西村氏のお世辞に乗る

西村氏が投稿した水島臨海鉄道(旧倉敷市交通局)に昔の思い出を書いたら、見たいとのお世辞をいいことに、古いネガを探し出しお目に掛けます。一部の写真は古すぎて撮影時期が分かりませんが、多分昭和30年から35年までの間かと思われます。
車両に関しては西村さんにお任せしますので解説をよろしく!

昭和30年代の水島港

昭和30年代の水島港


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1961年7月撮影

1961年7月撮影 倉敷駅西方

1961年7月撮影

1961年7月撮影

1961年7月 水島港

1961年7月 水島港

1961年7月19日

1961年7月19日

そう言えば、この頃封切られた映画「麦笛」だったかに、この客車が出ていました。
一部ですがご笑覧下さい。

西村氏のお世辞に乗る」への1件のフィードバック

  1. 米手作市さま
    50年以上も前の貴重な写真が即座に掲示板に出てくるこのデジ青のすごさを実感致しました。2013年10月に藤本氏が40244で昭和40年代の水島を紹介されております。更に湯口大先輩がレイルNo.29「瀬戸の駅から 上巻」で昭和30年代の蒸機を含め詳しく解説されております。この両先輩の記述をもとに今回ご紹介頂いた貴重な写真に少しコメントさせて頂きます。長くなりますが 悪しからず。
     まず1枚目が海の風景です。水島臨海工業地帯は戦時中の昭和18年に三菱が航空機工場を疎開するかたちで水島に工場を建てたことに始まります。戦後岡山県が農業から工業への転換政策によってどんどん埋立を進め 現在の広大な臨海工業地帯が出来て行きますが、この写真の昭和30年代前半はその埋立全盛期だったと思います。写真左手には木造らしき小型船がありますが、沖には何隻かの作業船が見えます。昭和28年から大型船の入港ができるように浚渫が始まり、その土砂を埋立に使ったようですが その浚渫作業船のように思えます。さて難問はこの風景はどこからどの方向を写されたものかということです。小型船の先に多くのタンク群が見えますが これをヒントに推定しましたのは 現在の倉敷市呼松町から児島宇野津あたりの八間川河口付近から南西方向を望み、水島C地区にある現在のJXエネルギー水島製油所のタンク群が見えているのではないか、あるいはもっと西の現在の東京製鉄のある南畝あたりから南西方向の水島港口方向を望んでいるのかというのが推定結果です。次に水島に行く際にはこの写真を持って行き、場所探しをしてみようと思っています。
     2枚目は1号機で 明治41年汽車製、高野鉄道7号機が東上鉄道、東武鉄道、胆振縦貫鉄道と流れ流れて水島に来たカマです。ディーゼル機関車登場後も予備機として残され「麦笛」(昭和30年公開)や「黒帯三国志」(昭和31年公開)の映画撮影のために 義経・弁慶号に似せてダイヤモンドスタックもどきを煙突に取り付けて、珍奇な姿になっています。スチームドームも変な色に塗られていたようです。昭和33年3月15日付けで廃車されて放置され、昭和36年12月に売却、解体されています。
     3枚目は右に昭和35年日立製のDD503,蒸機時代の水タンクをはさんで左に昭和36年川車製のDD504です。DD504の奥に1両DLがいるのですが、DC501かDC502か判然としません。もしDC501であれば別府鉄道に移ったのち 播磨町郷土資料館に保存されていますので再会できます。新しいスレート葺き車庫内にいるのはDB102のようですが判然としません。
     4枚目はDD503。同社が西岡山駅の入換業務を受託していたときには西岡山駅にDD504とともに常駐していましたが、受託業務が解除されたあと平成3年に廃車されています。
     5枚目はキハ305で、元中国鉄道のキハニ181で 昭和26年11月に国鉄から譲り受けています。昭和48年に廃車されています。放置されている左手後方は多分1号機でしょう。
     6枚目は腕木信号機の様子から DD504牽く上り貨物列車が倉敷市駅に到着したシーンではないかと思われます。撮影が昭和36年7月であるとすると、新製直後ということになります。運転室のドアが開き、機関士の姿が見えないのが不思議ですが。
     7枚目はキハ305とキハ310か311です。7月ですから窓も開け放し、うしろのキハはドアも開け放して走っています。当時はどこでも見られた光景ですね。後方に煙を吐いた蒸機が見えますが、多分国鉄の蒸機でしょう。
     8枚目はホフ301です。旧芸備鉄道キハニ8で 昭和23年に国鉄から入線しキハ301となり、昭和33年にエンジンを外してホフ301になっています。撮影場所が西埠頭へ向かう途中にあった貨物駅水島港駅であれば、高架化に伴って現在とは線形が大きく変わった場所になります。
     9枚目がハ61です。この客車は戦時中の開業時からいたらしく 出自がはっきりしていません。湯口先輩は元南海鉄道から中国鉄道ツハ12の後身ではないかと推定されています。別の資料によれば 台枠の銘板は明治41年日本車輛、室内には昭和24年8月水野造船所宮島工場の銘板があったとか。後方の客車は旧五日市鉄道、南武鉄道から来たフハ154、左手前は同じくフハ153のようです。フハ153は昭和40年5月に、ハ61とフハ154は昭和41年3月に廃車されています。
     これ以外にもまだまだ秘蔵写真があるのなら、是非ご披露お願い致します。貴重な記録写真をありがとうございました。

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