道東の“駅”を「記念消印」で巡る  ①

トンと“デジ青”に疎遠状態が続いています。「デジ青投稿なんて、習慣化すれば何でもない」と吹聴しておきながら、用事が立て込むと、全く習慣化できません。時に優しく、時にきびしく、いつも意見を頂戴する、約1名の方からも「ええ加減に出さんかい」とメール連絡を受けています。とくに老人の場合は“投稿があるのは生きてる証拠”にもなりますから、生存証明のためにもセッセと書くことが大事です。

さて、デジ青に“駅”テーマがあふれて何よりだと思います。なにしろ駅へ行かないことには鉄道に乗れませんからね。「鉄道に乗らない鉄道ファン」へのアンチテーゼでもあると高齢者らしい見方をしています。そこで高齢者も乗せてもらって“駅”テーマと思った次第ですが、少し趣向を変えて、郵便局で押される記念の消印〈小型印〉を絡めた話題です。

タイトルの「道東の駅」とは、釧網本線、根室本線のこと、昨2021年は、郵政事業150年、根室本線(釧路~白糠)開通120周年、根室本線全通100周年、釧網本線全通90周年と、道東の鉄道では記念の年となりました。そこで駅近くにある郵便局44局で独自の記念消印を作成、駅と郵便局が地域とともに歩んだ歴史を振り返ることになりました。押印期間は2022年9月で終了しましたが、ほぼ全郵便局の消印を、郵便依頼でコンプリートすることができました。釧網本線、根室本線と言えば、私にとっては54年前に初めて訪れて以来、何度か乗り降りをした、思い出深い路線です。なかなか現地まで行くことができない今、当時の風景と消印をセットにして、道東の駅を語ってみたいと思います。郵便局のHPから「小型印のごあんない」

網走

まだ現役のDRFCの頃、はるばると網走駅に降り立つと、豪壮な木造駅舎が出迎えてくれた。出入口には「網走駅」と墨書した大きな駅名標が掲げられ、そこから急な階段で駅前広場に至っていた。駅舎の写真はないが、駅前の風景を一枚だけ撮っていた。その後、1977年に改築されて現在の駅になっている(1968年9月)。駅ホームの構造は二面三線の構造、当時「日本一の赤字線」と言われた根北線(斜里~越川)の列車が網走から発着していた。以前はレールバスだったが、この時はキハ22の単行になっていた。根北線は2年後の1970年に廃止される(1968年9月)。翌年も北海道を訪れて、網走で釧網本線に乗り換えた。前年はC58が客貨を一手に引き受けていたが、この年は、約半数の客貨がDE10に置き換えられていた。右手にかつての切り欠き式の0番ホームが見える。ごく短いホームで、根北線のレールバス用だったのだろうか。(1969年8月)

「網走駅前郵便局」の小型印。現在の網走駅舎が描かれている。

2019年冬に約50年ぶりに網走駅に降り立った。釧網本線を約3時間に渡って走り続けてきたキハ54の後部は雪まみれだった(2019年2月)。1・2番ホームのキハ471727と「オホーツク4号」キハ183-130、すべての番線が、石北本線、釧網本線の双方向に発車が可能。網走発札幌行き「オホーツク4号」、なつかしの183系編成、夕方なのに続々とインバウンド観光客が乗り込んでいった(以上2019年2月)。

 

「網走郵便局」は旧駅舎がモチーフ、「網走南四条郵便局」は最寄りの桂台駅をモチーフに。

 道東の“駅”を「記念消印」で巡る  ①」への11件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様

    不定期で「駅名喫茶店」を開店しておりますが、予想以上の反響で驚いております。シリーズ化できたのも一重に読者の皆様のお陰だと思っております。温かいコメントがなければ、調査するのも億劫になりますから。

    駅へ行かないことには鉄道には乗れませんし、そもそも車両が必要不可欠でありますし、根底には多くの人の支えがあります。「鉄道」の素晴らしさに改めて気づかされました。

    最近はデジタルスタンプというのもありますが、やはりインクの染みた印にはデジタルにない温かみがありますね。「押し鉄」ほどではございませんが、駅スタンプは今でも集めるようにしています。

    • 奈良の駅名研究家さま
      連日のご活躍、お疲れ様です。いゃ、ほんとにコメントには、力をいただきますね。集まりの時にも言いましたが、一日延べ2000人以上がご覧になっています。コメントをくださる方以外にも、これだけの読者がおられること、気が引き締まりますが、コメントも、投稿があってこそのことです。まず投稿です。するとコメントも閲覧数もさらに増えて来ると思います。

  2. 1983.2 釧路の駅で発車を待つ「まりも」
    北海道の鉄道は、札幌が上りみたいな運輸システムの時代が一番良かったと思います。
    その札幌が、疑似東京化して、北海道の旅情は失われて、道内の地方にあたるエリアが40年で衰退し、一次産業も揮わなくなったこと。今でも残念に思っています。

    • K.H.生さま
      釧路駅の「まりも」、ありがとうございます。はい、北海道の夜行列車体系は、札幌を中心に形成されていました。同じ列車でも上下では、ずいぶん感じ方が違っていました。札幌から網走なり、釧路なりに向かう下りは、これから向かう未知の地への高揚感に包まれます。反対に札幌へ向かう上りの場合は、撮影などの活動を終えて、安堵感と満足感を載せているように思いました。

