多層建て客車急行「青葉」に敬意を表して

当会には「至宝」または「人間国宝」と言われる大先輩がおられます。佐竹保雄先輩と湯口徹先輩です。それに続く第2の湯口と私が勝手に呼んでいるのが今回「多層階建て客車急行」を掲載された井原実さんです。彼の精密緻密な分析力は第一級と思っており、今回の論文も豊富なデータを解析して得たものだと思います。

この中で客車の編成が出てきますが我々世代には見飽きた客車でも、少し下がった世代には見たこともない車両が多いと思い、当時の客車急行がどんな客車で編成されていたかが分かればおもしろいかな、と考えアルバムから探し出しました。

★できるだけ多層建て客車急行「青葉」掲載の車両番号に近いものを選びました。
★改造・改番後の車両もあります。
★例によって、日時・場所はいい加減ですので(ここが井原さんと決定的にちがう所)各自が類推してお読みください。

⇩オロ4031 京都駅 《「青葉」ではオロ4033でした》
オロ40はオハ35系の一員で、屋根の形態に変化がありイメージも変わる。

⇧オロ4012(張り上げ屋根) 京都

 

⇩スロ6022 向日町 《スロ6025》

⇩オハニ3611 福知山 《←オハニ63》
本文にも書かれているとおり、スハ43系と同じ構造の客室ながら、台車が鋼体化らしくTR11だったため乗り心地はガンガンしていたが、台車をTR52に履き替えて優等列車にも使われ出した。

⇩スロ348 京都駅西方キト留置線 《スロ349》
昭和30年代、大宮陸橋付近の南端は大キトの留置線だった。使われているのかよく解らないような車両がいつも留置されていた。これはなにげなく撮ったものの一枚。

 

⇩オロ3566 たぶん旭川 《オロ3557》
寒地対策がしてあり二重窓になっている。

 

⇩スロ5113 尾久 《スロ5112、14、46》
間延びした写真で申し訳ないが、引けが取れずワイドレンズを使った。客車は往々にして狭い場所で身体をねじ曲げて撮らねばならない事がある。それでも邪魔物が写り込みほぞをかむのだ。

 

⇩スハニ355 小山 《スハニ3510》
直近のスハニ357もあったが、気に入らないから5にした。特急に使われたが、この頃には都落ちをして小山に集結していた。急行のサボが入っているから東北本線で使われていたのかも知れない。

 

⇩スロハ31➜スハ5046 仙台 《スロハ3142》
スロハ31は原形が二形式あり、一つはダブルルーフでもう一つはシングルルーフ。
本文に登場するスロハ3142はシングルルーフだからこれの仲間。スハ50に格下げされてからの写真しかないのでお許しを!
お詫びにシングルルーフの方もご覧頂く。
⇩スハ501 どちらも仙台

⇩スロハ3255         《スロハ326、56》

⇩オロ36➜オハ55129 広島
オロ36など何枚でもあるわ!とタカをくくっていたら一枚もナシ!格下げ後のオハ55でお茶を濁す。この時代、並ロが次々と格下げされていて、50番代は埋まってしまうので数形式が同じ型式にまとめられていた。オハ55もそんな関係で、オロ36はオハ55100番代を頂いていた。オロ36について一言言いたい。窓が国鉄客車最大の1300㎜で、乗客が一人では上げられなかったのでその後は1200㎜になった。

 

⇩スロ507 尾久 《スロ509、10》この写真も電柱が写りよろしくないが、番号が近いのはこれだけなので採用した。

 

⇩オハ6066 小山 《オハ60157》
種車の木造客車そのままの窓配置を残す鋼体化客車。京都では草津線や山陰線で見かけた。これで急行はつらいだろう。

 

⇩オハニ3063 岡山 《オハニ3056、58》
学生時代に飯山線や九州のローカルでよく乗った。背ズリが低くウッカリすると後の方と頭がゴッツンする。これで長距離もいやだが、急行券を払って乗る気にはならない。でもローカル線にはちょうど良い。

 

⇩スシ482012 尾久 《スハシ4822➜スハシ3711》(➜スシ4815➜マシ493)
スハシは戦後の占領期に造られた簡易食堂車で、スナックカーのようなものだった。勿論写真は持っていないのでその後に形式変更された物を掲載する。
このスシ482012は元スハシ4817と称したので一番原形に近いと思う。現車は急行十和田に使用中。さらに一部は冷房化してマシ49型式になる。

⇩マシ492 京都 《マシ493》
急行さつまに使用中のマシ49

 

以上が私の持っている全て。
なかったのはオハシ304➜マヤ201(これは撮ったことがあるが見当たらない)、スハシ29104

どなたかお持ちでしたら公開してください。
間違いがあればご指摘をお願いします。

多層建て客車急行「青葉」に敬意を表して」への34件のフィードバック

  1. 素晴らしい時代に遭遇された先輩をうらやましく憧れます。
    オロ36の窓幅は1300じゃなかったかな。広過ぎて1200になり形式がオロ40になり、戦後型も作られたように記憶します。
    (写真は戦後製オロ40格下げ後の改造車)

