準特急さんの投稿からあれよ、あれよという間に鹿渡で冬季狂化合宿を行うことになった。さて、どのようにして鹿渡に行くか。旅の楽しみは計画を立てることから始まる。まず、デジ青にもあったように上境駅近くのお墓にはお詫びに行かなければならない。鹿渡の先に行くか、それとも鹿渡に泊まってから行くかで変わってくる。考えた末に大阪を長野行の夜行バスに乗り、早朝に長野駅から飯山線で上境へ、そして鹿渡へという計画にした。が、東京在住の会員と親睦を図ろうという話がでて、東京経由で鹿渡へ行くことになった。さて、どのようにして東京へ行くかであるが、ここが最初の思案のしどころであった。どのようなことを考えたかというと・・・
1.できるだけJR以外の鉄道会社路線を使って行く。
2.旧東海道線を通って行く。すなわち、丹那トンネルを通らずに御殿場線を通る。
3.最寄りの王寺駅より西日本ジェイアールバス夜行高速バスのプレミアムシートに乗って行く。
4.徳島まで行き、オーシャン東九フェリーで行く。
などであるが、これらはただ乗るだけであるので意外と東京までの間のところをあまり見ていない。東京までのどこかを見ながら行ってみようと考えた。
これから京都から三島に行く。新幹線も普通電車である。熱海に停まるひかりもある。考えてみるとあまり意味のないことであるが、とにかく東京までは普通電車に乗るということにしている。新幹線普通電車もなかなかいい。旅をしているという気分になる。駅ごとに停車するので、今はどのあたりかということがよくわかる。だから、車窓からの風景もなるほど、なるほどと思いながら見ることができる。静岡を過ぎるあたりから雪をかぶった富士山がきれいに見える。由比、蒲原あたりはトンネルで通過て出ると、在来線の富士川駅の所をオーバークロスする。このあたりから富士山がさらにはっきりときれいに見える。
まもなく、新富士駅に到着である。普通電車で停車時間が長いからじっくりと裾野も含めて富士山をみることができる。全く不思議な山である。独立峰で、日本で一番高い山というのは見れば見るほど奇跡としか思えない。新富士の次が三島である。普通電車でも京都から三島まで2時間46分である。新幹線は早いことには間違いない。三島で在来線に乗り換える。ホームの向うには伊豆箱根鉄道駿豆(すんず)線の電車がとまっている。
この鉄道の前身は豆相(ずそう)鉄道で1898年(明治31年)に現在の三島田町と伊豆長岡間で開業をしたのが最初とある。これは小田原-熱海間の豆相人車鉄道とは違うようだ。「豆相」というから同じと思ってしまう。これらのことを調べ始めると泥沼にはまってしまう。とにかく、東海道線の電車に乗って丹那トンネルを抜けて熱海へ行こう。熱海へ行くのであるが温泉に入るのではなく、「へっつい」を見るためである。以前にも見たのであるが当時はあまり興味がなかったのである。今回は「へっつい」として改めて見たのである。
「へっつい」については湯口先輩の“「へっつい」の系譜 -低重心超小型機関車の一族-”が参考になる。ところで「へっつい」は土間にある竈(カマド)のことで「おくどさん」とも言う。私の祖母は「へっついさん」と言っていた。上方落語にも「へっつい盗人」や「へっつい幽霊」などがある。「おくどさん」であるが、大阪ことば辞典によると竈のことをクドといい、主に京都でいうとある。大阪ではヘッツイで、丁寧に言うとオクドサンやヘッツイサンとなる。クドは火床、火処(どちらもクドとも読む)から来たと言われている。さらに曲突(これもクドと読むらしい。)という竈のうしろにある煙出しが転じて竈のことをクドというようになったとも言われている。ところでヘッツイであるが、「大言海」によるとヘツイから来たもので、竈の霊(へつい)から転じたものとある。しかし、竈の霊がなぜヘツイというのか。もやもやと消化不良を起こしていたのである。さらに大言海に「へ」は竈とある。これでもなぜ竈が「へ」なのか。その右横に書かれてあるのを読んでみると「へ」は戸とあって、一軒毎に区別する意味があると書かれてある。さらに竈(へ)をもって家を表す語とある。戸数を数えて幾竈、幾煙(火が転じて)ともいうとある。思い出してみると南部縦貫鉄道の終点は七戸(しちのへ)であった。戸は“へ”と読んでいる。これで竈を“へ”ということについて定説かどうかわからないが、私なりに納得した。これで「へっつい」の消化不良は解消したのである。
