佐渡の鉄道

道遊坑から破砕場に向かう坑外線

道遊坑から破砕場に向かう坑外線

島の鉄道と言えばまず淡路島、戦前の沖縄県営、屋久島の林鉄、サトウキビの南大東島を思い浮かべるのですが、佐渡島にも鉄道があったのです。佐渡と言えば金山で有名ですが、この金鉱山の鉱山鉄道です。実は鉄分抜きのつもりで佐渡旅行をしてきたのですが、思いの外 多くの車両や遺構に接することができました。佐渡の鉱山鉄道についてはJTBキャンブックス 岡本憲之著「全国鉱山鉄道」に1ページだけ紹介されていますが、もう少し詳しくご紹介しましょう。

佐渡金山は約400年前に開山され、江戸幕府の財政の基盤となったのですが、明治維新後は官営鉱山となり、明治29年からは三菱に払い下げられ、三菱金属、三菱マテリアルと名を変えながら平成元年3月末に閉山しています。現在は「金山資料館ゴールデン佐渡」として多くの観光客を集める史跡となっています。残念ながら鉄道車両は静態保存ですが、まずまずの保存状態でした。

道遊坑と道遊の割戸

道遊坑と道遊の割戸。庫内に4Ton機関車が見える。草むらにレールが埋もれている。

 開山当時は露天掘りから始まるのですが、後ろの山の真ん中にV字型の切れ込みが見えます。現在は木が生い茂っていますが、金脈を掘り下げて行った大きな切れ込みで「道遊の割戸」と呼ばれる佐渡金山の象徴です。この金脈に向かって入ってゆく坑道と線路が道遊坑です。

2Ton蓄電池機関車No.6と人車

2Ton蓄電池機関車No.6と人車

この鉱山鉄道の軌間は508mm(1フィート8インチ)と三菱鉱山規格の500mmが混在していたらしいのですが、その区別は不明です。機関車は日本輸送機(ニチユ)製です。ニチユ製の小型蓄電池機関車にはいくつかのタイプがあって、この2Ton車はF型と呼ばれた量産機です。ともあれ佐渡でニチユにお目にかかるとは思いませんでした。ニチユと言えば神足、神足と言えば乙訓のご老人をはじめぶんしゅう殿、特派員殿の地元ということで不思議な縁を感じました。

6号機の銘板、製番は��み取り不能

6号機の銘板、製番は読み取れず

 

昭和13年に三菱電機製の5Ton電気機関車が4両導入される以前には輸入電機が働いていたようですが、詳細はわかりません。蓄電池車ではなく架線式の電機だったと思われます。坑外には2Tonガソリン機関車もいたようですが 、これも詳細不明です。須磨の御大のお出ましを乞う次第。

10号機。機関車だけはきれいに整備されている。

10号機。機関車だけはきれいに整備されている。コントローラーのノッチも軽く動いた。

8号機と鉱車

8号機と鉱車

ニチユの古いエンブレムがついている。号機不明。

ニチユの古いエンブレムがついている。号機不明。

蓄電池機関車は仕事を終えると充電のため車庫に戻ります。今は機械工場ということで工作機械などが展示されていますが、レールの上に旋盤などが置いてあるところを見ると この建物は本来の機械工場ではなく 機関庫だったと思われます。小さなターンテーブルがいくつかあって、充電エリアと整備エリアになっていたようでした。

ターンテーブルと充電エリア並ぶ5,3,2号機。もう1両は坑内に展示。

ターンテーブルと充電エリア並ぶ5,3,2号機。もう1両は坑内に展示。

ここで使われているレールは主要坑道が15Kgレール、一般坑道が12Kgレールということで錆びた古レールが棚に並べられていました。棚にバラ積みされたレールというのも珍しい光景でした。

坑道から2Ton車に牽かれて出てきた鉱車は、坑外は牽引力の大きい4Ton機関車に牽かれて破砕場のホッパーへ運ばれたようです。その4Ton機関車も別棟に保存されていました。

4Ton機関車

4Ton機関車

機関車がニチユ、電池や整流器がGS日本電池、充電制御継電器がオムロン立石電機製と なんとすべて京都で生まれたものというのも京都人としてはうれしい限り。今は亡きSさんが御室にお住まいだったり お父様が確かGSにお勤めだったことも思い出され ここでも不思議なつながりを感じてしまいました(考え過ぎ、こじつけのようですが・・・・)。ところで佐渡島は北前船の寄港地で越後とのつながりよりも関西との文化的なつながりが深い島です。佐渡おけさも もとは北九州地方のハンヤ節が関西、北陸と伝わったものだったり、今も村毎に立派な能舞台が数多く残されて能の伝統があり、料理も関西風のうす味だったりで興味が尽きない島でした。その佐渡金山に京都生まれの機関車たちが働いていたのも おもしろい縁だと思った次第です。

ダルマ転てつ器の残る坑外線

ダルマ転てつ器の残る坑外線

この金山には江戸時代の様子を再現した宗太夫坑と明治時代の様子を再現した道遊坑の2つの観光用坑道があり、両方を見ると1時間半程度を要します。観光バスで乗りつける団体客は時間に追われるため宗太夫坑とお土産店だけで次の名所へ行ってしまうようで、ご紹介した道遊坑の鉱山鉄道跡まで足を延ばす人は少数です。従ってゆっくりと見学できました。この2つの坑道のほか選鉱場跡、製錬所跡などの古い産業遺産も含め、また金とともに金の量の30倍を産出した銀とあわせた金銀鉱山として世界遺産登録を目指して活動しているようでした。今は静態保存の鉱山鉄道ですが、その一部でも動態保存化できれば 集客力も増えるのではと思いました。特にニチユは盛業中であり、比較的良い状態で保存されている機関車ゆえ 復元は楽なように感じます。