    • ご指摘、感謝します。
      オロ36の窓は1300㎜でした。
      このように私は思い込みを臆面もなく書きますので、お気づきの時は遠慮なく叱責ください。
      何食わぬ顔で書き換えておきます。

    • K.H.生さんのお陰で、薄れ行く記憶が甦ってきました!
      オロ36の仲間にオロフ33というのがありました。車掌室をつけた物ですが、この5両しかない希少価値のあるオロフ33が、向日町にいたのです。

      • 当時販売されていた小高模型のペーパーキットのオロ36に手を加えてオロフ33を造りました。
        昭和40年のことですが、現在でもこの状態です。

  2. クローバー会は、佐竹大先輩を筆頭に、米手作市氏、井原 実氏と伝統的に客車に強いです。
    昭和41年2月14日、京都駅、スロ514です。

    • そうでした、電車の人間国宝たる藤本哲男さんを書き漏らしていました!
      客車にも精通されていたのに驚きました。

      • この辺の、狭窓特ロの格下げ後しか撮れていないので、皆様の写真が羨ましい限りです。
        それでもオハ41に落ちたとは言え、アルミサッシュに往年の本線急行時代を窺えますし、国鉄時代の客車は通風器に錆一つありません。
        この後40年使用は無理といえ、カンバス屋根ボロボロの津軽や大井川鉄道の客車を見ると泣きたくなります。
        オハ41 370 ← スロ51 2 1977年5月 下関

        • これはこれで価値があります。50系(電車まがいのオハ50系とはちがう格下げ車)旧客は客車マニアには垂涎物です。
          これはデッキが増設されて、台車も履き替えてス➜オになっているのですね。

  3. 豊富な写真をありがとうございます。旧形客車はいいですね。やはり画像がありますとイメージがふくらみます。
    「青葉」の編成中、昭和34年10月11日下り急行“青葉号”のスハフ32 68仙フクがありますが、後年、私はこれに乗ったことをはっきりと憶えています。編成記録から約10年後の昭和44年8月22日に、相馬発青森行243レの最後部で花巻から盛岡まで乗りました。その時は電暖が増設されてスハフ32 2068盛アオになっていましたが、二重屋根でややピンクがかった色の木製背摺の腰掛で、電化されてスピードが速く、単にガタガタ音がするだけでなく、車体断面が平行四辺形に歪むのがよく見えて、バラバラになるのではないかと怖いくらいでしたがED75は容赦なく走りました。

  4. 同一番号ありました。年賀状の下二桁切手シート当たり番号を探すような気持ちで探してみました。井原 実さん論文の編成表で1950(昭和25)年10月1日C51181[福島]牽引102列車に組み込まれたオハニ3059仙センで1965(昭和40)年8月31日青森駅から遠く離れた青森機関区のあたりで撮影したオハニ3059盛アオです。

  5. 上のスハニ372002に続き、もう1両同一車号が見つかりました。
    昭和38年12月25日、京都駅、スロ6025です。

  6. 昭和41年7月26日、京都駅、オハニ403です。
    スハニ35の台車振替と座席交換で誕生した形式です。
    座席は、背摺が板張りのオハ61と同じものに取り替えられました。スハニ35を全車改造する予定で、形式のみ変更して番号はそのままでした。実際に改造されたのは、2と3の2両のみでした。

    • これは珍品ですね。
      私は見たこともありません。台車をTR23に履き替えるのは当時よくあったことですが、座席を「オハ61と同じ」物に変えたとなると穏やかではありません。あの板張り背ズリのボックスシートを置くと、窓間隔はどうなっているのでしょうね。窓ピッチが等間隔ですから、窓から顔を出したら引っ込められなくなると言うことにならないか心配です。京都駅にいたのに見逃したのを今知りました。

  7. 昭和49年8月7日、京都駅、オハニ367です。
    大井川鉄道で健在です。
    米手作市さん投稿のオハニ3611は、JR東日本高崎運転所で健在手です。

  8. オハニ36は出自が鋼体化客車ですが、スハ43系の2等荷物合造車の役目を担ったので、「はやぶさ」の20系化前に使われたり、特急運用にも入ったこともある、エリート車両でした。九州ではS50年の山陽新幹線開通後も遅くまで急行運用に入りS52年当時「日南」の先頭車でした。TR52の軽快な乗り心地を覚えています。

    • 電暖付きのスハニ37 2002はS50年の新幹線改正後に九州に転属し、一族で異彩のブルー塗色で長崎行き夜行421列車「ながさき」の終端部を務めたこともあります。「青葉」に使われた客車が最晩年は門司港で日中は憩っておりました。

  9. 急行「青葉」の研究を大変興味深く通して読ませていただいて、食堂車のメニューなどに感銘も受けました。一番添えておきたかったのが「青葉」の食堂車内の風景写真かと思います。
    私、どこかで青葉の食堂車内の写真を見た記憶が有り、最初は1977年のファン誌の「食堂車特集」号と思いましたが見事に外れ、そこからの記憶の糸を辿り、これはもしかして、少年時代の憧れだった佐々木桔梗さんの記事ではないかと調べると見つかりました。ファン誌1973年8月号「鉄道写真と時代背景」36ページに佐々木さんが撮られた戦後の「青葉」の食堂車の風景が出ています。2個組窓の上部に飾りが有り、オハシ30でなく三軸のスハシ37のWルーフの方かなと思います。
    撮影日は昭和28年2月15日です。

