駅弁包装紙・その3

どなたかが書かれていましたが、最近の駅弁は百貨店や駅の売店でいつでもどこのでも買えるのでおもしろくありません。駅弁は買った駅の風景、季節、そして食べながら眺めた風景が揃ってこそ駅弁なのです。客車の窓を開けて「おーい駅弁!」と叫びながら500円札を振り回す、これぞ駅弁買いの極意です。ついでに陶器の急須のお茶が買えたらなお良し、でしょう。この頃の駅弁の値段は普通駅弁が150円、特殊駅弁が250円ではなかったでしょうか。普通駅弁でもご飯とおかずを別々の折りに入れて二段重ねでも150円がありました。(その1に掲載しています)

さて、今回はご存じの駅弁に出会えるのでしょうか?

中央本線塩尻 お弁当 KKカワカミ弁当部

信越本線長野 おべんとう ナカジマ会館 150円

⇧ 上の二枚はちがう店の駅弁ですが、包装紙はソックリです。ナカジマ会館といえば「雉焼き弁当」でしたね。丼と善光寺の管長の書が書かれたフタはどこかにあります。

 

信越線新津 えびめし弁当 神尾弁当部 150円

信越線新津 神尾弁当部 えびめし弁当 150円

⇧上の二枚は同じ店の時期違いです。

 

東北本線一ノ関 中華弁当 (有)あべうち 200円

鹿児島本線博多 中華辨當 博多鉄道構内営業(有) 200円

⇧中華辨當は全国のあるのですね。上が一ノ関、下が博多です。

 

東海道線横浜 シウマイ 崎陽軒 100円

⇧中華と言えば横浜の崎陽軒、シュウマイでしょう。

 

 

駅弁包装紙・その3」への14件のフィードバック

  1. 米手様がおっしゃる通り、窓越しに売り子さんから買うのが当たり前でしたね。列車が動き始めてお札を渡した時など、おつりが間に合うのかとひやひやしたものです。今では窓が開く列車も少なくなり、駅弁を売る駅もすっかり減ってしまいました。汽車土瓶は知りませんが、プラスチックのニオイがする熱いお茶を懐かしく思い出します。昭和40年代の後半では、確か20円だったかと。
    沿線の名所や祭りなどが印刷された掛け紙は、車窓から見た風景が浮かんでくるようです。やはり駅弁は列車の中で食べるのが一番だと思いますが、百貨店やスーパーで懐かしい駅弁を見かけると買ってしまいます。
    変わり駅弁や名物の駅弁も良いのですが、今は普通の「お弁当」に魅かれます。ディスカバージャパンの頃、300円が一般的だったと思います。俵型のご飯には胡麻が振りかけられ、おかずは焼き魚やフライ、玉子焼きにかまぼこ、野菜の煮物などがぎっしりと詰めあわされ、その土地の名物が入っていることもありました。米原は鮎の飴炊き、静岡はわさび漬け、下関は練うにと言った具合です。
    添付の画像は静岡駅の東海軒の掛け紙で、わさび漬けとカツオの角煮が入っていたとメモに書いてました。昭和49年4月2日の購入で、価格は300円でした。

    • 紫の1863さん
      私は弁当に好き嫌いはないので包装紙のデザインを見て買うことが多いですね。仰るように普通弁当の包装紙の方が旅情をそそるようです。
      DISCOVER➽JAPAN、懐かしいですね。もっと思い出と共に見せてください。

  2. 米手作市さま
    鉄道旅の名わき役ともいえる駅弁談義を楽しく拝見しています。小生も残してはいるのですが、余りたいしたものはなく、また整理が悪いのですぐには出てきませんが、いくつかは記憶に残っています。
    鳥取のかに寿しには山陰線の旅で数えきれないくらいお世話になりました。あの甘酸っぱい薫りと旧型客車の床に引かれた油の臭いの混じった匂いが蘇ってきます。
    長野の「雉焼き丼」も懐かしいですね。小生高1弟小6の春休みに一筆書き、夜行のみで出かけた信州一周旅行時に買い込み、飯山線のC56の牽くミキストのオハユニ61で食べたことを想い出します。
    昭和44年冬のK中さん西村さんと私とで行った北海道SL撮影行でも、旭川で購入したうなぎ弁当のうなぎが薄っぺらく「ウナギは皮ざかな?」と冗談を飛ばし合ったことがありました。
    このように駅弁の印象はそれ自体の記憶もさりながら、どういう旅の何処でどういうようにして買ったかなど、旅の出来事と密接に絡んでいたことで、いま想い出すと懐かしいのだろうと思います。
    ここで想い出すのが「どういう買い方をしたか」です。米手さんの500円札を振り回してや紫の1863さまの窓越しにというのは当時のごく当たり前の風景でした。
    米手さんとはあちこちよく「乗り鉄」をしましたが、駅弁に関する逸話もいくつかありましたね。中でも想い出深いのは御坊駅の清姫一夜寿しでしょうね。これらクラブ員全員ではないかもしれませんが、少なくとも米手さんK畑さん私の同行者3名に細々と語り継がれてきた有名な話ですよね。弁当の売り子さんが命がけで取ってきてくれた貴重な駅弁でした。当時草津発紀勢線廻り和歌山市行という客レがありました。京都駅を始発に乗って草津から同列車へ。松阪か多気で松坂牛弁当を買い、途中は忘れましたが、19時頃後続の特急くろしお退避のため御坊駅の駅本屋から離れた退避線に停まりました。退避の間に清姫一夜寿しを買おうということにしていたのでホームの売り子さんに「清姫・・」と言ったところ「あるにはあるがここには・・」という曖昧な返事が返ってきました。これではハッキリしないので「ということは?」と詰め寄ると「本屋側に置いてあるので取りに行けばある」とのことでしたから「行ってくれ」と頼みました。しかしその時点で通過のくろしおが接近していたのと、通過後すぐに鈍行が発車するタイミングだったためちょっと躊躇したようでした。こ線橋を渡っていては間に合わないと思ったのか、客車のデッキから反対側の線路を横断して本屋へ取りに行ってくれましたが、横断直後にくろしおが猛スピードで通過していきました。おかげで清姫一夜寿しは無事落手できましたが、どんな内容だったかもう記憶にありません。内容よりもその命名に関心があって買おうとした弁当でした。米手さん覚えておられますか?
    あと美濃太田駅の舟弁当も何かエピソードがあったように思いますが想い出せません。陶器の舟形の容器に入ったものだった記憶だけあります。

