札幌市路面ディーゼルカー

湖畔の老人氏から札幌市交通局路面ディーゼルカーの写真が出た。電車なら出る幕はないが、事ディーゼルカーとあらば、この須磨老人が黙っている訳には参るまい。この異端ともいうべき一連のディーゼルカーに関しては、意外に情報がない、或いは知られていない、という訳で勝手に力んで、鋭意以下講釈に及ぶ。

時は1958年―ほぼ60年前にさかのぼる。ともかく元気だった札幌市は、人口増加が激しいだけでなく意気盛んだった。1950年代後半以降急速な都市化―市域拡大で、特に札幌駅前から函館本線をオーバークロスし、北の琴似に向かう鉄北線が1952年から1964年にかけて新琴似駅前に延長され続けた。この延長区間を電化せず、ディーゼルカーを運行すれば、変電所の増備が不要で、架線も電柱もないから都市景観上も、いいことだらけとして発案されたのがこの路面ディーゼルカーであった。

1958年2月12日「工事方法変更」が申請され、従来の動力「電気」に「内燃機関」が付加された。ほぼ従前通りの車体床下に最大出力150PSの日野DS40を装着し、トルコン、逆転機を経て、片側台車の2軸を駆動する。空気ドラムブレーキ、空気バネ、暖房用にはウエバストを備える。

建設費での比較では、路線(複線)1km当たり、停留場5か所、車輌4輌として、ディーゼル動車は1輌1,000万円、電車950万円、架線750万円、変電所1,300万円が不要になる代わり、給油設備に15万円、車庫修理工場800万円、修理設備560万円を要す。ランニングコストでは電車1km当たり8円78銭、ディーゼルカー13円80銭と1.57倍、減価償却でも耐用年数が短いため電車に対し1.07倍である。何やかやでトータル電車1億2,000万円に対し、ディーゼルカーなら9,535万円で済む、初年度の収益および資本収支では、ディーゼルカーが2,639万1,000円有利との「皮算用」ではあった。

試作車D1001 1959年ごろ 西4丁目 榎 陽撮影 スカートが全長にある

先ず試作車D1001が就役し、一応の成功を見たとして、D1011~1013、D1021~1023、D1031~1037、D1041~1042の16輌が1964年までに登場。1963年11月170日の鉄北線1.7km麻生町延長で初めて架線のない路線が出現し、この時登場したD1031~から中央扉が両引きに、機関もDS60に、ブレーキもPCCカー並に足踏みペダルも備えた(手動ハンドルもある)。最終のD1040は窓が一段と大きくなり、腰も浅くスマートだが冬季にはかえって不利だったのではないか。なお製造は、国鉄レールバスをすべて受注した東急車輛だが、内何輌かはナニワ工機が下請した(車体だけか儀装もかは不詳)と、ナニワ勤務経験のある森製作所社長から直接聞いた記憶が鮮明である。

1960年11月29日 湯口 徹撮影 スカートが若干短く妻下部はスカスカに

内燃動車ファンとして注目すべきは床高で、当初780mm、D1031以降800mmとは、我国床下機関装着車では当然最低記録で、これは日野アンダーフロアーエンジンバス用DS水平機関の功績(全高588mm、ただし幅は1,497mmもある)ではある。加えてこの床高で2軸駆動としたのも世界でも稀有な設計で、駆動システムは欧州車より複雑になり、ユニバーサルジョイントが計6個、スプライン1個、ベベルギヤ2か所、ピニオン5枚という、今後も世に現れるとも思えぬ設計であった。ひとえに床高に制限され、内側軸を乗り越して外側軸を、さらに内側軸に戻して駆動するというシステムだったからで、下図をご覧頂ければ余計な説明はいるまい。
これだけ複雑な駆動システムは欧州にも見られない