現在国内で稼働中の鉱山鉄道がいくつあるのか不勉強ですが、稼働中の鉱山鉄道があっても 普段は見学や撮影は難しいでしょうから 閉山しているとはいえ その様子がよく判り 楽しいひと時を過ごすことができました。わざわざ金山だけのために佐渡に渡ることはないと思いますが、花の島、トキの住む島、古い文化の残る島と様々な顔を見せてくれる島に興味のある方は是非訪れてみられてはいかがですか。

63によせて

三井三池にはかないませんが、秩父の63のなれの果ての写真がありますのでご紹介します。撮影は平成11年4月3日 当時は群馬郡群馬町、今は高崎市群馬町保渡田というところにある自動車整備工場の一角にあるデハ801の廃車体です。秩父に来る前は 小田急の1800系だったそうで、昭和54年10月に秩父に来て平成2年3月に引退したようです。従って廃車後9年経過後の姿になります。自動車整備工場なので、色あせてはいるもののかなり手入れはよく、倉庫ではなく日常生活用に使われていたようです。パンタはありませんが、台車はそのままでした。今でもまだあるのかどうかは不明です。秩父鉄道沿線でもない榛名山のふもとになぜやってきたのかわかりません。運び込むのも大変だったと思われます。何しろ狭い場所に鎮座していてこんな写真しか撮れませんでした。車歴などは諸先輩の解説をよろしくお願いします。

国鉄八本松材修場について

山陽本線八本松駅と言えば西の箱根、補機の活躍の場としておなじみで 現在でも日常的に後補機の活躍が見られる数少ないスポットになりました。八本松駅の歴史を見ると 明治27年6月10日の山陽鉄道三原-広島間の開通に始まりますが、開通当初は上り列車の後補機を切り離す場所として、また下り貨物列車に車側制動機を取り付ける場所として作業員詰所が設けられたのが始まりです。ところが折角列車を停めるのであれば、旅客扱いをしてほしいとの地元の熱心な要望により、明治28年4月4日に正式に八本松停車場となりました。ただ駅前には一軒も家はなく、少し離れた西国街道に茶店がある程度の寂しい場所だったようです。

この明治27年7月には日清戦争が始まり、9月には 東京から鉄道で直行できる西端であり、宇品港を擁する広島に大本営が置かれ、明治天皇も広島に移り住まわれるという年でした。明治28年には陸軍第五師団の原村演習場が賀茂郡原村に設けられて、八本松駅が最寄駅となり、この駅の重要性が増したのです。この原村演習場は現在も陸上自衛隊海田市駐屯地の演習場として使われています。その後この演習場の近くに陸軍兵器補給廠八本松分廠も設けられて、八本松駅から2.1Kmの専用線が敷かれました。ただこの専用線の開通年月日は調べきれていません。

 さて八本松駅からもう1本の専用線がありました。昭和15年に海軍が設けた呉海軍軍需部川上弾薬庫専用線2.5Kmです。戦後昭和21年に米軍に接収され、昭和27年に正式に在日米軍の弾薬庫となり 極東最大の弾薬庫として今日に至っています。この弾薬庫線跡は山陽線の車窓からもよくわかり、紹介もされている(※)ので今回は割愛しますが、両専用線がはっきりと記載されている 国土地理院発行の1/25000地図(昭和27年7月印刷版)をご紹介します。

左側が弾薬庫線 右側が補給廠線

八本松駅から広島方向に時計回りに延びているのが川上弾薬庫線です。一方八本松駅から三原方向に南東に向かっているのが補給分廠線です。戦後川上弾薬庫が在日米軍の管理下になったのに対して、八本松補給分廠はその専用線、敷地、建物を利用して昭和23年2月に起工し 国鉄の八本松材修場となり昭和24年2月に開場しています。その後昭和28年4月まで設備の拡充が続き、一時は100人を超す人が働く工場になっていました。この材修場の主な仕事はロングレールの接合で、当時最先端であったフラッシュバット溶接を駆使してロングレールを製作し、広島、岡山、米子、門司、大分、熊本、四国、天王寺各鉄道管理局区内へ供給していたそうです。ただこの材修場はすでに廃止されています。いつ廃止されたのかなど詳しいことは調べきれていません。

 私が三原に移り住んだのが昭和50年、ときどき広島に行くときにこの専用線の廃線跡があるのは見ていたのですが、何の廃線跡かはわからず仕舞いのまま月日が流れ、最近になって県立図書館や東広島図書館でようやく正体をつかんだ次第です。さて八本松駅でこの専用線があったことがわかる痕跡を見ることができます。もともと八本松駅の駅本屋は北側にあって 下りホームには跨線橋を渡る駅だったのですが、駅の北側と南側をつなぐ道路橋の建設に合わせて橋上駅化され、駅南側が正面のように変わってしまいました。この橋上駅に上がると 今も下りホーム側にかなり広いスペースがあるのがわかります。これが専用線の仕訳線跡です。丁度15年前の平成9年5月に撮影した写真と、先週撮影した写真を並べてみます。上2枚が下り広島方、下2枚が上り三原方で それぞれ上が15年前、下が今年です。平成24年5月8日撮影

