中国新聞ネタで恐縮ですが、まずは連載記事の完結編から。留萌線は北海道新聞と、米坂線は山形新聞社との連携記事でしたが、最終回は共同通信社との連携でした。
結局のところ、ローカル線問題はJR各社と地方自治体がお互いの言い分を投げかけるだけで、国の態度も成り行き任せ的。自然災害で不通区間が出来ると、それに乗じて路線短縮、あるいは廃止に向かうという傾向が見えはじめ、そうこうしているうちに人口減少に歯止めはかからず、なし崩し的に廃止やむなしという空気が醸成されてゆくようです。バスに置き換えると言っても、地方のバス会社は運転手の確保が難しく、先のコロナ蔓延期には運転手のやりくりがつかず、運休する事態もありました。災害への備えでよく言われるのが「自助」「共助」「公助」ですが、結局地方の交通問題でも「公助」に期待しても無理で、「共助」更には「自助」で対応せざるを得なくなるのかもしれません。
さて同じ8月17日付けの紙面に広電の記事が載りましたので、掲載します。
広島電鉄の歴史をさかのぼると、「広島瓦斯電軌」という時代があり、その当時の車両(156号)が動態保存されているという記事です。156号は江波車庫の奥に留置されているのを望遠撮影したことはありますが、かつて広島駅前で撮っていた159号を貼っておきます。昭和44年8月猛暑の中を KAWANAKA氏と呉線にC62を追いかけたときの撮影です。
新聞記事の中に「広電社内の保育所」が出てきますが、千田車庫近くにある「広電まめっこ保育園」のことでしょう。2階に652号を模した展望デッキがあるのが特徴です。
私が広島を初めて訪れたのは昭和39年、中学校3年の時でした。写真も何もないのですが、先々代の駅舎に当たる武骨な二階建ての駅舎を出て、小さくて、きたない電車に揺られて原爆ドームへ向かったことを、かすかに覚えています。この時の電車も二軸車だったかも知れません。
たまたま今日、Nさんから預かった写真を整理していると、同じ状況の写真が出てきました。昭和36年の撮影で、背後の広島駅、二軸の電車も、かすかな記憶と一致しました。