DF50思い出写真(3)磐越西線

1963(昭和38)年4月1日の動力車配置表によると郡山に磐越西線用に3両(564,565,566)のDF50が配属されている。1966(昭和41)年3月21日に常磐線蒸機の撮影後、磐越西線の蒸機を撮りに行った。目的はD50であった。川桁で寒い布団で寝た翌22日に撮ったDF50の旅客列車で何れも川桁-猪苗代間の高原地帯である。

早朝の日出谷発郡山行き222列車。この時点ではまだ磐梯山の山容を見ることができた。▼

上野発喜多方行き2401列車牽引のDF50。先頭はスハフ42か。DF50のブルンブルンに続きズシン、ズシンの客車音。▼

DF50は3両しかないためか上り急行「第1ばんだい」2404列車会津若松発上野行きはD51[磐越西線管理所(会津若松)]牽引であった。珍しく蒸機牽引急行列車である。朝方見えていた磐梯山も昼前にはご覧の通りである。▼

この日は曇天であったが、目的のD50貨客共に1本づつ撮ることができた。

DF50思い出写真(3)磐越西線」への14件のフィードバック

  1. 準特急さま
    磐越西線にDF50が居ましたか。連続25‰が在るとはいえ、長いトンネルも無いのに運用されていたのですね。写真のように7両を牽くとなると登り25‰では時速30㎞くらいしか出ず、D51とそう変わらなかったのではと思われますから、ただただ無煙化目的の配置だったのでしょう。
    私も3月に只見・会津線のC11を撮りに入ったことがありますが、とにかく寒く、店内を撮影者の溜り場に提供してくれた滝谷駅前の万事屋で暖をとったものでした。雪景色は綺麗だったものの、気象条件は厳しかったですね。
    因みに磐西は既に電化されていてED77・455系が活躍していました。

    • 1900生様
      居ました。居ました。あとからわかったことですがTsuru先輩がDF50をカラー写真でもお撮りになっています。私は湯口徹先輩が撮られた大寺(現磐梯町)-翁島間の雪化粧した磐梯山バックの写真が好きで一度行ってやろうと思って行きました。ただ、1900生様言われるスイッチバックのあった中山宿とか更科信号所付近は言っておりません。多分DF50,マン型がゆっくりと上り下りしたのでしょう。

  2. 準特急様
    1968年8月31日の「猪苗代」に停車中の上り特急「やまびこ」です。
    すでに磐越西線は、1967年6月15日に「郡山-喜多方」間が電化されていて、普通列車はED77が牽引していました。特急「やまびこ」は、山形編成と併結のためキハ82を使用していましたが、半月後の1968年9月18日に特急「やまばと」の会津若松編成が分離され、485系電車による「上野-会津若松」間の単独編成になり、列車名も晴れて特急「あいづ」となりました。

    • 快速つくばね様
      いつもありがとうございます。このDF50の前後にはキハ82系「やまばと」上野行き、準急「いわしろ」郡山行き、格上げでキハ20・58系混成急行「あいづ」仙台行きを撮っていました。猪苗代はスキー場の仕事で出張していましたが、中には民宿を営業されている方で快速つくばねさんから教えて頂きました「高原列車は行く」の沼尻鉄道の元運転士も居ました。

  3. 準特急様、
    今回は郡山ですか。昭和35年夏あたりから臨時列車を牽引していたという話(車は秋田から借入、乗務員は?)もありますが、昭和37年製川崎MANの3両が配置され、昭和42年の電化までの5年弱の活躍でした。5年待てば転換教育はELへの1回のみで済むのに、待てなかった理由は何だったんだろうと思います。
    翌年の盛岡も同様で、5年待てば東北線電化完成にも関わらず、DD51が投入されています。東北人は「辛抱強い」と言われますが、個人的にはせっかちな人が多いのではないかと勘繰っています。
    この昭和38年秋に盛岡に新製直後のDF50 572号が貸し出されています。恐らく水戸のDF90を転属させようと、お試し的なものだったのではないかと思いますが、盛岡の答えはノー。DD51との性能差を考えれば当然の結果ですが、もしかすると前年の羽越線事故で箱型機はヤバイと思われていたのかもしれません。
    さて貼付写真ですが、郡山へ配属された3両のうち、最も長生きした565号にしてみました。1981年3月1日、多度津駅6番線停車中の275レです。瀬戸内海の対岸、福塩線70系のさよならの日、こちらでもDE10形式への第一次置換の初日でした。

    • 四方誠様
      数々の細かい情報を有難うございます。東北人がせっかちかどうかはわかりませんが電化前の盛岡へのDD51投入はいろいろな事情もあったのではないでしょうか。盛岡へ一時的にせよDF50が貸し出された話は初耳ですが、これも実験的要素があったのでしょう。郡山の3両のDF50のナンバーが不詳で申し訳ありません。メモ用紙を紛失していました。単に線路際に立ってボーと撮影していましたのであまり深いことは考えていませんでしたが、撮影データだけは投稿に必要なのでその点、磐越西線は不覚ですが、時々こういうポカがあります。多度津駅275列車のDF50565の写真有難うございます。