なお運転コントローラーは電車に似ているが、中央大きなハンドルがアクセル用、右の小ハンドルがトルコン・直結切替用、左が逆転器操作用である。

運転席の機器配置

床下機器配置

結果はどうだったのか。札幌市交通局自体による記録や総括は一切公開されていないから、野次馬の想像に止まるが、想定したような活躍はなかった。確かに計算上の機関出力はあったとしても、回転を上げないと馬力が出ない内燃機関の特質が、郊外走行だけならともかく、都心での輻輳した路面電車運行にうまく馴染めたとは思えない。昨今と違い、当時の路面電車は(香港程ではないが)ラッシュ時など何輌もの続行運転でオン・オフの繰り返し、信号の変わる寸前での飛び出し、などはディーゼルカーの得意とするところではない。当時運転手が最も好んだのは直接制御車で、ノッチを進めればともかくダッシュが利いたから、このような時にアドバンススイッチを押さねばならない、本来優秀な間接制御車を、ともかく大方の運転手が毛嫌いしたと、故吉谷先輩がボヤいていたのを思い出す。
それだけではない。積雪時はスカート、台車内に雪を抱き込むのが必然だが、電車なら別段のことがなくとも、こんな複雑なメカニズム内に雪が詰まれば、どうなるかは素人でも想像ができる。

D1021  1960年11月29日 湯口 徹撮影 スカートは短いが妻下部はまた塞ぐ

それに肝心の非電化=架線なし区間が極めて短かったため、ディーゼルカーは大方架線の下を走っていたのが何とも皮肉であった。電車でも同じだが、大きな窓の新鋭車は、冷房などあるはずない頃だから夏なら暑くて難渋し、冬には冷える。座席背もたれも低くなるから乗客からは必ずしも好評でなく、急停車等の非常事態に備え車内側に保護棒が必要など、デザインが優先しすぎたように思われるのだが。

D1031~形式図

話は一挙に結論に飛ぶが、要するに壮大で無駄な実験に終わったのであった。総計16輌のうち1輌は保存されているが、12輌は車体が電車同様であったのを生かし、1967~1970年に苗穂工業、泰和車輌工業、札幌交通機械により電車に改造されてしまった。
かつて神戸市交通局の外郭団体勤務の経験からの推定というか、勘ぐりだが、このような実験は交通局労組の支援がない限りまずできない。ひょっとすると、そもそもの発案は組合側から出たのではなかろうか。いずれにせよ札幌市交通局にとっては掘り起こしてほしくない過去であろうから、今後も実態が解明されることもあるまいが。
なお欧州等では一部だが路面、鉄路直通用に路面電車タイプのディーゼルカーを投入している線区もあり、電気とディーゼル双方の動力を備えた車輌もあるが、何れも大勢を外れた特殊用途に絞られよう。
最後に蛇足を。かつて日車はさして輸送量の多くない電車線区に、ガソリンカーを投入すれば経営的に有利として、ローカル私鉄多数だけでなく、大阪電気軌道にも売り込んだ経緯がある。その代表的な例が、日車でなく川崎車輛が8輌もの納入に成功した東京横浜電鉄だったのが周知だが、結果として加速性能が劣ってラッシュ時はダイヤを乱すとして、閑散時のみの運行に止まり、それもすぐ戦時体制に入って石油消費規制になってポシャてしまった。また山陽電気鉄道は、飾磨―網干間9.6kmの新線免許を1937年4月6日取得するが、その時の動力が電気でなく瓦斯倫であったことは、全く知られておらず、故亀井一男氏すらご存じなかった。
我々が知るところでは、富士重工業が開発したレールバスを、名古屋鉄道がローカル線に、近江鉄道も八日市以西に採用したことがあるが、いずれも長続きせず、特に近江では全くの二重で無駄な投資に終わった。近江の例は、札幌市での経験をしっかり学習していたなら、せずに済んだ可能性が高かろう。JR北海道が長年もがいた結果、放り出したDMV車でも、鉄路と路面の両用車が、かつて世界で何度も試みられたにもかかわらず、何一つ成功例がないこと=温故知新を怠らず学習してさえいれば、というのが全く同じなのだが。

 

 

 

 

 

 

 

札幌市路面ディーゼルカー」への1件のフィードバック

  1. 詳しい説明、ありがとうございました。
    私の拙い投稿が、最近低調であった須磨老の意欲をムクムクと呼び戻したのなら、これも立派なリハビリであったといえるでしょう。

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