  3. 総本家青信号特派員様
    遅ればせながら、中湧別で話題が沸騰していますので関連したコメントをさせていただきます。
    1967年8月27日の新旭川方から見た網走駅構内で、小樽行のキハ56を主体とした「はまなす」(この頃は、小樽と網走を結ぶ気動車急行の愛称)が発車するところです。昼間右手後方に夜行列車「石北」の編成が留置されていて、連結されているオロハネ10(500番台)を見に行った時に撮ったものです。
    この時、時刻表から鉄道推理小説並みの面白い事実を発見しました。上り「石北」が網走を発車して暫くしてから中湧別行の湧網線の最終列車が出発するのですが、この列車に乗車し中湧別で名寄本線の最終列車に乗り継ぐと遠軽には北見から急行となる「石北」より先に着き、追いついてしまうということです。
    1970年9月21日に網走から「大雪6号」(ヨンサントウを経て愛称名が「石北」から変更)に乗車する機会があり、この経路での乗車を試みることにしました。当時の時刻表がないので以下は記憶に基づく大まかな時刻になりますが、網走で20時50分前後に出発した「大雪6号」を見送り、1両(キハ22-48)の湧網線最終列車に乗り込みました。この列車は21時を回ってから発車し、中湧別には23時15分前後に到着したと思います。中湧別では名寄本線の列車への乗り継ぎ時間が20分ほどあり、遠軽には24時頃到着しました。間もなくして逆方向から全国最後の蒸気機関車牽引の急行となる「大雪6号」がD51に牽かれて入線してくるのを迎えました。
    遠軽では途中駅からの乗車となり、自由席での座確は自信がないので、あらかじめ座席指定券を購入しておきました。当時の人間が介在する指定券販売システムでは夜行列車の日付変更駅以降の誤発売が多く、「大雪6号」の日付変更駅は遠軽なので外方駅の生田原(23:36発)-深川間の指定券を購入し、現在も硬券の補充券で発行された座席指定券が手元に残っています。
    下り列車も遠軽で名寄本線の始発列車に接続し、逆の経路で「大雪5号」より網走に早く着いていました。この頃の北海道は、上下の「まりも号」(後の夜行「狩勝」)も釧路方面に、富良野で旭川からの富良野線の列車と接続し、全道に跨る鉄道のネットワークを構成していた時代でした。

    • 快速つくばね様
      コメントを頂戴し、ありがとうございます。改めて、43.10改正の時刻表を手許に置いて、調べてみました。まさしく、網走を後に出た列車が遠軽に先着しています。「大雪6号」は20:40に網走発、20:53に湧網線の最終列車934Dが発車、「大雪」が途中の美幌で9分、北見で10分停車している間に、934Dは23:47に遠軽到着、「大雪」は23:51に遠軽到着です。距離も、石北本線が113.6キロに対して、湧網線は106.0キロです。初めて知りました。
      お書きのように、当時の北海道のネットワークの妙はたいへん興味深いです。

  4. 続いて46年後のほぼ同じ位置の2013年7月5日の網走駅です。
    ほとんど変化していないのが分かりますが異なる点は、①信号機が腕木信号機から色燈信号機になったこと。②新旭川方ホーム端にあった小屋が、路盤上に建て替えられたこと。③左側の湧網線のレールが剥がされ道床に草が生えたところです。

    • 快速つくばね様
      みごとに定点撮影されていますね。これは、最初から意図して写されたのでしょうか。すごいです。
      ③の湧網線ですが、これが1番ホーム側にあった切り欠きホームへと通じていたのでしょうか。私は3番目の写真で釧路方に切り欠きホームがあったように書きましたが、これは誤りで、旭川方にあったわけですね。

      • 総本家青信号特派員様
        早速のコメントありがとうございます。
        支線の普通列車が一応本線の急行列車を追い抜いたのにはいろいろな要因があるみたいですね、ひとつは走行する営業キロの長短ですが、気動車列車と客車列車の違い、北見でのC58からD51への牽引する機関車の交換、最大の理由は大部分が能取湖・サロマ湖の湖畔に沿って走る平坦な路線と常紋峠を越える急勾配路線の線形の違いだと思っています。中湧別で乗り換えた記憶があるのですが43.10改正のダイヤでは934Dは、遠軽まで直通していたのでしょうか。
        0番ホームは湧網線用として新旭川方にあり、有効長は車両3両分ぐらいで、今は線路がありませんがホームとしては残っているようです。東釧路方の写真の切り欠きホームは、当時、貨物取扱駅にどこでもあった線路側から見て裏が日本通運事務所になっている貨車の留置線だと思います、
        昭和35年国鉄営業局の発行した旅客事務用「鉄道線路図」の部分です。

    • 大好物のオロハネ10を投下していだたのに、スルーするわけにいきません。

      入試後すぐに、これを撮るために渡道したのに、こんなボケボケのカットしか残せなかった、自分が腹立たしい痛恨の1枚です。しかも、模型用ディテール写真もほとんど無し。

      オロハネ10505 1527レ 北見 1978年3月

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