昭和41年(1966年)3月19日 広島駅 その1
しばらく“デジ青”から遠のいていましたが、また復帰しました。「駅撮り」、3回目は広島駅にしました。広島駅は、高校一年生の昭和41年3月、初めての一人旅で夜行列車に乗って着いた駅でした。初めて見る列車・車両ばかりで、今でもその感動が心のなかに残っています。もちろん広島には新幹線もない時代、山陽本線には特急・急行列車がつぎつぎ発着し、全線電化が完成したはずなのに、C62の牽く列車まで顔を見せるなど、今とは全く別世界の様相でした。
▲朝の広島駅で、下りのブルートレインが続々と1番ホームに到着する。ブルトレは、当時関西で昼間見られるのは、「あかつき」だけで、東京発ブルトレは、定時運転している限り、関西では、明るいうちに見ることができない、憧れの列車だった。写真はブルトレ本家たる「あさかぜ」を、65Pトップが牽く、正調派のブルトレだった。
広島へは、当時、一本だけ残っていた夜行鈍行の大阪発門司行き225レに乗って、5時54分に広島着。東京発ブルトレ5本のうち、「さくら」は、すでに発着済みだったが、つづく「みずほ」「はやぶさ」「富士」「あさかぜ」が15~20分間隔で1番ホームに到着していた。当時の広島駅は、昭和40年に新しい民衆駅ができたばかり。改札から、階段を使わず平面で行ける1番ホームは、特急の発着にふさわしい風格があるように思える。いまのように、橋上駅化すると、逆に駅の中心ラインから外れて、格が落ちたように感じることがある。 ▶昭和41年3月の時刻表地図、まだ営業を行っていた宇品線が描かれている。
▲熊本行き「みずほ」EF65 512〔東〕、「みずほ」の設定当初は、一般客車の不定期特急で、ほかの特急より格下に映ったが、この時代は、20系化されて遜色はなかった。
▲西鹿児島行き「はやぶさ」3レ」EF65 504〔東〕 ▲▲西鹿児島行き「富士」7レ、こちらは日豊本線経由だから最長の特急列車となる。
▲早朝の時間帯、貨物列車も多く通過する。貨物牽引の代表はデッキ付きのEF15だった。EF15 80〔広〕
▲この時の本来の目的は呉線の訪問だったが、さっそく広島駅でも呉線の列車の発着が見られた。広発宇品行き925レで、C62 40〔糸〕の牽引。宇品行き、というのがミソで、まだ宇品線が旅客営業を行っていた時代で、広島で向きを変えて、宇品へ向かっていた。沿線の工場に向かう通勤者を運ぶため、長編成の客車列車を振り向けたようだ。
▲こちらは新大阪発下関行き「音戸」、呉線経由なので、C62 40〔糸〕が牽引、広島から電機に替わって下関に向かう(昭和41年8月)。
▲7時43分、新大阪行き「宮島」が多くの見送り客に送られて発車する。セノハチの急勾配を越えるため、後部にEF616〔宮〕+オヤ352を連結、八本松構内で途中解放した。電機は自連、電車は密連のため、直接連結できず、両方の連結器を付けた控え車オヤ35を介した。
▲続いて8時05分、新大阪行き「第一しおかぜ」が発車する。「しおかぜ」は181系化されており、151系時代よりはパワーアップしているが、セノハチ勾配は越えられず、後部にEF61の補機を連結して解放した。▶クロ181-4とEF61 6の連結面
オヤ35は1と2の二両あり、どちらもスハフ34(⇦スロハフ30)からの改造です。昭和37年の改造からよん・さん・とおで廃止されるまで6年間の短い活動でした。
オヤ352(スロハフ3013)を中ヒロで撮していました。
スロハフ30時代の写真を探しましたがありませんでした。井原さん、お持ちではありませんか?
残念(当然)ながら持っていません。
電機の方に自連と密連と2種類使えるようにすればオヤ35は不要だったのではないでしょうか?密連は走行中の解放ができなかったのでしょうか。
井原 実様
密連は走行中の連結解放ができません、制動管も密着していますので(自連はエアホースと別個なので、制動管が貫通していなくとも機関士の技量で速度を同期できるわけです)。
いわれてみればクハ153はなぜ自連にしなかったのか、と思いますが、181系と違い分割併合、編成の組み換えが当たり前ですから無理ですね。
そうですか。となると、残った選択肢がオヤ35だということですね。