根室本線の次に訪れた釧網本線も40年前に訪れた懐かしい線区です。中でも、原生花園の中にある北浜付近は、その当時から有名な撮影地でした。C58の牽く混合列車が残っていたこと、原野もあって、海沿いも走り、鉄橋もあると、変化に富んでいること、網走までの夜行列車もあってアプローチしやすいことが要因だったのでしょうか。
ぶんしゅうさんに無理を言って、北浜で時間を取って夕方まで撮れるよう、車を走らせてもらいました。
▲釧網本線では、無人になってしまった駅舎を観光資源の一つととらえ、各駅にレストランや売店を設けて活用している。客の多くは車で訪れるとは皮肉なことだが、無人駅で放置され荒廃していくよりはずっといい。北浜駅も、”オホーツク海にいちばん近い駅”として売り出し、喫茶”停車場”が設けられている。室内は客車を模した構造になっており、窓越しに望むオホーツクの眺めも乙なものだ。特筆すべきは、本格的な料理の内容で、時間潰しにと頼んだランチの味もなかなかのもの、予約すれば、本格的なフランス料理のフルコースもできるとのことだった。
▲北浜駅を有名にしたもうひとつは展望台だろう。ホームの横に木造の砦のような展望台がある。平坦地で高さのある写真を撮れなかったのが、展望台のお蔭で、高さを稼げるようになった。展望台からの夕陽は、残念ながら曇ってきたのと、方向も少し違っており、期待したものではなかったが、海を隔てた山々がほんのり赤くなった。
▲40年前の北浜駅に入線するC58の牽く混合列車。ホームから見えるオホーツク海は変わっていない。現在の駅構内は棒線化されているが、この当時は、ホーム一面ながらも側線があったことが判る。
C58の煙室扉に何やら紙が貼り付いている。実はこれ、当局と組合との争議で貼り付けられたアジビラだ。国鉄の争議はうんと以前からあり、アジビラは組合事務所などにはよく貼ってあったが、お客が乗る、いわば聖域とも言うべき鉄道車両を組合のアピールの場としたのは、ちょうどこの頃からだった。車両全体をデカデカと石灰で書き殴る、いわゆる団結列車も、動労の勢力が強い北海道ではもう見られ、その後各地に波及していく。これが来ると全く絵にならない。これから数年間、何度泣かされたことか。
▲当時の北浜の代表的な撮影地、トーフツ湖に架かる鉄橋を行くC58の貨物列車。貨物はこの当時、大部分はDE10化されていたが、一部はC58で残っていた。この鉄橋、駅から近く、横を並行する国道の橋から難なく撮れる。すぐ近くにはユースホステルもある。この日も、いったんユースで旅装を解いたあと、ユースのゲタを履いて、列車の時刻に合わせて鉄橋まで行ったものだ。
▲原生花園を行くC58の牽く混合列車。9月なので花はないが、原生花園を行く典型的なシーンと言えようか。ワム・トムを中心にした貨車数両、スハニ62を含む客車3両も、混合列車のスタンダードだった。この列車を写すため移動していると、余りにも同じ風景が続いているため、置き去りにしたリュックが分からなくなってしまった。今回も全く同じ経験をして青くなった。40年経っても、人間は変わっていないと苦笑した。このC58、まだデフは切り詰めておらず、原型のままだ。操車掛がデッキに乗る際のスペースを確保するため、この頃から道内の蒸機のデフが切り詰められていく。前述のアジビラ、落書きとともに、蒸機が醜くなっていく直前の最後の輝きを持っていた時期であった。
▲上は、40年前の原生花園の中を行く釧路発網走行急行「しれとこ2号」。当時、釧網本線には線内急行が4往復も設定されていた。車種のキハ22は、道内用に汎用気動車として製造された。デッキ付のオールクロスシートを買われて、道内ではローカル線の急行はほとんどキハ22で賄われていた。室内もさることながら、小さい窓の整ったスタイルは、大好きな気動車だった。
下は、現在のほぼ同位置。木造の電柱はそのままだ。キハ40は、道内の至る線区で使用されており、さすがに優等列車運用はないものの、現代版のキハ22と言えよう。
▲ぶんしゅうさんも書かれていたが、北浜駅レストラン”停車場”の女主人は話好きで、食事が終わっても話が続き、なかなか脱出できない。ホントは、近くで風呂に入り、宿泊予定のオハ47に予約時刻に着こうとしていたのに、とうに予約の時間をオーバーしてしまった。気の済むまで話を聞こうと2人で覚悟し、ようやく2時間後に解放された。
外へ出るとすっかり暮れてしまい、とうとう雨になってしまった。ホームへ出ると予期しなかった列車がやってきた。ここまで長引くとは思わず、時刻表も全くマークしていなかった。雨に濡れたホームに反射する赤いテールライトと、駅舎から漏れる白熱灯を見て、行き当たりの旅もいいものだと思った。