現代が『車社会』と呼ばれるなら、半世紀前のそれは鉄道で、さしずめ『鉄道社会』でしょうか。人との出会いも別れも、多くの場合に鉄道を通じてであり、人々の日常生活で、鉄道はそれはそれは大事な役目を果たしていました。
▼1962年3月、飯山線・西大滝駅。大勢の子どもと大人から見送りを受け、我々と同じ列車に乗った人は、きっと学校の先生でしょう、乗客として画像には登場しませんが、思わず万歳を唱えている人や、見送る人の明るい笑顔から先生の人柄もしのばれるような気がしました。ホームにはテープが伸びています。車掌の顔も見えます。なお、見送り人の姿にだけ”ぼかし”を加えています。 ▼先生を乗せた飯山線のC56牽引貨客混合列車、長野行き。春の山々にはまだ雪が残っていて、まるで墨絵のよう。筆者の旅行は、同期のDRFC会員、亀田君(この時、鶴亀コンビとDRFC内で話題になった)と北陸線・杉津、飯山線、小海線を巡った時の一コマでした。
▼1962年8月、場所がガラッと変わってこちらは福島交通飯坂東線、電車内の様子。1800mmに満たぬ狭い車体幅。乗客は、体を斜めにして着座。中央をひと一人が通れるのかしら。
▼通れました。車掌が券売に。右手に持っている軟券用のハサミは子どもの電車ごっこのハサミそのもの。
▼1966年1月、花輪線竜が森駅(当時)。スキー場に行くにも往復鉄道です。しかも道具を抱えて列車に乗り込むのですから、車内の混み様は大変。寒い中を乗降にも時間がかかります。好摩・盛岡方面行きの列車です。午後、大館方面から来た降車客は隣の客車ヒュッテに向かい、今夜は泊りで滑降は明日のようです。
▼1961年7月、ご存知京津線。夏の通勤・通学電車は窓全開。架線とポール間の火花が窓から飛び込まないのかしら。