 

以前は3線がスルーしていましたが、今は駐車場になり、下り方に2線が保線用に残されています。上2枚の写真で自転車置き場になってしまっていますが、今も石積みの長いホームが残っていて、陸軍演習場に向かう兵士らが乗り降りしたのかと思われます。呉海軍軍人の回想録などでも呉から列車で八本松に向かい、原村演習場へ行ったという記述が見られます。それぞれの写真を見比べるとレールこそ無いものの、15年経っても殆ど景色が変わっていないのも不思議な気がします。

さてこの八本松材修場線跡をたどってみようとクルマを走らせましたが、それらしき痕跡、遺構は全く見つけられませんでした。専用線跡は殆どが宅地か道路になっており、また終端の材修場跡地はシャープの系列会社の工場や調整池などになっていました。新興住宅地でもあり、旧家も見当たらず 40年以上も前の様子を聞く雰囲気でもないため、取材はここまでとしました。 地図で専用線中ほどに線路が南側に少し凹んだ個所がありますが、そのあたりの写真だけを下に示します。材修場側から八本松駅側を見たところで ゆるくカーブした道路が線路跡と思われます。

昨今 廃線跡探訪はちょっとしたブームのようでもありますが、特に軍用線はその性格上写真なども少なく、謎が多いだけに気になる存在です。この材修場線については 「トワイライトゾーンマニュアル」No.8の昭和26年版専用線一覧表では 大蔵省(旧広島陸軍兵器補給廠)専用線との記載があり、一方の弾薬庫線は「トワイライトゾーンマニュアル」No.11の昭和28年版専用線一覧表で駐留軍八本松軍用側線と記載されています。

最後に私の中で未だに疑問として残っているのは、どんな車両が走ったのかということです。材修場線については 以前 三原から八本松駅に近づいてゆく車窓から 遠くの畑の中に架線柱と架線が見え隠れしたおぼろげな記憶があります。補給分廠のころはともかく 材修場時代にはロングレールを積んだチキを電気機関車が牽いていたとしてもおかしくはないように思えます。当時ならEF15あたりでしょうか?  さて問題は弾薬庫線の方です。こちらは古い写真を見ても架線はなく、弾薬庫に蒸気機関車が入るはずもなく、そうするとディーゼル機関車しか考えられないのですが、昭和30年代の広島地区のDLと言えば 呉にいたDD11ぐらいしか思いつきません。どなたかの写真で呉線安浦駅で撮られたDD11の写真を見た記憶がありますから、同様に呉から八本松へ回送されて来ていたのかとも想像していますが、時系列的に検証できていません。どなたかこのあたりの事情をご存じありませんか。引き続き調べてみようと思っていますが、ご存じの方は是非ご教授を。

(※)弾薬庫線の探訪レポートはhttp://ameblo.jp/sukebe-ningen/entry-10496279719.htmlに詳しく述べられています。

乗り遅れた連接車

準特急先輩の連接車シリーズは9回で連載が終わりました。自分では連接車は1枚も写していないと思っていたところ 名鉄揖斐線で写していたことをすっかり忘れていて 乗り遅れてしまいました。連載第3回の福井鉄道の770型が元名鉄揖斐線だったのも知らず、見過していました。岐阜市内は本数も多く、手軽に撮影できるので よく街歩きしたことをなつかしんでいます。路面電車はいいですネ。

平成10年10月31日 徹明町付近にて

777  平成10年10月31日 徹明町付近にて

平成14年12月29日 黒野駅にて

773   平成14年12月29日 黒野駅にて

福井鉄道に移った時点で塗装は一新されたのでしょうが、名鉄時代には2丁パンタだったのが 新型パンタ1丁に変わっているのですネ。

ところで上の黒野駅でおもしろい車両を写していましたので、付け足しながらご紹介します。ひとつは保線用のホッパー車で 国鉄のセキとホキを足して2で割ったような2軸貨車、もうひとつは軽トラを改造したモーターカー?です。1ton程度の小型ダンプを改造した保線車両は今でもよく見かけますが、軽トラが化けたのはあまり見た記憶がありません。この軽トラはスクラップになったでしょうが、ホムも生き残ってはいないのでしょうネ。

ホ繧

ホム106+ホム107

軽トラ改造のモーターカー

軽トラ改造のモーターカー

中国の蒸気機関車について(追補)

藤本氏の記事と関連コメントを見て、相生市で撮影していたことを思い出しました。写真をご紹介します。場所は赤穂ではなく 相生市の中心部にある中央公園です。藤本氏のコメントによると 平成9年に解体されたとのことですが、撮影月日が平成9年7月24日ですから、解体直前の姿ということになります。

寄贈した㈱美乃美は京都市左京区で盛業中の中国関連図書を扱う会社のようです。

↑ 1E1 貨物用 前進形 QJ6200

↑ 2C1 旅客用 人民形 RM1163

 ペーロンがとりもつ縁とはいえ 何でここに中国の蒸機なの?と思い 狭い場所でかつ逆光だったので早々に退散した記憶があります。今はモニュメントだけになっているようです。