    私が鉄道趣味で大きく影響を受けた人の一人がディレッタントな文筆家だった故佐々木桔梗さんで、この方の著書が読みたいのですが、一時期の「鉄道ファン」誌に不定期に書かれた戦前からの鉄道趣味人の手記を貪るように読んでいたことを思い出します。

    • ありがとうございます。
      あるもんですねぇ~。それにしても記憶を辿って探り当てるとは感服しました。

      • 本日、別件で『鉄道ファン』194号(1977年6月号)を調べていましたら、佐々木桔梗「メニュー雑感」という記事のp.89に『鉄道ファン』148号(1973年8月号)p.36と同じ写真が掲載されていました。それにはキャプションが無く、本文で急行“青葉”の食堂車内であるとの説明もありませんが、上記コメント「見事に外れ」ではなく「見事に的中」していたわけです。4年弱の間隔で同一写真を使い回していたのは適当な写真が無かったからでしょうね。194号の方が画面(特に上部)が広く写っています。

    • K.H.生さま
      よくぞ覚えておられましたね。私も佐々木桔梗さんの記事なかで、品のある外国の婦人が食堂車で食事しているシーンは、脳裏の片隅に引っかかっていましたが、まさか「青葉」とは知りませんでした。ちょうど最終回を迎える「カムカム」のアニー・ヒラカワのような雰囲気ですね。佐々木さんは、雪まみれのC62重連の斜めバックの望遠レンズ狙いで名を馳せた人ですが、その後に発表される写真は、ことごとく下手くそで、そのくせに文章だけは難解なレトリックを駆使し、ちょっと理解できない近寄りがたい人に映りました。この記事は、ちょうど50年前の私のような「若き蒸機ファン」向けに書かれたものですが、氏の年齢と同世代になった現在、やっと考えが理解できた気分でした。

  10. KHさんのFBから拝見させていただきました。部外者ですが、同好者ということでお許しを。小生も、先輩方の写真を羨ましく、毎々、もう少し早く生まれていたら… と愚痴る一方、軽量客車とリヴェットだらけのWルーフが混在する編成が見られたのだから、と「佳き時代」に掠った幸福をも思っております。また佐々木桔梗さんのことに触れられ、死の薫陶をいただいたひとりとして、嬉しく思った次第です。つい:先日三軸ボギー客車の写真を繰っておりまして、写真は、模型の社長専用車にしたいマヤ3851です。

    • いのうえ・こーいち様
      これはいいですね。撮りたかったなぁ。
      でも模型ならこちらがお薦めですよ。脱線しにくいから。
      スヤ322

      • インスペクションカーの成れの果てが1970年代に門司に居たことは記憶しています。写真が無いのは残念ですが。いのうえこーいち様とは、SNSで最近繫がりが出来ました。こことは無関係な自動車の趣味の方ですが、鉄道のことにだいぶん回帰されているように思います。

        今回佐々木桔梗さんのバックナンバーを探していたら、J誌の方で、いのうえ様の記事に当たり、私は「けむりプロ」などの時代に興味があれど実際に知らないので、大変興味を持ちました。

        SNSはSNS、DRFCはDRFCで別々で活動していますが、たまにこういう”乗り入れ”も面白いのではと思いました。

          • ありがとうございます。「趣味の研究はお金儲けの方に行ってはいけない」というようなことを、私が日記的に書いたものを偶然読まれたいのうえ様が、転載していただいたことが、昨年ありました。
            今考えると遠い昔に読んだ佐々木氏らの神髄のようなものが、まだ残っていたのかもしれません。
            九州の地方から都に上り40数年、人生はまだ面白い出来事がありそうな予感がいたします。
            諸先輩方もお大事にお過ごし下さい。

  11. 米手作市様
     井原さんの大論文を読ませて頂いた後、素早く我々に大論文をより映像化出来るようにとのご投稿は誠に有り難く、よくこれだけのお宝が出てくるものだと感心しております。青葉号がより鮮明になりました。
     また、藤本さんやK.H.生さん始めとするご投稿の数々の広がりは大論文を補強?し、凄いものだなぁとこれまた感動しております。
     昔の並ロは向かい合わせの座席で白い枕カバーが掛かっていて、赤いビロード生地で乗ってみたいものだと羨ましく思ったものでした。オロ36ですか窓の大きさが1300ミリとあります。大きいものですね。夏のトンネルでの開け閉めは・・想像ししただけで・・とか
    いろいろ想像が膨らみました。
     ところで、米手様、お怪我されたとか!!如何でしょうか!
    お大事になさってくださいね。ご不自由でしょうが一日も早いご回復をお祈りします。
     松葉杖を横に、叱咤激励をよろしくでございます。

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