どこかにマイルの旅 2022年 北海道へ Part5 川湯温泉⇒層雲峡

第3日目 5月18日

学生時代に強い思い出があった川湯温泉ですがどの旅館に泊まったのかは思い出せず刺激ある温泉の泉質だけは印象に残っています。早朝に起きて朝風呂に浸かってゆっくりとしました。

▲ ホテルの部屋から見た外の景色ですが人気はなく向かいのホテルは閉館となっていて付近に活気はありません。インバウンドのお客はいなくなっての影響をまともに受けたのでしょうね。
▲ 今日の行程です。宿泊した川湯温泉から釧網本線、石北本線と乗り継いで上川で降り層雲峡で泊まります。学生時代から何回も乗車した区間です。当初、網走から旭川へは特急大雪で行く予定でしたがあいにくと平日は運休です。普通列車乗車の連続となりました。

▲ 毎日TVで見る今日の道内の天気予報です。今日もまずまずですが、明日は雨が降りそうです。

▲ 夕食はありませんでしたが朝食は7時から用意されていました。
部屋食ではなく1階の食堂でしたので宿泊者数が分かります。夫婦連れが3組と個人客が4名ほどでした。
高齢者には十二分な献立ですが一品、川湯温泉らしさが欲しかったですね。

 

① 川湯温泉街 8:00(阿寒バス)⇒ 8:12 川湯温泉駅 

▲ ホテルから徒歩で5分の所に駅へ向かうバス停があります。待っているのは私一人、乗客も他にはなく貸切で駅へと向かいました。川湯温泉駅近くには硫黄山がうっすらと煙をあげながらそびえています。この硫黄山から算出される硫黄を運送するために鉱山専用鉄道(釧路鉄道)が1887年(明治20年)12月に開通なっています。釧路集治監に収容された囚人300名を使っての過酷な労働で多くの犠牲者を出す中、重機もない時代に僅か7か月で約41㌔が建設されています。1,067㎜の狭軌鉄道で1日4往復が運行され所要時間は約2時間でした。
標茶から釧路までの軟弱な釧路湿原横断の鉄道建設は当時の土木技術では難しく水運で運ばれましたが、後に釧路港までの約43.2kmが開業後は鉄道輸送に切り替えられています。しかし硫黄の採掘も10年後には採算悪化で終わり廃線、線路跡は政府に売られ釧網本線に転用されました。

▲ 駅前広場も閑散としています。車も止まっていません。

▲ 8:18 ホームに入ってみましたら反対方向の釧路へ向かう初発列車キハ54-514が待機中でした。お客はあまり乗っておられません。

② 川湯温泉 8:18⇒9:51 網走
▲ 8:18 私が乗車する釧路始発網走行きの4726D、キハ54-516先頭のの2連が入線してきました。2両目に乗客の姿はなく1両目6名だけです。

 

▲ 8:18 交換後すぐに発車しましたが野上峠への上り坂が連続してスピードは30km/h以下で一向にスピードは上がらずです。廃線なった三江線並みです。
前回乗車した時に運転手から花咲線同様にエゾシカが線路に出てくる、毎日1,2頭はぶつかってしまうとに言われましたので運転席後部から見続けましたが今日はそんな事態には遭遇しませんでした。

▲ 「緑」を過ぎると牧草・耕作地が広がってきます。右手に 1.547mの斜里岳、続いて 1,419mの海別岳を見ながら知床半島観光の下車駅「知床斜里」に到着ですが遊覧船事故の影響なのか乗降客は一人もおられません。

▲ オホーツク海に沿っての知床斜里から桂台の37.1㌔は釧網本線一の車窓が見える絶景区間です。運転席後ろにくぎ付けでした。

▲ 9:51 定刻に網走到着です。
▲ 半世紀前に訪れた時には乗降客で溢れたホームに今は客がいません。改めて北海道の鉄路に置かれている現実をみました。

▲ 10:05 珍しく駅舎内に食堂がありましたが乗り継ぎ時間まで時間はありませんので弁当を買い求めようとしましたが買いたい美味しそうな海鮮弁当は早くも売り切れです。そもそも作っていないのかと疑いましたが売り切れたと申されます。今日は朝に朝食をがっちりと食べましたので昼食は諦めてビールで済ますことにしました。

③ 網走 10:20⇒12:52 遠軽 13:27⇒15:22 上川

▲ 遠軽行きの4658Dはキハ40-1725+キハ40-1745+キハ54-502の3両編成ですが3両目のキハ54はぶら下がりの回送のようです。

▲ 10:52 美幌で遠軽始発網走行きの4659Dと交換、

▲ 11:24 北見で11:37発車まで13分間の運転停車です。
▲ 1番線に札幌始発網走行きの特急「オホーツク1号」が到着しました。石北本線を走行する特急は札幌始発の2本と旭川始発の2本がありますが、旭川始発は2本とも連休以降火曜~木曜日は運休しています。今回の旅に出かける前にこれを知らずで予定を組んでいましたので道内に来てから知って、大幅な予定変更を強いられました。