北条鉄道へ行ってきました

クルマで京都・大津に出向いた帰りに北条鉄道を訪ねてきました。JR加古川線粟生から北条町まで13.6Km、かつての国鉄北条線です。車庫は終点北条町にあります。車両はたった3両しかありません。北条町駅は予想に反して近代的な駅でした。

北条町駅

北条町駅

車庫の中に1両(フラワ2000-2)が休んでいました。外に留置されているピンクのDCは1999年富士重工製のフラワ2000-1です。運行は1列車が片道22分で行ったり帰ったりしています。途中に交換設備はありません。

粟生へ向けてクルマを走らせました。次の駅は播磨横田駅です。ホームの桜はまだつぼみでしたが 咲けばきれいだろうなと思います。フラワ2000-3の615レが来ました。

��磨横田駅

播磨横田駅

このフラワ2000-3は平成20年3月末で廃止された三木鉄道のミキ300-104が平成20年12月に北条鉄道に移ってきたものです。当初は三木鉄道時代のままの塗色でしたが今は塗り替えられています。満開の桜に映える色です。平成13年12月30日に三木駅で写していました。

ミ��300-104 ⇒ フラワ2000-3

ミキ300-104 ⇒ フラワ2000-3

次の駅は長(おさ)駅です。大正時代に建てられた木造駅舎です。元は交換可能駅でここにも立派な桜がありました。

長(おさ)駅

長(おさ)駅

 線路は集落を結ぶように伸びていて、次は播磨下里駅です。ここもに交換設備があったようです。播州鉄道の王子駅として開業したそうです。

��磨下里駅

播磨下里駅

 北条町から7.5Km、4番目の駅が法華口駅です。法華口とは何だか抹香臭い駅名ですが、この駅から西方に西国二十六番札所天台宗法華山一乗寺があります。列車の来る時間待ちを兼ねてお参りしてきました。国宝の三重の塔などを有する立派な古刹でした。丁度前日に台風まがいの強風が吹き荒れたため 境内の桜の古木があちこちで折れて片づけに追われていました。

法華口駅

法華口駅の616レ   この運転士は若い女性だった

法華口駅も交換できる駅だったようで、向かいのホームの桜が咲いていないのが残念でした。

ところでこの駅から北東方向に陸上自衛隊の青野ヶ原演習場があり、ヘリが離着陸していました。実はこの演習場とは別に法華口駅のすぐ北側には姫路海軍航空隊の鶉野飛行場と川西航空機姫路製作所があったのです。敗色濃い昭和20年5月に完成した飛行場は 本土決戦を覚悟して急造され、川西航空機で作られた特攻機「紫電」「紫電改」が配備されていたそうです。その飛行場の滑走路跡や地下防空壕(地下指令所)が今も残っているのです。終戦後 広大な土地は民間に払い下げられて この防空壕も民家の敷地内にありますが、中を見学できます。

防空壕入口

防空壕入口  扉を開けて 照明を点けて階段をおりる。

今でこそ整備されて見学できますが、戦後66年間は水が溜まったまま放置されていて 中がどうなっているのかわからなかったそうです。2011年8月に地元の人たちが消防ポンプで水を汲み出し、入れるようになり 照明設備を付けたり、各種展示をして戦争遺跡として今日の姿になったようです。写真右手に写っているコンクリートが半地下構造の防空壕の屋根の部分です。ここからほど近いところに広々とした滑走路跡があり 一応自衛隊の演習場となっていますが出入り自由です。その一角に この飛行場から特攻機で飛び立った若き飛行兵を悼む慰霊碑もあり、 自衛隊旗が掲揚され 花も飾られていました。鉄道の引込線はなかったようです。

 

鶉野飛行場と川西航空機工場

鶉野飛行場と川西航空機工場

滑走路跡

滑走路跡

 

慰霊碑

慰霊碑

 さて 北条鉄道に戻って次の駅は田原駅ですが、写真は省略します。次の網引(あびき)駅に向かいます。ここは駅舎や交換設備もない小駅ですが、ここにも悲劇の記録がありました。

網引駅

網引駅

 

事故の概要

事故の概要

昭和20年3月31日 上記飛行場に着陸しようとした紫電改がエンジントラブルで滑走路手前の北条線線路に後尾輪を引っ掛けて田んぼの中に墜落。その直後、引っ掛けられたレールが大きく変形していることに気付かず C12189が牽く満員の列車が通りかかり C12や客車が転覆し 死者12名、重軽傷者104名を出す大惨事になったそうです。まだ戦時中のことゆえ報道されなかったようですが、大変な事故だったようです。
現場見取り図、紫電改、C12189

現場見取り図、紫電改、C12189

踏切の向こうが事故現場です。

事故現場  飛行機は左手から右手の田んぼに不時着

事故現場  飛行機は左手から右手の田んぼに不時着

C12189は事故直後ではなく、昭和35年10月15日に加古川区で廃車されています。客車の形式、番号、両数などはわかりません。

地元ではよく知られた史実かも知れませんが、私は戦跡や列車転覆事故のことを知らなかったので、あえてご紹介しました。北条鉄道に行かれたときには 訪ねてみてください。

網引、田原間を行く617レ フラワ2000-1

網引、田原間を行く617レ フラワ2000-1

終着 粟生駅は神戸電鉄も乗り入れている近代的な駅なので今回はパスして 三原へと帰りました。古い木造駅舎、今頃では珍しくなった木の枕木、のどかな田園風景の中をゆっくりと走る単行DCなど 懐かしさ漂う北条鉄道でした。このミニ鉄道がいつまでも走り続けてくれることを念じつつ。