  4. 四方様の565号機を拝見したので、小生は566号機を出してみましょう。1967(昭42)年3月の撮影です。準特急様に遅れること1年ですが、既にD50は無く、もう電化がなったような感じで架線が張り巡らされて居りました。朝宿舎を出て中山宿へ向かう途中で撮ったもので、準特急さまが冒頭に掲出された郡山行の222列車と思います。実はこの写真、昨年の早大鉄研70周年記念誌(ピク臨増号)に出しましたが、トリミングで周囲を切りました。ここでは、ノートリでお目に掛けます。この頃は、通学の高校生は学生服に布製ショルダーバックが定番でしたが、こんな格好もDF50と同じく、過去のものとなりましたね。

    • 宮崎繁幹様
      いつも古写真を提供していただき有難うございます。また、池袋「路草」アートサロン写真展では懇親会を含め大変お世話になりました。電化間近で架線が張られているとはいえDF50の顔がよくわかり併せて列車を待つ学生さんなどがうまく配置されていい写真だと思います。

    • 宮崎繁幹様、
      関西在住者には珍しいデフロスタ付のお写真、ありがとうございます。北陸や秋田、それに九州ではよく見られましたが、ブレーキ管以外が撤去されています。SGホースも2E側しかなさそうで、会津若松方へ走るときはホースは付け替えているのでしょうね。
      1960年代に入って以降、国鉄経営も怪しくなり、普通気動車列車しか止まらない小さな駅を造って収入増を図ろうとしたり、上記の如く不要なものは撤去して経費削減に画策いたのではないかと邪推していますが、ケチくさく見えるだけで効果があったようには思えません。米手様の新聞記事ではありませんが、新幹線の建設費を捻出することも念頭にあったのかもしれません。
      中学時代の下手くそな写真でお恥ずかしいのですが、566号と564号の写真もみつけましたので、ご笑覧ください。
      上側566号は保津峡~馬堀間で1976年、下側564号は米子駅(恐らく休車中)で1977年3月の撮影です。

  5. 準特急様
    各地を走るDF50、楽しませていただいています。京都の人間にとっては、山陰線でイヤほど見かけた機体ですが、改めて、その優れたスタイルと、DF50から眺めた各線の車窓風景を思い出しています。私にとって、この磐越西線と、中央東線のDF50は、いずれも山岳風景が似合う憧れの線区でしたが、この歳では、訪問が叶いませんでした。この歳になっても“あと数年早く生まれていたら”を感じています。話を聞くと、このあと中央東線もあるそうで楽しみにしています。
    山科の人間国宝さんから、とっておきのDF50が届きました、敦賀で山線越えの補機を務めるDF50の1号機です。ピクDF50特集では、高松で写された西尾源太郎さんの1号機カラーがありました。1号機は試験的な要素があったためか、初期の段階で、各地を転々としています。敦賀の配置は昭和32年9月から一年だけでした。

    • 総本家青信号特派員様
      そうですか。目覚めの早かった特派員さんでも未訪問撮影地があったのですね。トップナンバーの貴重な敦賀時代の姿有難うございます。長野管内はついでのついでで撮った粗悪写真ですが、準備します。あまりにも少ないので著名な方に助けてもらった1枚も用意します。全国の記録だからと嘯いていますが、総本家さんのようなきれいな写真がありません。

    • 総本家青信号特派員様、
      敦賀のSulzer車のお写真は、貴重ですね。宮崎様の566号からは、さらにエプロン部のKE52ジャンパ栓までが消えました(笑)。最終的には、本記事シリーズの最初の西村様のコメント写真にありますように、MR、CP、KE52の他、1号の場合にはEQP、KE66が追加されています。ちなみに、試作型のブレーキ管の取付位置は、お写真のように自動連結器の胴の上あたりの高さですが、量産型では自連高さ中心と少し低くなっています。これもホースを短くして交換経費を削減しようとしたケチケチ作戦の一環ではないかと思っています。1,2,7号は後藤工場で量産型と同じ高さとなりましたが、3,4,5号は最期まで元の高い位置のままでした。また、SG管は取り付けられていますが、SG3は積まれていません。
      試作型は、1,2号の2両が高松、3,4,5号の3両が米子、6号が敦賀で、いずれも乗務員及び検修関係の訓練教育用でした。これら6両は当初の目的達成後、8月には一旦三原送りとなり、翌月には敦賀に集められました。SG未搭載、非重連のため貨物列車の補機仕業にはうってつけということで、敦賀でのMAN置換までの繋ぎとして使用されたもので、お写真は正にこのときのものですね。また三原送りとなったのは、軸重不均衡是正のためライナを入れて調整したのではないかと思っています。翌年、敦賀にMANが配備されはじめ、長野の受け入れ態勢に応じて、試作型1~6号と後から敦賀配属となった9号が長野へ転出となりました。
      このあたりまでが試作型の大まかな転配計画で、ほぼ想定どおりに実行されたものと思っています。

      • 各位、
        試作型1~6号が敦賀転属前の昭和32年7~8月にかけて三原送りとなったのは、防爆や漏油対策とのことのようで、軸重不均衡是正の話とは関係ありませんでした。

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