熱海駅前の「へっついさん」は今までの保存場所から移動してキャブの所もじっくりと見ることができ、写真もしっかりと撮れる。しかし、今回の熱海滞在は10分ほどで、次は真鶴に行くことになっている。帰ってから湯口先輩の本にある写真を見てみると熱海駅前の保存機にはちょっと違和感がある。それは前妻板にある窓の位置がそうさせているみたいである。窓が高い位置で復元されたものと、位置を下げて長円の窓にしたものに修正した写真を並べてみると・・・
やはり、窓の位置を下げて長円にした方が、バランスが取れている。復元した時は原型がどのようなものか、わからなかったのかもしれないのだろうか。
熱海から真鶴へは10分ほどで着く。真鶴の駅は寄棟屋根で印象としては一般的なすっきりした駅である。
改札口からホームへの通路はどこかで見たような感じがする。山崎駅と似ているのである。線路が築堤上にあるので線路の下をくぐるトンネルのようになっている。山崎駅も同様であるのでどうしても似てくる。
この真鶴でも滞在時間15分で、次の根府川に行くことにする。車窓から海が見え隠れしながら電車は走っていく。真鶴から6分で根府川駅に到着である。車窓から眺めていると箱根火山群の溶岩が海に流れ込んだ地形であることがよくわかる。日本が火山列島であることを見せつけられる光景である。
根府川駅は線路が海岸より少し高い所(標高45mあたり)にあり、駅舎はさらに高い所(5~6mぐらい高くなったところか)にある。だから、駅舎からすぐ跨線橋の上を通って階段でホームへ降りるようになっている。そして相模湾が眼下に見える。絶景の駅である。駅舎もいい形である。
少しばかり写真を撮ってから昼食をとる「離れのやど 星ヶ山」のレストランに行く。ここには豆相人車鉄道を復元したものがあり、これを見るのも目的のひとつである。駅前の県道740号線を歩く。この道は人車鉄道があった道でゆるやかに登って行く。途中でレストランへ行く道と分岐する。レストランへの道は急勾配で、登って行くのがしんどい。周辺の山はみかん畑である。下を見ると人車が通っていた道と遠くに有名な白糸川橋梁(通称根府川橋梁)が見える。今日は風が強いので相模湾は白波がたっている。やっとレストランに着いた。なかなか洒落たレストランである。日が差し込んでくるので暖かい。
ゆっくりコーヒーを飲んでから、復元された人車鉄道(実は木道である。)を見学する。小田原から熱海に人車で行くと4時間もかかる。このような乗り物で小田原から4時間も乗って寛一とお宮は熱海に行ったのだろうか。今では新幹線では9分である。さて、復元されたのは人車だけでなく、木道も復元?されたのも面白い。実際に木に鉄板を張った木道で営業していた人車軌道があった。今の仙台駅付近から仙台港の南側で営業していた木道社である。1882年(明治15年)3月から12月までは人車として営業し、その後は馬車軌道であったという。そして、藤枝焼津間人車軌道会社という人車軌道も木道であった。こちらは開業が1892年(明治24年)7月である。
広い意味で考えてみると日本で最初の軌道は車石ではないかと思う。それが偶然に、牛車が通ることで敷石が車輪の幅に溝ができたとしても、交換せずに使用していたということは牛車が通ることに不都合を感じなかったのだろうと思う。これはひょっとしたら世界最初の軌道かもしれない。この復元された木道人車軌道は輸送の歴史を考えるのに興味深いものである。
見学が終わった後、登って道を下って行く。途中にみかん山の輸送用モノレールを見たりしながら、豆相人車鉄道の根府川駅跡までやって来る。写真を撮りながら根府川駅へと向かう。