江若 比叡山を登る

昨年秋に浜大津で江若のジオラマ展示をしたとき、これをご覧頂いた坂本ケーブル(正式には比叡山鉄道)の常務さんから ジオラマを貸してほしいと依頼があり、お役に立つならどうぞとお返事していました。この度 具体的なイベントの日程が決まりました。すでにポスターやチラシが出来ていて 近々京阪全駅にも貼りだされるそうです。4月10日以降に新聞に出るかもしれません。

ポスターにもあるように 会期は4月25日から5月6日の間、場所は坂本ケーブルの延暦寺駅2階のホールです。メインは坂本ケーブルの建設当時の多くの貴重な写真の展示で、江若ジオラマは 同じ京阪グループの兄弟会社としての江若鉄道というつながりで 賑やかし的に三井寺下駅のジオラマと車両たちを展示します。運転はしません。晴れがましくもポスターに私の名前まで刷り込まれていて汗顔の至りです。建設当時の写真は同社が平成15年に開業75周年記念で発行された「坂本ケーブル75年のあゆみ」に掲載されているものですが、あまり広くは知られていないようで、初代の木造車、戦時中に軍用に改造された姿、戦後の鋼製車の搬入記録など見応えのあるものです。常務さんによるとこれらのネガは自社では長期保存の自信がないので 大津の歴史博物館でディジタル化して保存してもらうようにしたそうです。比叡山のふもとではなく 山頂側の駅での展示ですから わざわざケーブルに乗って見に行く人は少なく集客効果は疑問で、たまたま登山した観光客が通りすがりに、時間待ちで見る程度だと思っています。当会メンバーで 時間をもてあましているご仁は 春の一日、八瀬側から登って坂本側に降りるなりその逆コースで叡山越えをして 京阪グループに浄財を投じられてはいかがですか。ちなみに私は準備と撤収のときにお山に登る予定です。

浜大津ターミナル復元(その6)

小生の浜大津ターミナル復元工事は強力な助っ人にも後押しされて、順調に進んでいます。浜大津ジオラマは交差点を中心に8ブロックの組立式です。各ブロックの基板の木工と塗装を終了し、これからレール工事に入ってゆきます。今までに作った経験のない軌道敷部をどのように作るかがひとつの課題ですが、スチレンボードから小さな敷石を多数切り出して 実物のようにレール間にピンセットで敷きつめてゆこうと考えています。DRFCのレイアウト製作時に何千本かの枕木を作って貼っていったことを思えばたいしたことはないとタカをくくっていますが、さてどうなることやら・・・。今までに出来上がった公会堂や江若駅本屋なども並べてみました。交差点のおみやげ屋さんから坂本方面への一角もかなり出来ました。これから京阪駅、東口駅、江若の貨物ホーム、江若バスなどの建物(面倒な建物たちがこれからです)も並行して進めます。東北の復興工事に負けないように スピード感をもって復元を楽しみます。

交差点の情景

交差点の情景

京阪大津支社の一角

京阪大津支社の一角

公会堂横の石坂線

公会堂横の石坂線

東京地下鉄 山陽路を東へ

本日 下松の日立笠戸工場から綾瀬へ向けて 東京メトロ千代田線の16000系10両が甲種輸送されてゆきました。9日12:54下松発 8862レで東上。11日深夜2:15綾瀬着の長旅です。撮影は三原ー本郷間で16:18頃です。車番が読み取れなかったのですが、かろうじて最後尾のTCが16014と読めましたので、全部で16編成投入されるなかの14編成目のようです。
EF66に牽かれて東上する東京メト��16000系

EF66に牽かれて東上する東京メトロ16000系

 

最後尾は16014。一生に一度の長旅。

最後尾は16014。一生に一度の長旅。

当地で見られる甲種鉄道車両輸送は 日立笠戸工場を出場して東上するものが殆どです。

去る2月21日には 半田市の衣浦臨海鉄道のKE653(DE10)が広島ターミナル発8866レとして甲種輸送されてゆきました。JR貨物の広島工場でATSの改造を施されたあと衣浦に戻っていったようです。
衣浦臨海鉄道KE653

衣浦臨海鉄道KE653

 

うしろのコ��は手ブレー��代用車。

うしろのコキは手ブレーキ代用車。

スカイレールをご存じですか

沖縄モノレールの藤本氏のコメントを受けて、広島にしかないローカルな乗り物をご紹介します。かつて西の箱根と呼ばれ D52やEF59が活躍した瀬野-八本松の あの瀬野駅から北側の住宅団地を結ぶモノレールとロープウエイの合体したような乗り物です。正式名称は「広島短距離交通瀬野線」ですが、スカイレールみどり坂線、あるいは単にスカイレールと呼ばれています。1998年にセキスイハウスと青木建設が瀬野駅北側の高台に住宅団地(スカイレールタウンみどり坂)を開発し、瀬野駅と団地間を結ぶ公共の乗り物として開業しました。1998年8月28日に開業、もと瀬野機関区があってEF59が並んでいた駅北側に建てられた駅が「みどり口」、中間駅が「みどり中街」、終点が「みどり中央」で 全長1.3kmの 軌道法に則ったれっきとした鉄道です。特徴は最大263パーミルの急勾配です。ロープウエイは風に弱く カーブができませんが、スカイレールは懸垂型モノレールのようなもので風には強く、ロープ牽引で急坂登坂、曲線走行ができます。駅構内はリニアモーター駆動です。座席8席、総定員25名の小さなゴンドラ2両が行ったり来たりしています。1999年には鉄道友の会ローレル賞も受賞していますが、あまりにローカルな乗り物のため知られていないと思います。私も開通直後に一度乗ったきりです。

