九州に戻って蒸機巡りを再開します。まず宮崎、大分以外で、日豊本線にあった、そのほかの機関区へ行きます。昭和42年10月まで、D50、D60の配置区として賑わいを見せていた柳ヶ浦機関区です。区は明治45年に設置され、煉瓦造りの矩形庫、給炭塔、給水塔がコンパクトに配置されていました。門司港~大分の中継地に当たり、給炭・給水、蒸機の付け替え、乗務員の交代などが行われていました。別府、大分方面、急勾配の立石峠を控え、柳ケ浦から後部補機が連結されました。区は昭和42年10月改正で日豊本線の新田原~幸崎の電化が完成、蒸機の運用を廃止。支区に格下げされたあと廃止されました(以下すべて昭和42年3月)。
▲煉瓦造りの矩形庫で休む、柳ヶ浦区のD50310 D50341 訪れた昭和42年3月当時、柳ヶ浦にはD50が12両、D60が2両在籍し、日豊本線の貨物、補機を担当していた。
▲大型の切取り式デフを付けたD50 62 当時は門司・小倉から柳ヶ浦行きの客車列車も多く、日豊本線の結節地として知られていたが、区も無くなり、その存在も今となっては忘れ去られようとしている。
▲大分運転所で休むD50 63 貨物を牽いて大分まで顔を出していた。
▲ D50 129 上は門司機関区にて。昭和42年時、日豊本線は新田原まで電化が完成していたが、貨物を牽く電機はゼロで、すべての貨物が門司までD50、D60牽引で乗り入れていた。▲こちらも門司機関区で休むD50 164 左の二段窓の救援車はオエ7018と読める。▲柳ヶ浦区のD50 374 この時には「一休」の札が入っていた。
▲D60も2両が配属されていた。とくにD50との運用上の区分はなかったようだ。柳ヶ浦の蒸機は、昭和42年10月の幸崎電化で廃車になったが、ただ一両このD60 69だけは生き延びて、大分、直方、若松と転属し、昭和48年に廃車になった。
総本家青信号特派員先輩
おはようございます。柳ヶ浦機関区 私自身はその存在を何も覚えていません。ただ亡くなった父親の言葉が記憶には残っています。
柳ヶ浦の読み”やなんがうら” 私の本籍地は宇佐市大字荒木で豊前善光寺駅からすぐのところです。駅館川”やっかんがわ”は昔から水が豊富、だから”やなんがうら”には機関区があった、と教えてくれました。
中津からは耶鉄、豊前善光寺からは豊州線、宇佐からは参宮線、大分県北は鉄道王国でしたね。すみません、以上私感まで・・・
おとりん様
柳ヶ浦の思い出、ありがとうございます。私も久しく忘れていた駅でした。それが、数年前ですか、甲子園の高校野球大会に、柳ヶ浦高校が出場しましたね。“やなぎがうら”の響きを懐かしく聞きましたよ。“やっかんがわ”もあることを知っています。やはり水が豊富なところに機関区を設けたのでしょう。
北部の九州で必要な場所が太宰府と宇佐までだった。平安時代から明治の半ばまで、鉄道もそれだけあれば、十分で、大分から先は陸路でなく古来は海路でした。
柳ケ浦が、行橋から開通した豊州鉄道の終点だったのが、大分、宮崎に鉄道を延ばしはじめた大正期から一転して、重要な鉄道の中継点になり、機関区が出来て繁栄を続けたのが電化まで。その短い光と影の時代を特派員氏の記録で見ることができました。
地元にも資料は残っておらず、貴重な記録だと思います。
KH生さま
いつもコメント、ありがとうございます。柳ヶ浦がいちばん活気があったのは、D50、D60で立石峠の補機を一手に担当していた時期でしょう。私が行った時はDF50も入っていて、翌年の幸崎電化を控えて、架線が張られていました。私のお知り合いのホームページを見ると、架線の無い、補機が活躍していた時代を公開されていました。でも50年も前ですから、普通に生きてきた人にとっては、私の写真も、貴重な記録として映るのでしょう。またお役に立つことがあれば、協力させてもらいます。