関三平先生から当会への手紙

先日の関先生からのお便りに会長はじめ会員の皆様からいろいろなコメントが投稿されましたので、再度ハガキをお送りさせて頂きました。それに対して再度お返事を頂きましたので皆様にご覧いただきます。なお、ご住所や電話番号等は割愛しておりますのでご了承下さい。
さて、私が送ったハガキにはこんな事を書きました。乙訓の長老や会長からご投稿頂きたいとの希望が出ていますのでお願いできないか?投稿方法については小西管理者から投稿記事への返信に関して制限は無いので簡単ですとのお誘いがありますのでどうぞ!一度お目にかかりたいのですが、会って頂けるでしょうか?おおむねこんな事でした。

それに対してのお返事です。
関三平先生手紙2_NEW 関三平先生手紙2-2_NEWなんと二日に一度はご覧になっているとのことです!しかも「お気に入り」に登録してです。ただデジタルデバイド(失礼!)のため投稿は遠慮するとのことです。残念ですがやむを得ません。しかし、この欄を通じての皆様方とはお話やお便りをしていきたいと仰っています。
長老様によろしくと結んでおられます。

ところで追伸で私が投稿を欠落させた分があるとカラーコピーして同封したとの事でした。慌てて確認しましたがまちがいないようです。記憶があるのは名鉄の510型です。取り置いた分を家内が古紙回収に入れてしまったのでした!関先生すみません。
その他は、tsurukameさん準特急さん他の方々から何度も投稿のあった金魚鉢こと阪神国道電車の71型、藤本さんにピッタリのモハ32→モハ14型、誰かが投稿した記憶のある「替え玉」こと153系こだま、など絶好の題材ばかりでした。誠に申し訳ございませんでした。ここに改めまして掲載させて頂きますので存分に議論して下さい。カラーコピーからのスキャンですから多少色調が変わりますがお許し下さい。

国鉄モハ14型+クハ47型阪神国道線71型_0001_NEW国鉄153系_NEW 国鉄153系(文)_NEWこの記事は、当時4月21日に投稿すべくスキャンしてありましたがなぜか掲載されていませんでした。ボケました!この項は当時スキャンしたものを使いました。

ヨメサンが棄てました

ヨメサンが棄てました

関三平先生から当会への手紙」への6件のフィードバック

  1. 米手昨市さん、先日丸善ジュンク堂(大阪)へ迷図作家氏の単行本を求めに行ったところ火曜日であったのですが【本日休店】のビラ1枚、店内では清掃会社のメンバーがウロウロでした。昨日も所用で豊中に所要ありで出向きましたが、山の神より洗濯物を取り入れるように命令されており、梅田へ足伸ばすことなく帰宅となりました。22日は【桂】に出向きますので、ブックファーストで取り寄せるように手配します。ただもどかしいのは出版社によっては2週間待ちなんてものがあります。このところ当日宅配便があるようですが、老人は手配方法が分りません。住まいする向日町は京都より古い町ですが、このところ古墳掘りに熱中しており、市民文化に対しては方向が後ろ向きで老人のように時代の最先端を行く電車の熱中している市民はシャクにさわります!老骨を振り絞り【電車党】結成して市会議員に立候補するか?

  2. 米手作市様

     お陰様で関先生がデジ青を二日に一度位のペースでご覧頂いておられることとか、「京阪と新京阪のしがらみ」にご興味がおありになること、パソコンはあんまりお好きではないとか、昼夜逆転の生活が多く、お目にかかるには夕方が良いとか、御自らお教え頂いたこと、凄いなと思いました。
     せっかくのご縁を頂いたのですから、是非お目にかかってご縁を深め、近い将来例えばホームカミングデーとかに会員にお話しを頂き、交流を深めることが出来ると良いですね。
     これも米手様のお力ですし、「デジ青」が広く認識されている一端が改めて窺えたことを嬉しく思います。有り難うございました。

    • マルーン様
      実はここだけの話、関三平先生と大阪あたりで夕方から打ち合わせ(と称する飲み会)を有志だけで企画できないかともくろんでおります。
      もちろん関三平先生が下戸であったり◯◯ファンの顔は見たくない!と言う場合はキャンセルとなりますが、うまくいけばマルーンさんと長老はご参加頂けるかと思っていますがいかが?
      関先生はどこかのファンでしょうかね?全国の電車を網羅するのはメディアの性格上仕方がありませんが、本心は阪急ファンではないかと思っています。
      ご意見を

  3. この話、大いに載ります、一度お会いしたい方です。なんでも好きやというお人ではなく、電車一本に絞って居られるとこが嬉しい。そして1989年に「京阪馬鹿」と名乗り出て老人の気持ちはきっと理解していただけると思っている。この時、関西の鉄道への投稿をやめようと考えたが、お父さんと名付けられた【酒井福三】さんに「関東人は関西人のギャグがわからへん、ほっときなはれ!」となだめられたものだ。老人は小学校の頃から「絵」がへたくそで夏休みの宿題の絵日記は4年~6年と姉の代筆で通した。担任の先生も理解してくださり、得意な面のみがんばれ!と認めて下さった。それが今も引いているのです。

  4. 『エキゾチックな金魚鉢』を大変懐かしく思います。
    出屋敷-高洲の海岸線に、子供の頃の思い出があります。当時父親は日本発送電株式会社(1939年国家統合で生まれ、1952年現在の9電力会社に分割された)の尼崎東発電所に勤務していました。日曜日、その父親に連れられ、住まいの尼崎市難波(なにわと読む)から、阪神国道電車の2号線を越え、、子供の足で20分くらいの阪神電車出屋敷駅に到着。出屋敷駅からこの海岸線電車に乗って発電所に向かい、発電所裏の堤防でハゼ釣りでした。

    堤防から大阪湾でのハゼ釣り、よく釣れました。また、よく憶えているのが大阪湾の海中から突き出ている1本の煙突でした。たしか大谷重工の煙突とか。地盤沈下で工場が海に沈み、煙突だけが残って海上に出ている有り様でした。

    昭和22(1947)年から26(1951)年頃のことです。残念ながら電車の記憶は”ハゼ釣りや”煙突”ほどではなく、海岸線に乗ったと云う位しかありません。それで、三平先生の絵を見た途端、目が行き先板に喰らい付きになりました。

    26年2月には尼崎から神戸市須磨区に転居しました。自宅は山陽電車沿線の東須磨。ここでまた、三平先生の『広軌のモハ63型』に出会うことになりました。

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