定員25名。夜遅くなると狭い車内は個室のような感じになって 若い女性には不人気。今は団地内に小学校ができたので廃止されたが、以前は小学生通学専用便も運転されていた。下の写真は開通直後のため まだ家は少ししか建っていないが 今は景色も変わっているだろう。

主に軌道関係を神戸製鋼所が、車両を三菱重工三原製作所が製作した。下は開通を伝える社内報(三原通信 1998年10月号)です。

残念ながら後続の受注工事はなく、全国でここだけの乗り物になっています。広電の路面電車撮影などのついでに、瀬野まで足を延ばして 話のタネに乗ってみられるのも一興かも。当地へお越しの節は 是非ご連絡下さい。

浜大津ターミナル復元(その5) ・・教えて下さい!

浜大津の建物群は順調に製作が進んでいます。建物ばかりを作っているわけにもゆかず、そろそろ基板やレール工事にも着手しないといけないのですが、そこで強力な助っ人が現れました。今は名前を伏せておきます。彼と第1回目の打ち合わせも行って本格的に路盤工事に取りかかることになりました。そこでクローバー会の皆様に教えてほしいことがあります。京阪浜大津駅についてです。京阪浜大津駅の線路配置図を示します。

仮に1番線、2番線 そして1番ホーム、2番ホーム、3番ホーム、4番ホームと名前をつけました。知りたいのは この1番線、2番線がどのように使われていたかです。即ち三条発石山寺行きはまず1番線に入って 次にダブルクロスを渡って東口駅に向かったのか? 言い方を変えれば、1番線が石山寺行き、2番線が三条行きだったのか あるいはその反対だったのかと言うことです。レイアウトの製作上 この運転ルールをはっきりさせておく必要があります。ところが今までに集めた写真には これに答えてくれる写真が見当たりません。まずはこの件についてご教授頂きたいというのが第1点目のお願いです。もう一つは出札窓口、改札口、プラットホームの情景などが写っている写真を是非ご披露してほしいのです。どこに何があったかも定かではなく、屋根上にある枚方菊人形の看板とか広告看板とかそういった脇役がさっぱりわかりません。京阪浜大津駅の構内に関しては 東口も含め殆ど写真が無いのです。京阪社史などには写真があるのだろうと思っていますが残念ながら社史は持ち合わせていません。完璧な写真でなくとも もちろんモノクロでも あるいは撮影年月を問わず、 電車の背景に写っているというものでもOKですので よろしくお願い致します。 

浜大津ターミナル復元(その4)

京阪大津支社

京阪大津支社

その3でご紹介した商工中金ビルの隣の京阪大津支社が出来上がり、この一角の建物が揃いました。京阪タクシーの看板を揚げましたが、まともな写真がなく、また年代によって変化しているようで 汽船タクシーかもしれません。次は交差点を渡った角の おみやげ屋、パチンコ屋のブロックにしようと思いますが、今までの建物と違って おみやげ屋はオープンな店であり、店先をどのように作ろうかと悩んでいます。ナショナルの広告塔も大切なアクセントになります。ではまた。

浜大津ターミナル復元(その3)

大津公会堂、江若浜大津駅本屋に続いて 京阪浜大津東駅の背景となる幸福相互銀行と商工中金の2棟が竣工しました。幸福相互銀行は改装されて日本政策金融公庫やクリニックが入ったビルとして現存しています。屋上の広告塔は看板が外されて骨組みだけが当時のまま残っています。一方の商工中金は建て替えられて現存せず、今は大津商中日生ビルという高層ビルになっています。例によって外観の色は判らず、創作です。この2棟が出来たので 次はすぐ隣の京阪大津支社を作れば 浜大津交差点の東南ブロックが一応出来上がることになります。幸福相互も商工中金も単純な箱型なので楽だったのですが、京阪大津支社は瓦屋根のL型の建物なので手間取りそうです。大きい建物ばかりを作ってきたので ちょっと息抜きにかわいい浜大津交番も作ってみました。京阪浜大津駅に隣接していたものです。以前買ったままで出番の無かった赤のLEDを交番のアクセントとして組み込んで点灯するようにしました。建築模型もなかなか楽しいものですヨ。

浜大津ターミナル復元(その2)

藤本様 江若の貨物列車、貨車の写真ありがとうございます。大津公会堂に続いて、主役である江若浜大津駅本屋が完成しました。藤本様の霧の浜大津駅DD1352写真を再現してみました。第3期工事はナショナル広告塔のあるお土産物屋、パチンコ屋の一角にするか、商工中金・幸福相互銀行にするか、あるいは京阪大津支社にするか思案中です。すべて必要なので要はどの順に手をつけるかだけのことですが・・・。

浜大津ターミナル復元(その1)

