昭和46年7月13日 夜行鈍行に乗って和歌山線へ
参宮線、紀勢本線東部で撮影のあと、翌朝は和歌山線方面へワープします。それを可能にしたのは、当時走っていた夜行鈍行でした。南近畿均一周遊券の限られた自由周遊地域にも、ちゃんと夜行が走っていて、巧みな移動が可能で、昭和の国鉄ならではの特権でした。乗車したのは、名古屋発天王寺行921レ、紀勢本線全線、関西線、阪和線を経由して、紀伊半島を一周、名古屋~大阪を結ぶ夜行鈍行でした。
当時、紀勢本線の長距離鈍行には、下りで見ると、上記の921レのほか、草津6:11発、紀勢本線を一周して和歌山市20:51着の135レは、京都から日帰りで紀勢本線を一周できる列車として有名で、あと亀山11:04発和歌山市23:06着の137レもあり、紀勢本線全線の普通列車が3往復ありました。途中で別会社に分断されて、さらに列車は細分化された現在とは比べものにならないほどの律儀さが伺えます。
▲名松線で松阪へ出て、松阪18:04発の921レに乗車、紀勢本線を一周する夜行の旅となった。夏場のため、多気を過ぎた当たりでやっと薄暗くなった。初めて知る、名も無いような駅にも、必ず駅員がいて、わずかな乗降客のために奮闘していた。伊勢柏崎にて
▲滝原でDF50 49の牽く貨物と交換。921レは、25分停車の新宮を境に、夜行としての体裁を整える。新宮でハザ1両が解結、ハネ2両が増結されて、DF50+スハネ30×2+ナハフ10+ナハ10×2+オハ46+スユニ60となった。
和歌山には3:53着、紀伊中ノ島乗り換えで和歌山線に入り、和歌山線の隅田に6:27着、和歌山線には、朝の時間帯に、上下5本の蒸機列車が走っていた。京都からは微妙な距離で始発で直接行っても5本すべての撮影は不可能で、回り回っての和歌山線入りとなった。▲橋本でC58 201の牽く貨物591レ
▲橋本では一番の蒸機列車となる521レと交換、C57 119〔和〕の牽引。▲和歌山から1時間30分乗車して隅田に到着、ここが和歌山、奈良の県境に当たり、上下とも最大20‰の勾配が続く。大和二見寄りに路線変更によってできたコンクリートのアーチ橋があり、C57 147〔和〕の牽く523レをとらえる。
▲続いてやって来た522レは、C58 279〔和〕+C57 6〔和〕の重連、和歌山区の蒸機は、C57、C58ともに集煙装置付きで、重連と言えど、どうも食指が動かない。▲28・58系DC3連で編成の5527D、急行列車の間合い利用のようだ。
▲貨物592レを牽くC58 354、こちらは竜華区の所属で、集煙装置は付いていない。和歌山線の貨物と言えば、冬場の「みかん臨」が有名だ。
冒頭の写真を拝見し、遠い日に見た風景を思い出しておりました。一日の撮影を終え、家路につく列車の窓から見た駅には、列車を見守る駅員の姿がありました。手入れの行き届いた小さな花壇や、打ち水がされた待合室など、当時は何の気なしに見ていましたが、今となっては感慨深いものがあります。
半袖シャツの駅員が写っているだけで、この写真の印象をより深いものにしてくれます。この一枚だけでも、当分の間は楽しめそうです。ありがとうございます。
紫の1863さま
いつもコメント頂戴し、ありがとうございます。はい、なかなかいいでしょ。と言っても、今回、大きくしてみて、初めて気がつきました。いままで小さなベタ焼きだけでしか見ていませんでした。ベタ焼きは、小さいうえに、調子もいいかげんで、50年間、陽の目を見ませんでした。今回、初めて、データ化して、大きくして見ると“ええやんか”となりました。とくにモノクロの濃淡を、しっかり出せるデジタルの恩恵です。
1971年当時はスハネ30だったんですね。
この当時の普通夜行の編成記録は貴重だと思います。
ほへほへ様
ご連絡、ありがとうございます。番号までは書いていませんでしたが、当時の手帳を見返しますと、記入してありました。当時の龍華の配置を見ますと、10系寝台が5両、スハネ30・スハネフ30が5両配置されていました。当時は東京行き「紀伊」がまだありましたから、夜行鈍行のほうは、スハネ30だったようです。
ほへほへ様
ご連絡、ありがとうございました。番号までは書いていませんでしたが、当時の手帳を見返すと、ちゃんと記入しています。寝台車の配置は龍華で、当時の配置表を見ると、10系寝台が5両、スハネ(フ)30が5両ありました。まだ東京行きの「紀伊」がありましたから、やはり夜行鈍行はスハネ30だったんですね。
総本家青信号特派員様
南近畿周遊券利用の撮り鉄旅行、面白く拝見しております。和歌山線の意外に少ないお立ち台である奈和県境の落合川橋梁は、隅田駅からさほど離れていませんが、近年になって105系電車等の写真が紹介されるようになったものの、当時は京阪神や奈良市辺りからのアクセスは結構不便でした。朝のSL通勤列車群を迎え撃つために、夜行921レに乗車し、未明の和歌山からアクセスするというのは、考えられはしてもなかなか実行し難いプランだったかもしれません。その意味でこの橋梁でのC57の写真は貴重な記録だと思います。
当時の和歌山線の客車はまだオハ61が多く、写真でも巾をきかせているようですね。座席は原型の板張りの背ずりが多かったのですが、中にはモケットが張られた車や、デッキ寄り2窓分をロングシートに改造された車もあったと記憶しています。
まほろばの鉄趣味住人さま
いつもコメントをいただき、ありがとうございます。たしかに和歌山線は特段すぐれた撮影地はなく、北宇智も、なんでスイッチバックにしたんや、と言うほどの平凡な場所でしたね。さらに京都の場合、行きにくくしたのはアクセスの悪さで、こんな奇策(?)も編み出しました。和歌山線の優れた写真を撮られて写真集も出されたKoさんに聞くと、近鉄で吉野口まで行って、そこから和歌山線に入ると、国鉄よりかなり早く着けることを聞きました。