▲ 12:20 えらくゆっくりと走るなと運転席に行って速度計を見ましたら約20km/hです。かつてDRFCメンバー達と撮影に励んだ常紋信号所への峠越えでした。
▲ 12:52 遠軽に到着。今年2022年1月に釧路運輸車両所から旭川運転所に転属した旧国鉄色キハ40 -1759が1番線で交換待ちでした。今日は北見運転所の遠軽始発網走行きの4663Dとして運用されています。

▲ 遠軽駅は道路から一段上がった所に設置されています。

▲ 昔は夜行列車も停車したスイッチバックの遠軽駅の営業時間は、05:30~22:00です。1番線ホームにあった立ち食いソバ「北一そば屋」は2019年5月に廃業、駅弁もありましたが2015年3月31日に閉店しました。唯一、転車台は 残されています。

▲ 13:00 4663Dの発車です。見送ってから私が乗車します遠軽発旭川行きの4622Dが発車する2番線へと向かいます。
▲ この列車は網走から乗ってきた4658Dです。35分の停車の後に逆向きとなって旭川に向かいます。運転手にお聞きしますとワンマンカーは2両までしか許可されていないので旭川行きは前2両が営業車で後ろ1両は回送扱いになるとの事でした。
キハ54-502が検査等の理由で旭川へ持っていくためにこういった運用になったのだろうとの説明でした。

▲ 14:34 白滝~上川 37.3㌔でまたも喘ぎあえぎの低速走行です。この駅間での所要時間は54分間とノロ過ぎます。

▲ 15:22、やっと上川到着です。直ぐに発車するのかと思いましたが、16:06の発車でなんと46分間も停車します。駅員さんにお聞きしますとこの列車は高校生の通学列車で下校時間に合わせて運行しているとの事です。

今日の宿泊地は層雲峡のペンションです。上川駅前にある「上川森のテラスバスタッチ」と名付けられたバス停から層雲峡温泉へと向かいます。
▲ こちらは降りた上川駅です。開業は、1923年(大正12年)11月15日、駅前周辺区画整理事業の一環で2008年(平成20年)11月に駅舎は改修されています。
お隣の丸瀬布と同様に駅から層雲峡まで戦後の1947年~1952年には層雲峡森林鉄道が敷設されていました。左手側に林鉄の集積場があったそうです。層雲峡で宿泊したペンションのオーナーも層雲峡内に路線跡があると言っていました。

④ 上川駅 16:00(道北バス)⇒16:30 層雲峡

▲ 16:30 バスは途中から真っすぐな登り道が続く国道をはしり無事に到着、乗客は私を入れての2名でした。リゾートペンション山の上の宿泊客は私一人、夕食はジンギスカン鍋ではなくホットプレートでのジンギスカンなので雰囲気が出なかったですね。鹿肉も付けてくださりましたが量が多すぎて完食できませんでした。

▲ 温泉は隣接する「黒岳の湯」で入湯券をもらって利用しました。層雲峡には魅力的な旅館が他にもあります。ちょっと贅沢をしたかったのですが、一人の宿泊はことごとく拒否されました。残念でした。

明日は上川駅に出て列車に乗って旭川まで、ここからようやく「特急 サロベツ」に乗車して稚内を目指します。 Part 6 へ続く

どこかにマイルの旅 2022年 北海道へ Part5 川湯温泉⇒層雲峡」への5件のフィードバック

  1. 写真を見て緑駅と直感しました、線路は減っていますが。
    60年前の8月、狩勝峠が普通で釧網本線!が本領発揮、道央と釧路を結ぶ列車が多数通っていたのを狙いに、川湯から此所まで写真を撮りながらたどり着いたときの写真です。

  2. 1966年3月の緑駅ありました。網走行きのキハ0320が停車しています。釧網線の混合列車を撮影のために下車したときの一枚です。

  3. 1969年7月になりますと、一部列車にはDE10が充当されていました。緑にて、乗車した624列車と交換のDE10の3重連です。

  4. 村樫様、大阪通信員様、クモハ73106様、貴重な写真をありがとうございます。
    私が初めて釧網線に乗車したのは昭和44年の9月でした。乗車しながら撮影ロケハンをしていて気に入った場所が見つかり降りて撮影に挑戦しましたが薄曇りで霧が出て、気が付くと体中に蚊の大群が集っていました。気持ち悪くなって撮影を諦めたのをよく覚えています。数カットを諦めて乗車しながらの駅撮りに切り替えました。
    どの駅だったのか撮影日誌をどこかにしまい込んだようで分かりませんが交換列車双方ともC58の重連牽引です。

    • ぶんしゅう様、この2コマは川湯でも緑でもありませんが、補機が付くのはは川湯・緑間だけ(勿論補機の回送で重連となる場合はあるのですが)と思っていたのでビックリです。周りは山地では無いような風情ですし、どこなんでしょう?
      私の写真を撮った日は、朝、釧路を出て川湯まで行き、そこから徒歩で峠を越えたのですが(私は、吸血アブがまとわりつくので閉口しました)、その川湯へ向かう途中、弟子屈で撮った迂回まりもの写真です。C57単機で峠を越えられる筈は無く、緑から川湯まで補機が付いていたはずです。尚、私が川湯で下車したとき、同じく迂回の普通釧路行きがC58風連で到着しましたが、これは、重連のまま釧路に向かい発車して行きました。

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