昨年の浜大津での江若イベントは多くの方々のご協力によって 思い出深いものになりました。今年は京阪大津線開業100周年にあたるとかで、是非浜大津ターミナルの復元をという声に押されて 再び無謀にも今秋までに工事を進めることにしました。とは言え、江若と京津線、石坂線の集まる浜大津ターミナルは多くの建物を再現しなければならず、軌道敷きや変な角度のクロッシングなど三井寺下などで経験していない部分もあって 多くの不安を抱えての工事着工となりました。年末に藤本氏が多くの写真を投稿して頂き、車両もさることながら 後ろに写っている建物の細部が判り 大変助かっています。ところで江若廃止当時から残っている建物に「大津市社会教育会館」があります。昔の大津市公会堂です。浜大津ターミナルの復元には この公会堂は不可欠と考え、大津市歴史博物館のK学芸員にお願いして 公会堂の図面を探してもらいました。年も押し詰まった12月30日に詳細寸法の入った外観図が1枚届きました。さっそく1/80に拡大コピーし、併せてインターネットで写真を集めて 年明け早々 まずこの公会堂から工事を始めました。世の中には建築模型士なる民間資格があり、建築模型用材料も通販で買えることを知って、今回は建築模型に多用されるスチレンボードを使うことにしました。現存する建物だけに あまりごまかすこともできず、写真とにらめっこで何とか完成しました。12月31日の藤本氏の写真で、京阪352のうしろに写っている建物です。 

まだ玄関前の植え込みなどが未完成ではありますが、まずまずの出来なので、これに気をよくして次は江若浜大津駅の製作に入ることにします。ちなみにこの公会堂製作に要した材料費は500円程度です。

ところで大津市歴史博物館製作のDVD「映像でたどる大津の歴史」を購入し、収録されている江若鉄道のカラー動画(当時の8mm映像)を繰り返し見ています。そのなかに 特派員氏が写真のパネル板で作られた「さようなら 江若鉄道 同志社大学鉄道同好会」のヘッドマークが数秒間ですがアップで出てきて 感涙にむせびました。このDVDは大変貴重なカラー映像で1500円はすぐにモトをとった感じです。

さてクローバー会の皆様、気が早いのですが この浜大津ターミナルのジオラマが完成した暁には車両が必要になります。江若の車両はすでに充分あるのですが、京阪の車両がないと格好がつきません。モデラーの皆様、まだ半年以上ありますのでポール時代の京津線、石坂線の車両製作に挑戦してみてください。かく言う私は すでに20型と70型(72)を製作中です。80型、260型、300型、350型それに「びわこ」もほしいですネ。それから浜大津貨物駅に出入りしたハチロクも欠かせません。そこまでは私も手が回りそうにないので、皆様のご協力を仰ぐ次第です。

今年も皆様のご協力をよろしくお願い致します。

鉄道関連の土木遺産について

土木学会中国支部が創立70周年記念として今月発刊された「中国地方の選奨土木遺産」という冊子を取り寄せました。土木学会は毎年 全国で20件程度の 歴史的価値がある土木遺産を選んでいるらしく、中国地方分をくわしく解説した冊子でした。その表紙が山陰本線須佐ー宇田郷間にある惣郷川橋梁です。

私はこの橋を含む宇田郷駅周辺の海岸線が気に入って 何度か訪ね、蒸機、DF50,DCなどを撮影した思い出があります。童謡「汽車」の歌詞 「今は山中、今は浜、今は鉄橋渡るぞと 思う間もなくトンネルの・・・・」のごとく まさに日本ののどかな風景がそこにあったからです。

この2枚は昭和49年1月5日の撮影です。ゆるい弧を描き、あたりの風景に溶け込んだこの橋が昭和6年に着工され、昭和8年2月の山陰本線全通の最後の難工事だったとは、全く知らず この冊子を見て知った次第です。平成13年に土木遺産として認定されています。

ということで、鉄道関連の歴史的遺産は各地に多く残されていますが、これらを訪ねる旅もまた一興と思う次第です。ちなみにこの中国地方分ではその他に 

(1)岡山市 岡山電軌も上を走る京橋 (2)山陽本線三石周辺のレンガ橋梁群(山陽鉄道の遺産)  (3)浜田市郊外の未成線(今福線)のコンクリートアーチ橋群 が登録されています。

では全国ではどうなのかと調べてみたところ、中国地方以外で18件の鉄道関連土木遺産が登録されていました。「阪急大宮駅と大宮・西院間の地下線路」「梅小路機関車庫」なども含まれています。興味のある方は「土木学会」のホームページですぐに調べられますので、見てください。

 

 

 

夏の芦野公園

35年前の雪景色を楽しませて頂きました。大雪合戦が挙行された芦野公園駅に昨年の7月22日に訪れたときのスナップを紹介します。
芦野公園駅駅舎

芦野公園駅駅舎

 無人駅となっている芦野公園駅。白いクルマは津軽を走り回ったレンタカー。

芦野公園駅ホーム
芦野公園駅ホーム

 ラッセル車が接近してくる写真とは反対方向。林の中の駅は風情があって好きな光景。

オハ31
オハ31

 冷え切ったストーブ列車のオハ31が保存されているだろうと思って訪ねた芦野公園駅だったが 錆びた看板だけで オハ31は姿を消していた。

五所川原
五所川原

五所川原駅(機関区)に休む車両たち。芦野公園のラッセル車はこのキ101だろう。機関区の看板のある車庫も35年前と同じ。庫の左手の水タンク?はさすがに残っていない。左端の詰所にいた社員に写真を撮らせてくれとことわったが、立ち入り禁止と剣もほろろ。ろくに動きもしないクルマばっかりなのに 今どきはどこへ行ってもこのような対応でアタマに来る。昔なら 遠いところからよく来てくれたとお茶の一杯も出たのにと  昔を懐かしむようでは歳をとった証拠かと思うことにして 五所川原は早々に退散した。