  3. 私も駅弁包み紙、必ず保存していますが、今回は「駅弁にありつけなかった話」を。
    コンビニの無かった時代、駅弁の役割は、旅行時の食事情のなかで大きなものがあり、とくに旅行途中で、夜行に乗り継ぐときなどは駅弁頼みでした。初めて北海道へ行った時のこと、その日は、朝、ユースで朝食をとって、上目名へ行きC62を撮影。上目名は商家・民家は全く無しで、昼食なしで夕方まで撮影、札幌から夜行「石北」に乗って、常紋(信)へ向かいます。常紋も、上目名と同じく、いっさい家の無いところと事前情報があり、札幌駅で、夜食の駅弁と翌日の食料調達が必須になります。ところが、時間が無かったのか、店を見つけられなかったのかは、記憶が無いのですが、駅弁もほかの食料も無いまま「石北」に乗ってしまいました。これには、ひょっとして「石北」停車駅の遠軽で調達できるかもと言う思いがあったのかも知れません。ところが、午前4時頃に着いた遠軽は、売店の扉は固く閉じたまま、空腹を抱え、失意のなかの常紋入りとなりました。常紋の信号場は親切なところで、いただいた熱いお茶が、空腹に沁みました。結局、前日の朝食から、ほぼ二日間、何も口にせずの撮影でした。さすがに夕方まで撮影する体力・気力はなく、午後の列車で、近くの留辺蘂へ行き、駅の売店でパンか何かを食べて、生き返りました。「駅弁は買える時には買え」が教訓です。

    • 特派員さん、
      ユニークなコメントを待っていました。
      でもこれはユニークすぎますね。危険でもあります。上目名では駅員さんにお茶とお弁当を頂いたのを思い出しました。いつも言うことですが、当時はファンと職員が仲間意識を共有していた時代です。いま私が思い出の中だけで活動しているのはそんなことも起因しています。先日の阪堺線天下茶屋車庫で撮影した時、職員さんから「マナーが良いので安心して見ていられます」と言われたのは嬉しかったデス。

  4. 総本家青信号派員様、米手作市様、皆様
    駅弁論争凄いですね。私はほとんど駅弁を買いませんでした。理由は高いからです。陶器のお茶はよく覚えていますが、静岡駅で始めて缶入りのお茶を買った時には100円もしてびっくりしました。当時はプラスチック容器でせいぜい2~30円だったと思いますが缶入りのお茶にはショックを受けました。総本家さんの北海道の話はよくわかります。当時は朝、パンとコーラだけの食事で対応していました。貧乏旅行でしたが熱中症や地球温暖化などみじんも考えない時代でした。たまに駅弁を買って食べても蒸機のススや垂れ流しも混ざっていたでしょう。今は特急停車駅でも無人駅があるようです。秘境駅でなくても近くに食堂やコンビニ(昔のよろづや)がない駅はいくらでもあります。車内放送で車内販売がないことを知らされることもあるので予め調達しておくと安心です。列車待ちなど時間があれば比較的大きな駅の駅前で牛丼等を食べることも割安です。駅弁を楽しみにされているグルメの方には失礼しました。