登って行くのと違って、坂を下りながら戻るのは気分的に楽である。そのうちに根府川駅に着いた。無人駅であるが、きれいな駅である。この駅には関東大震災の時、駅に入線してきた列車が地震による地滑りで海に転落して列車の乗客、乗務員などが犠牲になった。この慰霊碑があり、その横には小さな池や植木のある坪庭がある。
次は根府川駅のとなりである早川駅に行く。真鶴、根府川、早川と木造駅舎が続くのも珍しい。しかも、豆相人車鉄道沿線であり、車窓の風景も相模湾が見えて熱海-小田原間は乗っていても楽しい所である。早川駅も車寄せがあり、駅舎の雰囲気もよい。真鶴と同じように改札を入ると地下道で各ホームに通じている。
車寄せの屋根を支えているものが簡単な装飾がある。ちょっとしたものであるが、これがあるだけでいい感じである。この駅での滞在時間はわずか12分である。普通であれば新しい駅にするとかで改築されるが今回訪れた3駅ともきれいな状態で残っているのはいい。使うのに問題がないならば使い続けて行くと、そのうち風格が出てくる。そんな思いをした3駅であった。
今日は東京在住の方々 とおいしいものと御酒をいただいて、蒲田にて宿泊をする。いよいよ、明日は豪雪の飯山線へと向かうのであった。 次はしかわたり~、しかわたり~
どですかでん様
レポート有難うございます。いつものことながら工学部機械を専攻された方とは思えないほど歴史、地理にも強く、また、表現力豊かな文章に感心しておいります。豆相人車鉄道が熱海~小田原間を4時間とのこと。早いです。先日東海道53次徒歩の旅でやっとのこと宮(熱田神宮)の七里の渡しに辿り着きました。次回はいよいよ桑名です。東海道の箱根八里越えの難所は朝10時に小田原を出て三島到着は20時で実に10時間かかりました。熱海のへっついは見たことがありますが、それより根府川の橋梁は九州ブルトレや20系銀河の頃によく通いました。北陸の親不知のあたりは立山連峰が海に落ち込んだ難所と聞いたことがあるのですが、真鶴や根府川のあたりも箱根の溶岩が流れ込んでああいう厳しい地形になったとは勉強になりました。珍道中日誌を期待しております。
準特急様 コメントありがとうございます。豆相人車鉄道の所要時間ですが、小田原市のHPには駕籠では6時間、人車で4時間、軽便鉄道でへっつい列車で3時間となっていました。人車の場合は下り坂では転がっていくので早かったのではと思います。ところで、江戸時代の歩行方法について調べていると現代人が歩き方と違ったものがあって、「なんば」というものと言われています。まだ、機能的な面と歴史的な面で京大、神大などで研究しているようです。親不知のこともコメントに書かれていますが、ここは国道8号線で新潟に向かって車を運転すると今でも難所であることが体感できます。特にアップダウンしながらカーブしているシェルター内を運転するのはスリル満点です。しかし、冬季はお勧めできません。いよいよ話は越後岩沢から越後鹿渡へと展開します。しかし、もう一度越後岩沢に行ってみたいと思っています。
1898年10月11日改正『豆相人車鉄道発着時刻並賃金表』によれば、小田原発熱海行が3時間50分ないし4時間10分、逆が3時間40分ないし55分を要し、下等60銭、中等(下等の1.5倍)、上等(同2倍)、貸切(下等6人定員4円20銭、中等5人4円80銭、上等4人5円40銭)がありました。ただ「動力が動力」ですから、携行荷物の制限が等級によって極めて厳しく、超過すると増料金がバッチリ徴収されました。おそらく乗車前に秤にかけたはずです。
お説の通り下り勾配では車丁は妻面に乗ってブレーキを操作し「何れも練磨を経て其巧妙殆ど神に入り一度試みられたる人の嘆賞さるる処なり」と「人車鉄道の案内」は胸を張っています。これが「へっつい」機関車牽引になると2時間10分~20分ぐらいに改善しますが、運賃も3等70銭、2等その8割増しの2クラスに。
湯口様 詳しい解説ありがとうございます。実際に豆相人車鉄道が通っているところを歩いてみるとよくわかりました。今は遺構が無くても現地へ行ってみることが重要であることが改めて認識しました。