関東鉄道キハ100型(キハ30)について

藤本氏から関東鉄道キハ350型の廃車のニュースが伝えられました。このなかで キハ35は廃車されるが 両運のキハ30(キハ101)は健在で、定期列車に運用されているとのことで、まだ元気だったのかとうれしくなりました。高崎に住んでいたとき 真岡鉄道が目的で下館方面に出向き、ついでに関東鉄道常総線の太田郷駅でキハ101と102を撮影しました。下館の次の駅、太田郷はかつて鬼怒川支線の分岐駅だったので その痕跡が残っているかに興味があり 訪れたついでにキハの交換を写したというのが正確でしょう。鬼怒川砂利合資会社が大正12年に鬼怒川の川砂利を搬出するために太田郷から常総関本、三所までの貨物線6Kmを開業し、一時は常総筑波鉄道のドル箱路線になったが、川砂利の枯渇によって昭和39年1月に廃止されている。太田郷を訪ねたのが平成11年10月24日で、廃止から35年も経っていて さすがに痕跡は殆どわからなかったが、変に広い駅前広場がかつての側線跡のようだった。
太田郷駅

太田郷駅

 左キハ101、右キハ102

下館駅にて 真岡鉄道モオカ633と関東鉄道キハ101

江若鉄道イベント 盛況のうちに閉幕しました

会員諸兄のご支援、ご協力のおかげで5日間のイベントは無事終了いたしました。毎日感動の場面があり、製作者冥利に尽きる展示会でした。また遠路にもかかわらず 多くの会員諸兄が浜大津に来て頂き、感謝申し上げます。さて 来場者へのアンケートを簡単に集計しましたので 概要をご報告しておきます。

1.来場者の年齢分布 (滋賀鉄道模型愛好会の運転会との併設での来場者です)

80歳以上   13名                                                                             70歳代    12名                                                                 60歳代    35名                                                                  50歳代    38名                                                                 40歳代    43名                                                                30歳代    22名                                                                20歳代     2名                                                                20歳未満   18名   計183名  

江若が廃止されたのは昭和44年で 42年前のことですから40歳代前半の人は生まれたばかり、40歳代後半の人は幼稚園から小学校低学年です。従って江若をかすかにでも覚えているのは50歳代以上と言えます。当然ですが「なつかしい」という感想は50歳代以上の多くの方が書いておられます。特筆すべきは80歳以上の方が車椅子やつえを頼りに会場に来ていただいたことです。60歳代以上の方は通学に利用していた方も多いようです。

2.来場者の住所は?

大津市内     99名                                                             滋賀県内     30名                                                             滋賀県外     55名  計184名                                                      県外では京都市30名、京都府下10名、大阪府下 6名、東京都 2名、最も遠い方は盛岡市(仕事で来ていた)の人でした。

3.イベントを何で知ったか?

大津市の広報         50名                                                             インターネット         15名                                                            新聞               60名 (京都新聞 21名、産経、読売各2名、毎日1名、なぜか福井新聞1名)                知らなかった。通りがかり  16名                                                      その他(知人・友人から 10名、チラシ 5名、テレビの広報 5名、大津線感謝祭のパンフ 3名  など)  

大津市の広報を見た大津市民が多かったが、京都新聞の影響も大きかった。

4.江若鉄道を知っているかどうか?

見たり、乗ったりしてよく知っている        88名                                            あったのは知っているが 詳しくは知らない   73名                                            知らなかった                     20名   計181名

江若鉄道の名前だけでも知っている人を含めれば161名と多く まだ忘れ去られていないのは喜ばしい。

自画自賛になりますが、特に中高年、高齢者の記述には 「感激した」「涙が出た」「年甲斐もなくはしゃいでしまった」「また来年も見たい」などのうれしいお言葉が多く見られました。

以上

伊香保電車の絵はがき

[15364]伊香保電車のバスカードを藤本哲男氏が紹介されました。この中の1枚を見て 一連の絵はがきが手元にあることを思い出しました。あかぎ出版が製作された絵はがきです。高崎の書店で入手したものです。その包装(カラー)と7枚の絵はがきを紹介します。高崎銀行街を行く19号の写真がバスカードのものと同じです。

 

撮影場所と撮影者はそれぞれの写真に添え書きされていますが、あいにく撮影年月日は不明です。

このあかぎ出版からは他にも「アプトの道 碓井線」の8枚組絵はがきや写真集「足尾線の詩 思い出のSLと子供たち」が発行されています。足尾線の写真集 (A5版112ページ 1800円)は総本家特派員殿はじめ諸兄好みの 人のいる鉄道風景が数多く収録された好著です。ご希望があれば貸し出し致します。なおあかぎ出版の住所は下記のとおりです。

〒379-2301群馬県太田市藪塚本町大字藪塚1499-6 fax 0277-78-6273    akagipbl@bi.mbn.or.jp