続・ユースで巡った鉄道旅 -1-

いまから約10年前の本欄に、同名のシリーズを載せてきました。おもに学生時代、私はユースホステルに合計115泊しました。100泊記念にもらえる記念バッチも大事に持っています。前回の文末に「安価で健全で宿泊設備が全国に張り巡らされていたからこそ」旅行も続けられたと結んでいます。115泊のなかには、まだ書き漏らしたところが多くありました。

そんな時、過日の北条鉄道の乗車会で、「はい、これっ」とTさんから渡されたのが、写真の「ユースホステルハンドブック」1975年度版でした。当時600ヵ所あったユースの概要や連絡先が載っていて、これを見て、ユースへ往復ハガキで予約したもので、利用客にとっては必須の本でした。私も毎年、発売の頃になると、三条京阪にあったユースの事務所へ行って買い求めたものでしたが、年度が替わると、新版を買うため、手許には一冊も残っていませんでした。Tさんは、そのことを覚えてくれてプレゼントしてくれたのです。Tさんの厚意に応えるためにも、「続」として、ユースホステルを拠点に各地を巡った鉄道旅を、ハンドブック片手に思い返してみました。ユースの旅の必須アイテム、会員証とハンドブック

昭和46年7月11日 関西本線のハチロク列車を撮って、伊勢志摩ユースへ

最初は、51年前の昭和46年7月、南近畿均一周遊券を使って、関西本線、紀勢本線などの蒸機を追いかけた一週間の鉄道旅です。以前にも記したことがありますが、南近畿均一周遊券は、京阪神地区での発売はなく、最寄りは名古屋発売でした。このため、知人に頼んで購入してもらい、東海道・奈良線経由の周遊区間への入りができるため、京都からの途中乗車で、まずは桜井線での撮影となりました。

桜井線は初乗車となるため、下見も兼ねて、高田まで、さらに和歌山線にも乗車して戻って、畝傍で下車。香久山をバックに入れて、C58 120の牽く上り貨物を撮る。なかなか引きの場所がなく、やや後追いになってしまったが、場所の証明のために香久山を入れてみた。この日のこれで終了、いったん京都へ戻って途中下車して、その翌日に再乗車して、関西本線入りとなった。

翌日、関西本線の加茂まで乗車、笠置寄りの勾配の始まる区間へ。ちょうど、大河ドラマで柳生ブームの頃で、列車には「柳生号」の札が下がっている。べつに臨時ではなく、朝に湊町・天王寺を発車する定期列車を、「柳生1号」「柳生2号」と順に付番していた。編成は35系の間に17系を挟んだ当時の標準編成だった。

当日の目玉がやって来た。柳生ブームの折、D51で運転される休日運転の臨時は「汽車ポッポ柳生号」と称していたが、この日は、奈良区の88638が引退するため、奈良~亀山に前部に同機を連結した。▲▲88638と言えば、ずっと梅小路区にいて、入換や小運転に使われていた馴染みのカマだった。この前年に奈良区に転属していたが、早くも、さよなら運転となった。この運転は、前週にも実施された。

腕木信号機が林立する加茂駅を発車した上りの荷物列車、D51 614の牽引

加茂駅の改札口付近からホームを見る。向こうのD51は休車中で、機関区のあった広い構内は、蒸機の休車、廃車置き場になっていた。いま加茂は電車区間の始発駅として、すっかり変貌しているが、当時は一時間に一本、奈良・大阪方面行が出る、純粋のローカル駅だった。関西本線の勾配区間を8620が走るのは、戦前には例があったらしいが、戦後はこれが最初で最後と騒がれた。戻りの列車は、関~亀山へ移動して撮るが、さすがに86先頭は懸念があるのか、後補機となってブラ下って行った。

亀山から紀勢線に乗り換えて南下する。亀山までは何度も来ているが、以南となると、たしか小学校の伊勢の修学旅行以来だ。一身田でDF50 15の牽く1124レと交換

鳥羽まで乗車して、伊勢市で下車、駅隣の伊勢市管理所へ行ってみた。かつては名門の山田機関区として名を馳せたが、いまは蒸機配置はなく、亀山区のC57が出入り。出入り口が5ヵ所のスエ71 31がいい位置に停まっていた。

 

再び鳥羽まで行って、近鉄志摩線に乗り換え、穴川で下車し、本日の宿泊先の伊勢志摩ユースホステルに入る。数少ない公営のユースで、設備も食事も大満足、しかも民営に比べて、一泊2食付きで100円安いとあって、シーズンはすぐ満員になったものだ。

 

 続・ユースで巡った鉄道旅 -1-」への6件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様
     ユースホステル、懐かしいですね。
     115泊とは!! 記念バッジですか! 凄いなぁ!
     我々の時代は一泊確か550円だったと記憶していますが・・
     公営と民営があり、民営は旅館の端っこやお寺だったりで雑魚寝だったおぼえがあります。公営ユースはしっかりしていましたが、全員参加が原則のミーティング、これは良し悪しでしたね。民営は格差がひどかったんじゃないかな!?
     会員証ありましたね。それにホステルシーツ。必需品ということで母に作って貰いました。
     学生が安価に旅行が出来たのはユースと均一周遊券のお陰でしたね。

    • マルーンさま
      ユースの思い出、ありがとうございます。記念バッジも写真に載せようとしたのですが、見当たらず、掲載は諦めましたが、ユース100泊というのは、そこそこの強者の証しだったのでしょう。ユース専用シーツ、ありましたね。ユースでも借りられたのですか、100円取られるため、私も母親に作ってもらいました。シーツを封筒状に縫って、そのなかで寝ると、使い回しの布団でも身体に接することがなく、清潔に寝ることができました。

  2. 亀山以南は京都から遠く、足を延ばすにも効率が悪くて行けませんでした。南近畿均一周遊券を名古屋経由で入手され、近鉄も利用されるとは、いつもながら柔軟な発想には驚くばかりです。
    宿泊地の穴川は鳥羽よりも遠く、国鉄オンリーの私には初めて聞く駅名です。ユースホステルは安く泊まれる半面、駅から離れていることが多く、泊まったのは一回きりでした。
    C58 120・88638・D51 614・C57 26、いずれも撮った覚えのある機関車です。88638は木津で入れ替えに励んでいた姿を6月に見ていますが、翌月には見られなくなったのですね。
    加茂駅の改札口の写真は、車両だけではわからない時代のニオイを感じます。ギターを持った若者も、当時は良く見かけました。フォークソングの全盛期で、髪を伸ばしてベルボトムのジーンズをはき、ディスカバージャパンに湧いた、あの頃を思い出します。
    ところで、88638とは意外な場所で再会しました。動輪だけでしたが、Koさんの写真も添えてあり、「なんでこんな場所に!」と思ったものです。

    • 紫の1863さま
      懐かしい。祇園デゴイチの店頭ではないですか、ここにあった動輪が88638だったのですね。そのKoさんの写真集にも、関西本線の加茂付近の写真も多くあって参考にさせてもらいました。加茂は、駅舎も関西鉄道開業当時のままで、機関区もあった、当時の面影を伝えていました。以前にメンバーで大仏鉄道の跡をハイキングするため下車した時、その変わり様に驚いたものでした。

    • 米手さま
      DF50に続いて、梅小路のハチロク、ありがとうございます。区へ行くと、いつも扇形線で休んでいましたね。パイプ煙突で魅力は乏しいのですが、形式入りのローマン書体のナンバープレートが魅力でした。山科の人間国宝さんの写真では、大津、草津の入換のために山科の大築堤を行く同機がありまた。

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