  5. 米手作市  様
    鉄道旅の名わき役ともいえる駅弁談義を楽しく拝見しています。小生も残してはいるのですが、余りたいしたものはなく、また整理が悪いのですぐには出てきませんが、いくつかは記憶に残っています。
    鳥取のかに寿しには山陰線の旅で数えきれないくらいお世話になりました。あの甘酸っぱい薫りと旧型客車の床に引かれた油の臭いの混じった匂いが蘇ってきます。
    長野の「雉焼き丼」も懐かしいですね。小生高1弟小6の春休みに一筆書き、夜行のみで出かけた信州一周旅行時に買い込み、飯山線のC56の牽くミキストのオハユニ61で食べたことを想い出します。
    昭和44年冬のK中さん西村さんと私とで行った北海道SL撮影行でも、旭川で購入したうなぎ弁当のうなぎが薄っぺらく「ウナギは皮ざかな?」と冗談を飛ばし合ったことがありました。
    このように駅弁の印象はそれ自体の記憶もさりながら、どういう旅の何処でどういうようにして買ったかなど、旅の出来事と密接に絡んでいたことで、いま想い出すと懐かしいのだろうと思います。
    ここで想い出すのが「どういう買い方をしたか」です。米手さんの500円札を振り回してや紫の1863さまの窓越しにというのは当時のごく当たり前の風景でした。
    米手さんとはあちこちよく「乗り鉄」をしましたが、駅弁に関する逸話もいくつかありましたね。中でも想い出深いのは御坊駅の清姫一夜寿しでしょうね。これらクラブ員全員ではないかもしれませんが、少なくとも米手さんK畑さん私の同行者3名に細々と語り継がれてきた有名な話ですよね。弁当の売り子さんが命がけで取ってきてくれた貴重な駅弁でした。当時草津発紀勢線廻り和歌山市行という客レがありました。京都駅を始発に乗って草津から同列車へ。松阪か多気で松坂牛弁当を買い、途中は忘れましたが、19時頃後続の特急くろしお退避のため御坊駅の駅本屋から離れた退避線に停まりました。退避の間に清姫一夜寿しを買おうということにしていたのでホームの売り子さんに「清姫・・」と言ったところ「あるにはあるがここには・・」という曖昧な返事が返ってきました。これではハッキリしないので「ということは?」と詰め寄ると「本屋側に置いてあるので取りに行けばある」とのことでしたから「行ってくれ」と頼みました。しかしその時点で通過のくろしおが接近していたのと、通過後すぐに鈍行が発車するタイミングだったためちょっと躊躇したようでした。こ線橋を渡っていては間に合わないと思ったのか、客車のデッキから反対側の線路を横断して本屋へ取りに行ってくれましたが、横断直後にくろしおが猛スピードで通過していきました。おかげで清姫一夜寿しは無事落手できましたが、どんな内容だったかもう記憶にありません。内容よりもその命名に関心があって買おうとした弁当でした。米手さん覚えておられますか?
    あと美濃太田駅の舟弁当も何かエピソードがあったように思いますが想い出せません。陶器の舟形の容器に入ったものだった記憶だけあります。

    • おぼえていますとも!
      イヤがるおじさんに「お客は神様や!」と言い放ち、事故を誘発するように押しつけたパワハラを忘れることは出来ません。肝心な「清姫一夜ずし」の写真は取り忘れましたが当日の記録写真を貼ります。

      • そうか! 思い出しましたよ。あの超狭き門と言われた、富士フィルムの5万人の写真コンテストで、米手さんが堂々の入選を果たされた作品が、まさしく紀勢本線鈍行一周の旅の途中で写された駅弁シーンではありませんか!

        https://drfc-ob.com/wp/archives/87744

        あの時は、グランフロント大阪の話題を独り占め! みんなで行った祝賀会では、大阪通信員さんからのオロナイン軟膏の贈呈など楽しかったなぁ。

        • 総本家青信号特派員さま
          そういうことがありましたね。当時の世間は勿論、現在のクローバー会にもプライバシーはありませんから、いいネタを皆さんに提供していたのだなあと懐かしく想い出します。
          延々15時間に亘る旧客の旅は、いかに風光明媚な紀勢線といえどもやはり多少は退屈してきますし、駅弁の食事は花を添えてくれました。

  6. 1900生様
     このくそ暑い中、久しぶりの1900生節が聞こえたことは何よりのことと勝手に喜んでいます。
     お互いに年を考え、無理をせずに酷暑を乗り越えて生きたいものです。
     清姫一夜寿司とは?どんなんかなぁ!?

    • ネットの力は凄いなぁ!
      清姫一夜寿司は笹の葉に包まれた、紀州名物鯖のなれ寿司だそうです。勉強になりました。

      • マルーンさま
        私のつまらぬ独り言を待ってくださっていた由、お詫びするとともに感謝申し上げます。
        そろそろ綻びがみえ始めて来たこの身ですが、仰るようにいつまでも皆さまと楽しくお話が出来るよう頑張りたいと思っております。
        ところで清姫一夜寿しをお調べになりましたね。私もググってみました。なれずしとは意外でした。なれずしは苦手なので、ひょっとして買ってはみたものの、食べられなかったので記憶が無いのかもしれません。2014年に発売元が閉店して無くなったとありました。何となくロマンを感じる名前を想い出に残しておきます。

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