あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る  ~10~

関西本線沿いの私鉄 三岐鉄道

続いて北勢線と並行する三岐鉄道へも寄りましたが、もう夕方で、数枚を撮っただけで退散しました。今では旅客は、西武鉄道から来た電車に占められていますが、この時代は、自社新造、社型電車など、一両ずつ個性のある電車ばかりで、まだ青緑に塗られた旧塗装でした。三岐は、セメント会社と地元株主によって設立された産業鉄道で、長らく貨物は蒸機、旅客は気動車で行われ、電化したのは昭和29年で、貨物は電機に代わったものの、旅客の全線電車化は昭和35年のことで、訪れた年のわずか14年前のことで、電車化の際に用意された車両がほとんどでした(以下、昭和49年4月)。終点の西藤原に着いた電車、かなりの乗降客があったことが分かる。いま、ウィステリア公園として、三岐で使われた蒸機などが保存されているところには、貨車ホームがあったことが分かる。

終点、西藤原駅、いまの蒸機を模した駅舎に改築されるのは平成14年のことで、当時はごくありふれた駅舎だった。

西藤原に停車する、クハ201+モハ130の編成。手前クハ201は、もと西武鉄道のクハ1230で、三岐の電化時に移って来た。電車スタート時は中古車両ばかりだったが、のちに自社発注車が造られた。日車製のモハ130もその一両で、両開き3扉の両運転台車、下降窓が地方私鉄には珍しい。西武車の大量転属で、琴電に移って最近まで働いていた。西藤原駅で発車を待つ、モハ150+クハ201 国鉄貨車も乗り入れしていた。近くに聳える藤原岳の登山口として知られている。当時の山ガールがホームを行き来する。

三岐鉄道は貨物の受け渡しのため、国鉄の富田に始発駅を設けた。しかし旅客が増えるにつれ、大部分の乗客が近鉄に乗り換えるため、10分余りの徒歩連絡を強いられていた。そこで、近鉄の富田駅への短絡線を設け、昭和45年に完成し、写真のように当時は、国鉄行きと近鉄行きの両方があったが、近鉄へは27往復、国鉄はわずか5往復と、近鉄が圧倒的に多く、昭和60年から旅客はすべて近鉄富田発着となった。東藤原へも寄って電車を撮影。モハ150+クハ200+モハ110の3両編成、モハ150は西武所沢工場製、昭和47年製の最新車両だが、台車、電機品は戦災国電の流用。後尾のモハ110、元豊川鉄道の買収車で、国鉄モハ1610形モハ1612となり、宇部線、福塩線を経て、昭和31年の電化時に三岐に来た。

 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る  ~10~」への4件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様

    このシリーズ、毎回楽しみにしております。特に前回と今回は、昨年9月に訪ねた場所ですので、新旧の対比が面白く感じます。何気ない風景を写真に収めておくことの重要性もよく分かりました。

    • 奈良の駅名研究家さま
      記事をアップして数分後、まるで待っていたような速攻コメント、ありがとうございます。そうですね、私も、西藤原の駅名標は、以前の奈良の駅名研究家さんの投稿を意識して載せました。私の長~い趣味人生で得た結論、「とにかく何でも記録しておく」。数十年後の“デジ青”で、きっと役立ちますよ。

      • 総本家青信号特派員様

        実は速攻コメントには訳がありまして、DRFC-OB デジタル青信号のTwitterアカウント(https://twitter.com/drfc_ob)をフォローし、「通知ON」にしておくと、投稿があればすぐに手元の端末に通知がくるようになっているのです。

  2. 三岐のモハ150は2種類あり、車体を新製した150と151
    相模鉄道の廃車体流用の155、156がありました。
    元を辿れば戦後復興で相模が喉から手が出るほど車両が欲しかった時期に国電の焼け電の払下げを仕立て直した2000系の一員で窓配置にモハ30のよすがが残っていました。
    1986年7月21日 西藤原

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