ヶ崎は竜ヶ崎線、土浦~岩瀬は筑波線となった。常総線は都心に近く利用客が増加したが、鉾田線と筑波線は利用客が減少、同じ運賃では採算が合わなくなったことから、関東鉄道は鉾田線と筑波線を分社化させ、鉾田線は鹿島鉄道、筑波線は筑波鉄道に分社化された。

その後も旅客の減少は進んだが、自衛隊百里基地への石油燃料輸送の貨物輸送が定期的に行われていて、貨物収入があったことから廃止を免れてきた。ところが、榎本駅と百里基地を結ぶ石油パイプラインの老朽化により、2002年に貨物輸送が廃止されると経営がさらに厳しくなり、2007(平成19)年3月31日をもって廃止されてしまう。石岡8:18発の列車に乗って、まず下車したのが常陸小川駅。構内には車籍のなくなったDD901が留置されていた。

近代化いっさいなしの常陸小川駅の改札口付近。▲▲駅前も昭和の佇まい。常陸小川に到着のKR502、これに乗って、終点の鉾田へ向かった。

 

 

 

 

乗車30分余りで鉾田に到着、ここも昭和そのものの風景が。なんとも奇抜なファサードを持つ鉾田駅。「かしてつ応援団」のポスターが各所に貼られている。鹿島臨海鉄道の新鉾田に近い。

旧字で書かれた駅名標。▲▲アーチのある標識は、鹿島参宮鉄道時代から。折り返し、鉾田で発車を待つKR502号 KR500形は鹿島鉄道になってからの新造車で、501~503、505の4両があり、車内はセミクロス。

 

 

 

 

 

 

 

 

借宿前まで乗車。ホームから乗車列車を見送ると、林を切り裂いた勾配区間を抜けて行くところ、勾配の頂点に掛かったところで、後ろ姿をとらえた。借宿前は交換可能駅、キハ431とKR505の交換を撮る。しばらく列車も来ないので、線路上を借宿前から歩きだして、ふた駅先の玉造町まで6キロを歩き通した。途中通過したキハ602を撮影。もとを正せば国鉄キハ07で、正面切妻、総括制御に改造された。玉造町駅の構内で次の列車を待っていると、近くの親子連れ数人が出て来て、キハ431の到着をお出迎え。

色づき始めた木々のもとで、親子連れはホームに到着した列車へ手を振る。

▲▲列車が出て行っても、子どもたちは、耳をレールに押し当てて轍音を聞いていた。

 

 

 

路線バスも発着する玉造町駅、駅舎も立派で、「手打うどん・そば」の幟のように構内で営業中で、私もここで遅い昼食とした。

 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る ~29~」への3件のフィードバック

  1. 鹿島鉄道は風景も車輌も良かったですね。私も雑誌で見て気になり、何度か訪問しました。とはいっても京都から遠く離れた茨城県、連休の無い私には正月以外にチャンスはありません。最後の正月は訪問者が多く、いつも昼食に寄った鉾田のラーメン店は大変な混雑で、顔なじみのお姉さんはてんやわんやでした。
    添付の画像は2003年1月3日の撮影で、この頃は同業者を見かけることもなく、のんびりと撮影ができました。八木蒔で降りて桃浦方向に歩き、霞ケ浦の向こうに筑波山の見える場所がお気に入りでしたが、なかなか好天に恵まれませんでした。

    • 茨城県下の私鉄は、魅力的な私鉄が多かったですが、私も鹿島鉄道が、いちばん印象的でした。京都から、なかなか行きにくいところですが、私も廃止前にもう一度行くことができました。霞ヶ浦畔のこの場所、いかにも鹿島鉄道らしいところです。筑波山もよく見えますね。いつ行っても風が強くて、関東平野の空っ風を実感したところです。

  2. 総本家青信号特派員様
    近辺の鉄道でしたので、コメントさせていただきます。
    鹿島参宮鉄道の沿革については中川浩一著の「茨城の民営鉄道史」に詳述されていますが、本来は「石岡-玉造-麻生-潮来」間で建設し、北浦区間は汽船連絡で考えられていたようです。ところが鉾田終点となったのは郡役所、警察署、中学校があり、この地方の中心地であり株主の意向も踏まえ、鉾田が終点地となりました。1927年には社名通り鹿島神宮への最短経路を開くため、「浜-大船津」間で3隻の船舶で直営の航路を開設しました。船舶事業は航路に並行した乗合自動車との競合で赤字が続き、1931年に水郷遊覧汽船に譲渡されました。浜駅に隣接した汽船発着場の遺構は今でも残り、漁船に使用されています。
    石岡乗換えでも車でも自宅から1時間ほどですので何度も訪問しました。鹿島鉄道はコンパクトな鉄道路線なので、よく映画やテレビの撮影に利用されました。廃線直前の2007年2月に玉造町駅で長澤まさみさん主演の『そのときは彼によろしく』の撮影に出会ったのも懐かしい思い出です。

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